勇者が生まれないか街を見張っていた魔物の私、懐いてきた子をうっかり勇者に育て上げてしまう 作:うちっち
警鐘だった。
それまで遠くで荘厳に響いていた鐘の音が、急に高く短いものへ変わり、大聖堂の白い石壁を何度も叩くように鳴り続けた。
「外縁結界が揺らいでいます!」
大聖堂の奥から、神官さんが駆け込んできた。白い服の裾が乱れ、息も上がっている。それでも一度は膝をつこうとして、途中でやめた。今は礼儀より報告が先だと判断したらしい。
「東の結界線が、一時的に薄くなっています。見張り台から、外に動くものが見えると!」
「東だと……まずい。あちらは地形的に兵が守りづらい……!」
司祭さんが、祭壇の上の白い記録板へ視線を落とした。
その時だった。
記録板が、かちり、と小さな音を立てた。誰も触っていない。なのに、その白い表面へ、さっきまではなかった文字がゆっくり浮かび上がっていく。
司祭さんの目が見開かれた。
「……おお……! 神託の続きが出ました!」
「え? 今ですか?」
私は思わず聞き返した。
三人が深層刻印に成功して、聖都の結界出力がどうとか言い出して、警鐘が鳴った直後である。というかここでも神託出るんだ。いちおう神殿だもんね。
司祭さんが、記録板に浮かんだ文字を読み上げた。
「標の光、古き守り手を起こす。
鎮めよ。
鎮めし後、道は開く」
大聖堂の中が、少しだけ静かになった。
「古き守り手、とは?」
エルミナさんが聞いた。
司祭さんは、まだ青い顔のまま答える。
「おそらく、聖都の外縁結界に残る古い自律守兵です。大昔、この都を守るために置かれた防衛機構です。通常なら眠ったままのはずですが……標の出力が想定を超えたことで、異常として認識されたのかもしれません」
「守るためのものが、こちらへ?」
クラリッサさんの声が少し低くなった。
「もし標の光を侵入、あるいは暴走と見なしたなら、鎮圧対象として動きます」
「だからやめようって言ったじゃん……」
「壁まで行きます」
ユリスくんは聖剣の柄に手を置いたまま、もう大聖堂の入口の方を見ていた。
クラリッサさんとエルミナさんも、すぐに頷いた。
私は寝台の上で目だけを動かす。
「私は?」
「ネリネはここで――」
ユリスくんが言いかけた瞬間、私の寝台を囲んでいた石が、かた、と音を立てた。
青い石が動いた。透明な石が細い結界の線を引きながら持ち上がり、黒い石が寝台の下へ沈み込むように移動し、白い丸石が足元へ集まっていく。石の塀がほどけ、寝台の形が変わっていく。石が背もたれになり起き上がり、肘掛けになり、足元の支えになる。私の半身は寝たまま持ち上げられた。
いや、起き上がったわけではない。
寝台が勝手に、私を座らせたのだ。
「クラリッサさん?」
「私ではないわ」
クラリッサさんは、珍しく本当に驚いた顔をしていた。
「じゃあ何?」
「標が石に通った影響ね。……たぶん、あなたを起こさずに視界を確保する形を選んだのだと思うわ」
「すごい」
思わず言ってしまった。実際、すごかった。
ずっと寝たままだと、見えるものが天井と空と、時々ユリスくんの心配そうな顔くらいだったのだ。背中を支えられたまま少し角度がつくだけで、世界が急に広くなる。祭壇が見える。大聖堂の扉が見える。みんなの顔が見える。
とてもありがたい。ありがたいのだけど。
私は自分の左右を見た。背中には石の背もたれ。左右には青と白の石の肘掛け。足元には黒い石の台。元寝台は木も布もなくなり、完全に石になってる。なんだか二回りくらい大きくなってる気がする。というか……。
「これ、玉座では?」
「療養椅子よ」
「療養椅子って、こんなに偉そうになるもの?」
