まだ、走っている   作:監督

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装置、と言った

  

 

 

 

サトノの研究展示施設は、駅から少し離れた丘の上にあった。

 

坂道は新しかった。

 

舗装の黒がまだ深く、白線も濃い。歩道の縁石に欠けたところがなく、植え込みの低木は同じ高さで刈りそろえられている。駅前の商店街や、川沿いの道や、昨日の地域連携センターとは違っていた。

 

人が歩いて、自然に道になった場所ではない。

 

人が歩く前に、歩き方まで考えられて作られた場所だった。

 

秋月は坂を上がりながら、建物を見た。

 

ガラスが多い。

 

曇り空を映しているせいで、建物そのものの輪郭が少し薄く見える。だが近づくと、柱の太さも、壁の継ぎ目も、入口までの動線も、きっちり決められているのが分かった。

 

曖昧に見えるように作られている。

 

それなのに、実際にはどこも曖昧ではない。

 

玄関の上に、控えめな金色のロゴがあった。

 

SATONO MEDICAL & PERFORMANCE ARCHIVE

 

その下に、小さく日本語が添えられている。

 

サトノ心身計測・記録展示センター。

 

「展示センター、というより研究所だな」

 

秋月が言うと、桐生は立ち止まらずに答えた。

 

「両方です。見せられる研究と、見せない研究があります」

 

「ここは見せられる方か」

 

「そうですね」

 

桐生は少し眠そうな顔で建物を見上げた。

 

「それでも、十分すごいです」

 

「お前がそう言うなら、相当なんだろうな」

 

桐生は否定しなかった。

 

代わりに、少しだけ視線を落とした。

 

「ただ、すごいものを見るときは、少し気をつけた方がいいです」

 

「何を」

 

「すごい、で済ませたくなるので」

 

それ以上は言わなかった。

 

ミナトは二人より少し前を歩いていた。

 

今日は濃い青のワンピースに、薄いグレーのジャケットを羽織っている。昨日の相談会より、少しだけよそ行きだった。だが靴は歩き慣れたものだった。坂道でも、足音は変わらない。

 

ただ、建物に近づくにつれて、耳が少しだけ動く回数が増えた。

 

秋月はそれに気づいた。

 

聞こうとは思わなかった。

 

聞けば、また言葉にしてしまう。

 

 

 

入口の自動ドアが開くと、冷たい空気が流れてきた。

 

空調の効いた匂い。

 

新しい床材の匂い。

 

わずかに機械油のような匂い。

 

受付の背後には、白い壁と、低い位置に光る案内板があった。案内板には、施設内の区画が並んでいる。

 

走行計測室。

 

感覚反応記録室。

 

アーカイブ閲覧室。

 

教育展示フロア。

 

ロボウマ娘技術展示。

 

秋月は最後の文字で目を止めた。

 

「本当にあるんだな」

 

「ありますよ」

 

桐生が答えた。

 

「見たことは?」

 

「あります」

 

「感想は」

 

「よくできています」

 

「それだけか」

 

「それだけで済むくらいには、よくできています」

 

よく分からない答えだった。

 

受付にいた男性が、桐生の名を確認して、すぐに担当者を呼んだ。待っている間、ミナトは案内板を見ていた。ロボウマ娘技術展示、のところで少しだけ視線が止まる。

 

興味があるのか。

 

見たくないのか。

 

秋月には分からなかった。

 

やがて、奥から一人の女性が出てきた。

 

三十代半ばくらいだろうか。濃紺のスーツに、サトノのロゴが入った小さなバッジをつけている。髪は短く、動きに無駄がない。研究者というより、研究と外部の間に立つ人間に見えた。

 

「お待たせしました。サトノ心身計測センターの久我です」

 

名刺を差し出される。

 

秋月も名刺を返した。

 

「本日は、桐生先生の共同研究視察という扱いでご案内します。秋月様は取材同行ということで伺っていますが、撮影と記録には一部制限があります」

 

「分かりました」

 

「ミナト様も、よろしくお願いいたします」

 

「よろしくお願いします」

 

ミナトは頭を下げた。

 

