橋を渡る朝の風は、思ったより冷たかった。
川の水面は、昨日より少し低く見えた。光の当たり方が違うだけかもしれない。欄干に手を置くと、金属がまだ夜の温度を残していた。
ミナトは少し先を歩いていた。
昨日の河原とは違い、今日は最初から歩幅が整っている。走る前の体ではない。だが、どこかへ向かう体だった。背中のバッグが、歩くたびに小さく揺れる。青いリボンも一緒に揺れた。
「上着、薄くないか」
秋月が後ろから言うと、ミナトは振り向かずに答えた。
「歩くので」
それだけだった。
桐生はさらに後ろを歩いている。手にはパン屋の紙袋があった。今朝も寄ったのだ。ミナトが「どうせ先生、あとで食べますよね」と言って二つ買った。桐生は否定しなかった。
橋の半ばで、対岸のレース場が見えてきた。
近くで見ると、昨日川越しに見たときよりさらに小さい。照明塔は低く、スタンドも横に長いだけで高さはない。観客席の後ろに、トレセンの建物が並んでいた。白い壁の古い棟と、新しく増築されたらしいガラス張りの棟。その間に渡り廊下がある。
土曜の朝の空気だった。
橋を渡り切ると、道はゆるく右へ曲がった。レース場へ向かう歩道には、すでに人がいた。地元の中学生らしい制服姿の集団。ジャージを着たウマ娘が二人、並んで歩いている。荷物を運ぶ男性スタッフ。カラーコーンを並べている女性。どの動きも急いではいないが、ぼんやりもしていない。
門の前に、小さな看板が立っていた。
地方育成記録会
公開練習・一般見学可
関係者受付はこちら
手書きではない。きちんと印刷された看板だった。角には風で飛ばないように重しが置かれていた。
ミナトはそれを見て、少しだけ足を止めた。
スマートフォンで時刻を確かめる。
「午後に公開練習があります」
「練習なのに公開なのか」
「練習を見るのが好きな人もいるので」
ミナトはそれだけ言って、受付の方へ歩き出した。
受付は門の横にあった。
折りたたみの机に白い布がかけられ、名簿と数本のペン、簡単な案内図が並んでいる。後ろにはテントが張られ、スタッフが三人いた。
「関係者の方ですか」
若い女性スタッフが顔を上げた。
桐生が名乗る。女性はすぐに名簿を確認した。
「桐生先生ですね。お待ちしておりました」
指を紙の上に滑らせ、三人分の名前を確認する。
「秋月様、ミナト様もご一緒ですね」
ミナトが軽く頭を下げる。
女性スタッフは一瞬だけミナトの耳を見た。それから、手元の別紙に視線を落とした。
「ミナト様は、見学でよろしいでしょうか」
「はい」
「走路利用はされますか」
ミナトは少しだけ桐生を見た。
桐生は何も言わない。
「今日は、見学だけで」
「承知しました」
女性スタッフは頷き、青いストラップの入館証を三つ用意した。ミナトの分だけ、別の紙を一枚添える。
「こちら、ウマ娘の方用の施設案内になります。更衣室、シャワー、医務室、休憩室の場所が書いてあります。走路を利用されない場合でも、体調に変化があれば医務室へお声がけください」
「ありがとうございます」
ミナトは自然に受け取った。
秋月は横でそれを見ていた。
丁寧だった。
不自然なところは何もない。むしろ過不足がない。ウマ娘が施設に来るなら、必要な説明だった。
ただ、ミナトが紙を受け取る手つきに、少しだけ慣れがありすぎた。
「秋月様はこちらです」
女性スタッフは秋月に来賓用の案内図を渡した。
「報道関係者席はスタンド中央上段になります。撮影可能エリアはこちらに色をつけてあります。選手の導線には入らないようお願いいたします」
「分かりました」
「午後の公開練習前に、育成課長から短い説明があります。ご希望でしたら、そのあと施設見学もできます」
「お願いします」
「では、十時半に管理棟前へお越しください」
何もおかしくなかった。
何もおかしくないまま、全部が整っていた。
受付から離れて少し歩くと、ミナトが青いストラップを首にかけた。施設案内の紙は、折りたたまずにバッグの外ポケットに入れる。すぐ取り出せる位置だった。
秋月はその手元を見た。
「慣れてるな」
「何がですか」
「今の案内」
「ああ」
ミナトは外ポケットを軽く押さえた。
