勇者が生まれないか街を見張っていた魔物の私、懐いてきた子をうっかり勇者に育て上げてしまう 作:うちっち
神殿を出ると、聖都の空はまだ明るかった。
白い石畳には昼の光が薄く反射していて、巡礼者たちの影は短い。
さて、次の行き先は、白灯台。
白灯台へ向かう道は、聖都を出てしばらくは広かった。
けれど西へ折れると、少しずつ巡礼路の石畳は古くなっていく。遠くに丘が重なり、その向こうから湿った風が吹いてきた。
療養椅子の背に掛けていた布が、ふわりと浮く。
その瞬間、ぱしん、と背中側で何かが弾けた。
「わ」
布が椅子の背にぴたりと戻る。
クラリッサさんの結界だった。ほとんど同時に、エルミナさんが私の肩へ上着をかけ直してくれている。ユリスくんとノルクが「出遅れた」という同じような顔をしていた。
「ありがとう」
「風が強いわね」
「はい。風は、空にいろいろ飛ばしてしまいますから。気をつけないと」
「いろいろ?」
エルミナさんは一瞬だけ黙った。
「ええと、砂とか……?」
「そうね。旅先で砂を軽んじる者は、旅に泣くわ」
「そんな格言あるの?」
「私の座右の銘よ」
「そうなんだ」
「今できたわ」
エルミナさんが、ものすごく真剣な顔で頷いた。
「です」
二人とも真剣だった。
旅先の砂は、思ったより危険らしい。
私は背中側の布を押さえながら、なるほど、と頷いた。今日も旅で一つ賢くなった。
その時、足元のモルが、鼻を鳴らした。
「どうしたの?」
白い毛の中から、ぽすん、と黒い封筒が落ちる。同時に、小さな箱も。
「あ、実家からだ」
封には、見慣れた黒い印が押されていた。
「実家から手紙? 封書で? ずいぶん物々しい実家ね」
「形式にうるさいので」
私は封を開いた。
中の文字は短かった。
『現地状況が不安定であることを確認。ノルクと相談の上、一度戻ること。
夜霧まんじゅうを届けるからあまり拗ねないこと』
戻る。
うーん。
「戻った方がいいのかなあ」
「戻る?」
エルミナさんの声が、少しだけ高くなった。
「あ、いや、実家に」
「実家ですって……?」
今度はクラリッサさんの声が低くなる。
「その実家、黒い封筒で命令文を送ってくるのね。あまり感心しないわ」
「家風です」
ユリスくんも、少しだけ眉を寄せた。
「ネリネ、帰るの?」
「今は帰らないよ。白灯台に行くところだし」
「……そっか」
ユリスくんは、ほっとしたように息を吐いた。
エルミナさんも、なぜか同じくらいほっとしていた。
「そうです。白灯台です。地上のです! 地上の白灯台へ行きましょう!」
「地上なのは知ってるよ?」
「はい。地上は良いところです」
エルミナさんが、妙に力を込めて言った。
「それより、実家から夜霧まんじゅうが届いたよ」
「夜霧まんじゅうって何かしら?」
「実家の名物。ほら、クラリッサさんが食べたがってたやつ。おいしいよ」
「食べ物なのは確定しているの?」
「もちろん。開けて開けて。あったかいうちがおいしいから」
クラリッサさんは小さな箱を少し迷った後、こわごわと開けた。箱から噴き出した黒い湯気がクラリッサさんの顔面を直撃した。
「ぎゃーーーー!!!!!」
「あ、当たりだ」
黒い霧は、周りに広がり、療養椅子の膝掛けを覆い、周囲全体を丸ごと飲み込んでいく。隣のユリスくんの顔も、足元のモルの鼻も、真っ黒な湯気に覆われて見えなくなった。
「ちょ、ちょっと待って! 待って!! 何これ!?」
「夜霧まんじゅう。ちょっと湯気が多いんだよ」
「湯気!? 湯気なの! いえ違うわ!! 煙よこれは!」
「湯気だよ。当たりだね。美味しいやつは湯気も多いんだ」
それにしても周りが全然見えない。きっと、魔王様が選り抜きのやつを送ってきてくれたんだろう。さすが名誉顧問。
「クラリッサさん、いる?」
「ええ! ここにいるわよ! 見えないだけで!」
「よかった」
「よくないわ! 食べ物を開けただけで安否確認が必要になるの、かなり形が悪い!」
でも、匂いは甘かった。
黒蜜と、木の実と、蒸した皮の匂い。見た目だけなら封印された何かだけれど、ちゃんとおまんじゅうの匂いだ。
「ほら、いい匂い。クラリッサさん、早く食べて」
「視界が死んでいるのに、嗅覚だけで安心しろと?」
「湯気が多いほど当たりなの」
「当たりの概念が怖い!」
クラリッサさんは、黒い霧の中からぬっと顔を出した。
それから、ものすごく嫌そうな顔で、そろそろと小箱に手を伸ばす。
「……これ、手を入れて大丈夫?」
「おまんじゅうだよ」
「その言葉への信頼が、今かなり下がっているのだけれど」
クラリッサさんの指先が黒い霧の中へ消えた。次に手首が消えた。
