まだ、走っている   作:監督

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顔の見える場所

 

 

 

橋を渡る朝の風は、思ったより冷たかった。

 

川の水面は、昨日より少し低く見えた。光の当たり方が違うだけかもしれない。欄干に手を置くと、金属がまだ夜の温度を残していた。

 

ミナトは少し先を歩いていた。

 

昨日の河原とは違い、今日は最初から歩幅が整っている。走る前の体ではない。だが、どこかへ向かう体だった。背中のバッグが、歩くたびに小さく揺れる。青いリボンも一緒に揺れた。

 

「上着、薄くないか」

 

秋月が後ろから言うと、ミナトは振り向かずに答えた。

 

「歩くので」

 

それだけだった。

 

桐生はさらに後ろを歩いている。手にはパン屋の紙袋があった。今朝も寄ったのだ。ミナトが「どうせ先生、あとで食べますよね」と言って二つ買った。桐生は否定しなかった。

 

橋の半ばで、対岸のレース場が見えてきた。

 

近くで見ると、昨日川越しに見たときよりさらに小さい。照明塔は低く、スタンドも横に長いだけで高さはない。観客席の後ろに、トレセンの建物が並んでいた。白い壁の古い棟と、新しく増築されたらしいガラス張りの棟。その間に渡り廊下がある。

 

土曜の朝の空気だった。

 

橋を渡り切ると、道はゆるく右へ曲がった。レース場へ向かう歩道には、すでに人がいた。地元の中学生らしい制服姿の集団。ジャージを着たウマ娘が二人、並んで歩いている。荷物を運ぶ男性スタッフ。カラーコーンを並べている女性。どの動きも急いではいないが、ぼんやりもしていない。

 

門の前に、小さな看板が立っていた。

 

地方育成記録会

 

公開練習・一般見学可

 

関係者受付はこちら

 

手書きではない。きちんと印刷された看板だった。角には風で飛ばないように重しが置かれていた。

 

ミナトはそれを見て、少しだけ足を止めた。

 

スマートフォンで時刻を確かめる。

 

「午後に公開練習があります」

 

「練習なのに公開なのか」

 

「練習を見るのが好きな人もいるので」

 

ミナトはそれだけ言って、受付の方へ歩き出した。

 

 

 

受付は門の横にあった。

 

折りたたみの机に白い布がかけられ、名簿と数本のペン、簡単な案内図が並んでいる。後ろにはテントが張られ、スタッフが三人いた。

 

「関係者の方ですか」

 

若い女性スタッフが顔を上げた。

 

桐生が名乗る。女性はすぐに名簿を確認した。

 

「桐生先生ですね。お待ちしておりました」

 

指を紙の上に滑らせ、三人分の名前を確認する。

 

「秋月様、ミナト様もご一緒ですね」

 

ミナトが軽く頭を下げる。

 

女性スタッフは一瞬だけミナトの耳を見た。それから、手元の別紙に視線を落とした。

 

「ミナト様は、見学でよろしいでしょうか」

 

「はい」

 

「走路利用はされますか」

 

ミナトは少しだけ桐生を見た。

 

桐生は何も言わない。

 

「今日は、見学だけで」

 

「承知しました」

 

女性スタッフは頷き、青いストラップの入館証を三つ用意した。ミナトの分だけ、別の紙を一枚添える。

 

「こちら、ウマ娘の方用の施設案内になります。更衣室、シャワー、医務室、休憩室の場所が書いてあります。走路を利用されない場合でも、体調に変化があれば医務室へお声がけください」

 

「ありがとうございます」

 

ミナトは自然に受け取った。

 

秋月は横でそれを見ていた。

 

丁寧だった。

 

不自然なところは何もない。むしろ過不足がない。ウマ娘が施設に来るなら、必要な説明だった。

 

ただ、ミナトが紙を受け取る手つきに、少しだけ慣れがありすぎた。

 

「秋月様はこちらです」

 

女性スタッフは秋月に来賓用の案内図を渡した。

 

「報道関係者席はスタンド中央上段になります。撮影可能エリアはこちらに色をつけてあります。選手の導線には入らないようお願いいたします」

 