「安定性を高めた結果よ」
私は肘掛けに手を置いてみた。置き心地がよかった。石がちょうどいい場所にある。なんだか悔しい。
「……ちょっと楽」
「でしょう。石はいいのよ」
クラリッサさんが、少しだけ満足そうにした。
その時、椅子の下に集まっていた黒い石が低く光り、石の脚が床からふわりと離れた。私ごと、椅子が浮いた。いや、ここに来るまでもクラリッサさんの魔法で浮いていたけども。
「浮いた」
「浮いたわね」
「療養椅子って浮く?」
「……今は浮いているわ」
「説明を諦めないで」
石の療養椅子は、私を乗せたまま、ゆっくりと大聖堂の扉の方へ向きを変えた。動きは静かだった。揺れも少ない。寝台で運ばれていた時より、ずっと楽だった。
ただし、見た目は完全に、空中を進む玉座だった。
「これ、私が偉そうに見えない?」
「患者よ」
「患者は浮遊する玉座で移動しないと思う」
「ネリネ、揺れない?」
ユリスくんがすぐ横についた。
「揺れない。かなり快適」
「よかった」
いいのか。
そして、大聖堂の扉が開く。
私は、石の療養椅子に座ったまま、外へ出た。
夕方の空が、不自然に暗く見えた。聖都の白い建物の間を、神官や聖騎士たちが走っている。巡礼者たちは道の端に寄せられ、聖騎士が何人も城壁の方へ向かっていた。
石畳の上を、療養椅子が低く浮いたまま進んでいく。ただ、周囲の石がかすかに触れ合う、澄んだ小さな音だけがした。
かなり乗り心地がいい。癪だけど、かなりいい。
道の端に寄せられた巡礼者たちが、私を見て固まっていた。分かる。包帯を巻いた村娘が、勇者一行の一番後ろで、石の椅子に座って宙を滑っていくのだ。私が逆の立場でも見る。かなり見る。
城壁へ着くと、聖騎士たちが道を開けた。ユリスくんが前へ出て、クラリッサさんが私の椅子の位置を確認し、エルミナさんが「寒くありませんか」と膝掛けを直してくれる。
城壁の上から外を見た。
聖都の東側には、白い城壁の外に広い平野が広がっている。その先、夕暮れの影が落ちるあたりに、黒いものが動いていた。最初は、波みたいに見えた。でも違う。足がある。槍がある。旗のようなものも見える。
「……軍勢? 魔王軍か……!」
誰かが呟いた。
「まるで見計らっていたようではないか……!」
聖騎士の一人が、低い声で言った。
でもそうか。魔王軍がやってきた可能性もあるのか。司祭さんは、古き守り手がどうとか言ってたけど。よし、ここは知り合いだったら頼んで去ってもらおう。
知り合いこいこい。魔王城の知り合いとか。昔の部署の人とか。せめて、私が顔を見て、「おっ」ってなる相手なら……。
次第に、黒い軍勢が近づいてくる。
骨だった。
骸骨の兵士たちが、剣や槍を持って、白い城壁へ向かって歩いてくる。鎧は古び、あちこち欠けているのに、足取りだけは揃っていた。肉も、目も、息もない。
知らない。誰これ。顔がわかればっていうか、顔がない……。
「古き守り手、か」
ユリスくんが聖剣を抜いた。
その瞬間、城壁の上の空気が変わった。聖剣に白い光がまとわりつく。けれど、霧渡りの谷で見た白風とは違う。刃の中へ沈み込むように、白さが濃くなっていく。
ユリスくんが一歩踏み出すと、聖剣の先から、細い光が伸びた。糸のように見えたそれは、次の瞬間には刃の幅を持ち、さらにその先へと長く伸びる。
剣が、大きくなったのではない。剣から、白い斬撃そのものが伸びていた。
ユリスくん自身も、一瞬だけ驚いた顔をした。けれど、足は止めなかった。城壁の階段を駆け下り、開きかけた城門の前へ出る。
「ユリス様に続け!」
聖騎士たちが動いた。城門が開く。結界が一時的に薄くなっている以上、門前で押し返すしかないらしい。
