朝、研究室のドアを開けると、ミナトのスニーカーがなかった。
代わりに、桐生の革靴が一足、少しずれた角度で置かれている。
「ミナトは」
「病院です」
桐生は資料から顔を上げずに答えた。
「半年に一回、まだ行ってます」
「経過観察か」
「もうほとんど経過もないんですけど。行く方が、彼女が落ち着くので」
それだけだった。
秋月は鞄を椅子の横に置いた。普段ミナトのバッグが置かれているあたりだった。
椅子に座ると、机の上が、いつもより広く見えた。
机が、ふたつ並んでいる。
桐生の机には、いつも通り資料が積まれていた。論文、ノート、データシート、開きかけたままの本。中央に走行データの紙束。その上にペン。
もう一つの机は、明らかに桐生のものではなかった。
ノートが一冊、表紙を上にして置いてある。表紙には何も書かれていない。隣に、よく削られた鉛筆。マグカップが一つ。中身は空だが、底にお茶らしき染みが残っていた。
椅子の背には、薄い羽織りものがかかっていた。
「ミナトの机だな」
「机というか、置き場所です」
「使ってるんだろ」
桐生は少しだけ笑った。
「使ってますね」
否定はしなかった。
「いつからあるんだ、その机」
「二年くらい前です」
それも軽く言った。
「最初は、こっちに来たときに座る場所がなかったので、適当に置きました。ノートを置く場所を作って、そのうちペンが増えて、湯のみが増えて、気づいたら机になってました」
「気づいたら、か」
「そういうことになってました」
桐生はまだ顔を上げない。
「使い方は決めてないのか」
「決めてないです。ミナトが何かするための机、というだけで」
「研究の手伝いとか」
「させたことはあります。ただ、本人がやりたい日にやって、やりたくない日はやらないので」
「それでいいのか」
「いいんです」
桐生は資料に目を戻した。
「ここで何かをやらせるために、机があるわけじゃないので」
その言い方が、秋月には残った。
研究室の中に、研究のためでない机がある。その机は二年前から空いている。空いたまま、誰かが少しずつ使い込んできた。それを桐生は「気づいたら、そうなっていた」と言う。
桐生の言い方には、計画らしさがなかった。だが、長く続いている、ということは、計画ではなくとも、続けるための何かがあるはずだった。
秋月は資料の山を一度見た。
それから、もう一つの机のノートを見た。
開いていない。表紙には何も書いていない。だが、置き方には慣れがあった。
「桐生」
「はい」
「お前、ミナトのことは、いつから知ってる」
桐生は少しだけ間を置いた。
「現役のときから、です」
「現役のとき」
「ええ。中央のトレセンで、走行データを取らせてもらってました」
「研究で」
「そうです」
桐生はそこで初めて顔を上げた。
「彼女は、サンプルとしては良くなかったんですよ」
「良くない?」
「数値が安定しないんです。同じコンディションで走っても、ラップの出方が日によって違う。並のウマ娘はそんなにブレません」
「だからお前、面白がったのか」
「そうですね」
桐生は少し笑った。
「ブレるのが面白かった。ブレる原因が、本人の中に何かあるはずなので」
「その何か、を見つけたかったわけだ」
「見つけたかったというより、聞きたかったんです」
桐生は資料の端を指で軽く押さえた。
「数字がブレる日、本人は何を見てたか。何が聞こえてたか。何を考えてたか。それを聞かせてもらえる関係だったので、面白かった」
秋月は黙って聞いていた。
研究の話をする桐生の口調は、いつもより少しだけ早かった。早かったが、強くはなかった。長年やってきた人間の、慣れた走り方のような口調だった。
「怪我のあとは」
秋月が促した。
桐生は少しだけ間を置いた。
「最初、しばらく会いませんでした。私から連絡するものでもないですし、向こうもそれどころじゃなかったので」
「それはそうだろう」
「何か月か経ったときに、ミナトの方から来ました」
「来た?」
「ええ。古い走行ノートが出てきたから、もし要るなら持って行ってくれって」
それだけだった。