久我はミナトを見ても、過剰な反応をしなかった。元競走ウマ娘が来ても、驚かない。扱い方が決まっている。それを、礼儀として身につけた人間の立ち姿だった。

 

久我は三人に入館証を渡した。

 

秋月のものには、VISITOR。

 

桐生のものには、RESEARCH PARTNER。

 

ミナトのものには、GUEST COOPERATOR とあった。

 

昨日の名札とは違う言葉だった。

 

だが、また欄に入っていた。

 

ミナトはそれを見て、少しだけ笑った。

 

「今日は英語ですね」

 

久我も笑った。

 

「社内システムの都合です。分かりにくくてすみません」

 

「いえ。だいたい近いです」

 

近い。

 

また、その言葉が出た。

 

秋月は昨日の相談会の白い名札を思い出した。

 

研究協力員。

 

一番近い欄。

 

ここでは、それが英語になって首から下がっている。

 

 

 

久我は通路へ案内した。

 

白い廊下だった。

 

天井は高く、照明は直接目に入らない。床はわずかに弾力があり、足音が吸われる。壁には写真が飾られていた。レースの写真ではない。脚、手、耳、尻尾、靴底、肩の動き。身体の一部を切り出した写真ばかりだった。

 

その横に、短い説明文が添えられている。

 

接地時間。

 

重心移動。

 

耳介反応。

 

視線遷移。

 

呼吸回復。

 

桐生の名札にあった言葉と似ていた。

 

だが、ここではそれが綺麗に額装されている。

 

研究室の机の上に積まれていた紙とは違う。

 

相談会の資料とも違う。

 

ここでは、測ることそのものが展示になっていた。

 

「このフロアは、一般向けにも公開しています」

 

久我が説明した。

 

「競走ウマ娘の身体反応は、どうしても神秘的に語られがちです。もちろん分かっていないことは多いのですが、分かっていることもあります。それを、できるだけ誤解なく見ていただく場所です」

 

分かっていないことは多い。

 

その言い方は、思ったより慎重だった。

 

「どこまで分かっているんですか」

 

秋月が聞く。

 

久我は歩く速度を少し落とした。

 

「測れるものは、かなり増えています。接地圧、筋出力、心拍、呼吸、視線、耳や尻尾の微細反応。走行前後の沈静化傾向。観客環境による変化。ライブ後の回復傾向も、一定程度は」

 

「一定程度、か」

 

久我は曖昧に笑わなかった。

 

「はい。反応は取れます。変化も見えます。ただ、それを何が起きていると呼ぶかは、まだ決められません」

 

秋月は、その言葉を覚えた。

 

手帳には書かなかった。

 

まだ早い気がした。

 

 

 

最初に案内されたのは、走行計測室だった。

 

広い部屋だった。

 

床の中央に短い走路があり、その左右に透明な壁がある。壁の内側に、小さなカメラが等間隔で埋め込まれていた。天井にも、床にも、何かのセンサーがあるらしい。走路の端には、スタートゲートを模した装置があり、反対側には停止用の広いマットが敷かれている。

 

誰も走っていない。

 

それなのに、走るための空気がある。

 

ミナトは入口のところで少し足を止めた。

 

「入られますか」

 

久我が聞いた。

 

「見ているだけで大丈夫です」

 

ミナトはすぐに答えた。

 

久我は頷いた。

 

「承知しました」

 

それ以上、勧めなかった。

 

秋月はそこが少し意外だった。

 

サトノの施設という言葉から、もっと積極的に測る場所を想像していた。だが久我は、ミナトが入らないと言ったら、それで終わりにした。その対応が、あまりに自然だった。

 

「ここで何を測るんですか」

 

「基本的な走行反応です。フォームの確認ではなく、環境を変えたときの反応を見ることが多いですね」

 

「環境」

 

「音、光、観客ノイズ、視線刺激、スタート前の待機時間。あと、無音環境」

 

「無音で走らせるのか」

 

「実験条件としては」

 

久我は少しだけ言い方を整えた。

 

「ただ、今はかなり慎重に扱っています。無音は、競技環境から遠すぎるので」

 

ミナトが、その言葉に少しだけ反応した。

 

秋月は見逃さなかった。

 

