勇者が生まれないか街を見張っていた魔物の私、懐いてきた子をうっかり勇者に育て上げてしまう 作:うちっち
「旅の医者です。患者の気配が来たので参りました」
ノルクの言葉に、霧の中が一瞬だけ静かになった。
助かった。
なんで来たのかはさっぱり分からないけど、今の私に一番必要な人材こそがノルクだった。
「患者の気配って……何?」
クラリッサさんが、かなり疑わしそうに聞いた。
「困った患者の声を聞けるのが名医の条件なのですよ」
「その説明、形が悪いわ」
「さあ、診察を優先しましょうか。時間が惜しい」
ノルクは平然としていた。
クラリッサさんはまだ何か言いたそうだったけれど、エルミナさんが一歩前に出た。
「先生、お願いします。ネリネさんが、岩壁に……」
「承知しました」
ノルクは私の前に膝をついた。
その涼しげな顔を見た瞬間、私は小さく手を伸ばす。ノルクが、ほんの少しだけ顔を近づけた。
『ノルク、なんとかして』
『何をすればよろしいですか』
『岩壁にめり込んだのに、擦り傷だけで、ちょっと怪しまれてる。ごまかして』
『承知しました』
承知が早い。さすが私の副官。
ノルクは立ち上がり、私の頬の擦り傷が消えた場所、肘、背中、岩壁、逃げた霧翼竜の方向を順番に見た。
それから、低い声を出した。
「これは……!」
ユリスくんの肩が、びくりと動く。
「先生?」
エルミナさんの声が震えた。クラリッサさんは唇を噛んだ。
ノルクは、私の背中の方へ視線を落とした。
そして、岩壁を見た。
私がめり込んでいた場所は、岩が崩れて穴がぽっかり開いている。砕けた石の粉が、霧に濡れて黒くなっていた。
「岩が割れています。人間の背中より、岩の方が硬い」
「当たり前のこと言わないで」
「無事で済む衝撃ではありません。通常の人間ならどうなるかというと……」
ユリスくんの手に、少しだけ力が入った。
「脊椎が粉々になっていても不思議ではありません。衝撃が腹部まで抜けていれば、肝臓や腎臓にも損傷が出ます」
そ、そこまで具体的に言う……?
「外部に傷が少ないとは、つまり、衝撃が外へ逃げず、内部へ残った可能性があります」
ノルクの声は、相変わらず平らだった。
だから余計に、言葉だけが重かった。
「さらに、霧翼竜の暴風を正面から受けている。肉体の損傷だけでなく、魔力循環の乱れ、神経伝達の遅延、遅発性の内出血、呼吸機能の低下。すべて疑うべきです」
エルミナさんの顔が青ざめた。
クラリッサさんも、さっきまで私の傷跡を見ていた目を、そっと閉じた。
ユリスくんは何も言わなかった。私の手を握ったまま、息を止めたみたいになっている。
でもちょっと私の方を見てほしい。呼吸機能が低下してないことは明らかなのに。
ノルクは、きっぱり言った。
「下手に動くと、折れていた骨がずれる可能性があります。出血が広がる可能性もある。痛みがないことは、安全の証明になりません」
「痛くないのに?」
「痛みを伝える経路が損傷している場合、痛みは届きません。この場合、患者の訴えは採用しません」
ユリスくんの顔色が、さらに悪くなった。
「ネリネが痛くないのが……怖い……!」
「痛くないのに?」
「先生が、痛みが届いてないかもしれないって言った」
痛みがそもそもないんだけど……。でも、ユリスくんは私が痛い方が心配らしいので、何も言わないことにした。
ノルクは、私の背中のあたりを見て、さらに重々しくうなずいた。
「応急処置を行います」
ノルクはそう言うと、モルの方を見た。
どうして通じているのかは分からないけれど、ノルクが手を入れると、モルのもこもこの中から折り畳み式の小さな衝立と、白い布と、細い木の棒が出てきた。
モル。いつの間にそんなものを。
衝立が立てられる。私とノルクが、みんなから少し隠された。
「やりすぎじゃない?」
「見えない方が効果的です。まずは、外部に傷が少ない理由を説明する必要が」
「それで内部が大変なことになったの?」
「はい」
「はいじゃないよ」
ノルクは平然と白布を広げた。
