まだ、走っている   作:監督

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一番近い欄

 

 

 

 

朝、研究室のドアを開けると、ミナトのスニーカーがなかった。

 

代わりに、桐生の革靴が一足、少しずれた角度で置かれている。

 

「ミナトは」

 

「病院です」

 

桐生は資料から顔を上げずに答えた。

 

「半年に一回、まだ行ってます」

 

「経過観察か」

 

「もうほとんど経過もないんですけど。行く方が、彼女が落ち着くので」

 

それだけだった。

 

秋月は鞄を椅子の横に置いた。普段ミナトのバッグが置かれているあたりだった。

 

椅子に座ると、机の上が、いつもより広く見えた。

 

机が、ふたつ並んでいる。

 

桐生の机には、いつも通り資料が積まれていた。論文、ノート、データシート、開きかけたままの本。中央に走行データの紙束。その上にペン。

 

もう一つの机は、明らかに桐生のものではなかった。

 

ノートが一冊、表紙を上にして置いてある。表紙には何も書かれていない。隣に、よく削られた鉛筆。マグカップが一つ。中身は空だが、底にお茶らしき染みが残っていた。

 

椅子の背には、薄い羽織りものがかかっていた。

 

「ミナトの机だな」

 

「机というか、置き場所です」

 

「使ってるんだろ」

 

桐生は少しだけ笑った。

 

「使ってますね」

 

否定はしなかった。

 

「いつからあるんだ、その机」

 

「二年くらい前です」

 

それも軽く言った。

 

「最初は、こっちに来たときに座る場所がなかったので、適当に置きました。ノートを置く場所を作って、そのうちペンが増えて、湯のみが増えて、気づいたら机になってました」

 

「気づいたら、か」

 

「そういうことになってました」

 

桐生はまだ顔を上げない。

 

「使い方は決めてないのか」

 

「決めてないです。ミナトが何かするための机、というだけで」

 

「研究の手伝いとか」

 

「させたことはあります。ただ、本人がやりたい日にやって、やりたくない日はやらないので」

 

「それでいいのか」

 

「いいんです」

 

桐生は資料に目を戻した。

 

「ここで何かをやらせるために、机があるわけじゃないので」

 

その言い方が、秋月には残った。

 

研究室の中に、研究のためでない机がある。その机は二年前から空いている。空いたまま、誰かが少しずつ使い込んできた。それを桐生は「気づいたら、そうなっていた」と言う。

 

桐生の言い方には、計画らしさがなかった。だが、長く続いている、ということは、計画ではなくとも、続けるための何かがあるはずだった。

 

秋月は資料の山を一度見た。

 

それから、もう一つの机のノートを見た。

 

開いていない。表紙には何も書いていない。だが、置き方には慣れがあった。

 

 

 

「桐生」

 

「はい」

 

「お前、ミナトのことは、いつから知ってる」

 

桐生は少しだけ間を置いた。

 

「現役のときから、です」

 

「現役のとき」

 

「ええ。中央のトレセンで、走行データを取らせてもらってました」

 

「研究で」

 

「そうです」

 

桐生はそこで初めて顔を上げた。

 

「彼女は、サンプルとしては良くなかったんですよ」

 

「良くない?」

 

「数値が安定しないんです。同じコンディションで走っても、ラップの出方が日によって違う。並のウマ娘はそんなにブレません」

 

「だからお前、面白がったのか」

 

「そうですね」

 

桐生は少し笑った。

 

「ブレるのが面白かった。ブレる原因が、本人の中に何かあるはずなので」

 

「その何か、を見つけたかったわけだ」

 

「見つけたかったというより、聞きたかったんです」

 

桐生は資料の端を指で軽く押さえた。

 

「数字がブレる日、本人は何を見てたか。何が聞こえてたか。何を考えてたか。それを聞かせてもらえる関係だったので、面白かった」

 

秋月は黙って聞いていた。

 