桐生はそれ以上説明しなかった。秋月もそれ以上聞かなかった。だが、その情景は浮かんだ。怪我からしばらくして、家を片付けていたらノートが出てきた。捨てるのが嫌で、研究者のところへ持ってきた。それくらいの動きで、彼女はここに来たのかもしれなかった。
「で、それから来るようになった」
「ええ」
「机ができた」
「そうですね」
桐生はそこでようやく、もう一つの机の方を見た。
「最初は週に一回くらいでした。それが二回になって、三回になって、学会前とか、原稿の締切が立て込んでる時期は、私が夜まで残るので、彼女もそのまま残るようになって。たまに泊まる日も出てきて、今みたいな感じになりました」
「お前から言ったわけじゃないんだな」
「言ってないです」
「向こうから言ったのか」
「言ってもないです」
桐生は少しだけ困ったように笑った。
「気づいたら、そうなっていた、というのが本当に近いです」
秋月は何も言わなかった。
言葉にしないまま、机が一つ増えて、机の使い方が増えて、夜泊まる日が出てきた。それが、いつのまにか日常の形になっていた。
その関係に、名前をつけることはできなかった。
研究者と研究対象、と言うには、ミナトはサンプルとして扱われていない。介護する側とされる側、と言うには、ミナトは助けを必要とする病人ではない。家族でもない。同居人、というのも違う気がした。
「お前の方も、助かってるのか」
秋月がそう聞くと、桐生は資料に目を戻した。
「助かる、という言い方は、たぶん違いますね」
「じゃあ何だ」
桐生はしばらく黙っていた。
それから、少しだけ顔を上げた。
「私、一人で長く居ると、食べるのを忘れるんです」
そう言って、机の端の空のマグカップを軽く指で押した。
「考え事してるあいだに、夜になっている。気づくと、何も食べていない。前は、それが何日か続いて、立てなくなったことがありました」
「いつの話だ」
桐生は少し考えた。
「研究室を持って、しばらくの頃ですかね」
秋月は、初めて桐生に会ったときのことをうっすら思い出した。研究のことばかり喋る男で、メシの話を一度もしない男だった。痩せていた。だが、そういうものだろうと思っていた。
「それからは、まあ自分なりに気をつけてはいたんですけど、それでも一人だと波がありました」
桐生はそう言って、また指を離した。
「ミナトが来るようになって、その波が、ようやく止まりました」
桐生は静かに言った。
「彼女は、私に何かさせるわけじゃないんです。ただ、夕方になるとお湯を沸かす音がする。そうすると、私もお茶を一杯飲む。冷蔵庫から牛乳を出して、机の端に置いてくれる。そうすると、私もそれを飲む」
「それで助かる、って話か」
「助かる、というより、続く、という感じです」
「続く」
「人がそばにいると、続くんです」
桐生はそう言って、また資料に目を戻した。
「彼女がここに来るようになって、私は、続けて生きていられるようになりました」
それは、桐生から聞いたことのない種類の言葉だった。
秋月は、すぐには返事ができなかった。
桐生はミナトを支えているのではない。逆でもない。両者が、互いの存在によって、毎日の輪郭をかろうじて保っている。それを支え合いと呼ぶこともできるのかもしれない。だが、桐生はその言葉を使わなかった。
ただ、続く、と言った。
その方が、たぶん近い気がした。
ドアの外で、足音がした。
短い間があって、ノックの代わりに、慣れた手つきでドアが開いた。
「ただいま戻りました」
ミナトが入ってきた。
肩から提げたバッグの脇に、小さな紙袋が見えた。パン屋の袋だった。研究室に来る前に、いつもの店に寄ってきたらしい。
ミナトは秋月に気づくと、少しだけ会釈した。
「お疲れ様です」
「病院、どうだった」
「変わらずです」
軽い口調だった。深刻にも、安堵にも傾いていない。ただ、報告する口調だった。
ミナトはバッグを自分の机に置いた。それから、紙袋からパンを二つ取り出して、桐生の机の端に一つ置いた。残りを自分の机に置く。
桐生は資料から顔を上げずに、ありがとう、と言った。
