まだ、走っている   作:監督

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半歩

朝。彼らは街に降りていた。

 

駅前から振り返ると、サトノの丘の白い建物がちょうど反対側に見えた。昨日と同じ建物だ。だが、距離のせいか、その白さは少し弱まって見えた。

 

街は、明日のレースのために動き始めていた。

 

ロータリーには臨時シャトルの予定表が貼り出され、駅員が看板の角度を直している。歩道の白線の端を、別の駅員が腰をかがめて確認していた。線が薄くなっているのか、剥がれかけているのか、秋月の位置からは分からない。だが、見ている目の前で彼は白線の一区画だけを写真に撮り、立ち上がってメモを取った。

 

明日のためだ。

 

たぶん、それだけのためだった。

 

桐生は少し離れて、信号を待っていた。今日は紙袋を持っていない。代わりに、薄いコートのポケットに片手を入れている。

 

ミナトは桐生をちらりと見た。

 

「先生、襟、裏返しです」

 

桐生は黙って襟を直した。

 

ミナトは前を向き直す。

 

それだけだった。

 

秋月はその一連を見ていた。

 

桐生の襟を直したのは、ミナトの目だった。白線を直そうとしているのは、駅員の目だった。どちらも、誰かに頼まれてやっているのではない。気づいた人間が、気づいたから動いていた。

 

サトノの白い廊下を思い出した。

 

あの場所では、誰かが気づいて直す、という動きが要らなかった。乱れることが、最初から想定されていない場所だったから。

 

商店街に入ると、空気が変わった。

 

朝の早い時間で、まだ店の半分は閉まっている。だが、シャッターの前で掃き掃除をしている人。歩道のごみを拾っている人。看板を出している人。レース場の方向を示す案内板を、別の角度に直している人。動いている人がたくさんいた。

 

「明日、走るんだろ」

 

蕎麦屋の店主らしい男が、隣の店主に声をかけている。

 

「らしいな」

 

「うちは今夜、仕込みが多い」

 

「うちもだ。観戦弁当の予約が伸びてる」

 

「天気いいといいな」

 

「そうだな」

 

それだけのやり取りで、二人はそれぞれの店に戻った。

 

走るのはウマ娘で、走らせるのは関係者で、見に来るのは観客だ。だが、観戦弁当を仕込むのはこの男たちだった。彼らは走らない。走らせる側でもない。観客ですらないかもしれない。

 

それでも、明日のために動いていた。

 

ミナトはその様子を見ていた。

 

桐生も見ていた。

 

二人とも、何も言わなかった。

 

商店街の半ばに、観光案内所があった。

 

入口の自動ドアはもう開いていて、中の灯りがついている。

 

「ちょっと寄っていいか」

 

秋月が言うと、桐生は頷いた。

 

「いいですよ」

 

ミナトも特に何も言わなかった。

 

中は思ったより広かった。

 

天井は低い。照明は黄色い。床はリノリウムで、サトノの弾力ある床とは違って、歩くたびに固い音がした。

 

カウンターの奥に、年配の女性が座っていた。眼鏡をかけ、紙の名簿らしきものに何かを書き込んでいる。三人が入ってきてもすぐには顔を上げず、書き終わってから、ゆっくりとこちらを見た。

 

「いらっしゃいませ」

 

「資料を見るだけで」

 

「どうぞ。ご自由に」

 

それだけだった。

 

奥の壁には、大きなパネルが何枚か並んでいた。歴代開催記録。

 

年度ごとの来場者数、優勝者、ライブ動員、臨時シャトル本数、地域連携イベントの写真が並んでいる。細かい字で、出走ウマ娘の一覧もあった。

 

写真は、サトノのアーカイブほど高精細ではなかった。

 

だが、違うものが写っている。

 

レース場へ向かう人の列。

 

商店街の前で弁当を買う観客。

 

駅前の臨時バス。

 

ライブ後に手を振る子どもたち。

 

走っている瞬間ではない。

 

その周りにあったものが、残っていた。

 

秋月は、ある年度の出走一覧に目を落とした。

 

そこに、名前があった。

 

ミナトレーヴ。

 

大きくはない。優勝者としてではない。出走者一覧の一行に、ほかの名前と同じ大きさの活字で並んでいた。

 

その横には、来場者数があった。

 

臨時シャトル本数があった。

 

