まだ、走っている   作:監督

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2026.05.13.18:35 改訂



書かなかったこと

 

 

帰りの電車は、空いていた。

 

窓の外を、街の明かりが流れていく。秋月は手帳を膝の上に置いたまま、一度も開かなかった。現場では手が先に動く。見たものを書き留める前に、指がペンを探している。二十年、そうやって事実を拾い集めてきた。だが今夜は、手帳を開くための理由が、まだどこにもなかった。

 

向かいの席で、ミナトは目を閉じていた。眠っていない。車窓が揺れるたびに、ミナトの肩がわずかに動いた。街でリハーサルの音楽を聴いたとき、重心が前に移りかけた。あの余韻が、まだ体のどこかに残っているのかもしれない。完全には戻りきっていない体が、電車の振動に合わせて少しずつ揺れていた。

 

桐生は、窓の外を見ていた。

 

ずっと見ていた。

 

今夜初めてミナトに問いを投げ、その答えを受け取った後、桐生は窓の外を見たまま動かなかった。電車が揺れても、視線が動かない。あの不確かな時間をどう噛み締めているのか、秋月には分からなかった。桐生の右手は、膝の上で軽く握られている。指の関節が、いつもより少しだけ白く見えた。

 

車内は静かだった。平日の夜の、混んでも空いてもいない時間帯で、離れた席で新聞を広げている男が一人、吊り革を持って立っている女が一人いた。どちらも三人のことを見ていなかった。蛍光灯の白い光が、窓の内側にもう一つの車内を作っていた。そこにも三人が映っていた。映った秋月は、自分が思っていたより疲れた顔をしていた。

 

秋月は、膝の上の手帳を見た。

 

開けば、書けるものはある。今日見たものの断片なら、いくらでも出てくる。川沿いの遊歩道を走るミナトの背中、対岸の照明塔、地方トレセンの長谷の顔、サトノの白い廊下。記事を構成する材料は持っている。だが断片を書き出した瞬間、それがどういう「社会面の見出し」に収まるのかが分からなかった。二十年、そんなことはなかった。

 

取材から帰ると、秋月はいつも何かを持って帰った。事実、証言、数字、現場の温度。それらを整理し、社会の文脈に落とし込めば記事になった。だが今夜は、既存の枠組みでは形にできないものを、持って帰っていた。

 

電車が大きな駅に入った。乗客が何人か降りた。ドアが開いた瞬間に、ホームの空気が冷たく流れ込んできた。ミナトの目が、一瞬だけ開いた。降りる駅ではないと確認して、また閉じた。桐生は動かなかった。

 

三人は、それぞれの沈黙の中にいた。

 

「また連絡する」

 

秋月がそう言うと、ミナトは軽く頭を下げた。

 

「お疲れ様でした」

 

タクシーは、ロータリーの三台目に停まっていた一台に乗った。

 

運転手は六十前後の男だった。乗り込んだとき、行先を告げると、ハンドルに手をかけたまま小さく頷いた。「はい」とも「了解しました」とも言わない。動き出した車のメーターが、低い音で動いた。

 

家まで二十分。

 

夜の道は、信号が多かった。最初の交差点で止まった。青になるまでの間、フロントガラスの向こうで赤いランプが二つ、まっすぐ並んでいた。前の車のテールランプだった。秋月はそれをぼんやりと見ていた。

 

走り出した。

 

街灯が、規則的に流れていった。一本、二本。間隔を数えるつもりはなかったが、目が勝手に数えていた。三本目を過ぎたあたりで、頭の中で別のものが動き始めた。

 

ミナトのレース映像だった。

 

具体的に、いつのものかは思い出せなかった。だが、見たことがあった。秋月がウマ娘の取材を始める前、何かのテレビ番組で流れていた特集の映像だった気がした。あるいは、桐生の研究室で何度も見せられた古い映像のうちの一つだったかもしれない。境界が、曖昧だった。

 

その映像の中で、ミナトは走っていた。

 

ミナトレーヴ、という名前で。

 

スタート前の数秒。ゲートの中で、頭を一度だけ下げる仕草があった。耳が、後ろのウマ娘の音を拾っていた。一瞬、視線が空に行って、すぐ前に戻った。それは、レース前の儀式というほど形式化された動きではなく、もっと自然な、体が勝手にやる準備運動のような動きだった。

 

ゲートが開いた。

 

最初の三歩で、ミナトは前へ出た。逃げではなかった。先頭集団の二番手か三番手につけて、リズムを作っていた。映像の解説者が、何か言っていた気がする。「リズムのいい走り」と言っていたかもしれない。あるいは別の言葉だったかもしれない。

 

街灯が、また流れた。

 

タクシーは、大通りに入っていた。運転手の背中が、車内の暗さの中で少しだけ前傾していた。ハンドルを握る肩の高さが、左右でわずかに違っていた。右肩の方が、少し下がっている。何十年も同じ姿勢で運転してきた人間の肩だった。

 

ミナトの映像の中で、最終コーナーが来た。

 

そこから先は、はっきり覚えていた。ミナトは外を回らなかった。内を空けず、前のウマ娘の真後ろにつけていた。直線に入ってからの伸びが、見ている側に「この子は来る」と思わせる伸びだった。実況の声が、急に高くなったのを覚えている。

 

そして、勝った。

 

勝った瞬間のミナトの顔は、映像では一瞬しか映らなかった。すぐにカメラが、後ろから来たウマ娘たちに切り替わった。だが、その一瞬で、ミナトは笑っていた。走り終わった顔ではなかった。まだ走っている途中の顔だった。