「遠すぎると、何が起きる」

 

秋月が聞くと、久我はミナトを見ずに答えた。

 

「数値は取れます。でも、本人がその数値をどう扱うかは別です」

 

桐生が小さく頷いた。

 

秋月は、桐生の顔を見た。

 

「お前も同じ意見か」

 

「だいたい」

 

桐生はそう答えてから、資料を見ていた手を一度止めた。

 

「数値は嘘をつきません。でも、数値が嘘をつかないことと、数値だけで足りることは別です」

 

桐生は、久我の前だからか、いつもより少しだけ言葉を選んでいた。

 

久我はその言葉に、軽くうなずいた。

 

「桐生先生は、いつもそこを気にされます」

 

「面倒な共同研究者ですか」

 

秋月が言うと、久我はほんの少し笑った。

 

「助かる共同研究者です」

 

桐生は何も言わなかった。

 

走行計測室のガラス越しに、白い走路が伸びている。

 

秋月はそこを見ながら、ふと思い出した。

 

ミナトが以前、研究室で言ったこと。

 

走ると、中が動く。

 

あれは比喩なのか、感覚なのか、何かの実感なのか。秋月にはまだ分からない。

 

久我が、こちらへ振り返った。

 

「秋月様は、桐生先生の研究について、どの程度ご存じですか」

 

ふいに聞かれた。

 

秋月は少し詰まった。

 

「どの程度、と言われると困るな。速さそのものを見ているわけではない、くらいは分かってきた」

 

「それで十分です」

 

久我は、ガラス越しの走路へ目を向けた。

 

「桐生先生は、タイムよりも、その前後に残る反応をよく見られます」

 

「前後」

 

「走る前。走っている間。走った後。戻るまで」

 

久我の声は淡々としていた。

 

「走行中のウマ娘の体は、通常時と同じ状態ではありません。筋出力、血流、神経反応、呼吸、視線の固定、耳や尾の反応。すべてが同時に変化します」

 

秋月はミナトを見た。

 

ミナトは何も言わない。

 

知らない話を聞いている顔ではなかった。だからといって、説明される側の顔でもなかった。

 

「社内では便宜的に、内部反応が『流れる』と表現することがあります」

 

「流れる」

 

「正式な用語ではありません。論文にもそのままは書きません」

 

久我は少しだけ笑った。

 

「けれど、数値上は、そう呼びたくなる変化が起きます」

 

秋月は黙っていた。

 

「体の中が、固い部品の集まりではなくなる。衝撃を受け、逃がし、戻し、次の動きへ渡す。その連鎖が非常に速い。走っている間だけ、体全体がひとつの流れのように振る舞うんです」

 

体全体が、ひとつの流れのように。

 

秋月は、その言葉を頭の中で繰り返した。

 

中が動く。

 

ミナトの言葉が、少しだけ別の形を取った気がした。

 

だが、同じではなかった。

 

久我の言葉は、測る側の言葉だった。

 

ミナトの言葉は、そこに体があった側の言葉だった。

 

「それを再現しようとしているのが、ロボウマ娘か」

 

秋月が聞くと、久我はすぐには頷かなかった。

 

「一部は、です。フォームだけなら、かなり近づけます。反応も取れます。意識接続によって、走行中に近い認知状態を参照することもできます」

 

「そこまでできるのか」

 

「できます」

 

久我の声には、静かな誇りがあった。

 

「ただ、それでも、本人の体がその場で流れているわけではありません」

 

そこで、ミナトがほんの少しだけ視線を落とした。

 

秋月はそれを見た。

 

この施設に来てから、ミナトは何度か小さく反応している。走路を見たとき。無音環境という言葉を聞いたとき。そして今。

 

彼女の反応は、画面には映っていない。

 

だが、ここにあった。

 

 

 

次に、感覚反応記録室へ案内された。

 

そこは走る場所ではなかった。

 

小さな椅子と、半円形のスクリーン。壁には吸音材が貼られ、足元にケーブルが整然とまとめられている。椅子の周囲には、視線を追う装置と、耳や尻尾の動きを記録する小さなセンサーがあった。

 

「ここでは、映像や音に対する反応を取ります」

 

