勇者が生まれないか街を見張っていた魔物の私、懐いてきた子をうっかり勇者に育て上げてしまう 作:うちっち
クラリッサさんは、王家に残っている記録を確認したい、という。
王家の記録所は、聖都にあった。神殿から少し離れた場所。ということで、私たちは聖都に帰ってきた。
白い塔や尖った屋根ではなく、低くて横に長い石造りの建物だ。入口には王家の青い紋章が掲げられている。
神殿が祈りの場所なら、ここは紙と印と鍵の場所だった。
さっそく中に案内され、扉を開けると、乾いた紙とインクの匂いがした。壁一面に棚が並び、巻かれた地図、通行札の束、荷札、蝋印の押された帳簿がきっちりと収められている。
私は療養椅子の上で、思わず背筋を伸ばした。
すごい。
記録が、ちゃんと残っている。白帳にも見習ってほしい。
「王家巡礼路管理局へようこそ」
奥から出てきたのは、以前、救護馬車で会ったラウエルさんだった。
彼はユリスくんを見ると、丁寧に頭を下げる。
「勇者様。それに皆様。青印札をお使いになると聞きましたが、まさか記録閲覧とは思いませんでした」
「急にすみません」
ユリスくんが言うと、ラウエルさんは首を横に振った。
「いえ。王家の札は、必要な時に使っていただくためのものです。ですが……」
彼はちらりとクラリッサさんを見た。
「今回の勇者神託に関わる、聖都、灰鐘村、白灯台の記録。それから、前回の勇者時代の巡礼路対応記録を見たいの」
「前回の勇者時代……となると、数十年前の帳簿になります」
「それでいいわ。むしろ、それがいいの」
ラウエルさんの表情が、少しだけ変わった。
「承知しました」
ラウエルさんは、奥の文書官に声をかけた。
何人かが棚の間を動き、重そうな帳簿を机へ運んでくる。
どん。どん。どすん。
分厚い。見るだけで少し眠くなる。しかしこれにも大きな学びが詰まっているに違いない。
最初に開かれたのは、聖都の記録だった。
というと神託が出て、ユリスくんが動き、人々が救われた事件。
ラウエルさんが、該当箇所に指をさす。隣にはクラリッサさんとエルミナさん。
ユリスくんと私は早くも戦力外通告を言い渡され、遠目から応援するという非常に重要な仕事を仰せつかっていた。
「前日に、教会側から一部区域の通行整理依頼が出ています」
「理由は?」
「巡礼者混雑の緩和、となっています」
「実際に混雑していたの?」
「通常よりは多かったようですが、王家側の門番記録では、緊急整理を要するほどではありません」
クラリッサさんは何も言わず、頁の端を指で押さえた。
次は灰鐘村。
私たちがつい先日救った村だ。
王家記録では、灰鐘村周辺の通行札、救護品の移動、白楔宿への物資準備が並んでいた。
「灰鐘村の神託が出るより前に、白楔宿へ追加の包帯と保存食が回されています」
「白楔宿は巡礼者が多いから、備蓄を増やしただけではないですか?」
エルミナさんが言う。
次は白灯台。
白灯台の記録を開いた時、クラリッサさんはほとんど表情を変えなかった。
「白灯台の灯が消えたのは?」
「灯台守から神殿へ正式報告が上がったのは、昨日の夜です」
ラウエルさんが別の帳面を開く。
「ですが、三日前に西巡礼神殿から補修用具が出ています。白火導線、灯皿留め具、結界石。白灯台方面の街道門通過記録もあります」
クラリッサさんは、三つの帳簿を机の上に並べた。
聖都。
灰鐘村。
白灯台。
どれも、神託によって人が救われた。
それは本当だ。
聖都の人たちは助かった。灰鐘村の人たちも助かった。白灯台の白火が戻ったことで、巡礼者も助かる。
だけど、机の上の記録は別のことを言っていた。
神託が出る前に、人が動いている。教会側の実務が、先に動いている。
「……女神様が」
エルミナさんが、ぽつりと言った。
「女神様が、先に教会へ備えを命じられた可能性もあります」
「もちろんあるわ」
クラリッサさんは否定しなかった。
「だから、神託を疑っているんじゃない。今見ているのは、人間側の動きよ」
ユリスくんが、帳簿を見下ろしていた。
「救われたことは、本物なんだよな」
クラリッサさんは、少しだけ声を柔らかくした。
「もちろん、そこは疑わない。灰鐘村の人たちも、白灯台で迷っていた親子も、本当に救われたわ。だからユリス、あなたは勇者として、本当に人を助けた」