骸骨兵の先頭が、槍を構えて進んでくる。数が多い。骨の足が地面を打つ音が、乾いた雨みたいに重なっていた。前列が盾を上げ、その後ろから槍が並ぶ。
ユリスくんが、聖剣を振った。
横薙ぎに放たれた光の刃が、地面すれすれを走り、骸骨兵の前列をまとめて払う。膝から下を失った骸骨兵たちが、乾いた音を立てて崩れていく。
倒れた骨の向こうから、次の列が押し寄せた。
ユリスくんは、もう一度剣を振る。今度は斜めに走った白い光が、盾の隙間を抜けて、奥の列まで届いた。骨の腕が飛び、兜が跳ね、隊列に大きな穴が空く。
けれど、骸骨兵たちは止まらなかった。前列が崩れても、後ろの列がその骨を踏み越えて進んでくる。砕けた腕が足元で跳ね、折れた槍を拾った別の骸骨兵が、何もなかったみたいに構え直す。
その中央に、一際大きな骸骨がいた。
厚い胸甲。折れた冠みたいな兜飾り。長い槍。まわりの骸骨兵たちは、その一体が槍を傾けるたびに、列の向きを変えていた。
リーダー、という言い方が合っているのかは分からない。骸骨だし。でも、あれを倒せば、この軍勢の形は崩れる。そう思わせるだけの存在感があった。
「クラリッサ!」
「見えているわ」
クラリッサさんは、石袋へ手を入れた。
急いでいるはずなのに、指先の動きは雑にならなかった。丸い石を避け、濁った石を避け、ひびの入った石を避ける。そうして最後に、一つだけを摘み上げる。
澄んだ紫色の石だった。
小さいけれど、内側に星みたいな光がある。さっき、深層刻印の光に浮かび上がった石だ。
クラリッサさんの指が、石の表面を一度だけゆっくりと撫でる。
「……この石は、撃つには惜しいわ。でも、これが一番形がいい」
クラリッサさんの足元に刻まれていた点のような光が、紫の石へ吸い上げられていく。石を中心に、透明な輪が一つ生まれた。その外に、もう一つ。
石を中心に、結界の薄い膜が何層にも重なり、ぎゅっと押し固められていく。城壁の白い旗が、風もないのに揺れる。クラリッサさんの髪が、ふわりと浮く。
ここまで来て、ようやく分かった。
撃つ、つもりだ。
クラリッサさんは、中央の大きな骸骨を見据えた。
ユリスくんが光の斬撃で前列を裂く。その一瞬だけ、軍勢の中央まで細い道が開いた。クラリッサさんは、その隙間へ石を向ける。
石の周りの結界が、さらに縮んだ。きし、と空気が鳴る。
クラリッサさんは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「行きなさい」
石に言った。
たぶん、石に言った。
次の瞬間、紫の石が消えた。
澄んだ紫の線が、ユリスくんの作った隙間をまっすぐ抜ける。前列の骸骨兵の間を通り、折れた槍の上を掠め、中央にいた大きな骸骨の胸甲へ吸い込まれるように突き刺さった。
ばきん、と硬い音がした。内側に入り込んだ結界が、そこで無理やり形を取り戻した音だった。
大きな骸骨の胸が、内側から裂けた。厚い胸甲が爆炎と共に四方へ弾け、背中側へ紫の光が抜ける。中央の骸骨は、胸を失ったまま二歩ほど進もうとして、それから糸が切れたみたいに崩れた。
その瞬間、軍勢の動きが乱れた。
クラリッサさんは撃った先を見つめていた。勝った顔ではなかった。大事な宝物を見送る顔だった。
「……いい石だったわ」
けれど、骸骨兵たちは完全には止まらなかった。指揮官格が砕けても、古い命令だけが残っているみたいに、骨の兵士たちは波のように前へ進もうとする。聖都の兵士たちが打って出たが、明らかに数が違う。ぱっと見でも10倍ほど違った。