久我が言う。

 

「レース映像ですか」

 

「それもあります。観客音だけの場合もありますし、ライブの音源を使うこともあります」

 

ミナトは椅子を見ていた。

 

座ろうとはしなかった。

 

秋月は、彼女が椅子を見ているのではなく、その周りの空間を見ているように思った。座ったら、自分の体がどこに置かれるか。それを測っているような顔だった。

 

部屋の隅に、小さな展示ケースがあった。

 

中に、古いヘッドセットのような装置が入っている。説明プレートには、初期型意識接続ユニット、と書かれていた。

 

秋月は立ち止まった。

 

「これか」

 

久我が説明する前に、秋月が言った。

 

「ロボウマ娘の」

 

「関連技術ですね」

 

久我はケースの前に立った。

 

「現在展示しているのは、公開可能な旧型の一部です。意識接続といっても、何かを完全に読み取るわけではありません。感覚反応の近い層に接続し、反応の変化を見るためのものです」

 

「近い層」

 

「はい。本人の記憶や意識そのものに触れるというより、走行中に近い認知状態を参照する、という表現の方が近いです」

 

言葉は慎重だった。

 

だが、慎重な言葉の下に、技術への誇りがある。

 

秋月にもそれは分かった。

 

久我は隣の画面を操作した。展示用の映像が流れる。

 

白い試験路を、ロボウマ娘が走っている。

 

外見は、人間に似せすぎてはいない。機械だと分かる。だが、走り出した瞬間、その印象が少し変わった。

 

肩の沈み込み。

 

足の置き方。

 

蹴り出し。

 

カーブに入る前の、重心の逃がし方。

 

機械なのに、妙に見覚えがある。

 

秋月には、ほとんど本物に見えた。

 

それなのに、ミナトは首を縦には振らなかった。

 

「近いと思います」

 

ミナトは言った。

 

久我が振り返る。

 

「ありがとうございます」

 

その声には、隠しきれない嬉しさがあった。

 

ミナトは画面を見たまま続けた。

 

「でも、違います」

 

久我の表情は崩れなかった。

 

ただ、少しだけ真面目になった。

 

「体の中、でしょうか」

 

ミナトは少しだけ目を上げた。

 

「たぶん」

 

「走行時の内部反応については、まだ完全には再現できません。外から見える動きと、反応の入り口までは作れます。意識接続で、近い認知状態も参照できます。ただ、体全体がその場で変わるところまでは、まだ」

 

「変わる?」

 

秋月が聞いた。

 

ミナトは画面を見たまま答えた。

 

「走ると、中が動くんです」

 

その声は小さかった。

 

「筋肉とか、呼吸とか、そういう言い方もできるんだと思います。でも、そうじゃなくて。中が、ひとつずつ別々じゃなくなる感じがします」

 

久我はメモを取らなかった。

 

桐生も口を挟まなかった。

 

それが、ここでは少し不思議に見えた。

 

測るための部屋で、誰も測らない。

 

記録できるはずの言葉を、誰も記録しようとしない。

 

「ロボの映像は、近いです」

 

ミナトは続けた。

 

「でも、中が動いている感じはしません」

 

「意識まで入れるんだろ。それでもか」

 

秋月が聞く。

 

「はい」

 

ミナトは少しだけ考えた。

 

「見てる場所が近いだけで、体はそこにないので」

 

その言葉で、部屋の中が少し変わった。

 

久我は何も言わなかった。

 

桐生も黙っていた。

 

秋月だけが、その言葉の置き場所を探していた。

 

見てる場所が近いだけで、体はそこにない。

 

ロボウマ娘は走っているように見える。意識接続で、走行中に近い状態にも入れる。技術は、そこまで来ている。それでも、ミナトには違う。そこに体がないから。

 

秋月は、前にミナトが言った言葉を思い出した。

 

走ると、中が動く。

 

見られると、散らばらない。

 

歌うと、外へ置ける。

 

あれは、映像や意識だけの話ではなかった。

 

体がそこにある、ということ。

 

地面に足を置くこと。

 

観客の音を受けること。

 

終わったあと、体の中に残ったものをどうするかということ。

 

久我が、静かに口を開いた。

 