 

タクシーが、また信号で止まった。

 

秋月は、運転手の背中越しに、信号機の赤を見た。

 

新聞の写真も、思い出した。ミナトレーヴの名前を、地方紙の小さな見出しで読んだことがあった気がした。大きな記事ではない。スポーツ欄の端の、一段の記事だった。写真は、レース後にウマ娘たちが並んでいる集合写真だった。ミナトは端の方に写っていた。

 

その写真が、今夜の電車で目を閉じていた、向かい合わせの席のミナトと重なった。

 

走っていた頃のミナトと、今のミナトは、同じ人だった。

 

走っていた頃の映像が残っている。新聞の写真が残っている。秋月の記憶の中にも、断片として残っている。メディアを通じて共有されたそれらは「ミナトレーヴ」として残っていた。

 

今夜のミナトは、「ミナトレーヴ」として社会に残るものではなかった。

 

走っていない。レースを終えていない。映像にもならない。新聞にも載らない。タクシーの後部座席で家路に向かう、秋月という一人の記者の頭の中だけにいた。

 

秋月が記事にしなければ、今夜のミナトは、どこにも残らないかもしれなかった。

 

信号が変わった。

 

タクシーが動き出した。家までは、あと五分くらいだった。秋月は、メーターの数字をちらりと見て、また街灯の方へ視線を戻した。

 

家に着いた。

 

運転手は、料金を受け取って、軽く頷いた。それだけで車を出した。「ありがとうございました」とは言わなかった。「気をつけて」とも言わなかった。最初から最後まで、必要な言葉以外を一度も発さなかった男だった。それが、今夜は助かった。

 

玄関を入ると、台所の蛇口が漏れていた。前から漏れていた。直していなかった。ぽつり、ぽつりと、水滴が落ちる音だけが、夜の家に続いていた。ステンレスのシンクに当たる音だった。何度も同じ場所に落ちているうちに、その一点だけが、わずかに変色していた。

 

机に座って、手帳を開いた。

 

「動きそうになりました」

 

「いつかは、わかりません」

 

二行だけがそこにあった。その間に、桐生の問いは書いていなかった。書かなかった理由は、書けなかったからだ。だが書けなかった理由は、書けばそれが見出しの材料になるからだった。見出しになれば、二年分の沈黙が活字として消費される。沈黙が消え、社会に流通する言葉になった瞬間、あの問いは別の何かになる。

 

手帳を閉じた。

 

風呂に入って、床についた。

 

眠れなかった。

 

天井を見ていた。暗い部屋で目を開けているのに、今日見たものがいくつも浮かんだ。半歩、という言葉が最初に来た。半歩だけ前に出たこと。ミナトが自分で止めたこと。止めてから、一度だけ肩が下がって戻ったこと。それから桐生の「走るか」という声が来た。二年間、出なかった声だった。ミナトの「いつかは、わかりません」が続いた。

 

三つが、順番を変えながら繰り返された。

 

繰り返されるうちに、三つの間に別のものが挟まってきた。レース場で初めてミナトを見た日のこと。研究室の壁際でミナトが体を動かしていたこと。川の遊歩道でミナトが走り出した瞬間のこと。桐生が「良い走りだった」と言ったときのこと。それらが順番を作らずに、ただ浮かんで、消えた。

 

記事の構成案として整えようとすると、整えた先に何もなかった。

 

窓の外が少し明るくなってから、ようやく浅い眠りに入った。

 

翌朝、机に座った。

 

コーヒーを淹れた。原稿用紙を出した。

 

書き出しを書いた。

 

「地方トレセンに、もう一つの育成風景があった」

 

二行目を続けた。

 

「東京近郊の中央トレセンとは違う、地方独自の育成のあり方が、そこにあった」

 

三行目を書こうとして、止まった。

 

「地方独自」と書いた瞬間に、長谷の顔が浮かんだ。長谷は、地方独自、とは言わなかった。「うちは大きなことはしていません。できることを一通りやっているだけです」と言った。地方独自、ではない。できることをやっている、というだけだった。

 

四行目を書こうとした。「全国大会に進む選手の輩出という観点では、中央には及ばないが」と書きかけて、止まった。地方トレセンの公開練習で二本目を走っていた、小柄なウマ娘のことが浮かんだ。彼女は、中央へは進んでいない。だが、それをメディアの文脈で「及ばない」と書いた瞬間、彼女は「及ばなかった人」に分類される。長谷は、彼女たちのことを決して「及ばない」とは言わなかった。中央に進まなかった彼女たちを見て、ただ「粗末にしないことくらいです」と言った。勝ったか負けたかで、目の前の走りを切り捨てるような目ではなかった。

 

四行目を消した。三行目も、二行目も消した。

 

一行目だけが残った。それで、止まった。

 

続きを書こうとした。書けなかった。原稿用紙を一枚抜いて、新しい一枚を出した。書き出しを書いた。

 

「競技を離れたウマ娘たちは、新しい場所で動き始めている」

 

二行目に「相談会で出会った若いウマ娘は、まだ進路を決めかねていた」と書いた。

 

三行目で、「やめたら、楽になりますか」という声を書こうとして、止めた。

 

