勇者が生まれないか街を見張っていた魔物の私、懐いてきた子をうっかり勇者に育て上げてしまう   作:うちっち

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人外の女の子が勇者と冒険する話が読みたいなって。
ほのぼのファンタジーになる予定です。本当です。


こんな辺境から勇者が出るわけがない

 魔王様の話は、長い。

 

 その日の会議も、たいへん長かった。

 

 黒曜石を磨き上げた床には、天井から吊るされた青白い炎がゆらゆらと映っていた。壁際には、角のある魔物、鱗を持つ魔物、影のように輪郭の曖昧な魔物たちが並び、誰もが玉座の方を見ている。広間の空気は冷たく、古い石と火の匂いがした。長く座っていると、足元からじわじわ冷えが上がってくる。

 

 そして、椅子が硬い。

 とても硬い。

 

 魔王城の椅子は、偉い魔物ほど硬い椅子に座る決まりでもあるのだろうか。あれはよくない。腰に来る。

 

 私は膝の上に乗せたモルの毛へ、そっと指を沈めた。

 

 モルは雲羊だ。雲みたいに白くて、もこもこしていて、普通の羊より少し小さい。大型犬くらい。少し重い。でも、会議の間ずっと抱えていると、硬い椅子のつらさが少しましになる。

 

 モルは、私の膝の上で窮屈そうに丸くなっていた。

 寝てはいない。

 黒いつぶらな目を開けたまま、玉座の方をじっと見ている。魔王様の声が低く広間に響くたび、胸のあたりに伝わる体温が、ほんの少しだけ動いた。

 

 ちゃんと聞いている。

 私も聞いている。

 だいたい。

 

 

 

 

 

「各地に、勇者が生まれる兆しがある」

 

 その一言で、広間の空気が変わった。

 

 鱗がこすれる音が止まる。誰かの爪が床を引っかいた音だけが、小さく響いた。青白い炎が揺れ、魔物たちの影が一斉に細く伸びる。

 

 勇者。

 それはまずい。

 

 魔王軍にとって、勇者というのは火事とか洪水とか大雪とか、そういうものに近い。出たら見張る。近づいてきたら備える。放っておくと、だいたい大変なことになる。

 

 

 

 

 私たち中央勤務の魔物は、1匹ずつ、各地へ送られることになった。

 

 勇者が生まれそうな場所。

 古い伝承のある場所。

 聖剣が眠っているらしい場所。

 神殿の多い場所。

 魔力の濃い場所。

 

 そういう、いかにもな場所へ、次々と名前が振り分けられていく。

 

 

 

 そして、私の名前が呼ばれた。

 

「ネリネ。お前は『始まりの街』へ向かえ」

 

 始まりの街。

 名前は強い。

 

 私は少しだけ背筋を伸ばした。

 

 魔王様の横に立っていた参謀が、羊皮紙をめくる。

 

「主要街道から外れた辺境。人口は少なく、周辺魔物の危険度は低い。大規模神殿なし。魔法学院なし。勇者伝承なし。聖遺物の記録なし」

 

 弱い。

 かなり弱い。

 でも、美味しいものがあれば十分だ。

 

 私は、参謀をじっと見つめた。彼は、私の同期なので、私の希望は汲み取ってくれるはず。

 

 すると、参謀は溜息をついて、抑揚のない言葉で続けた。

 

「特産品、なし」

 

 名物料理もないらしい。

 だいぶ弱い。

 

 同時に魔王様が「今の情報必要あった?」みたいな顔をした。

 

 

 しかし私は、かなり安心した。

 こんな場所から勇者が出るわけがない。

 

 モルの背中を撫でると、白い毛が指の間でふわりと割れた。モルは一度だけ、鼻を鳴らした。

 

 たぶん、何も問題ない。

 

 たぶん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 始まりの街へ入る前に、私は周辺を一回りした。

 

 低い丘。細い小川。獣道。畑に続く土の道。朝の風はゆるく、湿った草と土の匂いを運んでくる。危ない匂いはほとんどしなかった。

 

 ただ、森の縁で一匹だけ、大きな影が動いた。

 大角獣だった。

 

 荷馬車ほどの胴に、前へ突き出した二本の角。太い脚が土を蹴るたび、湿った土と枯れ葉がばらばらと跳ねる。たぶん、この辺りではかなり危ない魔物なのだと思う。森の鳥たちが枝から一斉に飛び立ち、葉がざわざわと揺れた。

