勇者が生まれないか街を見張っていた魔物の私、懐いてきた子をうっかり勇者に育て上げてしまう   作:うちっち

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村娘は他人と温泉に入れない

 リューベル療養泉は、町の入口からもう湯気の匂いがした。

 

 道の脇には小さな水路があり、透明なお湯がさらさらと流れていた。建物の軒先には乾かした薬草が吊るされ、窓辺には湯気除けの布が揺れている。

 

 見るからに、体に良さそうな町だった。

 少し不安になった。「薬湯」という文字がちらちらと見える気がする。

 

「ネリネ、どうしたの? つらい?」

「大丈夫だよ!」

 

 ユリスくんが隣から私を覗き込んでくるので、私は両手を上げた。

 彼は、隙あらば私を持ち運ぼうとしてくるので、こうして元気を見せないといけないのだ。

 

 

 クラリッサさんは少し後ろで地図を見ていた。荷物が多い。本、守り石、結界碑の写しを取るための道具、らしい。

 

 エルミナさんは、道中でも薬草の袋を大事そうに抱えていた。きっとすり鉢とかも一緒に入っているのだろう。

 

「リューベルの泉は、体の巡りを整えると言われています。ネリネさんにも、きっとよいと思います」

「体にいいのね。それは形が良いわ」

「はい。温泉に入って、よく温まって、それから薄めた薬湯を飲むと効果的です」

 

 よかった、と私は少し安心した。

 薄い薬湯なら、私も仲良くなれそう。

 

「今日は薄めます。ただ、移動でお疲れでしょうから、効き目は強いものにします」

 

 安心は短かった。

 

 

 

 

 

 

 

 町の入口に近づくと、宿の人たちや泉院の人たちが、私たちを見るなりすぐに道を開けてくれた。

 

 みんな、私を見ていた。

 ぐるぐると全身に巻かれた白い包帯。

 かなり説得力があるらしい。

 

「まあ、こんなにお若いのに」

「泉院へ。すぐに温めた方がいい」

「お部屋は二階より一階の方がよろしいですわね」

「食事は柔らかいものを」

 

 柔らかいもの。

 またお粥の気配がした。

 

 

 

 

 

 

 部屋に通されると、すぐに昼食が出た。根菜のスープ、柔らかいパン、温泉卵、そして少し苦いお茶。全体的に、体に良さそうだった。

 

 私はまず、温泉卵を見た。

 つやつやしている。これは良いものだ。

 

 ユリスくんが温泉卵の殻を割ってくれた。白身がぷるんとしていて、黄身がとろりと揺れる。茶色い出汁をかけてもらって食べると、かなりおいしかった。

 

「おいしい」

 

 ユリスくんは少しだけ表情をゆるめた。最近、私が食べると安心するらしい。

 私はもう一つ食べたいと思ったけれど、エルミナさんが苦いお茶を持って横に立っていた。

 

「こちらもどうぞ。体の巡りに良いお茶です」

 

 苦かった。でも、昨日の薬湯よりはだいぶ飲み物だった。苦いけれど、お茶としての形は保っている。

 

「どうですか?」

「昨日より、お茶です」

「よかったです」

 

 エルミナさんは嬉しそうにうなずいた。褒めたことになったらしい。

 クラリッサさんは、部屋の窓辺に守り石を置いていた。旅先でも石は増えるんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「では、少し休んだら療養泉へ行きましょう」

 

 エルミナさんが、当然のように言った。

 温泉はいいものだ。しかし、非常に大きな問題が、1つある。

 私は、背中でそっと、羽をぱたぱたと動かした。

 隣のモルが「こら」と言うように足を踏んでくる。

 

「今は、いいかな」

「お疲れですか? では、少し休んでから」

 

 逃げ切れない。

 

「包帯も替えましょうか。私がやります。1人だとやりにくいでしょう」

 

 さっきから、エルミナさんの攻撃が強い。的確に私の困る部分を射抜いてくる。

 

「湯に入る前に、包帯は外して、傷の状態を確認して――」

 

 傷の状態だって。ない。代わりにあるのは背中の羽根。

 手術で羽根が生えてきた、と言ったらどうだろう。

 

「私は温泉に入らなくても大丈夫です」

「その『大丈夫』、形が悪いわ。魔力の巡りにも良いから、ね?」

 

 クラリッサさんが即座に言った。形が悪いのは嫌いみたい。……石が好きだから?