私は机の上の帳簿を見た。
難しい。
誰かが困っていて、ユリスくんが助ける。それは良いことだ。
でも、その困っている場所が、どうして選ばれたのか。そこをみんなは気にしているらしい。
「前回の勇者時代の記録を」
クラリッサさんが言った。
ラウエルさんは頷き、古い帳簿を机に置いた。
それは、今の帳簿よりもずっと古かった。革の表紙は擦り切れ、角は丸くなっている。開くと、乾いた匂いがした。
「数十年前です。当時は、王家と教会で共同の巡礼路管理記録を残していました。こちらは王家側の写しです」
クラリッサさんは、頁を覗き込む。
前回の勇者。私は、その人のことを知らない。
でも、ユリスくんの顔が少しだけ引き締まった。自分と同じものを背負っていた、ずっと昔の誰か。
指先が、行を追う。
「これも神託より教会が先ね」
ラウエルさんが頷いた。
「多くがその順です。教会が動き、神託が出て、勇者が向かう」
「全部?」
「全てとは言い切れません。古い記録ですから欠落もあります。ですが、少なくとも主要な勇者案件では、神託前に実務が動いています」
クラリッサさんは、今の帳簿と古い帳簿を並べた。
「形が違うわね。神託が出てから動くのならわかるわ。これではまるで、何が起きるか教会が知っているみたい」
クラリッサさんが言った。
エルミナさんが、小さく息を飲む。
「それは……時代が違うから、記録の付け方が変わった可能性も」
「あるわ」
また、クラリッサさんは否定しない。
「だから、まだ断定しない。でも、前回の勇者の記録では、人の動きが常に先にある。今回もそう」
ラウエルさんは、少し声を低くした。
「ここから先は、教会中枢の記録がなければ断定できません」
「でしょうね」
私はラウエルさんを見た。クラリッサさんを見た。ちょっと顔が暗くなっているエルミナさんを見た。そして、隣のユリスくんと顔を見合わせた。
その時、ラウエルさんが小さく苦笑した。
「少し休憩にしましょう。こちらをどうぞ。聖都の菓子です。記録所にお客様が来る時くらいしか出せませんが」
彼は、細い白磁の皿を机の端へ置いてくれた。
皿の上には、小さなお菓子。薄い白砂糖をまとった半月形の焼き菓子で、表面に銀色の粒がほんの少しだけ散っている。中には淡い蜂蜜色の果実餡が入っているらしく、切り口が光を受けて透けていた。
「聖都の名物、白鈴菓です。白鐘をかたどったものだそうです」
私はひとつ摘まんだ。外側の砂糖が、指先でさらりと鳴る。かじると、薄い生地がほろっと崩れた。蜂蜜と、煮詰めた果実の香りが口の中に広がる。
「おいしい」
私は素直に言った。
聖都は、とてもいい場所である。
* * *
菓子に興味津々になっているネリネを残して、クラリッサとエルミナ、ラウエルは記録室の奥へ移動した。
ユリスはネリネの隣から離れなかったので、そのまま置いてきた。白鈴菓の皿を前にしたネリネは、二つ目を食べるべきか、明日に残すべきかで真剣に迷っているようだ。少なくとも、こちらの話に耳を澄ませている様子はなかった。
奥の部屋は、閲覧用の小さな記録室だった。
壁際には背の高い棚が並び、革紐で閉じられた写本や、青い封蝋のついた木箱が収められている。窓は細く、外の光はあまり入ってこない。
そこで、クラリッサは少し声を低くする。
「ラウエルさん。王家には、古い神殿記録の写しもあるのよね」
ラウエルは、少しだけ動きを止めた。
「内容によります」
「天使について、知りたいの」
エルミナの肩が、ほんの少し震えた。
「現在の神殿で教えられる範囲でしたら、エルミナ様の方がお詳しいはずです」
「今の教会で語られる天使と、古い記録に残っている天使が同じものなのか知りたい」
ラウエルは少し考えたあと、頷いた。
「一般には、天使とは女神の言葉を地上へ運ぶ使い、とされています」
エルミナは、かすかに頷いた。
それは神殿で教えられる通りの説明だった。
「ですが、古い記録では、もう少し範囲が広い」
「範囲?」
「言葉だけではありません。女神の御心、力、役目、あるいは女神が地上に及ぼす働きそのものを運ぶもの。そう書かれています」
クラリッサの目が細くなった。
「働きを運ぶ?」