研究の話をする桐生の口調は、いつもより少しだけ早かった。早かったが、強くはなかった。長年やってきた人間の、慣れた走り方のような口調だった。

 

「怪我のあとは」

 

秋月が促した。

 

桐生は少しだけ間を置いた。

 

「最初、しばらく会いませんでした。私から連絡するものでもないですし、向こうもそれどころじゃなかったので」

 

「それはそうだろう」

 

「何か月か経ったときに、ミナトの方から来ました」

 

「来た?」

 

「ええ。古い走行ノートが出てきたから、もし要るなら持って行ってくれって」

 

それだけだった。

 

桐生はそれ以上説明しなかった。秋月もそれ以上聞かなかった。だが、その情景は浮かんだ。怪我からしばらくして、家を片付けていたらノートが出てきた。捨てるのが嫌で、研究者のところへ持ってきた。それくらいの動きで、彼女はここに来たのかもしれなかった。

 

「で、それから来るようになった」

 

「ええ」

 

「机ができた」

 

「そうですね」

 

桐生はそこでようやく、もう一つの机の方を見た。

 

「最初は週に一回くらいでした。それが二回になって、三回になって、学会前とか、原稿の締切が立て込んでる時期は、私が夜まで残るので、彼女もそのまま残るようになって。たまに泊まる日も出てきて、今みたいな感じになりました」

 

「お前から言ったわけじゃないんだな」

 

「言ってないです」

 

「向こうから言ったのか」

 

「言ってもないです」

 

桐生は少しだけ困ったように笑った。

 

「気づいたら、そうなっていた、というのが本当に近いです」

 

秋月は何も言わなかった。

 

言葉にしないまま、机が一つ増えて、机の使い方が増えて、夜泊まる日が出てきた。それが、いつのまにか日常の形になっていた。

 

その関係に、名前をつけることはできなかった。

 

研究者と研究対象、と言うには、ミナトはサンプルとして扱われていない。介護する側とされる側、と言うには、ミナトは助けを必要とする病人ではない。家族でもない。同居人、というのも違う気がした。

 

「お前の方も、助かってるのか」

 

秋月がそう聞くと、桐生は資料に目を戻した。

 

「助かる、という言い方は、たぶん違いますね」

 

「じゃあ何だ」

 

桐生はしばらく黙っていた。

 

それから、少しだけ顔を上げた。

 

「私、一人で長く居ると、食べるのを忘れるんです」

 

そう言って、机の端の空のマグカップを軽く指で押した。

 

「考え事してるあいだに、夜になっている。気づくと、何も食べていない。前は、それが何日か続いて、立てなくなったことがありました」

 

「いつの話だ」

 

桐生は少し考えた。

 

「研究室を持って、しばらくの頃ですかね」

 

秋月は、初めて桐生に会ったときのことをうっすら思い出した。研究のことばかり喋る男で、メシの話を一度もしない男だった。痩せていた。だが、そういうものだろうと思っていた。

 

「それからは、まあ自分なりに気をつけてはいたんですけど、それでも一人だと波がありました」

 

桐生はそう言って、また指を離した。

 

「ミナトが来るようになって、その波が、ようやく止まりました」

 

桐生は静かに言った。

 

「彼女は、私に何かさせるわけじゃないんです。ただ、夕方になるとお湯を沸かす音がする。そうすると、私もお茶を一杯飲む。冷蔵庫から牛乳を出して、机の端に置いてくれる。そうすると、私もそれを飲む」

 

「それで助かる、って話か」

 

「助かる、というより、続く、という感じです」

 

「続く」

 

「人がそばにいると、続くんです」

 

桐生はそう言って、また資料に目を戻した。

 

「彼女がここに来るようになって、私は、続けて生きていられるようになりました」

 

それは、桐生から聞いたことのない種類の言葉だった。

 

秋月は、すぐには返事ができなかった。

 

桐生はミナトを支えているのではない。逆でもない。両者が、互いの存在によって、毎日の輪郭をかろうじて保っている。それを支え合いと呼ぶこともできるのかもしれない。だが、桐生はその言葉を使わなかった。