 「いたた、傷が痛む」と言おうと思ったけど、心配をかけてしまいそうだからやめた。温泉に入らない理由、理由は……?

 

「湯で温めるのは、体の回復に良いです」

 

 エルミナさんが優しく言う。でも、中身をよく聞くと「早く脱げ」と言っている。こわい。

 

「無理はさせない。俺も近くで待ってる」

 

 ユリスくんが真面目に言う。待ってるから何なの。呼んだら来るのだろうか。来そう。女湯に出現したあとも、世間はユリスくんを勇者と呼んでくれるのだろうか。

 

 

 

 

 

 私は視線を泳がせた。

 部屋の外へ。廊下の方へ。

 そこに、小さな木の札が下がっていた。

 

『⇒足湯はこちら』

 

「足湯」

「え?」

「私は、足湯が好き」

 

 三人が私を見た。

 

「ネリネ。そうなの? 初耳だけど」

「私は三度のごはんより足湯が好き」

 

 言ってから、少し言いすぎたと思った。

 温泉卵の方が好きかもしれない。でも、ここで引いたら負ける。

 

「三度のごはんより……?」

 

 クラリッサさんが、じっと私を見る。こくこくと頷く私。そのとき、くるる、と私のお腹が小さく鳴った。しまった。

 

 エルミナさんは少し迷った顔をした。それから、私の包帯を見て、廊下の木札を見て、もう一度私を見る。

 

「……好きなら、まず足湯からにしましょうか」

 

 勝った。私は三度のごはんより足湯が好きな村娘になった。

 今日から。

 

 

 

 

 

 

 

 足湯は、部屋の外の小さな中庭にあった。石造りの長い槽に透明なお湯が流れていて、近づくだけで足元がじんわり温かい。湯気は白く、空気は少し甘いような薬草の匂いがした。

 

 エルミナさんは少し離れたところで、足湯の効能を泉院の人に確認している。クラリッサさんは中庭の石材を見ていた。

 

「この石、湯で削れているのに魔力の流れが残っているわ」

「クラリッサさん、足湯の石も見るんだね」

「見るわ。水と石は相性がいいもの」

 

 楽しそうだった。やっぱり石が好きなのだと思う。

 私は足湯に浸かりながら、温泉卵のことを考えた。

 もう1つ食べたい。いや、本音を言うと、あと3つくらい食べたい。

 

 

 

 

 

 

 

 足湯のあと、少しだけ散歩しましょう、とエルミナさんが言った。

 湯で温めたあとに軽く歩くと巡りが良いらしい。

 

 

 

 

 

 リューベルの外れへ向かう道は、湯気の町中とは少し違っていた。水路の音が遠くなり、石畳の隙間に古い苔が増える。道の先には、旧巡礼路へ続く低い坂があった。

 

 その途中に、結界碑が立っていた。

 

「……綺麗ね」

 

 石好きのクラリッサさんの最初の感想がそれだった。

 

「綺麗なの?」

「綺麗よ。削れ方が」

 

 そこなんだ。

 クラリッサさんは石碑の前に膝をつき、欠けた文字の縁を指先でなぞった。いつもより少し目が輝いている。

 

「この結界碑は、ただ壁を作っていたわけじゃない」

 

 クラリッサさんは、持ってきた紙に素早く線を引いた。

 

「普通の結界は、強い壁を張る。でも、弱い場所を正確に開けられると、そこから崩れる」

 

 ノルクのことだ。

 クラリッサさんの声に、少しだけ悔しさが混ざった。

 

「けれど、これは違う」

 

 クラリッサさんは、指先で空中に小さな光の壁を作った。薄い、四角い結界。その中央に、自分で小さな穴を開ける。

 次の瞬間、周りの光が穴へ流れ込んだ。

 穴は、なかったみたいに閉じる。

 