「うわ、温かい……」
「蒸したてだからね」
「霧の中に手を入れて温度を報告する日が来るとは思わなかったわ」
やがて、クラリッサさんの手が戻ってきた。
指先には、真っ黒なおまんじゅうが一つつままれている。
黒い。皮も黒い。湯気も黒い。ついでに、半分に割ると中からも黒い霧が出る。
ぷしゅー! と黒い湯気があふれた瞬間、クラリッサさんは面白いくらいに肩を跳ねさせた。
「中からも出るの!?」
「当たりですから」
「外れは?」
「何も出ないんです」
「そっちの方が……いえ。何でもないわ」
クラリッサさんは、割ったまんじゅうをしばらく見つめていた。
かなり警戒している。
でも、黒蜜と木の実の匂いが勝ったらしい。彼女は覚悟を決めたように、小さくかじった。もぐもぐ、と頬張って。
「どう?」
「……腹が立つわね」
「その味の表現初めて聞いた」
「おいしい、ってことよ」
おお。
「外はほかほかで、中は少し冷たい。黒蜜と木の実の香りも悪くない。……見た目がここまで形悪いのに、味だけちゃんとしているのが腹立たしいわ」
「夜霧まんじゅうは名物なので」
「名物なら、まず食べ物に見える努力をして」
そう言いながら、クラリッサさんはもう一口食べた。
気に入ったらしい。
エルミナさんは、黒い霧の外から、遠巻きに眺めてきた。素早く湯気の範囲から退避したらしい。
「その湯気、吸っても大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。甘いよ」
ユリスくんは黒い霧の向こうで、クラリッサさんが二口目を食べているのを見てから、ようやく手を伸ばした。
黒い霧はしばらく道の上に残っていた。巡礼者が一人、遠くから見て祈りの印を切っていた。おまんじゅうなのに。
少し休んでから、私たちはまた白灯台へ向かった。
白灯台へ近づくにつれて、風がさらに強くなる。道は丘へ向かってゆるく上り始めた。柵の向こうには、細い旧道が見えた。今はほとんど使われていないらしく、草に半分埋もれている。
その旧道の方から、悲鳴が聞こえた。
「……行こう!」
クラリッサさんが言うより早く、ユリスくんは走り出していた。
旧道の先には、小さな石橋があった。
その近くで、巡礼者らしい親子が岩陰に身を寄せている。父親が子どもを抱きしめ、母親が杖を構えていた。
その前を、丸い甲羅を持つ小さな魔物が三匹、ぐるぐる回っている。
犬くらいの大きさ。背中は石のように硬く、丸まると車輪みたいになる。地面を転がるたびに、石畳を削って火花を散らした。
「石車虫よ」
クラリッサさんが短く言った。
「普段は旧道の奥にいるはずです。白灯台の灯が消えて、導きの結界が弱ったのかもしれません」
エルミナさんが、親子の方へ駆ける。
石車虫の一匹が丸まった。ごろごろと音を立てて、母親の方へ転がる。
「下がって!」
ユリスくんが聖剣の腹で受け止めた。がん、と鈍い音がして、ユリスくんの腕が少しだけ押される。
石車虫は跳ね返ると、またくるりと向きを変えた。
速い。しかも硬い。
たぶん、普通の人が受けたら足どころでは済まない。
私はほうきを構えた。
目の前に一匹、転がってくる。
ちょうどいい。
椅子に座ったまま、ほうきの柄を横から差し出す。
石車虫が、ころん、と引っかかった。
そのまま、ほうきをぽーんと跳ね上げる。
あ。
思ったより飛んだ。
石車虫は塀を越え、水路を越え、草むらの遥か向こうへ落ちた。どすん、ごろごろ、としばらく音がして、それから静かになる。
二匹目はユリスくんが聖剣の腹で弾き、三匹目はクラリッサさんの結界で進路を折られて、石橋の下のぬかるみに半分埋まった。
エルミナさんが親子を支える。
「お怪我はありませんか」
「だ、大丈夫です……助かりました」
母親が震えた声で言った。
「灯が消えてから、旧道に魔物が出るようになって……白灯台へ食べ物を届けに行きたかったんです。でも、道が分からなくて」
ユリスくんは、親子を見たまま黙っていた。
エルミナさんが、子どもの擦り傷へ手をかざす。淡い光が広がり、小さな傷がふさがっていく。
クラリッサさんが、旧道の奥を見た。
「灯が消えた影響で、周辺の結界も弱っているのでしょうね。白灯台を戻せば、こういう被害も減る。……でも、神託に書かれるのは灯台だけ」
困っている人は、神託に選ばれた場所だけにいるわけではない。
私は干し林檎の袋を抱えたまま、少し考えた。
ユリスくんは、そういう人を放っておけない。それは、とても良いことだと思う。
それに、魔王城へ向かうのが少し遅くなるなら、それはそれで。私としてはかなり助かる。……よし!