うーん……。切り結んでるところが邪魔だな……。下手に手出ししたら聖都の兵士も消しちゃいそう。消しちゃまずいよね? だって私、村娘だし……。
ただ、まだ城門には届いていない群れもあった。
ユリスくんの斬撃に崩された列のさらに後ろ。クラリッサさんに指揮官を撃ち抜かれてもなお、平野の奥から押し寄せてくる骨の列。槍を構えたまま、まだ誰とも斬り結んでいない後続の骸骨兵たち。
そこなら、味方はいない。安心。たぶん。
私は、椅子に座ったまま、背中から羽根を数枚、そっと抜いた。ふっと吹くと、羽根は細かい光になって風に乗り、地上の向こうに控える骸骨の群れに、音もなく降り注ぐ。
前線で交戦している者以外の骸骨が、音もなく、全て消えた。これでよし。
槍がぶつかり、骨の剣が盾を叩き、誰かが倒れた。
「負傷者!」
神官たちが駆け寄る。
エルミナさんは階段を駆け下り、途中で立ち止まった。倒れた兵士が一人だけではないことに気づいたのだと思う。
エルミナさんは、両手を胸の前で合わせた。
治癒魔法の光が、いつものように一人へ向かって集まるのではなかった。エルミナさんの足元から白い糸が伸び、倒れた兵士たち全員へ向かう。
膝をついていた兵士が、息を吸った。剣を落としかけていた聖騎士が、もう一度柄を握る。倒れていた若い兵士が、隣の仲間に支えられながら立ち上がる。
もちろん、完全に治ったわけではない。痛そうだったし、血も残っていた。でも、倒れない。エルミナさんの祈りが届く限り、戦線が切れない。
骸骨兵たちは、倒れても骨を鳴らして立ち上がろうとした。
でも、聖都の兵士たちも倒れなかった。
ユリスくんの白い斬撃が、最後の一列を薙ぎ払った。クラリッサさんがもう一つ、今度は少し形の悪い石を撃って、残っていた大きな骨の塊を崩す。さっきほど悲しそうではなかったので、やはり石にも格があるらしい。
そして、聖都を襲った骸骨の群れで、動いている者はいなくなった。
その時、背後のずっと遠くから、妙な音がした。
重い扉が、長い眠りから覚めるような音だった。
ごとり、と石が動き、続いて低く擦れる音が聖都の奥から響いてくる。
司祭さんが、城壁の上で驚いたように振り返った。いちおう彼も、戦況を見守りに来てくれていたらしい。
「……開いた」
「何がですか?」
エルミナさんが、まだ息を整えながら聞く。
司祭さんは、大聖堂の方を見つめていた。
「古の記録庫です」
その声は、さっきよりもずっと低かった。
「本来、入れない場所です。遥か昔の光の標に関する記録と、過去の勇者伝承が納められていると伝えられています」
「道が開くって、外の道じゃないんだ」
私は石の療養椅子の上で呟いた。
骸骨兵を鎮めたら、聖都の外へ出る門が開くのかと思ってた。でも開いたのは、聖都のさらに奥へ続く道だったらしい。というか今回、私はほぼ何もやってないけど……。
私は療養椅子の背に、少しだけ体を預け直した。
城壁の上で石の椅子に座っている私を、聖騎士たちがちらちら見ている。
「ところであの子は……? なんかずっと後ろで座って見てたけど……」
「すげー立派な椅子っていうか玉座に座ってる……」
「あ! 勇者様が駆け寄った! なんか報告してる……?」
「魔法都市の魔法使い様もずいぶん丁寧に接してた」
「神官様まで膝掛けを直してたよな」
「ひょっとして、ご身分の高い方じゃないのか」
「言われてみれば、雰囲気が……」
「いや、雰囲気というか、椅子が……」
「俺、見たんだよ! あの子が羽を吹いたら、地上を埋め尽くしてた骸骨が一瞬で消えたんだ! まるで壁画か神話みたいだった!!」
「そんな天使様じゃあるまいし」
失礼な。
これは玉座じゃなくて療養椅子だし、私はハーピー型の魔物である。