「完全再現とは言っていません」

 

弁解ではなかった。

 

「ただ、今まで触れなかった領域に触れ始めています」

 

その声には、誠実さがあった。

 

秋月は、彼女を責める気にはならなかった。

 

サトノは、何も分かっていないわけではない。むしろ、かなり分かっている。分かろうとしている。機械を作り、装置を作り、反応を取り、触れなかった場所へ手を伸ばしている。

 

それでも、手が届いた場所と、本人が立っている場所は同じではない。

 

桐生がそこで言った。

 

「近いから、違いが見えるんでしょうね」

 

久我は、少しだけ頷いた。

 

「ええ。私たちも、そう思っています」

 

 

 

そのあと、別の展示をいくつか見た。

 

走行後の回復ログ。

 

ライブ後の沈静化曲線。

 

観客音の種類別反応。

 

医療用の負荷予測。

 

靴底の圧力分布。

 

故障リスクの早期検知。

 

どれも、秋月には完全には分からない。

 

だが、分からないなりに、規模だけは分かった。

 

この世界は、ただ彼女たちが走るのを見ているだけではない。走る前に測る。走っている間に記録する。走ったあとに戻す。怪我の前兆を見る。歌ったあとまで追う。それを保管し、展示し、次の技術へ繋げていく。

 

あまりに大きい。

 

あまりに整っている。

 

その整い方は、昨日の相談会とは違っていた。

 

昨日の会場は、人を傷つけないように椅子を丸く並べ、言葉を柔らかくしていた。あそこには、決めないための配慮があった。

 

ここには、決めるための力があった。

 

数値を決める。範囲を決める。危険度を決める。反応の差を決める。公開できるものと、できないものを決める。

 

どちらが悪いわけでもない。

 

だが、秋月はこの施設に入ってから、ずっと何かに包まれている感じがしていた。

 

廊下の弾力。白い壁。吸音された足音。表示板。注意書き。センサー。記録室。閲覧権限。入館証。

 

ひとつひとつは親切だった。

 

迷わないために置かれている。

 

危なくないように置かれている。

 

誤解されないように置かれている。

 

守るために置かれている。

 

それなのに、全部が重なると、巨大なひとつのものに見えた。

 

走ることの周りに組まれた、大きな仕組み。

 

秋月は、ガラス越しの計測室を見た。誰もいない白い走路が、静かに光っている。床には見えないセンサーがあり、壁にはカメラがあり、天井には照明がある。

 

走路は空だった。

 

空なのに、そこにはすでに走るための条件がそろっていた。

 

秋月は、昨日の若いウマ娘の声を思い出した。

 

やめたら、楽になりますか。

 

あの問いは、ここではどこに置かれるのだろう。

 

復帰未定者。リハビリ対象。反応ログ。経過観察。支援プログラム。研究協力者。

 

どれかの欄には入るのかもしれない。

 

だが、問いそのものは、欄ではない。

 

声だった。

 

秋月は、それを分かっていたはずだった。

 

それでも、口に出していた。

 

「走ることの周りに、ずいぶん大きな装置があるんだな」

 

言った瞬間、ミナトの足が止まった。

 

ほんの一拍だった。

 

だが秋月には分かった。

 

ミナトは、今の言葉を聞き流さなかった。

 

「装置、ですか」

 

声は荒くなかった。

 

むしろ、いつもより丁寧だった。

 

その丁寧さが、秋月には少し冷たく聞こえた。

 

「ああ、いや」

 

秋月は言い直そうとした。

 

「悪い意味で言ったわけじゃない。ここまで整っているなら――」

 

「分かります」

 

ミナトは先に言った。

 

笑っていた。

 

けれど、笑い方が少し違った。

 

「守るためのものですよね。測るためのものでもあるし、戻すためのものでもあるし」

 

「そうだ」

 

「たぶん、必要なんだと思います」

 

ミナトはガラス越しの走路を見た。

 

白い床。透明な壁。埋め込まれたカメラ。天井の照明。

 

「でも、そこに入るときは、装置に入るつもりでは走ってなかったです」

 

秋月は黙った。

 