ミナトは何も言わずに、棚からマグカップを二つ取り出した。電気ケトルのスイッチを入れる。湯が沸くまでの間、彼女はノートを開いて、何かを書き始めた。
その動きの一つ一つに、迷いがなかった。
長い時間をかけて作られた動線だった。秋月にはそれが、はっきり見えた。
ミナトの机の前。ケトルまでの三歩。冷蔵庫を開ける幅。桐生の机までの距離。どれも、一度や二度の偶然で決まる位置ではない。何度も繰り返して、体が覚えた位置だった。
ミナトはノートに数行書くと、ケトルの音に気づいて立ち上がった。お茶を二杯入れる。一杯を桐生の机へ運び、一杯は自分の机へ。
桐生はそのお茶を、顔を上げずに受け取った。
ミナトはそれを確認して、自分の席に戻った。
椅子に座って、ノートをまた開いた。
それだけだった。
劇的なことは何もなかった。だが、その「何もない」の中に、二年分の手順が静かに積み重なっていた。
「ミナト」
桐生が言った。
「はい」
「午後の相談会、十三時集合でしたね」
「十三時です」
ミナトはノートを閉じた。
「秋月さん、一緒に来られますか」
「同行するつもりで来た」
ミナトは少し笑った。
「じゃあ、お昼を済ませてから出ます」
桐生もそこで完全に顔を上げた。
「あの会場、消毒液の匂いがするんですよね」
「先生、苦手ですか」
「慣れません」
ミナトは小さく笑った。
「私も、まだ慣れません」
それで、その話は終わった。
秋月は研究室を出る前に、もう一度だけ机のふたつを見た。
桐生の机。
ミナトの机。
二つの机のあいだに、積み重なった手順がある。手順は、計画されたものではない。誰かが少しずつ動いて、その跡を消さずに置いてきたら、結果的に出来上がったものだった。
桐生が「続く」と言ったときの声が、まだ少し残っていた。
会場は、レース場ではなかった。
大学の隣にある地域連携センター。駅前のビルを改装したような建物で、一階には市民向けの掲示板があり、二階には小さなホールと相談室が並んでいた。
入口の自動ドアをくぐると、まず消毒液の匂いがした。
それから、紙の匂い。
桐生の言っていた匂いだった。研究室で「慣れません」と言ったのが、少し分かった気がした。
掲示板の前には、市民講座の案内や、地域の福祉相談の案内が並んでいる。その一番下に、今日の催しの案内も貼られていた。
受付の机には、白い名札がいくつも並んでいた。
元競走ウマ娘向けキャリア相談会
大学・トレセン共同交流プログラム
そう書かれた紙が、透明なケースに差し込まれている。
秋月はそれを見て、少しだけ足を止めた。
言葉が整いすぎていた。
整いすぎているのに、どこか頼りなかった。
朝、研究室で見た机のふたつとは、逆の整い方だった。あの机に、整いすぎた肩書きはついていない。誰かが通ってきた跡が、ただ残っている。それだけだ。
ここの言葉は、その逆だった。整っている。並んでいる。だが、そこに人が動いた跡は見えない。
「秋月さん、こっちです」
ミナトが振り返った。
今日は、白いブラウスに薄い水色のカーディガンを羽織っている。鞄には、いつもの小さな碇の飾りがついていた。レース場でも、研究室でもない場所に立つと、彼女は少しだけ年相応に見えた。
年相応、という言葉が合っているのかは分からない。
秋月には、まだ分からないことが多すぎた。
受付の女性が、桐生の顔を見て立ち上がった。
「桐生先生、お疲れさまです。本日はよろしくお願いします」
「こちらこそ」
桐生は軽く頭を下げた。濃い色のジャケットを着ているが、袖口に少しだけ皺が寄っている。ちゃんとした場に来ているのに、いつもの桐生だった。
「ミナトさんも、ありがとうございます」
「よろしくお願いします」
ミナトは丁寧に頭を下げた。
受付の女性は名札を探し、少し迷ってから一枚を差し出した。
桐生亮
理学部 知覚情報学・生体計測
走行後反応と環境刺激に関する共同研究
桐生の名札には、そんな文字が小さく印刷されていた。
秋月はそれを横目で見た。
タイムも、着順も、そこにはなかった。
続いて、受付の女性がもう一枚を手に取る。