 

 

 

 

 大角獣は、私を見るなり突っ込んできた。どすどすと迫る足音とともに、地面が揺れる。

 

 私は片足を上げた。幸いまだ靴を履く前だったので、爪が出ている。鳥の足に似た、硬く曲がった爪だ。

 

 大角獣の額に、爪先を置く。

 

 どん、と低い音がした。

 

 突進は、そこで止まった。

 

 大角獣は前へ進もうとしていた。後ろ脚ががりがりと土を掻き、荒い息が私の膝にかかる。けれど、私の足先は動かない。

 

「だめだよ」

 

 私が言うと、大角獣は動きを止めた。

 

 目が合う。

 

 黒くて丸い目だった。怒っているというより、どうして進めないのか分かっていない顔をしている。

 

 このまま逃がしてもいい。

 でも、また同じことがあったら困る。

 なので、分かりやすくしておくことにした。

 

 

 

 

 

 私は大角獣の額から足を離し、すぐ横にあった大岩へ爪先を向けた。

 

 街道脇に、昔からそこにあるみたいな顔で座っている灰色の大岩だった。高さは、街の家の軒先に届きそうなくらい。表面には苔が張りつき、上の方には風で運ばれた土に細い草まで生えていた。

 

 私は、その大岩の左上から右下へ、爪先を軽く払った。

 

 ひと呼吸遅れて、岩の表面に白い線が浮かび上がった。

 

 左の上端から、右の下腹へ。

 ぴしり、と。斜めに一本。

 

 次に、線より上の岩が動いた。

 ほんの少し。

 

 ず、と低い音がした。

 地面の下まで響くような、重い音だった。

 

 

 

 

 大角獣の耳が、ぴんと立った。

 

 岩の上に生えていた草がちぎれ、苔が裂け、小石がぱらぱらとこぼれる。上半分は斜めの面をこすりながら、前へ、下へ、ゆっくりずれていった。

 

 どん、と重い音を立てて、上半分が地面に落ちた。

 

 

 

 

 大岩は、斜めに切れていた。

 

 下半分は元の場所に残り、上半分は少し前へずり落ちて、草の上に沈んでいる。

 

 私は爪先を戻した。

 

 大角獣は、落ちた岩を見た。

 残った岩を見た。

 私を見た。

 もう一度、岩を見た。

 

 それから、そろそろと後ずさりした。

 

 よし。

 

 

 

 

 

 大角獣は森の中へ逃げていった。えらい。

 

 私は靴を履いた。

 少し大きめの、人間用の靴だ。爪を隠すためである。歩きにくい。でも、仕方ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 始まりの街は、実際、だいぶ暇だった。

 

 街というより、大きめの村だった。

 低い石壁に囲まれた中に、赤茶色の屋根の家が並び、中央には小さな広場と井戸がある。朝になると鶏の声が屋根の上を渡り、井戸端では桶の水が跳ねる音がした。昼には畑の土の匂いと、干し草の匂いと、どこかの家で焼いている固いパンの匂いが混ざって流れてくる。夕方になると、煙突から細い煙が上がり、街全体が薄い煮込み料理の匂いに包まれた。

 

 平和。

 

 ものすごく平和。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私は、街の中に住むことにした。

 

 街外れの森や丘に潜んでいてもよかったけれど、それでは怪しまれる。特に私は飛べるので、つい屋根や木の上を使ってしまう。便利だから。

 

 でも、人間の村娘は、屋根から帰宅しない。

 たぶん。

 そこは気をつけることにした。

 

 

 

 

 

 

 宿に部屋を借りたあと、私は姿見の前に立った。

 

 鏡の中には、薄桃色の髪を肩の前へ流した若い女が映っている。魔王城では別に珍しくもない色だけれど、この街では少し目立つ。井戸端で見た人間たちは、茶色や黒や麦色の髪が多かった。

 

 でも、隠すのはもったいない。

 可愛いので。

 

 私は髪を低い位置でひとつに結び、肩の前へ流した。長い薄桃色の髪が、胸元でゆるく揺れる。

 よし。

 村娘というより、少し珍しい髪色の村娘。

 いける。

 

 琥珀色の目も、そのままにする。目は隠しようがない。人間は種類が多いので、たぶんこういう目の人もいる。

 たぶん。

 

 

 

 

 問題は背中だった。

 私はハーピー型の魔物なので、背中には羽根がある。普段は小さく畳めるけれど、完全になくなるわけではない。事実、服の下で、羽根が少しだけ膨らんでいる。

 