「どこでも大体ありますよ。医務室とか、更衣室とか、走路の注意とか」
「元選手でもか」
「元でも、ウマ娘なので」
それだけだった。
桐生がそこで初めてこちらを見た。
「そこ、引っかかりましたか」
秋月は少しだけ眉を寄せた。
「いや」
「今、引っかかった顔していましたよ」
「顔で読むな」
秋月は答えなかった。代わりに、ミナトのバッグの外ポケットを一度だけ見た。さっき女性スタッフが渡した、ウマ娘用の紙の方だ。見た、というより、確認した。それから視線を前に戻した。
ミナトはそれに気づいていた。気づいたうえで、何も言わなかった。
秋月もそれ以上聞かなかった。
引っかかった、と言えばそうかもしれない。だが、何に引っかかったのかが分からない。配慮があることか。元選手にも同じ案内が渡されることか。ミナトがそれを当然として受け取ることか。
どれも悪くはない。
だから、言葉にしにくかった。
管理棟へ向かう途中、グラウンドの横を通った。
芝ではない。土の広いグラウンドだった。端では十人ほどのウマ娘がストレッチをしている。年齢は中高生くらいだろう。ジャージの色が学年で違うらしく、青、緑、えんじ色が混じっていた。
人間の生徒もいた。
タイムを取る係、道具を運ぶ係、記録用紙を押さえる係。ウマ娘だけで動いているわけではない。人間の生徒たちも、当たり前に同じ場にいる。
「お願いします」
一人のウマ娘が、隣の男子生徒に声をかけた。
男子生徒は頷いて、ストップウォッチを構える。
「いつもの位置でいい?」
「うん。二本目だけ、少し手前で見て」
「分かった」
短いやり取りだった。
ウマ娘が走る。人間が測る。終わると、紙に書き込む。もう一人が水を渡す。誰も偉そうではない。誰も卑屈ではない。役割があるだけだった。
走り出したウマ娘は速かった。
中央のレース場で見た子たちとは比べものにならない。それでも、人間では届かない速さだった。地面を蹴る音が乾いて響く。ゴールラインを越えると、男子生徒がタイムを読み上げる。
「十三秒八」
「遅い」
「一本目だからじゃない?」
「もう一回いく」
「休んでから」
人間の男子生徒が、少し強く言った。
ウマ娘は文句を言いかけて、やめた。
「……はい」
水を受け取って、グラウンドの端へ歩いていく。
そのやり取りを、秋月は立ち止まって見ていた。
走る側がいて、測る側がいる。速さは比べものにならない。だが、場を動かしているのは速い方だけではなかった。止める声、測る手、休ませる判断。それがなければ練習は続かない。
「ちゃんとしてるな」
秋月が呟くと、ミナトが横で頷いた。
「ちゃんとしてないと、危ないので」
その言い方が、秋月には残った。
良し悪しの話ではない。ちゃんとしないと、という前提が、ミナトの中では当然のものとして置かれている。
管理棟の前で、年配の男性が近づいてきた。
背筋が伸びている。ジャージではなく、薄いグレーの作業服に名札をつけていた。
「桐生先生」
「ご無沙汰しています」
桐生が頭を下げる。
「こちらが秋月さんですか」
「はい」
「育成課の長谷です」
男性は名刺を差し出した。秋月も名刺を返す。
「今日は取材というより、見学で」
「伺っています。どうぞ、見ていってください。うちは大きなことはしていません。できることを一通りやっているだけです」
「一通り」
「ええ」
長谷はグラウンドの方を見た。
「測る、休ませる、食べさせる、帰す。怪我をさせない。無理をさせない。それだけです」
「それだけ、ですか」
「それだけが難しいので」
長谷は笑った。
その笑い方に、自嘲はなかった。できることを長くやってきた人間の笑い方だった。
施設見学は、拍子抜けするほど丁寧だった。
最初に医務室。ベッドが二つ。氷嚢、包帯、簡易検査器具。壁に緊急連絡先が貼ってある。次に更衣室。ウマ娘用の広めのロッカーと、人間用の小さなロッカーが並んでいた。シャワー室の床は、滑りにくい素材になっている。
「尻尾が濡れると乾きにくいので、ドライヤーは強めのものを置いています」
長谷が言う。
ミナトが小さく頷いた。
「助かります」
「地方だと、まだ足りないところもあるんですけどね」