書けば、彼女の問いが記事の核に入る。記事の中で、その問いは「若いウマ娘の悩み」という分かりやすい社会問題として整理される。読者の共感を得るための「悩み」になった瞬間、あの場の温度が消える。彼女が紙コップを両手で持っていたこと、耳が落ち着かなく動いていたこと、ミナトと話したあと耳の動きが少しだけ収まったこと、それらが全部、記者の手によって切り捨てられる。

 

二行目を消した。

 

「新しい場所で動き始めている」と書いた一行目を見直した。社会の変化を前向きに捉える、常套句だった。だがミナトは、まだ走るかどうかを決めていない。決めない、ということを続けている。「動き始めている」という言葉は、ミナトの時間を勝手に進めてしまう。

 

一行目も消した。

 

机の左の引き出しから、取材メモを出した。無造作にめくったページに、小さく「土の匂い」と走り書きがあった。地方トレセンのバ場脇に立ったときのものだ。文字を見れば匂いまで思い出せるはずだと、現場の空気を逃さないために書き留めたはずだった。だが今は、思い出せなかった。手帳の文字を読んでも、匂いまでは戻ってこなかった。文字に変換された瞬間、現場の温度や空気は抜け落ちてしまうのだと思い知らされるようだった。

 

夕方になった。二枚の原稿用紙が、机の上に残った。どちらも、二行か三行で止まっていた。

 

夜、テレビをつけた。ニュースだった。事故と、政治家の会見と、天気予報。事故の現場は、秋月が三年前に取材した場所と同じ高速道路だった。三年前は、五人が死んだ。今日は、けが人が二人。事故というのは、こういうものだった。同じ場所で何度も起きて、規模だけが違う。当時の記事は、秋月が書いた。五人が死んだ凄惨な事故だったが、原稿は一時間で書き上げた。社会部記者として事象の整理がついたら、迷わずに書けた。書けば、翌朝の紙面に載った。何の問題もなかった。

 

今、机の上にある原稿用紙二枚は、整理がついていなかった。整理を拒絶していた。

 

翌日は、最初から違う書き出しを試した。

 

「ウマ娘のセカンドキャリアは、今、どこへ向かっているのか」

 

二行目を書いた。「中央のトレセンを離れた選手たちは、それぞれの道を選び始めている」と書いた。

 

三行目で、「指導者となる者、地域に戻る者、研究機関で新たな役割を担う者」と書こうとした。書きかけて、止まった。

 

研究機関で新たな役割。

 

これは、ミナトのことを指していた。ミナトを「研究機関で新たな役割を担う者」と書けば、それは記者として事実関係を正確に伝えている。研究協力員、という名札を首から下げていた。書類上は、それで合っている。

 

だが、ミナトは「役割を担う」ためにあそこにいるのではなかった。続けるためにいた。桐生が続けるために、自分も続けるために、ただあの部屋にいることを選んでいた。「役割を担う」という新聞用の言い回しは、それを全部無化する。

 

「セカンドキャリア」という記号が、彼女の生きている時間を別のものに変えていた。原稿用紙を一枚抜いた。

 

椅子の背に体を預けて、天井を見た。天井のクロスに、薄い染みがあった。前の住人が残したのか、自分の生活の中でできたのか、覚えていなかった。染みは、形を変えずにずっとそこにあった。

 

その日も、使える書き出しは残らなかった。

 

三日目に、近所の定食屋で昼を食べた。机の前に座っていられなくなって、外へ出た。定食屋は、商店街の端にあった。秋月は二十年同じ店に通っていた。店主の妻が、最近少し痩せた。痩せたねと言うほどの距離ではなかったが、配膳のときの手の動きが、前より小さくなった気がした。話しかけたら、何か返ってくるだろう。だが、話しかけなかった。

 

向かいの席に、知らない男が座った。建設現場の作業着のままだった。男は注文を取ってもらうとき、メニューを見もせずに「いつもの」と言った。妻が頷いて、奥に通した。いつもの。秋月は、その言葉を聞いて少し動いた。

 

いつもの、で通じる人間が、ここにいた。

 

その男は、たぶん毎日ここに来ているのだろう。妻は男の頼むものを覚えていた。話したことが何度あるかは分からない。それでも、いつもの、で通じる場所を持っていた。

 

秋月は、自分の頼んだ焼き魚定食を食べた。鯖の塩焼きだった。少し焦げていた。それも、二十年食べてきた焦げ方だった。

 

家に戻った。

 

机の前に座って、新しい原稿用紙を出した。

 

「優しい場所だった、と書くには、もう少し時間がいる」

 

二行目を書いた。「地方のトレセンも、相談会も、研究施設も、すべてが丁寧で、配慮があり、間違ってはいなかった」

 

三行目を書こうとした。「だが」と書きかけて、止まった。「だが」の後に来る言葉が、見つからなかった。

 

「だが、何かが足りなかった」と書こうとした。違った。足りていなかったわけではない。むしろ、足りすぎていた。

 

「だが、すべてが整っていることが、かえって何かを遠ざけていた」と書こうとした。これも、違った。整っていることが悪いわけではない。整っているから救われている人もいた。

 

「だが」の後を、書けなかった。

 

二行目を消した。一行目だけが残った。読者に届けるための正しい言葉で近づこうとするたびに、書きたかったものが後退した。

 

書けない、という状態を経験したことはあった。事件が複雑で整理が追いつかないとき、証言が矛盾していて構造が見えないとき。だがそれは、材料が足りないか、順番が見えないかのどちらかだった。材料を集めるか、順番を探せば、記事は書けるようになった。今回は違った。材料は持っている。順番も、二十年の方法で並べられる。並べると、書きたかった真実が死ぬ。