特に何か切ったり縫ったりするわけではない。私の背中に手を当てているように見せたり、肘のあたりを確認したりした。さらに、酒場の店員さんがやるみたいにシャカシャカと謎の銀色の入れ物を唐突に振ったりした。たぶん音が必要だったのだろう。そして、私の包帯の上に、ぺたぺたと札を貼った。
しばらくして、ノルクが衝立をどかした。
ユリスくんが、すぐに身を乗り出してくる。
「先生、ネリネは……!」
「起き上がり禁止です」
ノルクは、もう一度はっきり言った。
「外傷は軽微ですが、内部損傷の可能性を否定できません。少なくとも聖都の治療院で精密に診るまでは、上体を起こさない方がよいでしょう。できれば長期で療養できる場所に移動すべきです。例えば、前に働いていた場所などですね。城であればなお良い」
「療養する場所まで指定するの……?」
「ネリネ、聞いた? 起き上がらないで」
ユリスくんが、私の手を握ったまま言った。
「ちょっとくらいよくない?」
「ちょっとも駄目」
「水を飲む時は?」
「俺が持つ」
「焼き菓子を食べるときは?」
「俺が持つ」
ユリスくんが「俺が持つ」しか言わなくなってしまった。
そこに、エルミナさんが両手を胸の前で握って入ってくる。
「ユリス様、駄目です。焼き菓子なんて。もっと体にいいものを飲むべきです」
まだエルミナさんは何も言っていないのに、私の頭の中に「薬湯」という単語が浮かんだ。
「回復魔法を続けます。内側の傷なら、外からは見えないだけかもしれません」
どっちもいりません、という私の主張はついに通らなかった。
岩壁にめり込んだという事実が強すぎた。
一方、クラリッサさんは周囲を見回していた。
「寝台が必要ね。布だけでは不安定だわ」
「寝台?」
「起き上がり禁止なのでしょう。なら、寝かせたまま運ぶ必要があるわ」
クラリッサさんは、すぐに材料を確認し始めた。
モルの収納から、木の板と、丈夫な布と、細い縄が出てくる。ユリスくんが木を組み、エルミナさんが布を張る。クラリッサさんが結界で歪みを押さえ、ノルクが「ふむ」と頷いた。いつの間にか、モルがみんなの物入れになっている。
そうして、私のための簡易寝台ができた。
木の枠に、丈夫な布を張っただけのものだ。持ち手の部分には縄が巻かれ、濡れた手でも滑らないようになっている。布は少したわんでいて、寝転がると背中が沈む。旅の途中で急いで作ったものとしては、かなりよくできていた。
そして、ユリスくんの手によって抱き上げられた私は、そっと寝台に寝かされた。
「回復を助けるなら、石も置いた方がいいわ」
クラリッサさんが、真剣な顔で言った。
「青い石は熱を逃がす。透明な石は魔力の濁りを見やすい。黒い石は衝撃の残りを吸いやすいと言われているわ」
クラリッサさんは、まず枕元に透明な石を置いた。
「頭の近くには、澄んだ石がいいわ」
次に、肩の隣へは青い石。
「霧の湿気が残っているかもしれないし」
腰のあたりには、黒っぽい石。
「岩壁に当たった衝撃が残っているなら、このあたりね」
足元には、白い丸石。
「巡りを整えるなら、端にも置いた方がいい」
私は寝台の上から、それを見ていた。
最初は、お守りみたいだった。
ちょっと大げさだけど、心配してくれているのは分かる。石もきれいだ。クラリッサさんは少し楽しそうだったし。それはいい。
問題は、止まらないことだった。
気づくと、寝台の周りに石が増えていた。
私は、いつの間にか、石にぐるりと囲まれていた。
クラリッサさんは、石をただ置くだけでは終わらなかった。
寝台の縁に沿って、まず平たい石を敷く。その上へ、丸い石や小さな結晶をひとつずつ重ねていく。石同士が転がらないように、間には薄い結界の線が通された。
一段、二段。場所によっては三段。四段。五段。
私が横になった目線から見ると、石の向こう側が少し見えにくくなってきた。
低い塀みたいだった。いや、低い塀だった。
私の周囲を、ぐるりと石の壁が囲んでいる。頭の横にも、肩の横にも、腰の横にも、足元にも。逃げ道みたいな隙間は、結界の細い光でつながれていた。
透明な石は霧の光を受けて淡く光り、青い石は水の底みたいに暗く、黒い石は湿気を吸ったようにつやつやしている。もう横を向いたら石の壁しか見えない。その中に私が寝ている。
これはもはや寝台というか棺では……?