商店街フェアの写真があった。

 

ライブ動員があった。

 

サトノのアーカイブには、走る体が残っていた。

 

ここには、走った日の街が残っていた。

 

ミナトは少し遅れて、その名前に気づいた。

 

「あ」

 

小さな声だった。

 

桐生が、パネルではなくミナトを見た。

 

ミナトはパネルに近づいた。指で触れようとして、触れなかった。代わりに、ガラスの上に少しだけ手をかざす。その手は、すぐには下りなかった。

 

「私、こんなところにも残ってたんですね」

 

その声は、驚きとも違っていた。嬉しさだけでもない。怖さでもない。

 

自分の知らない場所に、自分の名前があった。しかも、その名前はタイムや着順ではなく、来場者数やバスの本数や街の写真と同じ板の上にあった。

 

ミナトレーヴは、走った。

 

その日、人が来た。

 

バスが増えた。

 

店が仕込んだ。

 

誰かが見て、帰った。

 

それらが、同じ記録として並んでいる。

 

「残ります」

 

桐生が言った。

 

ミナトが振り返る。

 

「知ってました?」

 

「記録としては」

 

「そうじゃなくて」

 

「はい」

 

桐生は少しだけ黙った。

 

「こうして見えることは、知りませんでした」

 

ミナトはもう一度、パネルを見た。

 

ガラスにかざしていた手を、ゆっくり下ろす。

 

カウンターの女性が、ふと顔を上げた。

 

「そのパネル、毎年、私が作ってるんです」

 

声は静かだった。説明をしようとしているのではない。手元にパネルの話題があったから、口にした、という調子だった。

 

「レースの日が終わると、商店街の人とか、駅の人とかが、写真を持ってきてくれるんですよ。バスの本数も駅員さんが教えてくれますし、お店の数も商工会の方が」

 

「あなたが、まとめているんですか」

 

「まとめるだけですけど。もう、二十年ほどになります」

 

それだけ言って、女性はまた手元の紙に目を落とした。

 

二十年。

 

秋月は、ミナトの隣に並んだ名前を見た。

 

その名前も、女性のノートに書かれた一行から始まっていたのかもしれなかった。

 

サトノでは、走る体がデータとして残されていた。

 

ここでは、走った日が、商店街と駅と商工会と、この女性のノートに分かれて残っていた。

 

ミナトは観光案内所を出るとき、もう一度だけパネルを振り返った。

 

何も言わなかった。

 

外に出ると、空気は少し冷たかった。

 

しばらく三人とも黙って歩いた。

 

商店街を抜けるあいだ、秋月は気づいていた。ミナトの歩幅が、ほんの少しだけ短くなっている。重心がいつもより前にも後ろにも置かれない、慎重な歩き方になっていた。観光案内所のパネルが、まだ体の中に残っているのだろう。

 

桐生も気づいているはずだった。

 

だが、何も言わなかった。

 

商店街の半ばで、古いパン屋の前を通った。昨日も見た店だった。

 

今朝はガラス戸の前に立て看板が出ていた。「焼き上がりまで、もうしばらく」と手書きされている。横にカゴが積まれていて、中身はまだ空のままだった。

 

中では、店主の女性がガラス越しに棚を整えていた。

 

三人が通りかかると、彼女は手を止めて、ふと外を見た。

 

ミナトと目が合った。

 

女性は、軽く目を細めた。

 

「あれ、見たことある顔」

 

ミナトが少し驚いて足を止めた。

 

女性はガラス越しに少し首を傾げる。粉のついたエプロンの裾を、無意識に手で払っていた。

 

「昔、ここで買ってくれてたかしら」

 

「……たぶん」

 

ミナトの声は小さかった。

 

「やっぱりね」

 

女性はそれだけ言って、深く確認はしなかった。

 

「あんパンと、塩パンの方だったかな」

 

「……どっちも、買ってました」

 

「うちのは甘さ控えめだから、好き嫌い分かれるのよ」

 

女性は笑った。「合ってよかった」とは言わなかった。「うちのは」とだけ言った。

 

ミナトも少し笑った。

 

その笑い方は、観光案内所のパネルを見たときの困った笑い方とは違っていた。少しだけ、軽かった。

 

女性は手を振らずに、また棚の整理に戻った。会話は終わった、という空気だった。

 

ミナトは何も言わずに、また歩き出した。

 