「走るときは、もっと、ばらばらです。音も、人も、足も、息も、全部いっぺんに来ます」

 

ミナトは少しだけ言葉を探した。

 

「それをあとから装置って言われると、少し、遠くなります」

 

遠くなる。

 

秋月は、その言葉を受け取った。

 

ミナトは怒っていない。

 

ただ、自分がいた場所を、少し離れたところから名づけられた。その距離を、彼女は感じたのだった。

 

「遠くなる、か」

 

秋月が言うと、ミナトは小さく頷いた。

 

「はい」

 

それだけだった。

 

短い返事だった。

 

いつものように、言葉を足してはくれなかった。

 

桐生が言った。

 

「便利な言葉だね」

 

秋月は桐生を見た。

 

「俺のことか」

 

「言葉のことです」

 

「同じだろ」

 

「近いですね」

 

桐生はそれ以上、責めなかった。

 

だから余計に、秋月は手帳を出せなかった。

 

久我は、三人のやり取りを見て、少しだけ間を置いた。

 

「施設としては、装置という言い方も間違いではありません」

 

久我は静かに言った。

 

「実際、装置はあります。制度もあります。手順もあります。それがなければ、安全に測ることも、守ることもできません」

 

そこで一度、言葉を切る。

 

「ただ、私たちが守りたいものは、装置そのものではありません」

 

秋月は久我を見た。

 

彼女は続けなかった。

 

そこから先は、言葉にしない方がいいと判断したようだった。

 

サトノの人間も、言わないことを選ぶのか。

 

秋月はそう思った。

 

 

 

見学の最後に、アーカイブ閲覧室へ案内された。

 

そこには、過去のレース映像や、計測資料、公開可能な記録が整理されていた。壁際に端末が並び、中央には低いソファがある。図書館と美術館と病院の待合室を混ぜたような空間だった。

 

久我が、一台の端末を操作する。

 

「こちらは、公開許可のある走行記録です。桐生先生の初期の共同研究に近い時期のものもあります」

 

画面に、若いウマ娘の横顔が映った。

 

映像は鮮明だった。

 

毛先の揺れも、額の汗も、スタート前に吐いた息の白さも見える。音声も、観客席のざわめきと場内アナウンスが分離して聞こえるほど整っていた。カメラの位置も複数あり、必要なら足元だけ、耳だけ、表情だけを切り出せるようになっている。

 

古い記録、という言い方は、映像の質を指しているのではなかった。

 

写っている彼女たちの時間が、もう古いのだ。

 

ミナトではない。

 

だが、ミナトが少しだけ顔を上げた。

 

「この子」

 

「ご存じですか」

 

「同じ時期に走ってました」

 

映像の中のウマ娘は、スタート前に耳を小さく動かした。

 

それから、右足をほんの少し置き直した。

 

その瞬間、ミナトの指が小さく動いた。

 

膝の上で、何かを押さえるような動きだった。

 

手綱などない。握るものもない。走るための靴も、勝負服も、今はない。

 

それでも、走る前に体のどこかを整える癖だけが、一瞬戻ったように見えた。

 

秋月には理由までは分からなかった。

 

ただ、ロボウマ娘の映像を見ていたときには動かなかった指が、今は動いた。

 

それだけは分かった。

 

映像の中のウマ娘が、合図と同時に走り出す。

 

映像は高精細だった。角度も正確だった。音も綺麗だった。

 

それでも、展示用に切り出されたロボウマ娘の映像とは違っていた。

 

ほんの少し、余分なものが映っていた。

 

スタート前に片足を置き直す仕草。隣のウマ娘の呼吸に反応して耳が揺れる一瞬。走り出した直後、髪の先が予想より遅れて跳ねること。ゴール後、勝った子の後ろで、負けた子が一度だけ空を見上げること。

 

データにすれば、どれも小さい。

 

だが、見ると残る。

 

秋月はミナトの横顔を見た。

 

ロボウマ娘の映像を見ていたときとは違う顔だった。

 

こちらの映像は、古い。

 

けれど、粗くはない。

 

むしろ、細部まで残っている。

 

残っているからこそ、ミナトの体が反応している。

 

久我もそれを見ていた。

 

見ていたが、何も言わなかった。

 