「クラリッサさん、これ棺だよ」
「寝台よ」
「周りに石の塀があるよ」
「回復を助ける配置よ。石は単体より、層にした方が流れが安定するわ」
「層だから囲いになってて棺みたいなんだよ」
クラリッサさんは、少し考えた。
そして、寝台の周囲を見た。
「少なくとも、蓋はないわ」
「蓋があったら完全に埋める前じゃない?」
「……冗談よ」
今の間は、冗談ではない気がした。
クラリッサさんは、最後に小さな透明な石を一つ、私の胸元の近くに置いた。
「これは?」
「見守り石」
「急に可愛い名前が来た」
「揺れたら分かるわ」
監視石だった。私は心の中で「ノルク石」という名前を付けた。
クラリッサさんは、全体を見て、満足そうにうなずいた。
エルミナさんは寝台の横に立ち、両手を私の上へかざした。
淡い光が、ふわりと降ってくる。温かい。
「エルミナさん、もう大丈夫だよ」
「内側の傷は、外から見えないらしいですから」
「ずっと治癒魔法を使ってると疲れちゃう」
「私は平気です。ネリネさんも平気なんですよね? なら一緒です」
言い返せなかった。
そして、ノルクは寝台の端に、小さな札を置いた。
そこには、きれいな字でこう書かれている。
『起き上がり禁止』
私はその札を見た。札も私を見ている気がした。
さて、問題は移動だった。
ユリスくんが寝台の前側に立つ。
「俺が持つ」
早かった。
「ユリス様、寝台はかなり重いと思います」
「持てる」
「石もあるわよ?」
「持てる」
「ネリネさんも乗っています」
「ネリネは重くない」
聞く耳を持たない。でも、ユリスくんが前を持っても後ろを持つ人がいないんじゃ……。
すると、クラリッサさんが寝台の後ろ側に手をかざした。薄い結界が、寝台の端をふわりと支える。
「後ろは私が支えるわ」
「ずっとですか? 大変ですよ?」
「こういう鍛錬をしたいと思ってたから。ちょうどいいわ」
そして、ユリスくんは寝台の前側を持ちあげようとした。
聖剣を握っていた時と同じくらい真剣な顔だった。
ぐらり。
寝台が横に傾いた。
「わ」
「ごめん!」
私の周りの石が、かたかた鳴る。透明な石と青い石が触れて、小さな音を立てた。ノルク石も、胸元でかすかに震えた。さっそく揺れを察知したらしい。
「ユリス、揺れているわ」
「分かってる!」
「青い石がずれるじゃない」
「ネリネじゃなくて石!?」
「両方よ」
クラリッサさんが結界を強める。今度は後ろ側が少し浮きすぎた。
私は寝台の中で、ほんの少し足元の方へ滑りかける。
クラリッサさんは眉間に皺を寄せ、結界の角度を変えた。
そのままゆっくりと、霧渡りの谷を進むことになった。
ユリスくんが前側を持つ。
クラリッサさんが後ろ側を結界で支える。
エルミナさんが横から回復魔法をかけ続ける。
ノルクは少し後ろを歩き、時々「揺れています」「上体は起こさないでください」「本人の大丈夫は採用しません」と言った。なぜしれっとついてきているのか、誰も聞かなかった。たぶん旅の医者だからだろう。
モルは、もこもこと横を歩いていた。
たまに心配そうに私を見上げる。
私は、石に囲まれた寝台に寝かされ、勇者に運ばれ、魔法使いに支えられ、神官に回復され、医者に発言権を奪われていた。
最初は、一歩ごとに寝台が揺れた。
ユリスくんは腕だけで寝台を持とうとして、濡れた石を踏むたびに、石たちがかたかた鳴る。クラリッサさんの結界も、それを追いかけるように上下していた。
「ごめん」
「大丈夫だよ」
「その大丈夫は採用しない」
「ユリスくんまで」
「採用しない」
ユリスくんが悪い言葉を覚えてしまった。
このままだとノルクになってしまう。
それでも、霧渡りの谷を抜ける頃には、寝台の揺れは少しだけましになっていた。
ユリスくんが段差を踏むたびに、透明な石と青い石がかたかた触れ合う。クラリッサさんの結界も、ときどき遅れて寝台の後ろ側を持ち上げすぎる。
けれど、最初のように、私は水切りされる野菜みたいに左右に揺れることはなくなった。