 

四日目に、「装置」と書いた。

 

坂道で思い浮かんで、すぐに横線を引いた言葉だった。ミナトが「遠くなります」と言った。それで線を引いたのに、また書いた。

 

二行目を書いた。「ウマ娘という存在の周りには、巨大な仕組みが組まれている」と書いた。

 

三行目。「測る装置、守る装置、記録する装置、保存する装置、伝える装置。それらがあって、初めてウマ娘という存在は、社会の中で意味を持つ」

 

書きながら、これが社会面の特集記事として、最も書きやすい角度だと分かった。大文字の社会問題として、編集長も高く評価するだろう。装置という言葉は、見事に構造を見せる。読者は、自分の知らない世界の仕組みを知ることができる。「巨大な仕組み」という見出しもつけられる。

 

四行目を書こうとした。

 

書けなかった。

 

書けば、ミナトが「遠くなります」と言った痛みが、完全に消える。あの一言は、構造の批判ではなかった。装置という言葉に対する反発でもなかった。ただ、自分が生きていた場所を、記者という外側の人間から名づけられたときの距離を、感じただけだった。

 

その距離を、秋月は今、記者の特権を使ってまた同じやり方で広げようとしていた。

 

三行目を消した。二行目も消した。

 

「装置」とだけ残った。横線を引いた。書いて、また止まった。

 

ペンを置いた。

 

四枚の原稿用紙が、その日の夕方には全部、机の引き出しの上に重ねてあった。どれも、最初の一行か二行で止まっていた。

 

机の上が、白くなった。

 

その白さを見ていると、台所の蛇口の音だけが聞こえた。ぽつり。ぽつり。均等ではない間隔で、落ちていた。一定のリズムではない。三秒に一度のときもあれば、五秒空くこともある。耳を澄ますと、その不均等な音が、心臓の脈と少しずれて聞こえた。

 

四枚の書き出しは、どれも記者として間違っていなかった。どれかを選んで続きを書けば、体裁の整った一本の記事になった。書ける。書けるのに、書くたびに残したかったものが遠のいた。書けない、ではなかった。記者の手で書くたびに、事実が嘘に変わっていくような感覚だった。

 

夜、電話が鳴った。

 

固定電話だった。家の固定を鳴らすのは、編集部か、母親しかいない。母親は今日は鳴らさない。

 

受話器を取った。プラスチックの冷たさが、耳に当たった。

 

「秋月」

 

編集長の声だった。

 

「進んでるか」

 

「進んでる」

 

嘘ではなかったが、本当でもなかった。

 

「何枚くらい書けた」

 

「リード、四枚」

 

編集長は短く笑った。状況を分かっているからだった。二十年付き合っている。

 

二十年。

 

秋月が社会部に上がってきたとき、編集長はまだデスクだった。出会った日のことを、秋月は今でも覚えている。秋月は、地方支局から本社に上がってきたばかりだった。最初に任された仕事は、原稿の出張校正だった。デスクの机の横に立って、ゲラを直す仕事だった。

 

当時のデスクは、ゲラを見ながら、秋月にこう言った。

 

「お前、書きたいことがあるか」

 

秋月は、答えられなかった。書きたいことを聞かれることが、入社以来初めてだった。地方支局では、書きたいことを書ける余地は少なかった。書くべき事実を、書く。それだけだった。

 

デスクは、笑った。

 

「ねえなら、まずは穴を埋められる記者になれ」

 

穴。

 

その言葉を、秋月はその日から覚えていた。

 

新聞には、毎日、穴ができる。事件が起きる。会見が開かれる。締切が来る。書ける記者が足りない。穴ができる。その穴を、誰かが埋めなければならない。どんな素材でも決められた文字数で埋められる記者が、社会部では一番重宝された。

 

秋月は、穴を埋める記者になった。

 

なってから、十年が経った頃、大きな事件があった。地方の県政の汚職だった。秋月は最初、別の取材を抱えていた。穴を埋める担当ではなかった。だが、汚職事件の担当記者が、途中で倒れた。過労だった。

 

その日、デスクは秋月に電話をかけてきた。

 

「埋められるか」

 

秋月は、別の取材を中断して、汚職事件に入った。資料を読み込み、関係者に当たり、十日で四本の連載記事を書いた。後追いではなく、独自の角度で書いた。書ききった。

 

書ききった夜、デスクは秋月に電話をかけてきた。

 

「お前、書きたいことが、できたんじゃないか」

 

秋月は、また答えられなかった。書きたいことがあったわけではなかった。穴を埋めただけだった。だが、埋めるために書き続けた十日間で、何かが変わった気がしていた。

 

そのデスクが、今、編集長になっていた。

 

「秋月、来週、と言ったよな」

 

「言った」

 

「来週で出せるか」

 

「分からない」

 

「分からないか」

 

「ああ」

 

しばらく沈黙が続いた。固定電話の沈黙は、携帯のそれより少し長く聞こえる。電話線の中で、何かが微かに鳴っているような音がした。気のせいかもしれなかった。

 

「秋月、お前、四日で四枚か」

 

「そうなる」

 

「珍しいな」

 

「確かにな。珍しい」

 

「面白いものを見たんだろう」

 

返事をしなかった。

 

「書けるときに書け。締切は動かせる」

 

「動かせるのか」

 

「一度だけだ」

 

それで、電話は切れた。

 