「ええ。神殿の壁画に描かれるような、手紙を持った使者だけではありません。古い記録ほど、天使は『女神の一部が地上で形を取ったもの』に近くなります。だからこそ、どんな時でも女神の心そのものを伝えられるのだと」
エルミナの指が、膝の上で小さく握られた。
「そして、そうした古い記録では、天使には位階があるとされています」
「位階……ですか?」
エルミナが、初めて顔を上げた。
「はい。現在の教会では、ほとんど語られません。少なくとも、一般の神官教育では深く扱わないはずです」
エルミナは答えなかった。その沈黙が、答えだった。
しばらくして、薄い木箱が運ばれてきた。
木箱の蓋には、王家の青い封印が押されていた。文書官がそれを外し、中から一冊の写本を取り出す。
「原本ではありません。王家が保管している写しです」
クラリッサは写本を受け取った。頁をめくる。
白翼。
神託、伝令、祝福の告知に関わる。
金翼。
癒やし、守護、聖別に関わる。
青翼。
道、封印、結界、境界の維持に関わる。
古い紙の上に、整った文字が並んでいる。
羽根の色ごとに短い説明があり、それぞれが女神の働きの一部を担うものとして記されていた。
クラリッサはそこで、頁の下にある見出しに気づいた。
――灰翼。
けれど、その欄だけ、本文がない。ほかの色のような説明がない。端には別の頁を示す小さな記号があり、古い墨で何度も囲まれていた。
「灰翼だけ、説明がないわね」
ラウエルの表情が、わずかに硬くなった。
「灰翼は、他の位階とは扱いが違います」
「どう違うの?」
ラウエルは、写本の後ろの方を開いた。
そこだけ紙の色が少し違った。後から差し込まれた写しなのかもしれない。
「最上位にして、最も危険なものとされています」
エルミナの顔色が変わる。
「灰翼は、大災の天使。女神の言葉を運ぶとともに、最も世が乱れる時にのみ現れる、大いなる天災を告げる者」
部屋が、静かになった。
クラリッサとエルミナは、互いに顔を見合わせた。
「……何色なのかしら?」
「足湯でしたから、確認できませんでしたね……」
ラウエルが怪訝な顔をした。
「足湯、ですか?」
「なんでもないわ」
クラリッサは明るい声で話を変えた。
「ところで、天使であることを確認する方法とかってあるのかしら?」
ラウエルはすぐには答えなかった。
問いの意味を測るように、クラリッサを見る。それから、写本の頁をさらにめくった。
「古い言い伝えですが……羽持つ使いは、女神の古い御名に反応すると記されています。今の神殿では使われない名です」
ラウエルは、写本の端にある細い注記を指した。
「写本では、こう伝えられています。――『羽持つ使いは、古き御名に耳を澄ます』と」
クラリッサは、その短い文をしばらく見つめていた。
「つまり、どういうこと?」
「おそらく、女神の古い呼び名に反応する、という意味ではないかと言われています」
それ以上、ラウエルは何も言わなかった。
記録室の外から、かすかにネリネの声が聞こえた。白鈴菓をもう一つ食べてもいいか、ユリスに相談しているらしい。
クラリッサはその声の方へ一度だけ視線を向けた。
エルミナも同じように、ほんの少しだけ顔を上げた。
そして、どちらも何も言わなかった。
その日の夜。
宿で夕食を取ったあと、クラリッサはネリネに向かって言った。
「ネリネさん。今日は疲れたでしょう」
しかし、ネリネは不思議そうに首をかしげる。
「そう? そんなでも……」
「疲れているの」
クラリッサが強く言った。
エルミナも隣でこくこくと頷く。
「はい。今日はもう、休んだ方がいいです」
「そうなの? まだご飯食べたばっかりだよ」
「はい。では寝ましょう」
「休むってそんながっつりした感じでなんだ」
ネリネは納得していない顔だったが、ユリスにも「今日は休んだ方がいい」と言われると、ようやく頷いた。
クラリッサとエルミナは、ネリネと一緒に、女子部屋としてあてがわれた大部屋に移動した。
部屋は広かった。王家の管理する宿らしく、余計な飾りは少ないが、寝台の布は清潔で、窓には厚い布がかけられている。
早々に部屋の灯りが落とされた。いつもより数刻早い時間だった。
最初は、ネリネが寝台の中でごそごそと動いていた。枕元に干し林檎の袋を置く音がして、それから白鈴菓を包んだ紙をもう一度確認する音がした。