「ここは多い方ですよね」
「最近ようやくです」
二人の会話は自然だった。
秋月は何も言わずに聞いていた。
長谷は次に、休憩室を案内した。
壁際に長椅子が並び、中央に低いテーブルがある。冷蔵庫と給水機。その脇に、簡単な補食の棚があった。ゼリー飲料、塩分タブレット、個包装の菓子。種類ごとにラベルが貼られている。
「食事制限のある子もいるので、成分表は全部つけています」
長谷は棚を開けた。
「ウマ娘用、人間用、と分けているわけではありません。ただ、量とタイミングが違うので、そこは担当が見ます」
「担当」
「寮母、教員、トレーナー補助。人数は多くありませんが」
棚の下段に、透明な箱があった。ラベルには「自由補食」と書かれている。小さめの菓子やクラッカーが入っていた。
「これは?」
「誰でも取っていいものです。走る子も、測る子も、手伝いの子も」
「分けないんですか」
長谷は少しだけ驚いたように秋月を見た。
「ええ。お腹が空くのは、同じですから」
その答えに、秋月は黙った。
優しい、と思った。
実際、優しい。
食べるものがある。誰でも取れる。走る側も走らない側も、同じ箱から取れる。
ただ、同じ箱から取れることと、同じ場所に立てることは違う。
そう思いかけて、やめた。
また言葉が大きくなりかけている。
秋月は箱の蓋を、もう一度見た。蓋にはひっかかりが少なくしてあって、片手でも開けやすいようになっていた。子どもの背丈にも合うように、棚の高さも低めに作られている。誰でも取れる、というのは、設計の話でもあった。
廊下に出ると、壁に写真が並んでいた。
過去の記録会。卒業生。地方大会の入賞者。中央へ進んだウマ娘の写真もある。花束を持って笑っている子。ユニフォーム姿で泣いている子。人間の生徒と肩を組んでいる子。
その中に、少し古い写真があった。
少し前のミナトがいた。
髪は今より短く、顔も相応に幼い。耳だけは今と同じ形をしている。胸に小さなゼッケンをつけ、隣の子と並んで立っていた。笑ってはいない。正面を見ている。少し緊張している顔だった。
秋月は足を止めた。
「これ」
ミナトも気づいた。
「あ、ありましたね」
「お前か」
「はい」
ミナトは写真に近づいた。指先で触れはしない。ただ、少し近くで見た。
「このとき、走ったのか」
「走りました」
「覚えてるか」
ミナトは写真を見たまま、少し笑った。
「このあと、パンを食べました」
「そこか」
「そこです」
「走ったことの方は」
「覚えてますよ。でも、パンも覚えてます」
桐生が横で小さく笑った。
長谷がその写真を見て、少しだけ顔を和らげた。
「この年は、よく覚えています。天気が悪くてね。午前中は雨で、午後だけ走れたんです」
「そうでした」
ミナトが頷く。
「グラウンド、ぬかるんでました」
「それでも、みんな走りたがって」
長谷は写真の端に写っている別のウマ娘を見た。
栗毛の、ミナトより少しだけ背の高い子だった。同じゼッケンの形。同じ年の記録会のはずだった。
「この子も、よく走りました」
「今は?」
秋月が聞いた。
長谷は少しだけ間を置いた。
「地元にいます。今は保育士です」
「走る方には?」
「進みませんでした」
答え方は穏やかだった。
残念そうではない。成功しなかった、という口調でもない。そこに良し悪しを置いていない。
「本人が、早く決めました。走るのも好きだけど、子どもといる方がより好きだと」
「いい仕事ですね」
秋月はそう言ってから、自分でも少し早い返事だと思った。
長谷は頷いた。
「ええ。いいことです」
そこで会話は止まった。
ミナトは、その写真を見ていた。さっき自分の写真を見たときより、少しだけ長く見ていた。何かを言うほどではない。だが、見ていた。
桐生はその横顔を見ていた。
見ていることを、隠していなかった。
秋月はそれにも気づいた。気づいたが、何も言わなかった。
廊下の写真は、まだ続いていた。だが、秋月の中には、その栗毛の子の写真が残った。
よく走りました。
進みませんでした。
今は保育士です。
何も悪くない。
むしろ、良い話だった。本人が決め、地元に残り、別の仕事をしている。誰も否定していない。誰も失敗扱いしていない。