桐生はそれを見ていた。

 

秋月も見ていた。

 

「覚えてたんですね」

 

ミナトが小さく言った。

 

「現役の頃、寄ってたのか」

 

「何回か」

 

「向こうも、お前のことを?」

 

「私というか、たぶん『たまに来てた子』として」

 

ミナトは少し笑った。

 

「顔は覚えてたみたいですけど、レースの方ではない気がします」

 

「どっちでも同じだろ」

 

「同じです」

 

ミナトはそう答えた。

 

「でも、少し違います」

 

少し違う。

 

秋月はその言い回しを心に留めた。

 

ミナトレーヴは観光案内所のパネルに残っていた。これは、走った日のミナトレーヴだった。

 

パン屋の女性が覚えていたのは、買い物に来ていたミナトだった。これは、走らない日のミナトだった。

 

どちらも、街がミナトを覚えていた。

 

だが、覚え方が違う。

 

商店街を抜けてしばらく歩くと、古い喫茶店があった。

 

赤い庇に、店名が白くペイントされている。「珈琲・軽食・観戦休憩」。三つ目の言葉だけ、書き足された時期が違うように見えた。レースが街に根づいてから足された言葉なのかもしれない。

 

開店前の時間で、ガラス戸の中は薄暗かった。だが、入口横のショーケースは外から見えるようになっていた。

 

中に、写真が何枚か飾られている。

 

色褪せたものが多かった。

 

地元のお祭り。商店街のフェア。レース場の遠景。子供会の遠足。手書きのメニューの写真もあった。それらが額に入れられたり、画びょうで留められたり、ばらばらの飾り方で並んでいる。誰かが思いつきで足してきたという感じだった。

 

その並びの中に、レースの集合写真があった。

 

レース場の入口前らしい。撮られたのは、たぶん十年以上前。ジュニアの頃だろうか。観客と、地元商店街の人らしき大人と、ウマ娘が数人、混ざって写っている。誰が観客で誰が出走者か、すぐには分からない。

 

その端の方に、見覚えのある角度の体があった。

 

ミナトレーヴ、と名札はないが、ジャージの色とゼッケンの形で、秋月には分かった。

 

写真の中のミナトレーヴは、観客と並んで立っていた。レースが終わったあとなのだろう、まだ髪が乱れ、息が浅い。隣の子どもがピースサインをしている。ミナトレーヴは少し疲れた顔で、それでも笑っていた。

 

その隣には、別のウマ娘がいた。

 

そのまた隣にも。

 

集合写真の中で、ミナトレーヴは「一人」ではなく、「その他の一人」として並んでいた。

 

ミナトはそこで一度立ち止まった。

 

ガラスに少しだけ顔を近づける。

 

「ありますね」

 

「あるな」

 

「写真を撮った記憶は、ないんですけど」

 

「向こうは覚えてた」

 

「みたいですね」

 

桐生は写真を見た後、ミナトを見た。

 

ミナトはもう写真ではなく、店の中を覗き込んでいた。

 

中は無人だった。カウンターの上に、開店準備中のメニューが置かれている。椅子は逆さまにテーブルに乗せられたままだ。誰かが朝のうちにそれを下ろし、皿を並べ、客を迎えるのだろう。

 

ミナトはその誰もいない店の中を、しばらく見ていた。

 

たぶん、自分のことを覚えている誰かがいるかどうかを確かめたわけではない。ただ、ここに立っていた自分のことを思い出そうとしていた。

 

少しして、ミナトは静かに歩き出した。

 

「思い出せましたか」

 

桐生が聞く。

 

「途中までは」

 

「そうですか」

 

「……でも、思い出せたのは、写真の角度の方でした」

 

「写真の」

 

「はい。写真の中で立ってた角度です。自分の気持ちは、思い出せませんでした」

 

ミナトはそれだけ言って、また前を向いた。

 

秋月は何も言えなかった。

 

店の前を離れるとき、もう一度ショーケースを見た。

 

写真の隅で、ミナトレーヴは笑っている。

 

その笑顔は、本人でも思い出せないものだった。

 

それでも、十年以上そこにあった。

 

街がミナトを覚えていた。

 

写真も、パネルも、パン屋の店主も、覚えていた。

 

だが、ミナト自身は、自分の気持ちを思い出せない。

 

覚えているのは、外側だった。

 