谷の湿った匂いが少しずつ薄れ、代わりに草と土と、遠くから流れてくる煙の匂いが混ざってくる。
そこから、私は起き上がり禁止の札と一緒に、聖都セフィラまでの時間を過ごした。
最初の宿場では、寝台を入口にぶつけかけた。
ユリスくんが真っ青になり、クラリッサさんが「今のは壁の位置が悪いわ」と言い、ノルクが「患者を揺らさないでください」と淡々と言った。
一言だけ言うなら、壁は悪くないと思う。
次の村では、寝台を囲む石の塀が珍しがられた。
「ご……ご病気ですか? これはまるで棺のような……」
やっぱりそうなんだ。
私はそっとクラリッサさんを見上げた。
「あら。寝台よ? セインベルでは今こういう形が流行りなの」
クラリッサさんが、涼しい顔で、即座に訂正した。あと、さりげなくセインベルが道連れにされていた。そこの神官であるエルミナさんは凄く何か言いたそうな顔をしていた。
雨の日もあった。
ユリスくんは寝台の前側を持ったまま、泥の深い場所を避けて歩いた。足を取られそうになるたび、膝で揺れを殺す。
クラリッサさんの結界は、後ろ側だけでなく、寝台の上全体へ薄く広がった。雨が私にかからないように。
エルミナさんの回復の光は、歩いている間、1度も途切れることがなかった。
途中から、カタカタと揺れる石の音が少しずつ減っていった。
ユリスくんは、腕だけで支えるのをやめた。足を置く場所を先に見て、肩ではなく体全体で寝台を持つ。剣を振る時と同じだ。力を入れるのではなく、力の逃げ道をなくす。
クラリッサさんも変わっていった。
最初は、ユリスくんの揺れに遅れて結界を動かしていた。けれど、しばらくすると、ユリスくんが足を置く前に、結界がほんの少し沈むようになった。寝台が揺れそうになると、その揺れを先に受け取って、反対側へ逃がす。
エルミナさんの回復魔法も、最初は私の上からまっすぐ降ってくるだけだった。
けれど、寝台が揺れなくなってくると、その光も少し変わった。私の体の上に乗るのではなく、寝台の動きに合わせて薄く広がり、石と石の間を通って、温かい膜みたいに私を包む。
治すところは、たぶんあまりない。
でも、ずっと温かい。
私は、棺みたいな寝台の上で、少し眠くなった。
「ネリネ、眠い? それともしんどい?」
ユリスくんが、前を向いたまま聞いた。
「眠くないし、しんどくないよ」
「本当? 好きな食べ物は?」
「焼き菓子」
「温泉卵は?」
「好き」
「よかった」
いいんだ。
その日の夕方、遠くに白い城壁が見えた。
夕日を受けた石壁は、霧渡りの谷の岩とはまるで違っていた。乾いていて、明るくて、高い。
壁の向こうに、青白い塔がいくつも立っている。
門の上には、翼を広げた女神の紋章。巡礼者たちの列が、ゆっくりと門へ向かっていた。
普通なら2週間かかるはずだったが、なんと私たちは1週間で着いた。
正確に言うと、私たち+寝台である。かなりいい記録なのでは。
聖都セフィラ。
美味しいものがたくさんあるに決まっている町。
「ようやく着きましたね。神託の通り、ここで『光の標』を受けられるはずです」
エルミナさんが、ほっとしたように言った。
光の標。
神託でユリスくんが言われていた、聖都での目的だ。何かよく分からないけれど、勇者がここで何かを受けたら魔王城の結界を抜けられるらしい。普通に受付に並んだら抜けられるのだけど、あんまりそれは知られてないだろうし。
「ですが、まずはすぐ治療院へ行きましょう。ネリネさんを診てもらうのが先です」
私は門を見た。
食べ物の匂いがする。
焼き菓子。
パン。
たぶんスープ。
この1週間、薬湯を飲み続けていたので何でもおいしく食べられる気がした。
でも、私が向かう先は治療院らしい。
「ほら、見て。これがセフィラよ」
「よく頑張りましたね、ネリネさん……」
クラリッサさんが涙ぐみ、エルミナさんに至っては泣いていた。
「ちょっと屋台寄っていきましょうよ」と言い出せる雰囲気ではなかった。