ミナト
研究協力員
それだけだった。
名字も、所属も、肩書きらしい肩書きもない。
ミナトはそれを受け取って、何も言わずに胸元へ留めた。慣れた手つきだった。受付の女性も、その慣れに合わせるように、特別な確認はしなかった。何度かここに来ていることが、それだけで分かった。
秋月は、その慣れに目が止まった。
朝の机のふたつを思い出した。あの机にも、ミナトはこういう手つきで物を置く。だが、あの机の置き方には、誰も見ていない時間の分厚さがあった。今ここで名札をつける手つきには、その分厚さがない。同じ動作なのに、別の場所のための動作だった。
「秋月さんはこちらです」
受付の女性が、来賓用の名札を渡してくる。
秋月恒一
取材
こちらも、ずいぶん短かった。
取材。
たしかに間違ってはいない。
間違ってはいないが、それだけでもない気がした。
「何か?」
ミナトが小声で聞いた。
「いや」
秋月は名札を胸につけた。
「俺も欄に入ったなと思って」
「便利ですよ。欄」
「そうか」
「ないと、受付の人が困ります」
ミナトは笑った。
冗談のようで、冗談だけではなかった。
ホールの中は、三十人ほどで半分埋まっていた。
椅子は円形に近い形で並べられている。壇上はない。前方のスクリーンには、相談会の進行表が映されていた。
元競走ウマ娘。
現役復帰未定者。
進路支援担当。
トレセン職員。
大学関係者。
地域事業者。
それぞれの言葉が、表の中に収まっている。
秋月は会場を見回した。
若いウマ娘が何人かいた。耳の動きが落ち着かない子。椅子に浅く座っている子。膝の上で指を組み、何度もほどいている子。
年上のウマ娘もいる。背筋がまっすぐで、髪をきれいにまとめている。隣の職員と資料を見ながら、静かにうなずいていた。
誰も騒がない。
静かで、丁寧で、悪い場所ではなかった。
それがかえって、秋月には少し重く感じられた。
進行役の職員がマイクを持った。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。こちらは、競技から一度離れた方、離れることを考えている方、また支援に関わる方同士が、今後の選択肢について話し合う場です」
選択肢。
その言葉に、何人かが小さくうなずいた。
「復帰を前提とする場ではありません。また、引退を勧める場でもありません。指導、広報、地域活動、研究協力、学び直しなど、それぞれの状況に合う形を一緒に考えていければと思います」
秋月はメモを取らなかった。
取れば記事になる言葉だった。
ただ、記事にすると、この部屋の空気は少し違うものになる気がした。
最初に、トレセンの職員が話した。
怪我で練習から離れた子へのサポート。復帰までの段階。復帰しない場合の進路。資格取得。地域イベント。学校やクラブへの協力。
話はよくできていた。
無理に励まさない。
急がせない。
選択肢を見せる。
本人の意思を尊重する。
悪いところはなかった。
だからこそ、秋月はどこに引っかかっているのか分からなかった。
次に、大学側の説明になった。
桐生は長く話さなかった。
「大学では、競技成績そのものではなく、競技から離れた後も残る反応や、生活の中で変化する感覚について、協力していただいています」
それだけ言って、資料を一枚めくった。
「詳しい話は、今日はしません。ここは研究の説明会ではないので」
会場に、少しだけ笑いが起きた。
桐生は笑わなかったが、口調は柔らかかった。
「ただ、そういう関わり方もあります。走るためではなく、走った後に残るものを、言葉や記録として置いておく関わり方です」
そこで終わった。
秋月は、桐生の名札をもう一度見た。
知覚情報学。生体計測。
桐生が何を専門にしているのか、細かいことはまだ分からない。
けれど、少なくとも、速さだけを見ている人間ではないことは分かった。
朝、桐生はミナトについて「ブレる原因が、本人の中に何かあるはずなので」と言っていた。今のスピーチも、たぶん同じ場所から出ている。走った後に残るものを、記録として置いておく。それを、長年やってきた。机のふたつは、その中で増えた一つの机だった。