中身は、ミナトの中にしかない。

 

そして、ミナトの中身は、二年前から「外に出せない」状態だった。

 

レース場の方向へ、緩い坂を上がっていく。

 

通り沿いにホテルや薬局や食堂が並んでいる。どれもレース場が近いことを意識した品揃えだった。観戦弁当、観戦用シール、補食ゼリー、応援うちわ。

 

通りの先に、レース場の外周が見えてきた。

 

巨大な建物だった。昨日の地方レース場とは比べものにならない。ここでは、レース場が街の端ではない。街の中心のひとつだった。

 

スタンドの上部は、空とほとんど同じ色をしていた。曇りで、空の白が建物の白と溶け合っている。屋根の縁には明日のレースの幟が等間隔で立てられていた。風が吹くたびに、布同士が擦れる音と、ロープが金具に当たる金属音が混ざる。

 

その音の隙間に、何かが薄く混ざっていた。

 

歌ではない。

 

旋律でもなかった。

 

最初は風の音の一部かと、秋月は思った。だが、その音は風よりも長く、風よりも整っていた。

 

ミナトの足が、止まった。

 

桐生が気づいた。

 

秋月は少し遅れて気づいた。

 

音楽だった。

 

スタンドの方向から流れてくる音。距離があるので、はっきりした輪郭はない。だが、低音だけが先に届いて、それから旋律らしいものが遅れて重なってきた。

 

ライブのリハーサルだった。

 

明日のレース後に行われるライブの、前日の音合わせ。スタンドの中で、スタッフが楽器と音響を確かめている。

 

歌声はまだ入っていない。本番には、走り終えたウマ娘たちが、体を落ち着かせる時間を挟んでステージに上がる。今、ここに彼女たちはいない。

 

楽曲だけが、断続的に流れていた。

 

止まり、また始まり、また止まる。

 

止まるたびに、風の音が大きく聞こえた。幟がまた鳴る。歩道の落ち葉が足元で乾いた音を立てる。遠くで、シャトルバスのドアが開閉する音もした。

 

それから、また音楽が始まる。

 

サビらしい部分にさしかかると、距離があってもドラムだけは輪郭が立った。低い、規則的な拍。心臓のような速さではなかった。もう少し速い。走るときの足音より少し遅い。歌うための速さだった。

 

それも、すぐに止まった。

 

リハーサルだから、流れは整わない。だが、流れていることに変わりはなかった。

 

スタンドの中のウマ娘たちは、明日のために、その音を一度ずつ確かめている。

 

風がまた一度吹いた。

 

幟が鳴る。

 

音楽がまた始まった。今度はドラムは入らず、シンセサイザーの厚い音だけが、長く一音だけ伸びた。空気を撫でるような音だった。

 

その一音が、ミナトの体に触れたように見えた。

 

ミナトは音楽の方を向いていた。

 

聞いていた。

 

体は、わずかに前に傾いていた。

 

最初に動いたのは、肩だった。

 

両肩が、少しだけ下がった。緊張を抜くときの動きに似ているが、違った。これは緊張を抜くための脱力ではなく、走る前に肩から力を抜いて、次の動きに渡すための準備だった。

 

それから、首がほんの少し前に出た。

 

耳が、音楽の方向に向いた。本人の意思とは別の動きだった。耳は、自分の意思とは別に音の方を向く。

 

息のリズムが変わった。

 

吸う長さが少し短くなり、吐く長さが揃いはじめた。スタートを待つときの呼吸だった。

 

最後に、重心が前に移った。

 

両足の指の付け根に、わずかに体重が乗った。踵が、ほんの少しだけ浮いた。

 

秋月はミナトの横顔を見た。

 

知っている顔だった。

 

先日、研究室の壁際で体を動かしていたときの顔。

 

走る前の体になっている顔だった。

 

桐生は何も言わなかった。

 

ただ、ミナトの隣に立った。

 

止めようとはしなかった。

 

声をかけようともしなかった。

 

ミナトの体が今、何をしようとしているのか、桐生にも分かっていた。だが、桐生は止めなかった。止めることが自分の役目ではないと知っていた。

 

風が一度吹いた。

 

ミナトの右足が、地面から離れた。

 

半歩。

 

それだけだった。

 

スタンドの方へ、右足が一度、前へ出た。靴底が地面から離れて、また地面につく。その距離は、本当に半歩だった。

 