 姿勢を伸ばすと目立つ。

 背中を丸めすぎると、今度は具合の悪い人に見える。

 難しい。

 

 

 

 

 

 私は、ゆったりしたワンピースの上から、厚手の外套を羽織った。肩から背中にかけて布がふわりと落ち、羽根の膨らみをちょうどよく隠してくれる。

 

 これなら、少し寒がりの村娘で済む。

 

 足元は、少し大きめの靴。爪を隠すためだ。歩くと中で爪先が少し窮屈だけれど、そこは我慢する。人間の村娘は、爪で床をつかまない。

 

 私は鏡の前で、くるりと回ってみた。

 

 薄桃色の髪が揺れる。外套の裾も揺れる。背中は見えない。爪も見えない。

 村娘。

 かなり村娘。

 

 雲羊のモルが、足元で鼻を鳴らした。

 

 たぶん合格である。

 

 宿の主人は、モルを見て目を丸くしていた。

 

「ずいぶん白い羊だねえ」

「よく洗ってるので」

 

 モルが私の足を踏んだ。

 たぶん、今の説明は雑だった。

 

 

 

 宿のスープは薄かった。

 野菜の味はした。塩の味も、探せばした。けれど肉の味はほとんどしない。木の匙で底をさらっても、出てくるのは柔らかくなった豆ばかりだった。これが悲しさの味、と私は報告書に書き込んだ。そもそも書き方がよく分からなかったので、モルに手伝ってもらった。

 

 

 

 

 私は三日で暇になった。原っぱでぼんやりと空を眺めたり、飛び回ったりすることが多くなった。

 

 そんなある日、木の棒を持った子どもが来た。

 私は街外れの草地にいた。幸い、飛び回ってはいなかった。

 

 

 

 

 

 私は木陰に座って、薄い焼き菓子を食べていた。

 始まりの街で、今のところ一番おいしかったものだ。素朴。甘さ控えめ。もう少しバターが欲しい。

 

「勝負しろ!」

 

 ふと、声がした。

 顔を上げると、小さな男の子が立っていた。

 

 短い栗色の髪。日に焼けた頬。膝に絆創膏。手には、剣のつもりらしい木の棒。私をまっすぐ見ている目だけは、やけに強そうだった。

 

 構えは雑。

 足元は危ない。

 武器は棒。

 しかも、よく見ると、木の棒の太い方を前に向けて持っている。

 反対では……?

 

「私と?」

「そうだ!」

「どうして?」

「強そうだから!」

 

 助けを求めて、そばにいるモルを見る。

 モルは草を噛んでいた。

 

 

 

 

 私は焼き菓子を包みに戻し、仕方なく立ち上がった。きっと彼も腕に自信があるのだろう。何せ、私が強いと見破るくらいなのだし。

 

「じゃあ、少しだけね」

「いくぞ!」

 

 男の子は勢いよく踏み込んだ。

 踏み込んで、自分の足に引っかかった。

 

 そのまま前のめりに転び、顔面から着地する。木の棒が手からすっぽ抜けて、ころころと私の足元まで転がってきた。……えっ……?

 

「えーっ!?」

 

 思わず声が出た。

 

 弱い。

 弱すぎる。

 こんなに弱くて、毎日どうやって暮らしているのだろう。

 

 

 

 

 男の子は地面に座ったまま、顔を真っ赤にして私をにらんだ。

 

「い、今のは違う!」

 

 違うらしい。

 何が違うのかは分からない。けれど、本人がそう言うなら、たぶん違うのだろう。

 

 

 

 

「もう一回!」

「いいけど、棒、反対じゃない?」

「反対じゃない!」

 

 反対だった。

 彼は、二回目も転んだ。

 

「えー……」

 

 今度は少し小さめの声にした。傷つくといけないと思って。

 

 

 

 

 

 

 その子は、ユリスという名前だった。

 次の日も来た。

 その次の日も来た。

 またその次の日も来た。

 しつこい。

 

 

 

 

 最初は、毎回転んだ。勢い余って勝手に一回転しかけ、途中で失敗して転ぶ。ここまでくる最中にも転んでいるに違いなかった。

 

 忙しい子だった。

 

 三日目から、私は転び方を教えることにした。

 

 人間の子どもは、転び方が下手だとすぐ怪我をする。膝が破れる。肘が擦れる。泣いているのはちょっとかわいそうだから。

 