やがて、それも止まる。
部屋には、ネリネの寝息だけが響くようになった。
クラリッサが、そっと目を開けた。
モルが、ネリネの寝台の足元で丸くなっている。目は閉じているが、眠っているかどうかは分からない。……いや。
「見ているわね」
クラリッサが小声で言った。
モルの白い毛が、ほんの少し揺れた。
「止めないなら、見逃してくれるということにするわ」
返事はない。
「試すだけです。言い伝えですから、間違うこともあります」
「分かっているわ」
声は小さかった。
けれど、クラリッサの声も、エルミナの声も、昼間よりずっと硬い。
ラウエルが教えてくれた、天使のみが反応するといわれること。
『羽持つ使いは、古き御名に耳を澄ます』
「……本当に効果なんてあるのかしら」
クラリッサは、ベッドで丸まるネリネの前で、小さく呟いた。
都合のいいことに、布団はベッドの脇に落ちている。おそらくネリネの寝相で跳ね除けられたのだと思われた。ネリネは寝巻をあらわにして、なんと背中をこちらに向けて、すうすうと寝息を立てていた。
あまりに整えられた場面に、クラリッサは一瞬、「ネリネがすべてを知っていてあえて寝たふりをしているのではないか」という想像に襲われた。
寝台の端から少しだけはみ出した手は、干し林檎の袋の紐を握っている。
「今の神殿では使われない御名です。儀式にも、祈祷にも出てきません。私も、読み方だけしか知りません」
「つまり、女神の古い名前を小声で言ってみるだけ」
「はい」
「それで何か起きたら、むしろ怖いわね。たぶん何もない」
「一度だけです」
「反応がなければ終わり」
「はい」
エルミナは、写本にあった古い名を、息よりも小さく唱えた。
そして、クラリッサと共に、じっとネリネを見つめる。
何も起きない。
そう思った。
ぱた。
ネリネの背中で、何かが小さく動いた。
二人とも、呼吸を止めた。
けれど、背中側の布の下で、何かが確かに揺れた。
「動きましたね」
「風かしら?」
「窓は閉まっています」
「寝返りとか」
「寝返りでは、左右同時に動きません」
クラリッサは、しばらく黙っていた。
「偶然ということもあるわ。も、もう一度だけ、やってみましょ?」
エルミナは、もう一度、古い名を唱えた。
今度は、すぐに反応があった。
ぱた、ぱた。
寝間着の背中が、内側からわずかに押し上げられる。気のせいか、羽音らしきものまで聞こえた気がした。
ネリネは目を覚まさない。少しだけ眉を寄せて、干し林檎の袋の紐を握り直しただけだった。
エルミナは、震える息を小さく吐いた。隣のクラリッサに視線を向けると、彼女は「もう1度いけ!」という意味らしき謎の動きをしていた。「3度あれば、偶然ではないわ」ということらしい。
エルミナは、三度目の名を唱えた。
今度は、びり、と小さな音がした。
寝間着の背中に、細い裂け目が走る。その隙間から、背中に畳まれた羽根の端が、ばさーっと音を立てて勢いよく飛び出した。
白ではない。
金でもない。
青でもない。
白に近い、淡い灰色。
羽根先だけが、かすかに銀を帯びている。
エルミナが息を止めた。
クラリッサも、言葉を失った。
灰翼。大災の天使。
その瞬間、足元のモルが動いた。
白い毛が音もなく伸び、裂けた寝間着の背中を覆う。毛先が細い糸のようになり、破れ目をするすると縫い合わせていく。
ネリネは、何も知らずに寝返りを打った。
裂け目はもう残っていない。
二人は、しばらく動けなかった。
ネリネは寝返りを打ったまま、また小さな寝息を立てている。枕元の干し林檎の袋も、白鈴菓の包みも、そのままだった。
クラリッサは、ゆっくりと息を吸った。
エルミナも両手で口元を押さえたまま、目だけを大きく見開いている。
クラリッサは黙って頷き、エルミナの袖を軽く引いた。
二人は、足音を殺して寝台から離れた。扉の前で一度だけ振り返る。ネリネは眠っている。裂け目はない。羽根も見えない。
扉を開ける。
廊下に出て、扉を閉める。
二人は無言のまま、廊下を歩いた。角を曲がり、階段を下り、客室から十分に離れた人気のない物置脇まで来る。
そこで、クラリッサが壁に片手をついた。
エルミナも、もう限界だった。
二人は顔を見合わせた。
そして、声をそろえて叫んだ。
「「えーっ!?」」