「分かりました」

 

「午後の公開練習前に、育成課長から短い説明があります。ご希望でしたら、そのあと施設見学もできます」

 

「お願いします」

 

「では、十時半に管理棟前へお越しください」

 

何もおかしくなかった。

 

何もおかしくないまま、全部が整っていた。

 

 

 

受付から離れて少し歩くと、ミナトが青いストラップを首にかけた。施設案内の紙は、折りたたまずにバッグの外ポケットに入れる。すぐ取り出せる位置だった。

 

秋月はその手元を見た。

 

「慣れてるな」

 

「何がですか」

 

「今の案内」

 

「ああ」

 

ミナトは外ポケットを軽く押さえた。

 

「どこでも大体ありますよ。医務室とか、更衣室とか、走路の注意とか」

 

「元選手でもか」

 

「元でも、ウマ娘なので」

 

それだけだった。

 

桐生がそこで初めてこちらを見た。

 

「そこ、引っかかりましたか」

 

秋月は少しだけ眉を寄せた。

 

「いや」

 

「今、引っかかった顔していましたよ」

 

「顔で読むな」

 

秋月は答えなかった。代わりに、ミナトのバッグの外ポケットを一度だけ見た。さっき女性スタッフが渡した、ウマ娘用の紙の方だ。見た、というより、確認した。それから視線を前に戻した。

 

ミナトはそれに気づいていた。気づいたうえで、何も言わなかった。

 

秋月もそれ以上聞かなかった。

 

引っかかった、と言えばそうかもしれない。だが、何に引っかかったのかが分からない。配慮があることか。元選手にも同じ案内が渡されることか。ミナトがそれを当然として受け取ることか。

 

どれも悪くはない。

 

だから、言葉にしにくかった。

 

 

 

管理棟へ向かう途中、グラウンドの横を通った。

 

芝ではない。土の広いグラウンドだった。端では十人ほどのウマ娘がストレッチをしている。年齢は中高生くらいだろう。ジャージの色が学年で違うらしく、青、緑、えんじ色が混じっていた。

 

人間の生徒もいた。

 

タイムを取る係、道具を運ぶ係、記録用紙を押さえる係。ウマ娘だけで動いているわけではない。人間の生徒たちも、当たり前に同じ場にいる。

 

「お願いします」

 

一人のウマ娘が、隣の男子生徒に声をかけた。

 

男子生徒は頷いて、ストップウォッチを構える。

 

「いつもの位置でいい?」

 

「うん。二本目だけ、少し手前で見て」

 

「分かった」

 

短いやり取りだった。

 

ウマ娘が走る。人間が測る。終わると、紙に書き込む。もう一人が水を渡す。誰も偉そうではない。誰も卑屈ではない。役割があるだけだった。

 

走り出したウマ娘は速かった。

 

中央のレース場で見た子たちとは比べものにならない。それでも、人間では届かない速さだった。地面を蹴る音が乾いて響く。ゴールラインを越えると、男子生徒がタイムを読み上げる。

 

「十三秒八」

 

「遅い」

 

「一本目だからじゃない?」

 

「もう一回いく」

 

「休んでから」

 

人間の男子生徒が、少し強く言った。

 

ウマ娘は文句を言いかけて、やめた。

 

「……はい」

 

水を受け取って、グラウンドの端へ歩いていく。

 

そのやり取りを、秋月は立ち止まって見ていた。

 

走る側がいて、測る側がいる。速さは比べものにならない。だが、場を動かしているのは速い方だけではなかった。止める声、測る手、休ませる判断。それがなければ練習は続かない。

 

「ちゃんとしてるな」

 

秋月が呟くと、ミナトが横で頷いた。

 

「ちゃんとしてないと、危ないので」

 

その言い方が、秋月には残った。

 

良し悪しの話ではない。ちゃんとしないと、という前提が、ミナトの中では当然のものとして置かれている。

 

 

 

管理棟の前で、年配の男性が近づいてきた。

 

背筋が伸びている。ジャージではなく、薄いグレーの作業服に名札をつけていた。

 