切ったあと、しばらく受話器を持っていた。受話器は冷たかった。プラスチックの冷たさだった。動かせる、と言ったのは、編集長から二十年で初めてだった。動かさないでくれと頼んだことは何度かあった。動かすと言われたのは、初めてだった。

 

二十年前、デスクは「ねえなら、まずは穴を埋められる記者になれ」と言った。十年前、汚職事件の後に「書きたいことが、できたんじゃないか」と言った。今夜、編集長は「動かせる」と言った。

 

三つの言葉が、それぞれ違う場所から来ていた。

 

だが、同じ人間が言っていた。

 

秋月は受話器を置いた。プラスチックの冷たさが、まだ耳に残っていた。

 

五日目は、朝から机に座ったが、原稿用紙を出さなかった。

 

コーヒーを飲んだ。新聞を読んだ。読んでいるようで、読んでいなかった。文字が目に入っても、頭を通り過ぎた。社会面に、自分の名前と並ぶ後輩の記事があった。地方の汚職事件の続報だった。よく書けていた。途中まで読んで、最後まで読まずにページをめくった。

 

昼になって、また飯を食いに外へ出た。商店街を少し歩いて、戻ってきた。

 

机の前に座った。

 

四枚の原稿用紙が、引き出しの上に重ねてあった。

 

もう一日、これを見て終わる気がした。もう一日、これを見て終われば、社会部の手癖で五枚目を書くだろう。五枚目も、たぶん止まる。六日目に六枚目を書いて、止まる。その先が見えなかった。

 

夕方、秋月は四枚の原稿用紙を引き出しの中にしまった。捨てなかった。しまった。それから上着を取って、外へ出た。行き先は、決めていなかった。机の前にもう一日いられない、という感覚だけがあった。出てしまえば、どこへ行くかは後で決まる。それだけだった。

 

電車に乗って、気づいたらいつもの駅にいた。

 

研究棟へ向かう途中、空気が変わった。

 

昼間の商店街とも、駅前とも違う静けさだった。学期の中休みで、学生の姿が少ない。足音が、自分のものだけになった。歩きながら、自分が今日ここへ来た理由を考えた。理由はなかった。ただ、机の前にいられなくなったとき、体がここへ向かった。それだけだった。

 

研究棟の入口で、警備員が会釈した。何度も顔を合わせている男だった。名前は知らない。秋月も、軽く頭を下げて中へ入った。

 

廊下は、薄暗かった。蛍光灯の半分が、節電のために消されている。残りの蛍光灯のうち、一本が切れかけていて、不規則に明滅していた。秋月の靴音が、廊下に反響した。革底の音だった。誰もいない廊下では、革底の音は思ったより大きく響く。

 

研究室のドアの前で、立ち止まった。

 

中でペンが動く音がしていた。

 

桐生が資料に向かうときの音は、もっと一定している。流れがある。今聞こえている音は、違った。止まって、戻って、また動く。長く止まることもある。生き物が何かを探しているような間隔だった。

 

軽くノックして、開けた。

 

ミナトが机に向かっていた。

 

桐生はいなかった。

 

「先生は」

 

「学部の会議です」

 

ミナトはノートから顔を上げた。ちょうど区切りのいい場所で止めた、という顔だった。ケトルのスイッチを入れる。秋月が来るたびにこの動作が先に出てくる。頼まれたことではない。それでもやる。

 

「いい、すぐ帰る」

 

「もう入れます」

 

棚から三つ目のマグカップを出した。迷いがなかった。三つ目の場所が、いつのまにか決まっていた。

 

「座ってください」

 

椅子を引いた。木製の椅子が、床のリノリウムに引きずられて、低い音を出した。

 

座ると、ミナトの机の上が正面から見えた。

 

ノートが開いていた。

 

走行記録ではなかった。

 

文字だった。

 

筆記体に近い、崩れた字だった。読もうとしなかった。読めない距離だった。だが、その字の密度が、秋月の目に入った。ぎっしりとは書かれていない。一行書いて、空白があって、また一行。空白のところに、小さく何かが書き足されている。記者が見るような、整理されたメモではない。書いて、止まって、また書いた跡だった。

 

字の傾きが、行ごとに違った。

 

最初の行は右に傾いている。次の行は、ほぼまっすぐ。三行目はまた右に傾いて、四行目で少し左へ寄っている。同じ人間が、同じ日に書いている字とは思えないほど、傾きが揺れていた。

 

書いているときの、ミナトの体の状態が、字に出ていた。

 

最初の行を書いたとき、ミナトはたぶん前のめりだった。三行目では、また何かが体に来ていた。四行目では、少し疲れていたのかもしれなかった。秋月は、その揺れを、字の傾きから読んだ。読まないつもりだったのに、目が拾った。記者の目だった。二十年で身についた癖が、今は読まない方がいいものを読んでいた。

 

ミナトは隠さなかった。ノートを閉じようとしなかった。

 

「書いてたのか」

 

「書いてました」

 

「何を」

 

「いろいろです。決めてないです」

 

お茶を注ぎながら答えた。それだけのことのように、言った。

 

「書かないと、忘れるので」

 

秋月は、その言葉を受け取ったまま、しばらく動かなかった。

 

忘れる、という言葉は聞こえた。だが、秋月の目はまだノートの上にあった。あの字の間隔が気になった。一行ごとに間がある。その間に、何があるのか。間を測りながら書いているのか。あるいは、書いて止まって、次の言葉が来るまで待っているのか。

 

「何を忘れたくないんだ」

 