「なんで勝負の練習なのに、転ぶ練習なんだよ」

「転ぶから」

「転ばないって!」

 

 彼は五秒後に転んだ。

 私は拍手した。

 

「今のは上手だった」

「……ほんとか?」

「うん。膝を打ってない。えらいね」

 

 ユリスくんは、物凄く得意げな顔をした。

 さっきまで真っ赤だった頬が、今度は別の理由で赤くなっている。

 

「……もう一回やる」

 

 声が少しだけ弾んでいた。

 

 かわいい。

 これはもう仕方ない。

 

 

 

 

 

 それからは、剣の打ち合いにも付き合うようになった。

 もちろん、本気ではやらない。

 

 木の棒を借りて、村娘ができそうな範囲で、ゆっくり受ける。速すぎると怪しまれるし、強すぎるともっと怪しまれる。だから、ユリスくんの木剣が当たりそうなところへ、ちょうどよく自分の棒を置いた。

 

 かん、と乾いた音が鳴る。

 

 夏の空き地に、木と木がぶつかる軽い音が何度も響いた。ユリスくんが踏み込むたび、草の上に細かな土埃が立つ。額には汗が浮かび、握りしめた小さな手はすぐ赤くなった。握りすぎである。

 

 

 

 

 

 最初のうちは、正面から来るだけだった。次に、斜めから来るようになった。ある日には、わざと視線を外してから打ってきた。さらに別の日には、踏み込みを小さくして、木剣だけを先に伸ばすようになった。

 

 おお。

 成長している。

 

 私は少し楽しくなった。

 

 ただ、たまに調子に乗る。明らかに当たっていない攻撃を当たったと主張するのが彼の得意技だった。

 

「今の、当たった!」

「当たってない」

「当たった!」

 

 ユリスくんは悔しそうだった。

 

 次の日、もっと強く打ってきた。

 そして、また足元が乱れて転んだ。

 惜しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうやって、何年も経った。

 

 彼が持っていたのは、最初は、ただの木の棒だった。

 次に、少しまっすぐな木の棒になった。

 その次に、村の鍛冶屋さんが作った練習用の木剣になった。

 

 

 

 いつの間にか、ユリスくんは転ばなくなった。少なくとも、何もないところで転ぶことは減った。踏み込みも、振り下ろしも、だいぶましになった。まだ危ないところはあるけれど、最初を思えば大成長である。

 

 背も伸びた。

 声も少し低くなった。

 昔は私を見上げていたのに、ある日ふと気づくと、私が逆に見下ろされるようにまでなっていた。

 

「ネリネ、もう一本」

「休まなくていいの?」

「平気」

「朝ごはん食べた?」

「食べた」

 

 

 

 

 

 

 ある日、ユリスくんは本物の剣を持ってきた。

 

 草地の端には、あの大岩があった。

 正確には、大岩だったものだ。

 

 斜めに切られた下半分と、少し前へずり落ちた上半分。街の子どもたちは、その上に登って遊び、大人たちは荷馬車の目印にしていた。最初からそういう岩だと思われているらしい。

 

「見ててよ」

 

 ユリスくんはそう言って、大岩の下半分の前に立った。

 

 風が草を揺らす。ユリスくんは息を整え、剣を握り直した。昔なら、ここで手に力を入れすぎていた。今は違う。肩の力が抜けている。足も、ちゃんと地面を踏んでいた。

 

 剣が振られる。

 きん、と硬い音がして、大岩の表面に白い傷が一本入った。

 細い。

 でも、確かに傷だった。

 近くで見ていた子どもたちが声を上げた。大人たちも集まってくる。

 

「岩に傷をつけたぞ!」

「ユリスがやったのか!」

「すごいな、勇者様みたいだ!」

 

 ユリスくんは、少し照れたように笑った。

 私は、斜めに切られてずり落ちた大岩を見た。

 それから、その表面に入った細い白い傷を見た。

 

「すごいね、ユリスくん」

 

 本当にそう思った。

 その瞬間、ユリスくんの顔がぱっと明るくなった。

 街の人たちに褒められた時より、ずっと分かりやすかった。

 かわいい。

 人間は成長するのだなぁ。

 

 

 

 

 

 始まりの街は相変わらず平和で、スープは相変わらず薄かった。特産品もないままだ。

 

 季節が変わると、草地の花の色が変わった。春には白い花が丘の下に散り、夏には草の匂いが濃くなり、秋には畑の土が乾いて、足音が少し軽くなる。雨の日は街道に泥が浮き、冬になると井戸の縁が白く凍った。