普通に歩いていたら、誰も気にしない動きだった。

 

だが、今のミナトには、その半歩が二年分だった。

 

右足は、着地した位置で止まった。

 

止まったというより、止められた。

 

ミナトの体が、自分で止めた。

 

肩が、戻った。

 

首が、戻った。

 

耳は、まだ音楽の方を向いている。

 

だが、踵が地面についた。重心が、両足の真ん中に戻った。

 

戻された右足は、もう一方の足の隣で、しばらくそのまま動かなかった。

 

ミナトは何度かまばたきをした。

 

それから、息を一度、深く吐いた。

 

吐き終わったあとも、しばらくそのまま立っていた。

 

体の中で、何かを片付けているような時間だった。

 

走るための準備が整いかけていた体を、もう一度、普段の体に戻していく。肩の位置を戻し、首の位置を戻し、重心を戻し、息のリズムを戻す。一つずつ。

 

桐生は、その一つずつを見ていた。

 

口を挟まなかった。手も出さなかった。

 

ただ、隣に立っていた。

 

戻すあいだ、誰かが隣にいることが大事だ、と知っているように見えた。

 

「すみません」

 

小さく言った。

 

「何が」

 

秋月が聞いた。

 

ミナトは少し笑った。困ったような笑い方だった。

 

「動きそうになりました」

 

その言い方は、軽かった。軽いのに、重かった。

 

桐生は、答えなかった。

 

ただ、ミナトの隣で、同じ方向を見ていた。

 

音楽は続いている。

 

止まり、また始まり、また止まる。

 

リハーサルだから、流れは整わない。だが、流れていることに変わりはない。

 

しばらく、誰も動かなかった。

 

桐生がミナトを見た。

 

ミナトを見たまま、桐生は静かに口を開いた。

 

「ミナト」

 

「はい」

 

「走るか」

 

風の音が、一瞬聞こえなくなった気がした。

 

二年。

 

桐生は、ミナトに「走るか」と聞いたことが一度もなかった。

 

河原で彼女が自分から走り出した日も、研究室で立ち上がる音がした日も、桐生はただ見ていた。問いを向こう側に置きっぱなしにすることが、桐生の取り決めだった。机をふたつ並べて、ミナトの動く範囲を空けて、決めずに置いてきたのは、走るかどうかを彼女の中にだけ残しておくためだった。

 

その桐生が、今、聞いた。

 

ミナトはすぐには答えなかった。

 

驚いた顔は、秋月にも分かった。

 

だが、その驚きは、すぐに普通の顔に戻った。むしろ、自分でもいつかは聞かれると思っていた、というような顔だった。

 

長い間があった。

 

その間に、いくつかの音がいつもの大きさで戻ってきた。

 

スタンドの方から、また音楽の断片が漏れてきた。今度はピアノだけだった。短い旋律が二回繰り返されて止まった。

 

歩道の向こうで、係員らしい男性が二人、設営の確認をしながら歩いていた。指差しながら、何か小さな声で確認している。

 

近くの売店のシャッターが、一度、半分まで開いた音がした。だが、すぐに止まった。中の人がまだ準備中だったのだろう。

 

風が、屋根の縁の幟をまた一度鳴らした。

 

ミナトはそれらの音を、ひとつずつ聞いているような顔だった。

 

その間、桐生は何も言わなかった。

 

急がせない。

 

それも、二年やってきた呼吸だった。

 

桐生は、答えが「はい」でも「いいえ」でも、たぶん同じ顔で受け取るつもりでいた。何かを期待してこの問いを投げたのではない、と分かる立ち方だった。聞いた、という事実だけが、桐生の取り決めの中に新しく加えられた。それで、今日の桐生の役目は終わっていた。

 

秋月は、その間、息を浅くしていた。

 

書ける場面ではなかった。

 

書こうとした瞬間に、桐生の立ち方も、ミナトの呼吸も、間に挟まった音楽も、別のものになる。

 

ミナトはレース場の方を見ていた。音楽の方を、見ていた。

 

それから、ゆっくりと、桐生を見た。

 

「今日は、いいです」

 

桐生は頷いた。

 

ミナトは、それで止めなかった。

 

「でも」

 

ミナトは少し言葉を選んだ。

 

「でも、いつかは、わかりません」

 