「見てるものです」

 

「見てるもの」

 

「はい」

 

お茶を机に置いた。秋月の前に一つ、自分の前に一つ。湯気が、二つ立っていた。湯気の形が、ケトルの口から出てきたばかりのときよりも、すでに少しほどけて、空気に溶けかけていた。

 

「走ってるとき、いろんなものが見えるって、前に話しましたよね」

 

「ああ」

 

「走ってなくても、今も見えます」

 

ミナトはノートを一度見た。

 

「先生のこととか」

 

秋月は、お茶のマグカップに手をかけたまま、動きを止めた。

 

「桐生のことを、書いてるのか」

 

「書いてます」

 

「何を」

 

「今日、先生がどこで止まったか、とか」

 

「止まった」

 

「資料を読んでいて。手が止まる前に、目が止まるんです。そこだけ、後でもう一回読んでます」

 

秋月は、マグカップを机に置いた。

 

ミナトは、桐生の目が止まる場所を、見ている。

 

見ている、というより、拾っている。桐生が気づいていない瞬間を、ミナトが拾って、あの字で書いている。桐生の机は部屋の対角にある。ミナトの位置から、桐生の手元は見えない。それでも分かる。走っているとき後ろの足音が聞こえると言ったのと、同じ感覚が、この部屋の中でも働いているのかもしれなかった。

 

二年間、ミナトはそれを続けていた。

 

秋月は、ノートの崩れた字を、もう一度見た。

 

整えていない。整えようとしていない。書いたものが正確かどうかよりも、見たものをそのまま定着させることが先にある字だった。その字が、ぎっしり詰まっているわけでもなく、一行ずつ間を開けながら、ノートの上に積み重なっていた。桐生の目が止まった回数だけ、そこに行が増えていく。

 

何かが秋月の喉のあたりで止まった。言葉ではなかった。

 

「なぜ書くんだ」

 

声が、思ったより低く出た。

 

ミナトはすぐには答えなかった。マグカップを両手で持って、少しの間、手元を見ていた。マグカップの縁を、指でなぞった。陶器の感触を確かめている、というほどの動きではなかった。ただ、何かに触れていたかった、というような手だった。

 

「書かないと、先生が見えなくなったあとで、誰にも残せないので」

 

秋月は、椅子の背に体を預けた。

 

先生が見えなくなったあと。

 

ミナトは、桐生がいなくなることを、知っていた。知っているのではなく、数えていた。桐生は人間で、ミナトより先に老いる。二年一緒にいれば、分かる。その事実を、ミナトはあの整っていない字で、毎日少しずつ書き留めていた。

 

「お前が覚えていれば、残るだろう」

 

「私の中だけじゃ、私が消えたら消えます」

 

「俺みたいな奴に渡すのか」

 

「誰でもいいです」

 

ためらいがなかった。

 

「誰かの中にあれば、私が見えなくなっても、どこかにあります」

 

遺言のような重さではなかった。体の話をするときと同じ温度だった。走ると中が動く、と言ったときと同じ声だった。だが秋月には、その軽さの方が重く届いた。覚悟が固まっている人間の軽さだった。

 

「お前も、消えてもいいから書くのか」

 

「はい」

 

「なぜだ」

 

「書いてもらえた方が、先生が続くので」

 

続く。

 

その言葉が、静かに体の中に落ちた。

 

続ける、ために、ミナトはここにいた。お茶を入れ、食べ物を置き、忘れ物を拾い、牛乳の日付を確認し、本棚の前の隙間を空けておいた。そして今、整っていない字で桐生を書いている。どれも、桐生が続けられるようにするための動作だった。

 

「走ったあとに歌うのと、同じか」

 

口に出してから、自分でも少し驚いた。

 

ミナトが、わずかに首を傾けた。

 

「似てるかもしれないです」

 

「体の中に残ったものを外へ出して、誰かに渡す」

 

「うん」

 

「渡せれば、残る」

 

「残ります」

 

ミナトはそう言って、ノートをほんの少しだけ閉じる方向に動かした。意識した動作ではなかった。ノートの背が、わずかに浮いて、また机に戻った。それだけのことなのに、その動きが秋月の目に残った。

 

「秋月さん」

 

ミナトが言った。

 

「書けそうですか」

 

さっきと少し違う聞き方だった。

 

「書く」

 

答えてから、それが初めて迷わずに出た言葉だと気づいた。

 

ミナトは何も言わなかった。頷きもしなかった。ただ、お茶を一口飲んだ。それだけだった。

 

帰りがけに、ミナトが小さなボトルを渡してくれた。

 

「冷めても、お茶です」

 

それだけ言って、ドアを開けた。

 

秋月は受け取って、研究棟を出た。

 

外の空気が冷たかった。来たときより空が暗くなっていた。ボトルが、手の中でまだ温かかった。手のひらが、ボトルの曲面に沿って包んでいた。ボトルの口の部分が、わずかに冷たかった。蓋の周りだけ、温度が違った。

 

駅まで歩く間、渡された、という感覚が手のひらに残っていた。ミナトが何かを渡すとき、その動作には迷いがない。お茶を渡す。食べ物を渡す。ノートに書いたものを、いつか誰かに渡す。渡すことを、ミナトは決めている。決めているから、迷いがない。

 

電車に乗った。座席に座って、ボトルを膝の上に置いた。

 

「消えてもいいから書く」という言葉が、電車の揺れの中でまだ動いていた。

 