 

 ユリスくんは、寒い日でも木剣を持って来た。

 私は寒い日は出たくなかった。

 でもユリスくんが来るので出た。

 仕方ない。

 ユリスくんは、寒い中で素振りしたせいだと思うけど、たまに風邪を引いたりもした。温かいスープを作って持って行ったら、真っ赤な顔をさらに赤くして、嬉しそうな顔をしていた。

 

 

 

 

 

 そうしているうちに、ユリスくんは街で一番強い若者になった。

 転ばなくなっただけで、とても得意げだった、あのユリスくん。

 

 ある日。

 そのユリスくんが、勇者になった。

 その日は、朝から街が騒がしかった。

 

 教会の鐘が、いつもより長く鳴っていた。からん、からん、と澄んだ音が屋根の上を渡り、畑の方まで広がっていく。広場には人が集まり、誰かが走り、誰かが泣き、誰かが笑っていた。

 

 私はモルと一緒に広場の端へ向かった。

 

 焼きたてのパンの匂いと、踏まれた土の匂いと、人間たちの熱気が混ざっている。小さな子どもたちは大人の間をすり抜けようとして怒られ、老人たちは杖をついて背伸びをしていた。

 

 広場の真ん中に、ユリスくんが立っていた。

 右手の甲に、光る紋章が浮かんでいる。

 白く、強く、まぶしい光だった。

 

 人に囲まれながら、ユリスくんは何度か視線を動かした。

 祝福する村長でも、泣いている鍛冶屋でもなく、誰かを探すみたいに。

 

 目が合った。

 

 ユリスくんの肩から、少しだけ力が抜けた気がした。

 

 

 

 

 ――勇者の紋章。

 

 魔王城の会議で聞いたものと同じだった。各地に現れるかもしれないと言われていた、たいへん面倒な兆候。

 

 それが、ユリスくんの手にあった。

 私は息を吸った。

 吐いた。

 もう一度、見た。

 やっぱり光っている。

 ユリスくんの手で。

 あの、木の棒を反対に持っていたユリスくんの手で。

 

 私は、その場では叫ばなかった。我慢した。えらい。

 

 

 

 

 

 その日、街はお祭りみたいになった。

 

 誰かが酒を出し、誰かが肉を焼き、子どもたちが走り回った。薄かった宿のスープにも、今日は肉が入っていた。こういう日だけ本気を出せるなら、普段から出してほしい。

 

 ユリスくんは、いろんな人に囲まれていた。

 おめでとう。

 頼んだぞ。

 この街の誇りだ。

 魔王を倒してくれ。

 平和を取り戻してくれ。

 私も何か言いに行こうかと思ったが、いい台詞が思い浮かばなかった。「別に倒さなくてもこの街って平和だと思うよ」と言うとちょっと浮きそうだったし。

 

 人間は、ひとりの若者にいろいろなものを乗せる。

 ユリスくんは笑っていた。

 笑って、うなずいて、ひとつひとつ返事をしていた。

 

 

 

 

 

 夜になって、私は街の外へ出た。

 

 誰にも見られないように、モルと一緒に石壁の外を歩いた。夜の草原は昼と違って、ずっと静かだった。草の先に夜露がついていて、歩くたびに裾が少し濡れる。遠くの森からは虫の声が聞こえ、空には星が散らばっている。始まりの街の明かりは背後で小さく揺れていた。

 

 祭りの声も、ここまで来るとぼんやりした波みたいにしか聞こえない。

 

 私は草原の真ん中まで行った。

 

 誰もいない。

 

 よし。

 

 私は両手を握った。

 

「えーっ!?」

 

 思いっきり叫んだ。

 草原に声が飛んでいった。驚いた夜鳥が、どこかでばさばさと羽音を立てた。私も背中の羽を思いっきり広げて羽ばたいた。服が破れる音がしたが、それどころではなかった。

 

「あのユリスくんが勇者!? 木の棒を反対に持ってたユリスくんが!? えーっ!?」

 

 言えた。

 すっきりした。

 

 モルは少し離れたところに座っていた。夜露を含んだ白い毛が、月明かりでぼんやり光っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 翌日の夕方、ユリスくんは私のところへ来た。

 