 

ただ、続く、と言った。

 

その方が、たぶん近い気がした。

 

 

 

ドアの外で、足音がした。

 

短い間があって、ノックの代わりに、慣れた手つきでドアが開いた。

 

「ただいま戻りました」

 

ミナトが入ってきた。

 

肩から提げたバッグの脇に、小さな紙袋が見えた。パン屋の袋だった。研究室に来る前に、いつもの店に寄ってきたらしい。

 

ミナトは秋月に気づくと、少しだけ会釈した。

 

「お疲れ様です」

 

「病院、どうだった」

 

「変わらずです」

 

軽い口調だった。深刻にも、安堵にも傾いていない。ただ、報告する口調だった。

 

ミナトはバッグを自分の机に置いた。それから、紙袋からパンを二つ取り出して、桐生の机の端に一つ置いた。残りを自分の机に置く。

 

桐生は資料から顔を上げずに、ありがとう、と言った。

 

ミナトは何も言わずに、棚からマグカップを二つ取り出した。電気ケトルのスイッチを入れる。湯が沸くまでの間、彼女はノートを開いて、何かを書き始めた。

 

その動きの一つ一つに、迷いがなかった。

 

長い時間をかけて作られた動線だった。秋月にはそれが、はっきり見えた。

 

ミナトの机の前。ケトルまでの三歩。冷蔵庫を開ける幅。桐生の机までの距離。どれも、一度や二度の偶然で決まる位置ではない。何度も繰り返して、体が覚えた位置だった。

 

ミナトはノートに数行書くと、ケトルの音に気づいて立ち上がった。お茶を二杯入れる。一杯を桐生の机へ運び、一杯は自分の机へ。

 

桐生はそのお茶を、顔を上げずに受け取った。

 

ミナトはそれを確認して、自分の席に戻った。

 

椅子に座って、ノートをまた開いた。

 

それだけだった。

 

劇的なことは何もなかった。だが、その「何もない」の中に、二年分の手順が静かに積み重なっていた。

 

「ミナト」

 

桐生が言った。

 

「はい」

 

「午後の相談会、十三時集合でしたね」

 

「十三時です」

 

ミナトはノートを閉じた。

 

「秋月さん、一緒に来られますか」

 

「同行するつもりで来た」

 

ミナトは少し笑った。

 

「じゃあ、お昼を済ませてから出ます」

 

桐生もそこで完全に顔を上げた。

 

「あの会場、消毒液の匂いがするんですよね」

 

「先生、苦手ですか」

 

「慣れません」

 

ミナトは小さく笑った。

 

「私も、まだ慣れません」

 

それで、その話は終わった。

 

秋月は研究室を出る前に、もう一度だけ机のふたつを見た。

 

桐生の机。

 

ミナトの机。

 

二つの机のあいだに、積み重なった手順がある。手順は、計画されたものではない。誰かが少しずつ動いて、その跡を消さずに置いてきたら、結果的に出来上がったものだった。

桐生が「続く」と言ったときの声が、まだ少し残っていた。

 

 

 

会場は、レース場ではなかった。

 

大学の隣にある地域連携センター。駅前のビルを改装したような建物で、一階には市民向けの掲示板があり、二階には小さなホールと相談室が並んでいた。

 

入口の自動ドアをくぐると、まず消毒液の匂いがした。

 

それから、紙の匂い。

 

桐生の言っていた匂いだった。研究室で「慣れません」と言ったのが、少し分かった気がした。

 

掲示板の前には、市民講座の案内や、地域の福祉相談の案内が並んでいる。その一番下に、今日の催しの案内も貼られていた。

 

受付の机には、白い名札がいくつも並んでいた。

 

元競走ウマ娘向けキャリア相談会

 

大学・トレセン共同交流プログラム

 

そう書かれた紙が、透明なケースに差し込まれている。

 