そのあと、短い休憩になった。
会場の後方に置かれたポットの前で、参加者たちが紙コップを手に取る。誰かが小さく笑い、誰かが資料を見直し、誰かがスマートフォンを開いた。
ミナトは端のテーブルで、お茶を注いでいた。
桐生の分も注ごうとして、ふと止まる。
「先生、コーヒーは駄目です」
「まだ何も言ってない」
「顔が言ってました」
「顔で注文していたか」
「してました」
桐生は紙コップを受け取りながら、少しだけ肩を落とした。
そのやり取りを、近くにいた若いウマ娘が見ていた。
中学生ではない。高校生くらいだろうか。小柄で、栗色の髪を肩のあたりで切っている。右足に薄いサポーターをつけていた。制服ではなく、無地のパーカーと長いスカート。耳が、落ち着かないように何度も動いている。
彼女は一度近づきかけて、やめた。
ミナトは気づいていた。
気づいていたが、自分からは声をかけなかった。
お茶を二つ持って、テーブルの端を少し空ける。
その空け方が、声をかけるよりずっと自然だった。
朝、研究室でミナトが桐生の机にお茶を運んでいた手つきと、似ていた。何度も繰り返してきた動きが、人を傷つけずに場所を作る形になっている。違う相手に向けた、同じ手だった。
若いウマ娘は、少し迷ってからそこに来た。
「あの」
「はい」
「ミナトさん、ですよね」
「はい。ミナトです」
ミナトは、名札を少しだけ指で押さえた。
若い子は名札を見て、それからミナトの顔を見た。
「研究協力員、なんですか」
「書類では」
「書類では」
「一番近い欄が、それなので」
ミナトは笑った。
若い子は笑わなかった。真面目な顔で、紙コップを両手で持っている。
「走ってた人、ですよね」
「はい」
「今は、走ってないんですよね」
「走ってないですね」
ミナトは、同じ調子で答えた。
秋月は、少し離れた場所でその声を聞いていた。聞くつもりで聞いたわけではない。けれど、耳がそちらを向いてしまった。
若い子は、紙コップのふちを指でなぞった。
「私、まだ、戻れるかもしれないって言われてます」
「うん」
「でも、次の道もあるって言われます」
「うん」
「どっちも、ありがたいんですけど」
そこで言葉が切れた。
ミナトは急がせなかった。
桐生も何も言わなかった。壁際で資料を一枚直しているだけだった。だが、聞いていないわけではないことは、秋月にも分かった。
若い子は、少しだけ顔を上げた。
「やめたら、楽になりますか」
会場の音が、少し遠くなった。
誰かの紙コップが、机に触れる音がした。ホールの隅から、進行表をめくる紙の音も聞こえた。それ以外は、しばらく何もなかった。
ミナトはすぐには答えなかった。
笑うことも、励ますこともしなかった。
困った顔もしなかった。
ただ、紙コップを両手で握り直して、少しだけ息を吸った。
「楽、とは違うと思います」
若い子の耳が止まった。
「違うんですか」
ミナトは小さく頷いた。
「じゃあ、つらいですか」
「それも、日によります」
ミナトはコップを少し机に近づけた。
「走っていたときのつらさとは、違います」
「違う」
「はい。走っているときは、次に行く場所がありました。練習でも、レースでも、ライブでも、怒られることでも」
「怒られること」
「ありました」
若い子が、ほんの少しだけ笑った。
ミナトも少し笑った。
「やめたら、その次が減ります」
「減る」
「朝起きても、今日どこに向かえばいいのか、少し分からない日があります」
若い子は黙った。
紙コップのふちをなぞる指が、止まった。
秋月は、手帳を出さなかった。
ここで出すと、何かが逃げる気がした。
朝、桐生が「人がそばにいると、続くんです」と言ったのを思い出した。今、この若い子が聞いているのは、その「続く」が、今のミナトにとって何でできているのか、という話だった。机のひとつ。お茶。明け方ふと目が覚めて、今日どこに向かえばいいのかが分からない時間。
ミナトはそれらを、楽、とは呼ばなかった。
つらい、とも呼びきらなかった。
「でも」