 その日も街の人はお祭り騒ぎを続けていた。

 私が呼び止められたのは、広場の騒ぎから少し離れた、街壁近くの道でだった。西日が石畳を赤くしていて、風には焼いた肉と麦酒の匂いが残っている。遠くで誰かが歌っていた。

 

 ユリスくんは、旅支度の話をしていたらしい。腰には本物の剣。肩には、見慣れない新品の外套。顔つきも、昨日までより少しだけ大人びていた。

 

 あのユリスくんが。

 ちゃんと勇者みたいな顔をしている。

 私は彼を見上げ、少し感動した。

 

「ネリネ姉ちゃん」

「うん」

「俺、行ってくるよ」

「うん」

 

 ユリスくんは、一度だけ息を吸った。

 それから、私をまっすぐ見た。

 

「平和を取り戻してくる。だから、待ってて」

 

 いい声だった。

 昔より低くなった声が、夕方の風の中でまっすぐ届いた。広場の騒ぎが少し遠くなった気がした。

 

 すごい。

 あの、棒を反対に持っていたユリスくんが。

 私はまた感動した。

 

「ネリネ姉ちゃん」

「うん」

「……いや、いい。帰ってきたら言う」

「うん。待ってるね」

 

 そう答えると、ユリスくんは少しだけ表情をゆるめた。

 安心したような、困ったような、まだ何か言いたそうな顔だった。

 

 何だろう。

 旅の荷物が不安なのかもしれない。

 

「靴ずれには気をつけてね」

「……うん」

「干し肉も持った?」

「持った」

「替えの靴下は?」

「持った」

「えらいね」

「ネリネ姉ちゃん」

 

 ユリスくんは少しだけ眉を寄せた。

 

「俺もう、子どもじゃないよ」

 

 そう言った。

 

 私はうなずいた。

 

「知ってるよ、ユリスくん」

 

 ユリスくんは、なぜかもっと複雑な顔になった。

 難しい。

 人間の大人は、褒めどころが子どもより難しい。

 

 

 

 

 

 

 

 その夜。

 私は宿の二階の小さな部屋に戻った。

 

 窓の外では、まだ街の人たちが騒いでいる。笑い声と歌声が、夜風に乗って入ってきた。部屋の中には、古い木の床の匂いと、干した毛布の匂いがした。モルは床の上で丸くなっている。白い毛が、月明かりを受けてぼんやり光っていた。

 

 私は椅子に座り、ここ二日で起きたことを順番に思い返した。

 

 ユリスくんが勇者。

 平和を取り戻してくるユリスくん。

 待っててくれと言ったユリスくん。

 とても立派になった。

 あとは、ちゃんと朝ごはんを食べて旅に出れば大丈夫。

 

 そう思った時、モルが顔を上げた。

 もふ、と毛が揺れる。

 次の瞬間、モルの首元の毛の奥から、黒い筒が転がり落ちた。

 魔王城からの連絡筒だった。

 

 私は拾って、封を切った。

 中の紙には、短くこう書いてあった。

 

『監視対象ユリス、勇者として覚醒。

 担当個体ネリネは、定点監視任務を解除。

 以後、対象勇者の随行監視に移行せよ』

 

 なるほど。

 私はもう一度、紙を見た。

 

 随行監視。

 そういえば、勇者を見つけた後はどうするか聞いてなかった。

 言ってたのかもしれないけど、私は覚えてなかった。

 つまり、ついていくってこと?

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝。

 

 村の門の前で、ユリスくんは旅支度を整えていた。

 

 朝の空気は冷たく、草の葉に露がついていた。東の空は白く明るみ始め、街壁の影が長く地面に伸びている。門のそばには、見送りに来た人たちが何人もいた。誰もが少し泣きそうで、でも笑おうとしていた。

 

 ユリスくんは、その真ん中に立っていた。

 

 剣を腰に差し、外套を羽織り、昨日よりさらに勇者らしい顔をしている。

 私は荷物を背負い直し、モルの毛を軽く叩いた。

 もふ、といい音がした。

 

 

 

 

 

「ユリスくん」

 

 呼ぶと、ユリスくんが振り返った。

 そして、私と背負った大きな荷物を見て、固まった。

 

「……ネリネ姉ちゃん?」

「来ちゃった」

 

 ユリスくんは、今まで見たことない顔をしていた。

 旅の荷物が、何か足りなかったのかもしれない。




前作「逃げる魔法使い」も、「勇者と人外女子のお話」ではありましたが、ほぼ冒険終わってからの話だったので!
のんびり冒険も見たいなぁって。



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