「桐生先生」

 

「ご無沙汰しています」

 

桐生が頭を下げる。

 

「こちらが秋月さんですか」

 

「はい」

 

「育成課の長谷です」

 

男性は名刺を差し出した。秋月も名刺を返す。

 

「今日は取材というより、見学で」

 

「伺っています。どうぞ、見ていってください。うちは大きなことはしていません。できることを一通りやっているだけです」

 

「一通り」

 

「ええ」

 

長谷はグラウンドの方を見た。

 

「測る、休ませる、食べさせる、帰す。怪我をさせない。無理をさせない。それだけです」

 

「それだけ、ですか」

 

「それだけが難しいので」

 

長谷は笑った。

 

その笑い方に、自嘲はなかった。できることを長くやってきた人間の笑い方だった。

 

 

 

施設見学は、拍子抜けするほど丁寧だった。

 

最初に医務室。ベッドが二つ。氷嚢、包帯、簡易検査器具。壁に緊急連絡先が貼ってある。次に更衣室。ウマ娘用の広めのロッカーと、人間用の小さなロッカーが並んでいた。シャワー室の床は、滑りにくい素材になっている。

 

「尻尾が濡れると乾きにくいので、ドライヤーは強めのものを置いています」

 

長谷が言う。

 

ミナトが小さく頷いた。

 

「助かります」

 

「地方だと、まだ足りないところもあるんですけどね」

 

「ここは多い方ですよね」

 

「最近ようやくです」

 

二人の会話は自然だった。

 

秋月は何も言わずに聞いていた。

 

長谷は次に、休憩室を案内した。

 

壁際に長椅子が並び、中央に低いテーブルがある。冷蔵庫と給水機。その脇に、簡単な補食の棚があった。ゼリー飲料、塩分タブレット、個包装の菓子。種類ごとにラベルが貼られている。

 

「食事制限のある子もいるので、成分表は全部つけています」

 

長谷は棚を開けた。

 

「ウマ娘用、人間用、と分けているわけではありません。ただ、量とタイミングが違うので、そこは担当が見ます」

 

「担当」

 

「寮母、教員、トレーナー補助。人数は多くありませんが」

 

棚の下段に、透明な箱があった。ラベルには「自由補食」と書かれている。小さめの菓子やクラッカーが入っていた。

 

「これは?」

 

「誰でも取っていいものです。走る子も、測る子も、手伝いの子も」

 

「分けないんですか」

 

長谷は少しだけ驚いたように秋月を見た。

 

「ええ。お腹が空くのは、同じですから」

 

その答えに、秋月は黙った。

 

優しい、と思った。

 

実際、優しい。

 

食べるものがある。誰でも取れる。走る側も走らない側も、同じ箱から取れる。

 

ただ、同じ箱から取れることと、同じ場所に立てることは違う。

 

そう思いかけて、やめた。

 

また言葉が大きくなりかけている。

 

秋月は箱の蓋を、もう一度見た。蓋にはひっかかりが少なくしてあって、片手でも開けやすいようになっていた。子どもの背丈にも合うように、棚の高さも低めに作られている。誰でも取れる、というのは、設計の話でもあった。

 

 

 

廊下に出ると、壁に写真が並んでいた。

 

過去の記録会。卒業生。地方大会の入賞者。中央へ進んだウマ娘の写真もある。花束を持って笑っている子。ユニフォーム姿で泣いている子。人間の生徒と肩を組んでいる子。

 

その中に、少し古い写真があった。

 

少し前のミナトがいた。

 

髪は今より短く、顔も相応に幼い。耳だけは今と同じ形をしている。胸に小さなゼッケンをつけ、隣の子と並んで立っていた。笑ってはいない。正面を見ている。少し緊張している顔だった。

 

秋月は足を止めた。

 

「これ」

 

ミナトも気づいた。

 

「あ、ありましたね」

 

「お前か」

 

「はい」

 

ミナトは写真に近づいた。指先で触れはしない。ただ、少し近くで見た。

 

「このとき、走ったのか」

 

「走りました」

 