それでも、写真の中の彼女はゼッケンをつけていた。
走っていた顔だった。
走っていた顔を写真として残すこと。それも、ここで走ったことを残すための手段の一つだった。
公開練習は昼過ぎから始まった。
スタンドには、思ったより人がいた。地元の人、保護者らしい人、学校関係者、近くの店から来たような人。中央のレース場のような熱はない。だが、空席ばかりでもない。
観客席の前方では、スタッフが座席の間隔を確認していた。車椅子用のスペースには日よけが出ている。小さな子ども連れのために、端の席が少し広く取られていた。
「丁寧だな」
秋月が言うと、桐生が横で頷いた。
「丁寧ですよ」
「お前は、前から知ってたのか」
「はい」
「何も言わなかったな」
「見れば分かりますから」
その言い方は、ミナトの口調に少し似ていた。
グラウンドでは、公開練習の準備が進んでいた。
ウマ娘たちが走路の内側に集まっている。人間の生徒たちは、スタート地点、ゴール地点、記録席に分かれていた。教員が一人ずつ声をかけていく。
「今日は一本目、無理に出さない」
「はい」
「風があるから、向こう側で力まない」
「はい」
「終わったら、すぐ戻らずに歩く」
「はい」
指示は細かい。だが、押さえつける感じはない。
一人の小柄なウマ娘が、スタート地点で足を何度も動かしていた。緊張しているらしい。隣の人間の女子生徒が、その肩に軽く触れた。
「大丈夫。一本目は見るだけでいいって言われてるでしょ」
「でも、見られてる」
「見られてるね」
「…ちょっと、やだ」
「じゃあ、こっち見て」
女子生徒が自分の胸を軽く叩いた。
「私だけ見て出ればいいよ」
ウマ娘は一瞬黙って、それから頷いた。
秋月はそのやり取りを聞いていた。
優しい、と思った。
見られるのが嫌だと言った子に、誰も「慣れろ」とは言わない。見る人間を減らしてやる。視線を一人に絞ってやる。そうやって走れるようにする。
スタートの合図が出た。
小柄なウマ娘が走り出す。最初の一歩は硬かった。二歩目も少し浮いた。だが、三歩目から落ち着いた。視線はずっと、ゴール地点の女子生徒に向いていた。
「十三秒九」
記録係が言う。
走り終えたウマ娘は、少し息を切らしながら笑った。
女子生徒がタオルを渡す。
「ほら、走れた」
「見られてた」
「見られてたけど、走れた」
「うん」
それだけだった。
秋月は、手帳を出さなかった。
出したら、その優しさに名前をつけてしまう気がした。
何本かの練習が続いた。
速い子もいた。遅い子もいた。走り終えて笑う子も、悔しそうにする子もいる。人間の生徒たちは、そのたびにタイムを読み、紙に記録し、水を渡し、荷物を持つ。
その手つきに、上下はなかった。
役割が違うだけだった。
ただ、走る側と測る側は、入れ替われない。
秋月はそれを、何度も見た。
「秋月さん」
ミナトが隣で言った。
「ん」
「あの子、二本目いきます」
さっきの小柄なウマ娘だった。
スタート地点に戻っている。今度は一人で立っていた。さっき肩に触れていた女子生徒は、ゴール地点にいる。
「見てなくていいのか」
秋月が聞くと、ミナトは首を振った。
「見ます」
「知り合いじゃないだろ」
「はい」
「なのに?」
「走るので」
秋月はそれ以上聞かなかった。
二本目の走りは、一本目より良かった。
フォームが少しだけ大きくなる。顔が上がる。ゴールの前で、一瞬だけさらに伸びた。
「十三秒二」
記録係の声が出る。
スタンドの前方から、小さな拍手が起きた。大きくはない。だが、拍手だった。
走った本人は、驚いた顔で客席を見た。すぐにゴール地点の女子生徒を見る。
女子生徒が親指を立てた。
ウマ娘は笑った。
その笑顔を見て、ミナトの耳が少しだけ動いた。
秋月は気づいた。
桐生も気づいていたはずだ。だが、桐生は今度は、見ているふりをしていない。視線はグラウンドの方に置かれていた。ミナトの耳の動きを、わざと拾わない見方だった。
「届いたかな」
ミナトが小さく言った。
「あの子に?」
「客席に」
ミナトは前を向いたまま続けた。
「あの子、一本目のとき、見られたくなかったんです。でも今、客席を見ました」