秋月はそれを見て、少しだけ足を止めた。

 

言葉が整いすぎていた。

 

整いすぎているのに、どこか頼りなかった。

 

朝、研究室で見た机のふたつとは、逆の整い方だった。あの机に、整いすぎた肩書きはついていない。誰かが通ってきた跡が、ただ残っている。それだけだ。

 

ここの言葉は、その逆だった。整っている。並んでいる。だが、そこに人が動いた跡は見えない。

 

「秋月さん、こっちです」

 

ミナトが振り返った。

 

今日は、白いブラウスに薄い水色のカーディガンを羽織っている。鞄には、いつもの小さな碇の飾りがついていた。レース場でも、研究室でもない場所に立つと、彼女は少しだけ年相応に見えた。

 

年相応、という言葉が合っているのかは分からない。

 

秋月には、まだ分からないことが多すぎた。

 

受付の女性が、桐生の顔を見て立ち上がった。

 

「桐生先生、お疲れさまです。本日はよろしくお願いします」

 

「こちらこそ」

 

桐生は軽く頭を下げた。濃い色のジャケットを着ているが、袖口に少しだけ皺が寄っている。ちゃんとした場に来ているのに、いつもの桐生だった。

 

「ミナトさんも、ありがとうございます」

 

「よろしくお願いします」

 

ミナトは丁寧に頭を下げた。

 

受付の女性は名札を探し、少し迷ってから一枚を差し出した。

 

桐生亮

 

理学部 知覚情報学・生体計測

 

走行後反応と環境刺激に関する共同研究

 

桐生の名札には、そんな文字が小さく印刷されていた。

 

秋月はそれを横目で見た。

 

タイムも、着順も、そこにはなかった。

 

続いて、受付の女性がもう一枚を手に取る。

 

ミナト

 

研究協力員

 

それだけだった。

 

名字も、所属も、肩書きらしい肩書きもない。

 

ミナトはそれを受け取って、何も言わずに胸元へ留めた。慣れた手つきだった。受付の女性も、その慣れに合わせるように、特別な確認はしなかった。何度かここに来ていることが、それだけで分かった。

 

秋月は、その慣れに目が止まった。

 

朝の机のふたつを思い出した。あの机にも、ミナトはこういう手つきで物を置く。だが、あの机の置き方には、誰も見ていない時間の分厚さがあった。今ここで名札をつける手つきには、その分厚さがない。同じ動作なのに、別の場所のための動作だった。

 

「秋月さんはこちらです」

 

受付の女性が、来賓用の名札を渡してくる。

 

秋月恒一

 

取材

 

こちらも、ずいぶん短かった。

 

取材。

 

たしかに間違ってはいない。

 

間違ってはいないが、それだけでもない気がした。

 

「何か?」

 

ミナトが小声で聞いた。

 

「いや」

 

秋月は名札を胸につけた。

 

「俺も欄に入ったなと思って」

 

「便利ですよ。欄」

 

「そうか」

 

「ないと、受付の人が困ります」

 

ミナトは笑った。

 

冗談のようで、冗談だけではなかった。

 

 

 

ホールの中は、三十人ほどで半分埋まっていた。

 

椅子は円形に近い形で並べられている。壇上はない。前方のスクリーンには、相談会の進行表が映されていた。

 

元競走ウマ娘。

 

現役復帰未定者。

 

進路支援担当。

 

トレセン職員。

 

大学関係者。

 

地域事業者。

 

それぞれの言葉が、表の中に収まっている。

 

秋月は会場を見回した。

 

若いウマ娘が何人かいた。耳の動きが落ち着かない子。椅子に浅く座っている子。膝の上で指を組み、何度もほどいている子。

 

年上のウマ娘もいる。背筋がまっすぐで、髪をきれいにまとめている。隣の職員と資料を見ながら、静かにうなずいていた。

 

誰も騒がない。

 

静かで、丁寧で、悪い場所ではなかった。

 