「覚えてるか」

 

ミナトは写真を見たまま、少し笑った。

 

「このあと、パンを食べました」

 

「そこか」

 

「そこです」

 

「走ったことの方は」

 

「覚えてますよ。でも、パンも覚えてます」

 

桐生が横で小さく笑った。

 

長谷がその写真を見て、少しだけ顔を和らげた。

 

「この年は、よく覚えています。天気が悪くてね。午前中は雨で、午後だけ走れたんです」

 

「そうでした」

 

ミナトが頷く。

 

「グラウンド、ぬかるんでました」

 

「それでも、みんな走りたがって」

 

長谷は写真の端に写っている別のウマ娘を見た。

 

栗毛の、ミナトより少しだけ背の高い子だった。同じゼッケンの形。同じ年の記録会のはずだった。

 

「この子も、よく走りました」

 

「今は?」

 

秋月が聞いた。

 

長谷は少しだけ間を置いた。

 

「地元にいます。今は保育士です」

 

「走る方には?」

 

「進みませんでした」

 

答え方は穏やかだった。

 

残念そうではない。成功しなかった、という口調でもない。そこに良し悪しを置いていない。

 

「本人が、早く決めました。走るのも好きだけど、子どもといる方がより好きだと」

 

「いい仕事ですね」

 

秋月はそう言ってから、自分でも少し早い返事だと思った。

 

長谷は頷いた。

 

「ええ。いいことです」

 

そこで会話は止まった。

 

ミナトは、その写真を見ていた。さっき自分の写真を見たときより、少しだけ長く見ていた。何かを言うほどではない。だが、見ていた。

 

桐生はその横顔を見ていた。

 

見ていることを、隠していなかった。

 

秋月はそれにも気づいた。気づいたが、何も言わなかった。

 

廊下の写真は、まだ続いていた。だが、秋月の中には、その栗毛の子の写真が残った。

 

よく走りました。

 

進みませんでした。

 

今は保育士です。

 

何も悪くない。

 

むしろ、良い話だった。本人が決め、地元に残り、別の仕事をしている。誰も否定していない。誰も失敗扱いしていない。

 

それでも、写真の中の彼女はゼッケンをつけていた。

 

走っていた顔だった。

 

走っていた顔を写真として残すこと。それも、ここで走ったことを残すための手段の一つだった。

 

 

 

公開練習は昼過ぎから始まった。

 

スタンドには、思ったより人がいた。地元の人、保護者らしい人、学校関係者、近くの店から来たような人。中央のレース場のような熱はない。だが、空席ばかりでもない。

 

観客席の前方では、スタッフが座席の間隔を確認していた。車椅子用のスペースには日よけが出ている。小さな子ども連れのために、端の席が少し広く取られていた。

 

「丁寧だな」

 

秋月が言うと、桐生が横で頷いた。

 

「丁寧ですよ」

 

「お前は、前から知ってたのか」

 

「はい」

 

「何も言わなかったな」

 

「見れば分かりますから」

 

その言い方は、ミナトの口調に少し似ていた。

 

グラウンドでは、公開練習の準備が進んでいた。

 

ウマ娘たちが走路の内側に集まっている。人間の生徒たちは、スタート地点、ゴール地点、記録席に分かれていた。教員が一人ずつ声をかけていく。

 

「今日は一本目、無理に出さない」

 

「はい」

 

「風があるから、向こう側で力まない」

 

「はい」

 

「終わったら、すぐ戻らずに歩く」

 

「はい」

 

指示は細かい。だが、押さえつける感じはない。

 

一人の小柄なウマ娘が、スタート地点で足を何度も動かしていた。緊張しているらしい。隣の人間の女子生徒が、その肩に軽く触れた。

 

「大丈夫。一本目は見るだけでいいって言われてるでしょ」

 

「でも、見られてる」

 

「見られてるね」

 

「…ちょっと、やだ」

 

「じゃあ、こっち見て」

 

女子生徒が自分の胸を軽く叩いた。

 

「私だけ見て出ればいいよ」

 

ウマ娘は一瞬黙って、それから頷いた。

 