その「いつか」は、はっきりした未来を指していなかった。

 

明日でも、来年でも、十年後でもない。ただ、ある、というだけの未来だった。

 

桐生は何も言わなかった。

 

否定もしなかった。期待もしなかった。

 

ただ、聞いた、という顔だけが残っていた。

 

それで、十分だった。

 

二年間、塞がずに置いておいた机のもう一つ。その隣に今、新しい一行が書き加えられた。書類ではない。記録でもない。だが、確かに書き加えられた。

 

ミナトは音楽の方を、もう一度だけ見た。

 

もう体は前に傾かなかった。

 

代わりに、桐生の横で、同じ方向を見ていた。

 

聞いている。

 

走らずに、聞いている。

 

それは、観客の聞き方と少しだけ似ていた。

 

しばらくして、ミナトが歩き出した。

 

レース場の方ではない。

 

来た道の方だった。

 

桐生がついていく。秋月もそれに続いた。

 

誰も、何も言わなかった。

 

通りに戻ると、また街が動いていた。

 

商店街の店主たちは変わらず仕込みをしており、駅員は別の白線を確認している。観光案内所のドアは開いたままになっていた。

 

ミナトの歩幅は、いつもと同じだった。

 

少しだけ違っていたのは、ミナトが時々、後ろを振り返ったことだった。

 

レース場の方ではない。

 

歩いてきた道の方を、振り返った。

 

桐生はそれに気づいていた。

 

秋月も気づいた。

 

「秋月さん」

 

ミナトが歩きながら言った。

 

「ああ」

 

「私、自分が走るかどうか、ずっと自分で決められないと思ってました」

 

「分かる」

 

「でも、たぶん、決められなくてもいいんですね」

 

秋月はミナトを見た。

 

「決めなくても、いつか分かる、ってことです」

 

「分かる、というのは」

 

「体が、走るかどうか」

 

「自分で決めるんじゃなくて?」

 

「自分でも決めますけど。でも、体の方が先に答える日があるみたいです」

 

「今日みたいに」

 

「はい」

 

ミナトは少し笑った。

 

「動きそうになる日」

 

その言い方は、研究室で「走ると、中が動く」と言ったときと同じ温度だった。

 

過去形ではなかった。

 

現役の頃の話でも、終わった話でもない。

 

今もある、という温度だった。

 

秋月は、それを聞いた。

 

書こうとしていた言葉が、また一つ消えた。

 

セカンドキャリア。

 

引退後。

 

復帰未定。

 

どれも、今日の「動きそうになる日」を入れる欄ではなかった。

 

それは欄ではなく、今日の出来事だった。

 

ミナトの体に、確かに起きた一回の出来事。

 

桐生が、それを「走るか」と聞いた一回の出来事。

 

ミナトが、「いつかは、わかりません」と答えた一回の出来事。

 

どれも、観光案内所のパネルには載らない。

 

サトノの記録にも、たぶん残らない。

 

だが、起きた。

 

秋月は、それを見た。

 

駅前のロータリーまで戻ってきた。

 

人がさらに増えていた。前夜イベントの開場時間が近づいているのだろう。係員が列を整えている。警備員が車道側の白線を踏み越えないように声をかけている。

 

塗り直された白線は、まだ濡れていた。

 

ロータリーの端で、白いつなぎを着た中年の男性が、刷毛を片付けていた。さっきレース場の前で見た男性だった。長い距離をかけて、白線を引き直してまわっていたらしい。

 

男性はこちらに気づいて、軽く会釈した。

 

桐生も会釈を返した。

 

ミナトは少しだけ立ち止まり、男性がハケを缶にしまう動きを見ていた。

 

「あの人の名前は、どこにも残らないだろうな」

 

秋月が言うと、桐生は頷いた。

 

「残らないでしょうね」

 

「ミナトレーヴの名前は残った」

 

「残りました」

 

「同じ場所のために動いていても、片方しか残らない」

 

桐生は答えなかった。

 

代わりに、ミナトを見た。

 

ミナトは男性を見ていた。缶を片手に提げて、立ち上がる。背を伸ばし、塗り終えた白線の方を一度だけ振り返り、それから駅員の方へ歩いていった。駅員が何か声をかける。男性は頷き、次の白線の予定を確認しているらしかった。

 

「残らない方も、ある」

 

ミナトが言った。

 