それがかえって、秋月には少し重く感じられた。

 

進行役の職員がマイクを持った。

 

「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。こちらは、競技から一度離れた方、離れることを考えている方、また支援に関わる方同士が、今後の選択肢について話し合う場です」

 

選択肢。

 

その言葉に、何人かが小さくうなずいた。

 

「復帰を前提とする場ではありません。また、引退を勧める場でもありません。指導、広報、地域活動、研究協力、学び直しなど、それぞれの状況に合う形を一緒に考えていければと思います」

 

秋月はメモを取らなかった。

 

取れば記事になる言葉だった。

 

ただ、記事にすると、この部屋の空気は少し違うものになる気がした。

 

最初に、トレセンの職員が話した。

 

怪我で練習から離れた子へのサポート。復帰までの段階。復帰しない場合の進路。資格取得。地域イベント。学校やクラブへの協力。

 

話はよくできていた。

 

無理に励まさない。

 

急がせない。

 

選択肢を見せる。

 

本人の意思を尊重する。

 

悪いところはなかった。

 

だからこそ、秋月はどこに引っかかっているのか分からなかった。

 

次に、大学側の説明になった。

 

桐生は長く話さなかった。

 

「大学では、競技成績そのものではなく、競技から離れた後も残る反応や、生活の中で変化する感覚について、協力していただいています」

 

それだけ言って、資料を一枚めくった。

 

「詳しい話は、今日はしません。ここは研究の説明会ではないので」

 

会場に、少しだけ笑いが起きた。

 

桐生は笑わなかったが、口調は柔らかかった。

 

「ただ、そういう関わり方もあります。走るためではなく、走った後に残るものを、言葉や記録として置いておく関わり方です」

 

そこで終わった。

 

秋月は、桐生の名札をもう一度見た。

 

知覚情報学。生体計測。

 

桐生が何を専門にしているのか、細かいことはまだ分からない。

 

けれど、少なくとも、速さだけを見ている人間ではないことは分かった。

 

朝、桐生はミナトについて「ブレる原因が、本人の中に何かあるはずなので」と言っていた。今のスピーチも、たぶん同じ場所から出ている。走った後に残るものを、記録として置いておく。それを、長年やってきた。机のふたつは、その中で増えた一つの机だった。

 

 

 

そのあと、短い休憩になった。

 

会場の後方に置かれたポットの前で、参加者たちが紙コップを手に取る。誰かが小さく笑い、誰かが資料を見直し、誰かがスマートフォンを開いた。

 

ミナトは端のテーブルで、お茶を注いでいた。

 

桐生の分も注ごうとして、ふと止まる。

 

「先生、コーヒーは駄目です」

 

「まだ何も言ってない」

 

「顔が言ってました」

 

「顔で注文していたか」

 

「してました」

 

桐生は紙コップを受け取りながら、少しだけ肩を落とした。

 

そのやり取りを、近くにいた若いウマ娘が見ていた。

 

中学生ではない。高校生くらいだろうか。小柄で、栗色の髪を肩のあたりで切っている。右足に薄いサポーターをつけていた。制服ではなく、無地のパーカーと長いスカート。耳が、落ち着かないように何度も動いている。

 

彼女は一度近づきかけて、やめた。

 

ミナトは気づいていた。

 

気づいていたが、自分からは声をかけなかった。

 

お茶を二つ持って、テーブルの端を少し空ける。

 

その空け方が、声をかけるよりずっと自然だった。

 

朝、研究室でミナトが桐生の机にお茶を運んでいた手つきと、似ていた。何度も繰り返してきた動きが、人を傷つけずに場所を作る形になっている。違う相手に向けた、同じ手だった。

 

若いウマ娘は、少し迷ってからそこに来た。

 

「あの」

 

「はい」

 

「ミナトさん、ですよね」

 

「はい。ミナトです」

 

ミナトは、名札を少しだけ指で押さえた。

 

若い子は名札を見て、それからミナトの顔を見た。

 