秋月はそのやり取りを聞いていた。

 

優しい、と思った。

 

見られるのが嫌だと言った子に、誰も「慣れろ」とは言わない。見る人間を減らしてやる。視線を一人に絞ってやる。そうやって走れるようにする。

 

スタートの合図が出た。

 

小柄なウマ娘が走り出す。最初の一歩は硬かった。二歩目も少し浮いた。だが、三歩目から落ち着いた。視線はずっと、ゴール地点の女子生徒に向いていた。

 

「十三秒九」

 

記録係が言う。

 

走り終えたウマ娘は、少し息を切らしながら笑った。

 

女子生徒がタオルを渡す。

 

「ほら、走れた」

 

「見られてた」

 

「見られてたけど、走れた」

 

「うん」

 

それだけだった。

 

秋月は、手帳を出さなかった。

 

出したら、その優しさに名前をつけてしまう気がした。

 

 

 

何本かの練習が続いた。

 

速い子もいた。遅い子もいた。走り終えて笑う子も、悔しそうにする子もいる。人間の生徒たちは、そのたびにタイムを読み、紙に記録し、水を渡し、荷物を持つ。

 

その手つきに、上下はなかった。

 

役割が違うだけだった。

 

ただ、走る側と測る側は、入れ替われない。

 

秋月はそれを、何度も見た。

 

「秋月さん」

 

ミナトが隣で言った。

 

「ん」

 

「あの子、二本目いきます」

 

さっきの小柄なウマ娘だった。

 

スタート地点に戻っている。今度は一人で立っていた。さっき肩に触れていた女子生徒は、ゴール地点にいる。

 

「見てなくていいのか」

 

秋月が聞くと、ミナトは首を振った。

 

「見ます」

 

「知り合いじゃないだろ」

 

「はい」

 

「なのに?」

 

「走るので」

 

秋月はそれ以上聞かなかった。

 

二本目の走りは、一本目より良かった。

 

フォームが少しだけ大きくなる。顔が上がる。ゴールの前で、一瞬だけさらに伸びた。

 

「十三秒二」

 

記録係の声が出る。

 

スタンドの前方から、小さな拍手が起きた。大きくはない。だが、拍手だった。

 

走った本人は、驚いた顔で客席を見た。すぐにゴール地点の女子生徒を見る。

 

女子生徒が親指を立てた。

 

ウマ娘は笑った。

 

その笑顔を見て、ミナトの耳が少しだけ動いた。

 

秋月は気づいた。

 

桐生も気づいていたはずだ。だが、桐生は今度は、見ているふりをしていない。視線はグラウンドの方に置かれていた。ミナトの耳の動きを、わざと拾わない見方だった。

 

「届いたかな」

 

ミナトが小さく言った。

 

「あの子に?」

 

「客席に」

 

ミナトは前を向いたまま続けた。

 

「あの子、一本目のとき、見られたくなかったんです。でも今、客席を見ました」

 

「見たな」

 

「自分から見たんです」

 

その違いが、ミナトには重要らしかった。

 

秋月はそれ以上聞かなかった。聞かなくても、伝わってきた。

 

昨日川辺でミナトが言ったことが、形を変えてここにあった。客席の顔が見える。届いているかどうかが分かる。届いてるときの目は違う。

 

今、あの子に届いた。

 

それだけのことが、ミナトの中では大きかった。

 

 

 

午後の練習が終わるころ、スタンドの空気は少し緩んでいた。

 

中央のレース場のように、熱が場を満たすことはない。だが、見ていた人たちはすぐには帰らなかった。保護者らしい人が、走り終えた子に上着をかける。スタッフがコーンを片付ける。人間の生徒が記録用紙をファイルに挟む。

 

長谷が秋月たちのところへ来た。

 

「どうでしたか」

 

「丁寧ですね」

 

秋月はそう答えた。

 

長谷は少し笑った。

 

「派手なことはできませんから」

 

「派手じゃなくても、かなり整っていると思います」

 

「そう言っていただけると、ありがたいです」

 

長谷はグラウンドを見た。

 