若い子が言った。
「痛くない日は増えますか」
ミナトは、今度もすぐ答えなかった。
「増えると思います」
「思います?」
「私は、まだ分かっている途中なので」
若い子は、その言葉を口の中で繰り返すようにして、少しだけ頷いた。
「途中」
ミナトは胸元の名札に触れた。
「私も、まだ一番近い欄に入れてもらってるだけなので」
若い子は名札を見た。
研究協力員。
たぶん、その言葉は若い子の探している答えではなかった。
でも、何もないよりは近かった。
「じゃあ、今は何なんですか」
その問いは、さっきより少し幼く聞こえた。
ミナトは少しだけ目を伏せた。
「今は」
言葉が止まった。
ミナトはコップを机に置いた。
そのまま、何も続けなかった。
秋月は、初めて見た気がした。
ミナトが答えを持っていない顔。
レース場でも、研究室でも、街でも、ミナトは分からないことを分からないまま言うことがあった。けれど、今の沈黙はそれとは少し違う。
自分で置いた言葉に、自分が追いついていない。
そんな沈黙だった。
桐生が歩いてきた。
だが、ミナトの代わりには答えなかった。
「今、答えを決めなくていいと思う」
若い子が桐生を見た。
「私ですか」
「うん」
桐生は、ミナトではなく若い子に向けて言った。
「戻るかどうかも、別の道へ行くかどうかも、今日ここで決めなくていい」
「でも、決めないと」
「決める日は来る」
桐生は淡々と言った。
「でも、今日じゃなくてもいい日もある」
それだけだった。
慰めでも、診断でも、助言でもない。
秋月はその一言を聞きながら、桐生の机のふたつを思い出した。あの机も、桐生は「決めずに置いてきた」と言っていた。決めない、というのは、放っておくことではない。決めない場所を、塞がずに残しておく、ということだった。
桐生は、若い子にも、ミナトにしてきたのと同じことを言っていた。
若い子は、しばらく紙コップを見ていた。
「ミナトさんも、まだ決めてないんですか」
ミナトは今度はすぐ答えた。
「決めてないです」
「それで、いいんですか」
ミナトは少し考えた。
「よくない日もあります」
若い子がまた、少しだけ笑った。
「でも、今日はそれで来てます」
その言い方は、軽かった。
軽いのに、逃げてはいなかった。
進行役の職員が、休憩終了を知らせた。
若い子は紙コップを持ったまま、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
ミナトも頭を下げた。
若い子は自分の席へ戻っていった。歩き方は、来たときとほとんど変わらない。右足を少しかばっている。けれど、耳の動きは少し落ち着いていた。
秋月はそれを見た。
何かが解決したわけではない。
ただ、ひとつの問いが、宙に置かれたままだった。
後半は、地域事業者との交流だった。
スポーツ用品店の人。
子ども向けクラブの代表。
市の観光課。
学校関係者。
トレセンの進路担当。
それぞれが、できることを話した。
「指導補助なら、短時間からでも」
「イベントでのトークは、無理のない範囲で」
「地域の子どもたちには、身近な先輩として来ていただけると」
悪い話ではなかった。
どれも、誰かの役に立つ話だった。
けれど、秋月はさっきの若いウマ娘の声を忘れられなかった。
やめたら、楽になりますか。
その一言の前では、「地域活動」も「経験の還元」も、少しだけ遠くなる。
ミナトは会場の端で、資料を受け取ったり、質問されたりしていた。
「今後は支援側に?」
「まだ決めていません」
「研究の方に進まれるんですか」
「協力はしています」
「指導も向いていそうですね」
「そう言っていただけることはあります」
否定しない。
受け取る。
でも、どの言葉にも完全には入らない。
秋月は、それを何度も見た。
本人も慣れている。周りも悪気はない。むしろ丁寧だ。
だから、余計に見えにくかった。
会が終わるころ、外は少し暗くなり始めていた。
参加者たちは、それぞれ名札を返し、資料を鞄にしまい、連絡先を交換していた。若いウマ娘はトレセン職員と並んで帰っていった。出口の手前で一度だけ振り返り、ミナトに軽く頭を下げる。