「研究協力員、なんですか」

 

「書類では」

 

「書類では」

 

「一番近い欄が、それなので」

 

ミナトは笑った。

 

若い子は笑わなかった。真面目な顔で、紙コップを両手で持っている。

 

「走ってた人、ですよね」

 

「はい」

 

「今は、走ってないんですよね」

 

「走ってないですね」

 

ミナトは、同じ調子で答えた。

 

秋月は、少し離れた場所でその声を聞いていた。聞くつもりで聞いたわけではない。けれど、耳がそちらを向いてしまった。

 

若い子は、紙コップのふちを指でなぞった。

 

「私、まだ、戻れるかもしれないって言われてます」

 

「うん」

 

「でも、次の道もあるって言われます」

 

「うん」

 

「どっちも、ありがたいんですけど」

 

そこで言葉が切れた。

 

ミナトは急がせなかった。

 

桐生も何も言わなかった。壁際で資料を一枚直しているだけだった。だが、聞いていないわけではないことは、秋月にも分かった。

 

若い子は、少しだけ顔を上げた。

 

「やめたら、楽になりますか」

 

会場の音が、少し遠くなった。

 

誰かの紙コップが、机に触れる音がした。ホールの隅から、進行表をめくる紙の音も聞こえた。それ以外は、しばらく何もなかった。

 

ミナトはすぐには答えなかった。

 

笑うことも、励ますこともしなかった。

 

困った顔もしなかった。

 

ただ、紙コップを両手で握り直して、少しだけ息を吸った。

 

「楽、とは違うと思います」

 

若い子の耳が止まった。

 

「違うんですか」

 

ミナトは小さく頷いた。

 

「じゃあ、つらいですか」

 

「それも、日によります」

 

ミナトはコップを少し机に近づけた。

 

「走っていたときのつらさとは、違います」

 

「違う」

 

「はい。走っているときは、次に行く場所がありました。練習でも、レースでも、ライブでも、怒られることでも」

 

「怒られること」

 

「ありました」

 

若い子が、ほんの少しだけ笑った。

 

ミナトも少し笑った。

 

「やめたら、その次が減ります」

 

「減る」

 

「朝起きても、今日どこに向かえばいいのか、少し分からない日があります」

 

若い子は黙った。

 

紙コップのふちをなぞる指が、止まった。

 

秋月は、手帳を出さなかった。

 

ここで出すと、何かが逃げる気がした。

 

朝、桐生が「人がそばにいると、続くんです」と言ったのを思い出した。今、この若い子が聞いているのは、その「続く」が、今のミナトにとって何でできているのか、という話だった。机のひとつ。お茶。明け方ふと目が覚めて、今日どこに向かえばいいのかが分からない時間。

 

ミナトはそれらを、楽、とは呼ばなかった。

 

つらい、とも呼びきらなかった。

 

「でも」

 

若い子が言った。

 

「痛くない日は増えますか」

 

ミナトは、今度もすぐ答えなかった。

 

「増えると思います」

 

「思います?」

 

「私は、まだ分かっている途中なので」

 

若い子は、その言葉を口の中で繰り返すようにして、少しだけ頷いた。

 

「途中」

 

ミナトは胸元の名札に触れた。

 

「私も、まだ一番近い欄に入れてもらってるだけなので」

 

若い子は名札を見た。

 

研究協力員。

 

たぶん、その言葉は若い子の探している答えではなかった。

 

でも、何もないよりは近かった。

 

「じゃあ、今は何なんですか」

 

その問いは、さっきより少し幼く聞こえた。

 

ミナトは少しだけ目を伏せた。

 

「今は」

 

言葉が止まった。

 

ミナトはコップを机に置いた。

 

そのまま、何も続けなかった。

 

秋月は、初めて見た気がした。

 

ミナトが答えを持っていない顔。

 

レース場でも、研究室でも、街でも、ミナトは分からないことを分からないまま言うことがあった。けれど、今の沈黙はそれとは少し違う。

 