「見たな」
「自分から見たんです」
その違いが、ミナトには重要らしかった。
秋月はそれ以上聞かなかった。聞かなくても、伝わってきた。
昨日川辺でミナトが言ったことが、形を変えてここにあった。客席の顔が見える。届いているかどうかが分かる。届いてるときの目は違う。
今、あの子に届いた。
それだけのことが、ミナトの中では大きかった。
午後の練習が終わるころ、スタンドの空気は少し緩んでいた。
中央のレース場のように、熱が場を満たすことはない。だが、見ていた人たちはすぐには帰らなかった。保護者らしい人が、走り終えた子に上着をかける。スタッフがコーンを片付ける。人間の生徒が記録用紙をファイルに挟む。
長谷が秋月たちのところへ来た。
「どうでしたか」
「丁寧ですね」
秋月はそう答えた。
長谷は少し笑った。
「派手なことはできませんから」
「派手じゃなくても、かなり整っていると思います」
「そう言っていただけると、ありがたいです」
長谷はグラウンドを見た。
「うちは、ここで育てて、ここで走らせて、ここから次へ送る場所です。次が中央の子もいる。地元に残る子もいる。続ける子も、やめる子もいます」
「全部、ここの仕事ですか」
「全部、ここの仕事です」
長谷の声に、力みはなかった。
秋月は少しだけ間を置いた。
「それでも、中央へ行けない子の方が多い」
「そうですね」
長谷は否定しなかった。
「それでも走る」
「走ります」
「なぜです」
聞いてから、少し踏み込みすぎたかと思った。
だが、長谷は怒らなかった。
「好きだからでしょうね」
簡単な答えだった。
「それに、走ったことは消えませんから」
秋月は長谷を見た。
長谷は、特別なことを言った顔をしていなかった。校庭の土の乾き具合を言うのと、ほとんど同じ調子だった。
「中央に行かなくても、レースに出なくても、ここで走ったことは残ります。本人にも、周りにも」
「残るなら、十分ですか」
長谷は少しだけ考えた。
「十分ではない子もいます」
その答えは静かだった。
「足りない子もいる。もっと走りたい子もいる。中央に行きたかった子もいる。ここで終わらせたくない子もいる」
長谷は、片付けをする生徒たちを見た。
「でも、こちらができるのは、ここで走ったことを粗末にしないことくらいです」
秋月は返事をしなかった。
ここで走ったことを粗末にしない。
それは、今日見たすべての動きの中にあったように思えた。受付の案内、医務室、補食の棚、視線を一人に絞ってやること、走り終えた子にタオルを渡すこと。
優しい、ということは、たぶん、こういうことなのだろう。
秋月はそう思いかけた。だが、すぐに、その続きも頭に浮かんでくる。
優しさは、どこまでも届くわけではない。
そうやって守れるものには、形がある。形があるものは、形の外にあるものを、たぶん拾えない。
写真の中の栗毛の子。本人が決めて、別の場所へ行った。それは粗末にされたわけではない。送り出されたのだ。送り出されることも、たぶん、ここの仕事の一部だった。
ただ、送り出されたあと、どこへ行ったか。
そこまでは、ここでは見えない。
長谷の言葉には、それを承知している人間の重さがあった。だから「十分ではない子もいます」という答えが、自然に出てきた。
秋月は、また自分の言葉に少しだけ顔をしかめた。
早い。
まだ早い。
ミナトはグラウンドの方を見ていた。さっきの小柄なウマ娘が、女子生徒と並んで歩いている。二人で記録用紙を見ていた。
「ミナト」
桐生が呼んだ。
「はい」
「そろそろ」
「分かりました」
ミナトは自然に頷いた。
「秋月さん、行きますよ」
スタンドを下りる途中、秋月はもう一度グラウンドを見た。
コーンが片付けられ、走路に残っていた足跡が少しずつならされていく。誰かが熊手のような道具を引いていた。土の上に残った線が消えていく。
消すためではない。
次に走る子が、同じように立てるように整えている。
門を出るとき、受付の女性スタッフが頭を下げた。
「本日はありがとうございました」
「こちらこそ」
ミナトには、女性スタッフが別の紙を差し出した。