桐生も何も言わなかった。

 

この部屋には、測れる装置がたくさんある。

 

だが今は、誰も測らなかった。

 

映像が終わると、ミナトは小さく息を吐いた。

 

「懐かしいですか」

 

久我が聞いた。

 

「少し」

 

ミナトは答えた。

 

「でも、それだけじゃないです」

 

彼女は、自分の指を一度見た。

 

さっき動いた指だった。

 

「走る前って、体が勝手に順番を思い出すんです。足を置くとか、息を入れるとか、耳をどこに向けるとか」

 

ミナトはそこで、少しだけ困ったように笑った。

 

「もう走らないのに、映ると、ちょっとだけ戻ります」

 

「はい」

 

久我は頷いた。

 

それ以上、聞かなかった。

 

秋月は、そのやり取りを見ていた。

 

ここでは、聞けばいくらでも情報が出てくる。映像もある。記録もある。計測データもある。反応も残っている。

 

それでも、聞かない方がいい瞬間がある。

 

久我は、それを知っている。

 

桐生も知っている。

 

秋月だけが、まだ遅れていた。

 

 

 

施設を出るころには、外が暗くなりかけていた。

 

ガラスの壁に、三人の姿が映っている。秋月、ミナト、桐生。その後ろに、サトノの白い廊下が重なって見えた。

 

久我は入口まで見送った。

 

「本日はありがとうございました」

 

「こちらこそ」

 

秋月は頭を下げた。

 

ミナトも丁寧に頭を下げる。

 

「ありがとうございました」

 

久我は一瞬だけ、ミナトの顔を見た。

 

「また、何かあれば」

 

その言い方には、研究協力でも、取材でも、診療でもない余白があった。

 

ミナトは少しだけ笑った。

 

「はい」

 

外に出ると、空気が冷たかった。

 

施設の中は温度も湿度も整っていた。その分、外の空気は少し乱れているように感じた。風がある。車の音がある。遠くで犬が吠えている。

 

坂道を下りながら、秋月は手帳を出した。

 

歩きながら書くのは苦手だった。だが、今は止まると書けなくなる気がした。

 

装置。

 

そう書いた。

 

文字は、思ったより強かった。

 

施設の白い廊下も、センサーも、意識接続ユニットも、相談会の名札も、そこには入る気がした。

 

だが、ミナトの言った「遠くなります」は入らなかった。

 

昨日の若いウマ娘の問いも入らない。

 

やめたら、楽になりますか。

 

それは装置の中に置ける問いではなかった。

 

秋月は、装置、という文字を消そうとした。

 

消さなかった。

 

自分がそう見たことまで、消すわけにはいかなかった。

 

代わりに、横に一本線を引いた。

 

見出しではない。

 

まだ使えない言葉として。

 

線を引いても、言葉は残った。

 

残ったまま、少し使いにくくなった。

 

それでいいと思った。

 

ミナトは何も言わなかった。

 

桐生も何も言わなかった。

 

坂の下に、街の明かりが見えている。

 

白い施設から離れるほど、道の音が戻ってきた。車のブレーキ、信号の音、コンビニの入り口の電子音。どれも測られてはいない。記録もされていない。だが、そこにあった。

 

秋月は手帳を閉じた。

 

装置。

 

便利な言葉だった。

 

この施設を説明するには、たぶん使える。サトノの技術を語るにも、社会の仕組みを語るにも、読者へ伝えるにも、使える。

 

だが、今日見たものをそこに全部入れるには、少し冷たすぎた。

 

昨日の若いウマ娘の問いも。

 

ロボウマ娘を見たミナトの沈黙も。

 

高精細の映像に映っていた、走る前の指の動きも。

 

それらは、装置の中には入るかもしれない。

 

だが、装置という言葉だけでは、戻ってこない。

 

秋月は坂の下の明かりを見た。

 

次に行く場所が、そこに見えていた。





ここまでお読みいただきありがとうございます。
少しでも「続きが気になる」と思っていただけましたら、お気に入り登録や評価、感想などをいただけると嬉しいです。
静かな話ではありますが、秋月たちの歩みをもう少し見守っていただければ幸いです。
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