自分で置いた言葉に、自分が追いついていない。

 

そんな沈黙だった。

 

桐生が歩いてきた。

 

だが、ミナトの代わりには答えなかった。

 

「今、答えを決めなくていいと思う」

 

若い子が桐生を見た。

 

「私ですか」

 

「うん」

 

桐生は、ミナトではなく若い子に向けて言った。

 

「戻るかどうかも、別の道へ行くかどうかも、今日ここで決めなくていい」

 

「でも、決めないと」

 

「決める日は来る」

 

桐生は淡々と言った。

 

「でも、今日じゃなくてもいい日もある」

 

それだけだった。

 

慰めでも、診断でも、助言でもない。

 

秋月はその一言を聞きながら、桐生の机のふたつを思い出した。あの机も、桐生は「決めずに置いてきた」と言っていた。決めない、というのは、放っておくことではない。決めない場所を、塞がずに残しておく、ということだった。

 

桐生は、若い子にも、ミナトにしてきたのと同じことを言っていた。

 

若い子は、しばらく紙コップを見ていた。

 

「ミナトさんも、まだ決めてないんですか」

 

ミナトは今度はすぐ答えた。

 

「決めてないです」

 

「それで、いいんですか」

 

ミナトは少し考えた。

 

「よくない日もあります」

 

若い子がまた、少しだけ笑った。

 

「でも、今日はそれで来てます」

 

その言い方は、軽かった。

 

軽いのに、逃げてはいなかった。

 

進行役の職員が、休憩終了を知らせた。

 

若い子は紙コップを持ったまま、小さく頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

「こちらこそ」

 

ミナトも頭を下げた。

 

若い子は自分の席へ戻っていった。歩き方は、来たときとほとんど変わらない。右足を少しかばっている。けれど、耳の動きは少し落ち着いていた。

 

秋月はそれを見た。

 

何かが解決したわけではない。

 

ただ、ひとつの問いが、宙に置かれたままだった。

 

 

 

後半は、地域事業者との交流だった。

 

スポーツ用品店の人。

 

子ども向けクラブの代表。

 

市の観光課。

 

学校関係者。

 

トレセンの進路担当。

 

それぞれが、できることを話した。

 

「指導補助なら、短時間からでも」

 

「イベントでのトークは、無理のない範囲で」

 

「地域の子どもたちには、身近な先輩として来ていただけると」

 

悪い話ではなかった。

 

どれも、誰かの役に立つ話だった。

 

けれど、秋月はさっきの若いウマ娘の声を忘れられなかった。

 

やめたら、楽になりますか。

 

その一言の前では、「地域活動」も「経験の還元」も、少しだけ遠くなる。

 

ミナトは会場の端で、資料を受け取ったり、質問されたりしていた。

 

「今後は支援側に?」

 

「まだ決めていません」

 

「研究の方に進まれるんですか」

 

「協力はしています」

 

「指導も向いていそうですね」

 

「そう言っていただけることはあります」

 

否定しない。

 

受け取る。

 

でも、どの言葉にも完全には入らない。

 

秋月は、それを何度も見た。

 

本人も慣れている。周りも悪気はない。むしろ丁寧だ。

 

だから、余計に見えにくかった。

 

会が終わるころ、外は少し暗くなり始めていた。

 

参加者たちは、それぞれ名札を返し、資料を鞄にしまい、連絡先を交換していた。若いウマ娘はトレセン職員と並んで帰っていった。出口の手前で一度だけ振り返り、ミナトに軽く頭を下げる。

 

ミナトも手を振った。

 

小さく。

 

それから、名札を外した。

 

研究協力員。

 

机の上に戻されたその札は、ただの紙に戻った。

 

秋月はそれを見ていた。

 

「何か書けそうですか」

 

ミナトが聞いた。

 

「書けそうな言葉はある」

 

「あるんですね」

 

「ある。ありすぎる」

 

秋月は、返却された名札の列を見た。

 