私は療養椅子の上で、こほん、と咳をした。
「ユリスくん。神託に出てこなかったから、困ってないってことにはならないよね」
ユリスくんが、こちらを見た。
「ネリネ……」
「白灯台も困ってるなら行った方がいいと思う。でも、途中で困ってる人がいたら、そっちも助けていいんじゃないかな。ユリスくんは、神託があるから助けるんじゃなくて、困ってる人がいるから助けるんでしょ? どんどん寄り道していこうよ」
言ってから、少しだけ不安になった。口を出しすぎただろうか。
でも、ユリスくんは怒らなかった。
むしろ、少しだけ目を丸くして、それから小さく笑った。
「うん」
その声は、さっきよりもずっと軽かった。
「そうだね。ありがとう、ネリネ」
「どういたしまして」
私は胸を張った。
親子を安全な道まで案内してから、私たちは白灯台へ向かった。
道は少しずつ高くなっていく。草の匂いに、湿った潮の匂いが混じる。遠くで鳥が鳴き、風が白い道標の古い文字を撫でていく。
やがて、丘の上に白い塔が見えた。
空へ向かって伸びる白い石の柱。頂上には、灯を入れるための丸い部屋がある。けれど、そこに光はなかった。
塔のふもとには、小さな建物がある。灯台守の家だろうか。入口の前に、何人かの巡礼者が座り込んでいた。
白い石碑には、風に削られた文字が刻まれていた。
まだ遠くて、私には読めない。
けれど、エルミナさんの顔が少しだけ強ばった。
「白鐘の大異変……」
その言葉だけが、風の中で聞こえた。
まずは灯を戻すことになった。
白灯台の中は、外から見るよりずっと狭かった。白い石の螺旋階段が、塔の内側をぐるりと上へ伸びている。壁には、古い灯皿へつながる細い溝が彫られていた。そこへ白火を通す仕組みらしい。
ただ、その溝の一部に、黒い苔のようなものが詰まっていた。
これがどうやら、ただの苔ではない。
近づいて見ると、目の焦点が少しずれる。右の壁にあるはずなのに、瞬きをすると左の壁にあるように見える。灯台守さんが手を伸ばすと、指先は苔ではなく、何もない石壁を撫でた。
「取ろうとすると、道が分からなくなるんです」
灯台守さんが、かすれた声で言った。
「上へ行ったはずなのに、入口に戻る。灯皿へ向かったはずなのに、外へ出てしまう。白火を通そうとしても、火の方が迷ってしまって」
「迷い苔ね」
クラリッサさんが、溝を見上げて言った。
「白火の導線に絡みついて、灯台の中の道をずらしている。普通に削っても取れないわ。削る場所を間違えるから」
「どうする?」
ユリスくんが聞く。
「まず、道の基点を固定する。ユリスは中央に。エルミナは白火を呼ぶ準備を。私は結界で溝の位置を縫い止める」
クラリッサさんは、青い石を取り出しながら、すらすらと指示を出した。
灯台掃除は、思ったより本格的だった。
「私は?」
「ネリネさんは――」
クラリッサさんが言いかけたところで、私は療養椅子をふわりと浮かせた。
上の方にも黒い苔が見える。灯皿の縁に、もこもこと絡みついている。
「あれ取ればいいんだよね?」
「待って。まだ道を固定していないわ」
「大丈夫だよ。うちの実家もよく曲がるから」
私は螺旋階段の内側をゆっくり上がった。確かに、壁の溝が右に見えたり左に見えたりする。上へ行っているはずなのに、一瞬だけ下へ進んでいるような気もした。
でも、そのくらいだ。
魔王城の廊下の方が、もっと曲がる。
私は灯皿の縁に絡みついた黒い苔へ、ほうきの先を引っかけた。
「よいしょ」
ごそっ。取れた。
黒い苔は、少しぬるっとしていた。ほうきの穂先にまとまってくっついている。
「……と、取れたの?」
クラリッサさんが、信じられないように言った。
「あなたの実家の廊下は、曲がるの?」
「たまに」
「たまに……?」
灯台守さんは、私のほうきの先に絡みついた苔を見て、口を開けたまま固まっていた。
上の苔を落とすと、下の溝に詰まっていた苔も少し緩んだらしい。クラリッサさんが結界糸を張ると、溝の位置がぴたりと定まった。
けれど、白火はまだ戻らなかった。
灯台守さんが、壁の溝を覗き込む。
「導線が傷んでいます。このままでは、白火の魔力が途中で散ってしまう」
「替えはある?」