「もし明日も見学されるようでしたら、こちらの時間が使いやすいと思います。午前中は小さい子たちが多いので、少し賑やかになります」
「ありがとうございます」
「休憩室は今日と同じように使えますので」
「はい」
ミナトはその紙も自然に受け取った。
秋月は横で見ていた。
ここでも、何もおかしくない。
むしろ、親切だった。
ただ、親切が迷わずミナトへ向かうことに、秋月はまだ慣れなかった。
元競走ウマ娘。
見学者。
施設を使うかもしれない人。
体調に気をつけるべき人。
走れる人。
もうレースには出ない人。
その全部が、同じ紙の上に丁寧に収められている。
ミナトは何も疑問に思っていなかった。
桐生は、その紙を一度だけ見た。
本当に一度だけだった。
だが、秋月には分かった。桐生はそこだけ見た。
帰り道、橋の上でミナトが立ち止まった。
川の水面に、夕方の光が落ちている。向こう岸のレース場では、もう人影が少なくなっていた。照明塔にはまだ明かりが入っていない。
「いい場所だな」
秋月は言った。
ミナトは頷いた。
「優しい場所だ」
「そうですね」
「でも」
言いかけて、秋月はやめた。
ミナトがこちらを見た。
「でも?」
「いや」
秋月は首を振った。
「うまく言えない」
ミナトは少しだけ考えてから、また川の方を向いた。
「ここで終わる子もいます」
秋月はミナトを見た。
「終わる?」
「中央に行かない子。レースを続けない子。走るのをやめる子」
ミナトの声は落ち着いていた。
「悪いことじゃないです」
「そうだな」
「今日の子も、たぶん中央に行く事を目指している子ばかりじゃないです。でも、今日走れたのは本当なので」
秋月は黙った。
「本当だから、それでいいのか」
「それでいい日もあります」
ミナトは川を見たまま言った。
「それでよくない日もありますけど」
風が橋の上を通った。
桐生は少し離れたところで、手すりにもたれていた。何も言わない。だが、聞いている。
秋月は、今日見たものを頭の中で並べた。
受付の女性。青いストラップ。施設案内。医務室。補食の自由箱。写真の中の幼いミナト。保育士になった栗毛の子。視線を一人に絞ってやる女子生徒。二本目で笑った小柄なウマ娘。長谷の「粗末にしないことくらいです」という声。土をならす熊手。
どれも、悪くなかった。
むしろ、良かった。
良かったまま、届かないところがある。
秋月はそう思った。今度は、顔をしかめなかった。
言葉が少しだけ場面に追いついた気がした。
「桐生」
秋月は呼んだ。
「はい」
「お前、さっきの紙、見ただろ」
「見ました」
「何を見た」
桐生は少しだけ間を置いた。
「よくできてると思いましたよ」
「それだけか」
「それだけ」
「本当に?」
「よくできてるものは、届かないところが分かりやすいですから」
桐生はそれだけ言って、橋の下を見た。
秋月は返事をしなかった。
今の答えで十分だった。
ミナトは、桐生の言葉に反応しなかった。聞こえていたはずだが、何も言わなかった。たぶん、意味を取ろうとしていない。彼女にとって、あの紙は親切な紙で、あの施設はいい場所で、今日の練習はよかった。それで嘘ではない。
その嘘のなさが、秋月には少し眩しかった。
橋を渡り終えるころ、町の灯りが少しずつ点き始めていた。
三人の足音が、昨日と同じ道に並ぶ。
昨日より少しだけ、秋月は音を聞けていた。
次の音が来るまで、前の音が消えずに残る。
ミナトが少し先を歩く。
桐生がその後ろを歩く。
秋月は、二人の少し横を歩いた。
受付の紙も、補食の箱も、土をならす熊手も、どれもちゃんとそこにあった。
それで助かる子がいる。
それでも、届かないものがある。
その両方が、同じ場所にあった。
秋月はポケットの中の手帳に触れた。
出さなかった。
今日はまだ、書くより先に、覚えておきたかった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
少しでも「続きが気になる」と思っていただけましたら、お気に入り登録や評価、感想などをいただけると嬉しいです。
静かな話ではありますが、秋月たちの歩みをもう少し見守っていただければ幸いです。