取材。

 

研究協力員。

 

進路支援。

 

地域事業者。

 

元競走ウマ娘。

 

どれも間違っていなかった。

 

間違っていない言葉が並ぶほど、さっきの問いが入る場所だけがなくなっていく気がした。

 

「研究協力員、か」

 

秋月が言うと、ミナトは名札の置かれた机を見た。

 

「一番近い欄なので」

 

「近いだけか」

 

「はい」

 

ミナトはそう答えて、机から軽く目を逸らした。

 

桐生は、配布資料の残りを紙袋に入れていた。

 

その紙袋を、椅子の上に置いたまま出口へ向かおうとする。

 

「先生」

 

ミナトが呼んだ。

 

「何」

 

「袋」

 

桐生は振り返った。

 

「ああ」

 

「今ので三回目です」

 

「数えてたのか」

 

「数えなくても分かります」

 

桐生は紙袋を取りに戻った。

 

秋月は、その様子を見ていた。

 

会場の中では、ミナトは研究協力員だった。

 

若いウマ娘の前では、やめた先輩だった。

 

職員の前では、支援側になれる人だった。

 

秋月の前では、取材対象だった。

 

廊下では、桐生の忘れ物を見つける人だった。

 

そのどれもが、ミナトだった。

 

たぶん。

 

でも、どれか一つではなかった。

 

そして、朝、研究室で見た「机のふたつ」に座る人としてのミナトは、どの欄にも入っていなかった。あれを書く欄は、たぶんどの相談会の表にもない。

 

 

 

建物を出ると、駅前のロータリーに夕方の音が広がっていた。

 

バスのエンジン。

 

信号の電子音。

 

コンビニの自動ドア。

 

どこかの店から流れる古い曲。

 

レース場の音ではない。

 

それでも、誰かが次に向かう音だった。

 

ミナトは少し先を歩いていた。桐生は紙袋を持って、その横を歩く。秋月は二人の少し後ろにいた。

 

ミナトの歩幅は、会場にいたときと変わらなかった。研究協力員と呼ばれていたときと、やめた先輩として答えていたときと、桐生の忘れ物を見つけたときと、同じ歩幅で歩いている。

 

欄に入っていないとき、彼女はただの一人だった。

 

たぶん、それが本当のミナトに一番近い。

 

だが、その一番近いものを、書類に書く欄は無い。

 

朝の研究室では、ミナトには欄がなかった。机がふたつあるだけだった。机に名札はついていない。にもかかわらず、積み重なってきた手順が、彼女がそこにいる証拠として残っていた。

 

会場では、その逆だった。名札はついていた。だが、その手順は名札の上には乗っていない。

 

ミナトは、両方の場所を毎日のように行き来していた。

 

秋月はポケットの中の手帳に、まだ触れていなかった。

 

出せば、何かを書ける。

 

元競走ウマ娘の進路支援。

 

研究協力という選択。

 

引退後の居場所。

 

地域との連携。

 

どれも記事になる。

 

けれど、最初に書くべきなのは、たぶんそこではなかった。

 

やめたら、楽になりますか。

 

あの問いは、まだどの欄にも入っていなかった。

 

入る場所がない、ということ自体が、たぶん答えの一部だった。

 

横断歩道の信号が変わる。三人は並んで渡った。ミナトの右隣に桐生がいて、少し後ろに秋月がいる。並び方は、朝の研究室から、会場の最初から最後まで、そして今も変わらなかった。

 

机がふたつあった研究室。

 

胸につけられた「研究協力員」の名札。

 

そのあいだに、ミナトはいる。

 

どちらも一番近い欄ではない。だが、どちらもないわけではない。

 

秋月はようやく、ポケットの中の手帳に触れた。

 

出さなかった。

 

今日はまだ、欄の名前より先に、机のふたつと、あの声を覚えておきたかった。

 

 





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静かな話ではありますが、秋月たちの歩みをもう少し見守っていただければ幸いです
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