クラリッサさんが聞く。
灯台守さんは慣れた様子で、壁際の棚を開けた。古い布や石粉の袋が並ぶ奥から、細長い木箱を取り出す。
箱の中には、白火用の細い導線と、灯皿の留め具と、小さな結界石がきちんと収まっていた。
「古い灯台ですから、予備は置いてあります」
「そう」
クラリッサさんは、導線を一本つまむ。
「……新しいわね」
「ええ。最近入れ替えたものです」
「へえ。そう」
クラリッサさんは、それ以上は聞かなかった。
ユリスくんが塔の中央に立ち、聖剣の切っ先を石床へそっと当てた。白い光が、床の模様に沿って広がる。
エルミナさんが灯台の中央で祈りを捧げる。
クラリッサさんは新しい導線を溝へ通し、結界石で位置を固定していく。
私は上から、残った苔をほうきで払った。
ぱさ、ぱさ。
やがて、灯台の下から白い光がすうっと走った。
壁の溝を伝い、螺旋階段の横を上り、灯皿へ届く。
ぱ、と塔全体にまばゆく白い火が灯った。
明るい。でも、熱くはない。
白い火は、風に揺れながら、丘の上から巡礼路を照らし始めた。
外で待っていた巡礼者たちから、小さな歓声が上がる。
灯台守さんは、杖をついて膝を折った。
「白火が戻った……!!!」
灯は戻った。白灯台は、また道を示す。
それは確かに良いことだった。
けれど、クラリッサさんは灯そのものより、灯台守の家の中にある古い記録棚を見ていた。
「この灯台の記録を見せてもらえる?」
古い記録帳は、乾いた革の匂いがした。紙の端は黄ばんでいて、文字もところどころ薄い。
エルミナさんが、一冊を開いた。
白鐘の大異変。
その文字が、古い頁の上にあった。
白鐘鳴りしのち、道は乱れ、灯は沈黙す。
白火、三月戻らず。
女神、迷える道を抱きとめ、世界を帰す。
その御力の余波により、巡礼灯は灰のごとく沈黙せり。
私は、文字をじっと見た。
よく分からない。
ただ、エルミナさんの表情が硬くなっている。
「三か月……」
エルミナさんが呟いた。
「白火は、女神様の導きの象徴です。それが三か月も沈黙したというのは……」
エルミナさんは、そこで言葉を切った。
白鐘の大異変。
女神様が、本当に世界の道を戻したという古い記録。
クラリッサさんは、その古い記録帳を閉じ、別の薄い帳面を開いた。
こちらは新しい。紙も白く、文字も整っている。
「今回の白灯台の記録よ」
クラリッサさんは、指先で行を追った。
「灯が消えた。神殿へ報告した。勇者様への神託が出た。そこまでは、まあ分かるわ」
「何かおかしいの?」
「さっきの導線よ」
「導線?」
「記録にもある。搬入元は西巡礼神殿。搬入日は、灯が消える三日前」
三日前。
エルミナさんの顔色が、少しだけ変わった。
「それは……古い灯台だから、定期的に予備を入れ替えていたのでは」
「その可能性はあるわ」
クラリッサさんは頷いた。
「だから、ここだけでは決めない。でも、理由の欄が薄い。『保全』とだけある。他の記録だと定期的に予備を入れ替えるのは全て『定期補修』と書かれているの」
クラリッサさんは、さっき使った新しい導線の方を見た。
「偶然、ということも……」
「あるわ。だから、別の記録を見る」
クラリッサさんは帳面を閉じた。
「灰鐘村も似ていた。神託が出て、勇者が向かい、困っている人が救われる。形だけ見れば綺麗。でもねえ……。ここは、王家に行きましょうか」
「王家に行ったら何があるんだ?」
ユリスくんが聞いた。
「巡礼路の通行記録、物資の搬入、通行制限、救護依頼。教会とは別の形で残っているはずよ。教会が何の理由で送ったかまでは分からなくても、荷がいつ、どこから、どの名目で動いたかは追える」
王家。
そういえば、王家の青印札をもらっていた。王家の宿場や救護倉庫、街道門で身分確認に使えるという札だ。
クラリッサさんは、白火の灯る窓を見上げた。
「神託を疑うんじゃないわ。神託の前に、人が何を知って、何をしていたかを見るの」
エルミナさんは、白火の光を見つめていた。
灯は戻って、巡礼者は助かる。
それなのに、エルミナさんの顔は晴れなかった。
ユリスくんもどこか難しい顔で腕組みをしている。
……あれ?
私はもう1度、周りを見回した。
ノルクが、いない。