秋月は、四日間何を迷っていたのかを、ようやく言葉にできた気がした。消えるのが嫌だった。書きたかったものが、新聞記事という「誰にでも分かる社会の形」に整えた瞬間に変わる。事実を社会と共有するために、個人の手触りを削ぎ落とす。その変わり方が嫌だった。だから書かなかった。書かなければ、書きたかったものは自分の中に無傷で残る。残るが、記者としては誰にも渡せないまま終わる。

 

渡せなければ、自分が消えたとき、一緒に消える。

 

それが嫌なのか、記者の手で事実を歪めるのが嫌なのか。どちらが先に来るのかは、まだ分からなかった。だがどちらかを選ばなければならないことだけは、分かった。

 

膝の上のボトルが、まだ温かかった。電車が、いくつかの駅を通過した。秋月の降りる駅は、いつもより少し遠く感じた。

 

 

 

 

 

家に戻った頃には、九時を過ぎていた。

 

机に座った。

 

引き出しの中の四枚の原稿用紙を、出さなかった。

 

新しい原稿用紙を一枚出した。社会部の記事としての体裁は、もうどうでもよかった。

 

ペンを取った。指先が、ペンの軸の太さに馴染んだ。二十年使ってきた万年筆だった。インクの残量を確かめて、書き出しを書いた。

 

「走ったあとに歌う理由を、最初は分からなかった」

 

指が、止まらなかった。

 

前半の四日間は、書くたびに指が止まっていた。事実を社会面の枠組みにどう収めるか、どう意味づけるかで迷っていたからだ。だが今夜は、違った。意味づけを放棄していた。読者に「すべて分かった」と思わせるための記事を書くのをやめた。見たものを、見たまま紙の上に定着させる。ミナトが桐生の目が止まる場所を不格好なノートに書き留めていたように、秋月も自分が観測した事実だけを並べていった。

 

地方トレセンのことを書いた。長谷の「粗末にしないことくらいです」という声を、そのまま置いた。そこから「地方独自の取り組み」といった解説は一切引き出さなかった。公開練習で小柄なウマ娘が二本目を走ったとき、スタンドから「小さな拍手が起きた」と書いた。情景を膨らませ、読者の感動を誘うような言葉を足そうとする二十年の手癖が、何度もペン先を鈍らせようとした。だが、秋月はそれを切り捨てた。弱くても、まばらでも、拍手があった。誰かが見ていた。その事実だけがあればよかった。

 

相談会の場面に入った。

 

「やめたら、楽になりますか」若いウマ娘の声だった。紙コップを両手で持っていたこと。落ち着かなく動いていた耳が、ミナトと話したあとに少しだけ遅くなったこと。それらを書いた。これまでなら、この声を「元競走ウマ娘の抱える悩み」として分かりやすくパッケージングしていた。だが今夜は、解釈を挟まなかった。悩みという見出しの下に押し込めば、あの場の生々しい温度が死ぬ。読者が「そういう社会問題があるのか」と分かった気になって消費して終わる。だから、声と体の動きだけを、無防備なまま書き記した。

 

サトノを出た坂道で手帳に書いて、すぐ横線を引いた「装置」という言葉が、また浮かんだ。書いて、また横線を引いた。その横線の上に、「届かないところがある、と分かった」と書いた。それだけにした。

 

観光案内所のパネルのことを書いた。ミナトレーヴ、という名前を書いた。白線塗りの男性のことを書いた。その男性の名前は、パネルに残らない、と書こうとして、止まった。書かなかった。理由は分からなかった。書けない、という感覚だけがあった。

 

川沿いのレース場。ミナトが走ったこと。秋月が「体が覚えてるんじゃないか」と言ったとき、ミナトが「そうかもしれないです」と返したこと。桐生が「良い走りだった」と言ったとき、ミナトの肩が一度だけ揺れたこと。揺れた、と書いた。書いた直後に、その描写が正確かどうか分からなくなった。揺れた、のか、ほどけた、のか、別の動きだったのか。消して書き直して、また消して、「一度だけ、何かが動いた」とだけ書いた。分からないものは、分からないまま残す。分かったふりをして記者の言葉を当てることはしなかった。

 

リハーサルの音楽。半歩。指が、また止まった。

 

長く止まった。

 

台所で、水が落ちた。ぽつり、と鳴って、次の音が来るまで少し間があった。その間に、ペン先のインクが紙の上でわずかに太った。

 

半歩。

 

手帳では、書けなかった言葉だった。あの動きに名前をつけてしまえば、自分の中で何かが決定づけられてしまう気がして、書きかけて止めた。だが今夜は、原稿用紙に書いた。

 

「半歩」とだけ書いた。

 

説明は、書かなかった。

 

桐生の問いは、書かなかった。書けない、と書いた。その先に何も続けなかった。穴が残った。

 

新人の頃、デスクは「穴を埋められる記者になれ」と言った。十年後、自分の視点を見つけて書ききった夜、同じデスクが「書きたいことができたんじゃないか」と言った。

 

穴を埋めるだけの仕事から抜け出し、事実を読者に届く形へ整える術を手に入れてきた。どうしても埋まらないものは、最初から原稿の枠外へ切り落とした。紙面に穴を残すことはなかった。

 

今夜は、埋めなかった。切り落とさなかった。

 

記者の手癖をすべて置いて、穴のある記事をそのまま置いた。

 

それでも、書いた。

 

ミナトの「いつかは、わかりません」は、書いた。

 