「うちは、ここで育てて、ここで走らせて、ここから次へ送る場所です。次が中央の子もいる。地元に残る子もいる。続ける子も、やめる子もいます」

 

「全部、ここの仕事ですか」

 

「全部、ここの仕事です」

 

長谷の声に、力みはなかった。

 

秋月は少しだけ間を置いた。

 

「それでも、中央へ行けない子の方が多い」

 

「そうですね」

 

長谷は否定しなかった。

 

「それでも走る」

 

「走ります」

 

「なぜです」

 

聞いてから、少し踏み込みすぎたかと思った。

 

だが、長谷は怒らなかった。

 

「好きだからでしょうね」

 

簡単な答えだった。

 

「それに、走ったことは消えませんから」

 

秋月は長谷を見た。

 

長谷は、特別なことを言った顔をしていなかった。校庭の土の乾き具合を言うのと、ほとんど同じ調子だった。

 

「中央に行かなくても、レースに出なくても、ここで走ったことは残ります。本人にも、周りにも」

 

「残るなら、十分ですか」

 

長谷は少しだけ考えた。

 

「十分ではない子もいます」

 

その答えは静かだった。

 

「足りない子もいる。もっと走りたい子もいる。中央に行きたかった子もいる。ここで終わらせたくない子もいる」

 

長谷は、片付けをする生徒たちを見た。

 

「でも、こちらができるのは、ここで走ったことを粗末にしないことくらいです」

 

秋月は返事をしなかった。

 

ここで走ったことを粗末にしない。

 

それは、今日見たすべての動きの中にあったように思えた。受付の案内、医務室、補食の棚、視線を一人に絞ってやること、走り終えた子にタオルを渡すこと。

 

優しい、ということは、たぶん、こういうことなのだろう。

 

秋月はそう思いかけた。だが、すぐに、その続きも頭に浮かんでくる。

 

優しさは、どこまでも届くわけではない。

 

そうやって守れるものには、形がある。形があるものは、形の外にあるものを、たぶん拾えない。

 

写真の中の栗毛の子。本人が決めて、別の場所へ行った。それは粗末にされたわけではない。送り出されたのだ。送り出されることも、たぶん、ここの仕事の一部だった。

 

ただ、送り出されたあと、どこへ行ったか。

 

そこまでは、ここでは見えない。

 

長谷の言葉には、それを承知している人間の重さがあった。だから「十分ではない子もいます」という答えが、自然に出てきた。

 

秋月は、また自分の言葉に少しだけ顔をしかめた。

 

早い。

 

まだ早い。

 

ミナトはグラウンドの方を見ていた。さっきの小柄なウマ娘が、女子生徒と並んで歩いている。二人で記録用紙を見ていた。

 

「ミナト」

 

桐生が呼んだ。

 

「はい」

 

「そろそろ」

 

「分かりました」

 

ミナトは自然に頷いた。

 

「秋月さん、行きますよ」

 

スタンドを下りる途中、秋月はもう一度グラウンドを見た。

 

コーンが片付けられ、走路に残っていた足跡が少しずつならされていく。誰かが熊手のような道具を引いていた。土の上に残った線が消えていく。

 

消すためではない。

 

次に走る子が、同じように立てるように整えている。

 

 

 

門を出るとき、受付の女性スタッフが頭を下げた。

 

「本日はありがとうございました」

 

「こちらこそ」

 

ミナトには、女性スタッフが別の紙を差し出した。

 

「もし明日も見学されるようでしたら、こちらの時間が使いやすいと思います。午前中は小さい子たちが多いので、少し賑やかになります」

 

「ありがとうございます」

 

「休憩室は今日と同じように使えますので」

 

「はい」

 

ミナトはその紙も自然に受け取った。

 

秋月は横で見ていた。

 

ここでも、何もおかしくない。

 

むしろ、親切だった。

 

ただ、親切が迷わずミナトへ向かうことに、秋月はまだ慣れなかった。

 

元競走ウマ娘。

 

見学者。

 

施設を使うかもしれない人。

 

体調に気をつけるべき人。

 

走れる人。

 

もうレースには出ない人。

 