「ある」

 

「でも、それは、なくなるとは違いますよね」

 

秋月は息を吐いた。

 

なくなるとは違う。

 

大学で、ミナトは「外に出せなくなった」と言っていた。

 

だけども今、街がミナトを「外に出していた」ことが分かった。

 

レース場の前で、ミナトの体が「外に出かけた」。

 

そして、白線塗りの男性は、名前として外に出ない。

 

それぞれ、違う「外」だった。

 

それぞれ、違う「残り」だった。

 

それでも、共通しているものはあった。

 

誰かが、別の誰かのために動いている。

 

その動きは、必ずしも記録されない。

 

だが、なくなりはしない。

 

ミナトの中の、二年前に止まったはずの何かが、今日、街によって少しだけ動いた。それも、たぶん、なくなりはしない。

 

秋月はポケットから手帳を出した。

 

昨日のページを開く。

 

装置、という文字には横線が引かれている。

 

その下に、短い線だけが残っていた。

 

その線の下に、もう一行だけ書こうとした。

 

半歩。

 

書きかけて、止めた。

 

書ける言葉ではなかった。

 

もし書けば見出しになり、読まれ方が決まる。それは、今日見た半歩とは違うものになる。

 

代わりに、別の言葉を書いた。

 

「動きそうになりました」。

 

ミナトの声で、書いた。引用ではなかった。だが、誰かの言葉として書きとめた。

 

それからもう一行。

 

「いつかは、わかりません」。

 

それも、ミナトの声だった。

 

二行のあいだに、桐生の問いがあった。書かなかった。書く言葉がなかった。

 

桐生の「走るか」は、二年間言わなかった一言だ。それを書けば、それも見出しになる。秋月はもうそれを書きたくはなかった。

 

書かなかった一言は、たぶん、桐生のもの、ミナトのもの、自分のもの、三つに分かれていた。それを記事の中で一つの言葉にしてしまうと、誰のものでもなくなる気がした。

 

秋月は手帳を閉じた。

 

書かなかったことが、たくさんあった。

 

書けないことの方が、見たものに近かった。

 

明日の朝、編集部から連絡が来るだろう。締切にはまだ余裕があるが、記事の方向性を決めなければならない。

 

だが、今夜は、まだ決めなかった。

 

書けない言葉を、頭の中で持ち歩いて、もう一晩寝かせる。

 

秋月はポケットに手帳を戻した。

 

桐生とミナトが、自販機の前にいた。

 

ミナトはペットボトルを開けて、桐生に渡した。桐生は受け取り、一口飲んだ。それから、ミナトが自分の分を開けるのを待って、二人で同時に飲んだ。

 

その動きには、新しい間ができていた。

 

レース場の前で揺れた何かが、まだ二人の間に残っていた。だが、揺れたまま、また動き続けていた。

 

桐生が言った。

 

「電車、もう少し待ちますか」

 

「はい」

 

「次のに乗りましょう」

 

「次のですね」

 

その「次」は、電車のことだけではない気がした。

 

ミナトは少し笑った。

 

桐生も笑わなかったが、否定もしなかった。

 

秋月は二人の少し後ろに立っていた。

 

街は動いていた。

 

ロータリー。バス。駅員。白線塗り。観光案内所のパネル。

 

それぞれが、別の手によって続けられている。

 

そのどれもが、装置ではなかった。

 

そして今日、その続いている街の中で、ミナトが半歩、前に出た。

 

戻った。

 

戻ったが、半歩は確かに、街の上に置かれていた。

 

ミナトレーヴの名前と、白線塗りの男性の名前と、観光案内所の女性の二十年と、桐生の机のもう一つと、今日の半歩。

 

どれも、まとめて呼ぶ言葉はまだない。

 

だが、なくてもよかった。

 

少なくとも、今日は。

 

電車のアナウンスが流れた。

 

ミナトが顔を上げる。

 

桐生が空のペットボトルを軽く振った。中身がもう少しだけ残っていた。

 

「先生、まだ残ってます」

 

「飲みます」

 

「全部、飲んでください」

 

「はい」

 

ミナトは少し笑って、自分の分を飲み干した。

 

桐生もそれにならった。

 

それだけだった。





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静かな話ではありますが、秋月たちの歩みをもう少し見守っていただければ幸いです。



作中の十年前のイメージ


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