書いた瞬間に、指が一度だけ止まった。この言葉を書けば、ミナトの独白ではなくなる。読まれる。切り取られる。見出しの下に入るかもしれない。誰かが、いい話だと思うかもしれない。誰かが、前向きな言葉だと思うかもしれない。新聞という媒体に出す暴力性を、秋月は誰よりも分かっていた。分かっていた。それでも書いた。書かなければ、誰にも渡せないまま、消えてしまうからだ。

 

今夜の研究室のことは、最後まで書くかどうか迷った。

 

ミナトがノートを書いていたこと。桐生の目が止まる場所を見ていること。「書かないと、先生が見えなくなったあとで、誰にも残せないので」という言葉。

 

書いた。

 

書いて、原稿用紙ごと破った。

 

新しい一枚を出して、また書いた。

 

また破った。

 

三度目に書いたとき、手を止めた。このまま書けば届く。届いたとき、あの崩れた字が、記事の中の「献身」になる。ミナトが桐生を続けさせようとしていることが、美しい話として読まれる。美しい話になった瞬間、あのノートの字の間隔が、持っていた生々しい重さを失う。

 

その紙も、破った。

 

新しい一枚に、こう書いた。

 

「今日見たことの一部は、書かなかった」

 

一行だけ残した。

 

書かなかったことを書く、という方法は、二十年使ってこなかった。記者が「書かなかった事実がある」と宣言することは、報道の敗北かもしれない。だが今夜は、その一行が必要だった。残さなければ、全部を書いた顔になる。読者にすべてを分からせるための記事ではない。この一行を残すことで、書かれたものがすべてではないという空白を、記事の中に穿った。

 

窓の外が、うっすら明るくなりかけていた。

 

書き上がった原稿用紙を、机の上で揃えた。十二枚あった。

 

机の横に置いてあるFAXの電源を入れた。少し古い機種で、起動するときに低い音を立てる。その音が、夜明け前の家の中で、思ったより大きく響いた。

 

原稿用紙の束を、差し込み口にセットした。

 

紙の角を揃えた。一枚目が、機械の口にきちんと収まった。

 

送信ボタンに、指をかけた。

 

一度だけ、止まった。

 

二十年、このボタンを押してきた。何百回、何千回。押すたびに、紙が機械の中に消え、社会に活字を放り込んできた。指の腹で、軽く押し込むだけだった。重さはなかった。

 

今朝は、重かった。

 

ボタンの感触は、いつもと同じだった。物理的に重さが変わったわけではない。だが、指先がボタンに触れた瞬間、指の腹に、わずかな抵抗があった。気のせいだ、と分かっていた。自分が意図的に穴を開けた不完全な真実を、手元から放つ重みだった。それでも、押し下げるのに、いつもの一拍より長い時間がかかった。

 

止まっていた時間は、短かった。

 

押した。

 

機械が、低い音を立てて、最初の一枚を吸い込んだ。

 

紙が、機械の中をゆっくり進んでいった。

 

ローラーの音が、規則的に続いた。一枚送り終えると、わずかな間があって、次の一枚が吸い込まれる。十二枚を全部送り終えるまで、思ったより時間がかかった。

 

秋月は、その間ずっと、機械の横に立っていた。

 

戻ってこない。送り出した紙は、もう手元にない。二十年で何百本も送ってきた。送った瞬間に、それは自分のものではなくなる。読まれる。切り取られる。見出しをつけられる。紙面のどこに置かれるかは、自分では決められない。いつもそうだった。

 

だが今朝は、少し違う感覚があった。

 

今朝送ったものには、穴がある。桐生の問いの場所に、穴がある。「書けない」と書いた一行が、そのまま巨大な穴として残っている。編集長がそれを見て、埋めるように言うかもしれない。記者失格だと差し戻されるかもしれない。だが今朝は、それを待つしかなかった。

 

最後の一枚が、機械を抜けた。

 

短い完了音が鳴った。

 

引き出しを、少しだけ開けた。

 

四枚の原稿用紙が、暗い引き出しの中にあった。取り出さなかった。見えるところまで開けて、また閉じた。

 

四枚は、どれも記者として書けた記事だった。書けたが、書きたかったものではなかった。今朝送ったものは、書きたかったものかどうか、まだ分からない。ただ、四枚のどれとも違った。意図的に穴を穿ったという点で、四枚のどれとも決定的に違った。

 

電話は鳴らなかった。当然だった。夜が明けきっていない。編集長は、まだFAXを見ていない。

 

台所に立った。

 

蛇口を、強く締めた。

 

漏れは、止まった。

 

ボトルのお茶を、湯飲みに移した。冷めていた。湯気は出なかった。常温よりわずかに上の温度だけが、手のひらに残った。ミナトが入れた時間から、何時間も経っていた。冷めるのは当たり前だった。それでも、完全には冷たくなっていなかった。温かいまま届けようとした人間がいた、ということが、湯飲みの底にあった。渡されたものは、渡した人間がいなくなっても、しばらくはその温度を保つ。

 

一口、飲んだ。

 

蛇口の方を、また見た。

 

ぽつり、と落ちた。

 

止まったわけではなかった。

 

間隔が、少しだけ長くなっていた。

 

それが、いまの位置だった。

 

 





ここまでお読みいただきありがとうございます。少しでも「続きが気になる」と思っていただけましたら、お気に入り登録や評価、感想などをいただけると嬉しいです。静かな話ではありますが、秋月たちの歩みをもう少し見守っていただければ幸いです。
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