その全部が、同じ紙の上に丁寧に収められている。

 

ミナトは何も疑問に思っていなかった。

 

桐生は、その紙を一度だけ見た。

 

本当に一度だけだった。

 

だが、秋月には分かった。桐生はそこだけ見た。

 

 

 

帰り道、橋の上でミナトが立ち止まった。

 

川の水面に、夕方の光が落ちている。向こう岸のレース場では、もう人影が少なくなっていた。照明塔にはまだ明かりが入っていない。

 

「いい場所だな」

 

秋月は言った。

 

ミナトは頷いた。

 

「優しい場所だ」

 

「そうですね」

 

「でも」

 

言いかけて、秋月はやめた。

 

ミナトがこちらを見た。

 

「でも?」

 

「いや」

 

秋月は首を振った。

 

「うまく言えない」

 

ミナトは少しだけ考えてから、また川の方を向いた。

 

「ここで終わる子もいます」

 

秋月はミナトを見た。

 

「終わる?」

 

「中央に行かない子。レースを続けない子。走るのをやめる子」

 

ミナトの声は落ち着いていた。

 

「悪いことじゃないです」

 

「そうだな」

 

「今日の子も、たぶん中央に行く事を目指している子ばかりじゃないです。でも、今日走れたのは本当なので」

 

秋月は黙った。

 

「本当だから、それでいいのか」

 

「それでいい日もあります」

 

ミナトは川を見たまま言った。

 

「それでよくない日もありますけど」

 

風が橋の上を通った。

 

桐生は少し離れたところで、手すりにもたれていた。何も言わない。だが、聞いている。

 

秋月は、今日見たものを頭の中で並べた。

 

受付の女性。青いストラップ。施設案内。医務室。補食の自由箱。写真の中の幼いミナト。保育士になった栗毛の子。視線を一人に絞ってやる女子生徒。二本目で笑った小柄なウマ娘。長谷の「粗末にしないことくらいです」という声。土をならす熊手。

 

どれも、悪くなかった。

 

むしろ、良かった。

 

良かったまま、届かないところがある。

 

秋月はそう思った。今度は、顔をしかめなかった。

 

言葉が少しだけ場面に追いついた気がした。

 

「桐生」

 

秋月は呼んだ。

 

「はい」

 

「お前、さっきの紙、見ただろ」

 

「見ました」

 

「何を見た」

 

桐生は少しだけ間を置いた。

 

「よくできてると思いましたよ」

 

「それだけか」

 

「それだけ」

 

「本当に?」

 

「よくできてるものは、届かないところが分かりやすいですから」

 

桐生はそれだけ言って、橋の下を見た。

 

秋月は返事をしなかった。

 

今の答えで十分だった。

 

ミナトは、桐生の言葉に反応しなかった。聞こえていたはずだが、何も言わなかった。たぶん、意味を取ろうとしていない。彼女にとって、あの紙は親切な紙で、あの施設はいい場所で、今日の練習はよかった。それで嘘ではない。

 

その嘘のなさが、秋月には少し眩しかった。

 

 

 

橋を渡り終えるころ、町の灯りが少しずつ点き始めていた。

 

三人の足音が、昨日と同じ道に並ぶ。

 

昨日より少しだけ、秋月は音を聞けていた。

 

次の音が来るまで、前の音が消えずに残る。

 

ミナトが少し先を歩く。

 

桐生がその後ろを歩く。

 

秋月は、二人の少し横を歩いた。

 

受付の紙も、補食の箱も、土をならす熊手も、どれもちゃんとそこにあった。

 

それで助かる子がいる。

 

それでも、届かないものがある。

 

その両方が、同じ場所にあった。

 

秋月はポケットの中の手帳に触れた。

 

出さなかった。

 

今日はまだ、書くより先に、覚えておきたかった。

 




ここまでお読みいただきありがとうございます。
少しでも「続きが気になる」と思っていただけましたら、お気に入り登録や評価、感想などをいただけると嬉しいです。
静かな話ではありますが、秋月たちの歩みをもう少し見守っていただければ幸いです。
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