ミナトも手を振った。
小さく。
それから、名札を外した。
研究協力員。
机の上に戻されたその札は、ただの紙に戻った。
秋月はそれを見ていた。
「何か書けそうですか」
ミナトが聞いた。
「書けそうな言葉はある」
「あるんですね」
「ある。ありすぎる」
秋月は、返却された名札の列を見た。
取材。
研究協力員。
進路支援。
地域事業者。
元競走ウマ娘。
どれも間違っていなかった。
間違っていない言葉が並ぶほど、さっきの問いが入る場所だけがなくなっていく気がした。
「研究協力員、か」
秋月が言うと、ミナトは名札の置かれた机を見た。
「一番近い欄なので」
「近いだけか」
「はい」
ミナトはそう答えて、机から軽く目を逸らした。
桐生は、配布資料の残りを紙袋に入れていた。
その紙袋を、椅子の上に置いたまま出口へ向かおうとする。
「先生」
ミナトが呼んだ。
「何」
「袋」
桐生は振り返った。
「ああ」
「今ので三回目です」
「数えてたのか」
「数えなくても分かります」
桐生は紙袋を取りに戻った。
秋月は、その様子を見ていた。
会場の中では、ミナトは研究協力員だった。
若いウマ娘の前では、やめた先輩だった。
職員の前では、支援側になれる人だった。
秋月の前では、取材対象だった。
廊下では、桐生の忘れ物を見つける人だった。
そのどれもが、ミナトだった。
たぶん。
でも、どれか一つではなかった。
そして、朝、研究室で見た「机のふたつ」に座る人としてのミナトは、どの欄にも入っていなかった。あれを書く欄は、たぶんどの相談会の表にもない。
建物を出ると、駅前のロータリーに夕方の音が広がっていた。
バスのエンジン。
信号の電子音。
コンビニの自動ドア。
どこかの店から流れる古い曲。
レース場の音ではない。
それでも、誰かが次に向かう音だった。
ミナトは少し先を歩いていた。桐生は紙袋を持って、その横を歩く。秋月は二人の少し後ろにいた。
ミナトの歩幅は、会場にいたときと変わらなかった。研究協力員と呼ばれていたときと、やめた先輩として答えていたときと、桐生の忘れ物を見つけたときと、同じ歩幅で歩いている。
欄に入っていないとき、彼女はただの一人だった。
たぶん、それが本当のミナトに一番近い。
だが、その一番近いものを、書類に書く欄は無い。
朝の研究室では、ミナトには欄がなかった。机がふたつあるだけだった。机に名札はついていない。にもかかわらず、積み重なってきた手順が、彼女がそこにいる証拠として残っていた。
会場では、その逆だった。名札はついていた。だが、その手順は名札の上には乗っていない。
ミナトは、両方の場所を毎日のように行き来していた。
秋月はポケットの中の手帳に、まだ触れていなかった。
出せば、何かを書ける。
元競走ウマ娘の進路支援。
研究協力という選択。
引退後の居場所。
地域との連携。
どれも記事になる。
けれど、最初に書くべきなのは、たぶんそこではなかった。
やめたら、楽になりますか。
あの問いは、まだどの欄にも入っていなかった。
入る場所がない、ということ自体が、たぶん答えの一部だった。
横断歩道の信号が変わる。三人は並んで渡った。ミナトの右隣に桐生がいて、少し後ろに秋月がいる。並び方は、朝の研究室から、会場の最初から最後まで、そして今も変わらなかった。
机がふたつあった研究室。
胸につけられた「研究協力員」の名札。
そのあいだに、ミナトはいる。
どちらも一番近い欄ではない。だが、どちらもないわけではない。
秋月はようやく、ポケットの中の手帳に触れた。
出さなかった。
今日はまだ、欄の名前より先に、机のふたつと、あの声を覚えておきたかった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
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静かな話ではありますが、秋月たちの歩みをもう少し見守っていただければ幸いです