「破られた場所を、周りが埋める仕組みが敷かれてる」

 

 クラリッサさんは、珍しく素直にうなずいた。それから、小さく笑う。

 

「使えるわ。次は、あんなふうには開けさせない」

 

 声は静かだった。

 でも、かなり怒っていた。

 

 クラリッサさんは、石碑の写しを取りながら、とても楽しそうだった。悔しそうで、楽しそうで、忙しい人である。

 

 

 

 

 

 

 

 結界碑からさらに少し進んだ先に、聖剣の祠があった。

 案内役の人が、せっかくですから、と言ったのだ。

 

「もっとも、長い間、誰も抜けたことはございません。巡礼者の方々が一度挑まれる、古い名所のようなものですが」

 

 名所。

 ……魔王様も気になるだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 聖剣の祠は、リューベル療養泉から少し坂を上った先にあった。

 

 そこは、岩肌の多い高台の、ゆるく窪んだ開けた場所だった。風を遮るものはほとんどなく、空は広い。遠くまでよく見えた。高台は、草木の生えていない岩壁にぐるりと囲まれている。もっとも、岩壁からの距離はかなりある。弓矢なら、届くかもしれない。

 

 

 

 

 聖剣は社の中ではなく、拝所の中央にある石台に刺さっていた。

 

 もっとこう、近づいたら光るとか、風が吹くとか、神々しい声が聞こえるとか、そういうものを想像していたのだけれど、何もない。

 

 

 

 

 

「この剣が、聖剣ですか?」

 

 ユリスくんが聞くと、祠を守っているお爺さんがうなずいた。

 

「そう伝わっております。真の勇者ならば抜ける、と」

 

 お爺さんは、少しだけ困ったように笑った。

 

「もっとも、長い年月、一度も抜けた者はおりません。巡礼者も、騎士も、腕自慢の方も、皆さま挑まれましたが、動いたことは一度もありません」

 

 私は少し安心した。

 聖剣が本当に抜けるなら、魔王様もたぶん困る。でも、今まで誰も抜けていないなら、たぶん大丈夫だ。安眠できそう。

 

 それに、ユリスくんが勇者っぽいことをするところは、ちゃんと見ておきたい。報告書にも書ける。

 

『聖剣に挑戦しました。

 抜けませんでした。

 おやすみなさい

 すやあ』

 

 私の頭の中に、枕を抱いて喜ぶ魔王様の姿が浮かんだ。その隣では、ノルクも大きく頷いていた。そして「ネリネ様こそが勇者の監視役にふさわしい!!」と両手を挙げて叫んでいた。楽しそう。

 

 ユリスくんは、聖剣の前に立った。

 そのまま、柄に手をかける。そして、ぐっと力を入れた。

 

 聖剣は、石台の奥に根を張ったみたいに、ぴくりともしなかった。

 

 

 

 

 

「……やっぱり、簡単にはいかないか」

「皆様、そうおっしゃいます」

 

 祠守りのお爺さんが、苦笑した。

 

 ユリスくんは返事をしなかった。

 手は、まだ柄にかかっている。肩に力が入っていた。けれど、剣は動かない。

 

 私はそれを見て、少しだけ前に乗り出した。

 頑張っているユリスくんを見ると、応援したくなる。

 いいのだ。どうせ抜けないんだから。

 

「頑張って! ユリスくん!」

 

 そう言うと、ユリスくんが振り返った。

 少し驚いたような顔をして、それから、まっすぐ私を見る。

 

「……うん」

 

 

 

 

 

 ユリスくんは、もう一度、聖剣に向き直った。さっきとは顔が違っていた。

 

「……俺は」

 

 ユリスくんの手に力がこもる。

 

「ネリネを、もう倒れさせたくない」

 

 拝所の空気が、少しだけ震えた。

 

「勇者だからとか、聖剣だからとか、まだよく分からない。でも、俺は」

 

 ユリスくんは、顔を上げた。

 

「ネリネを守れるくらい、強くなりたい」

 

 その瞬間――剣が、動いた。

 

 

 

 

 

 重い音はしなかった。さっきまで少しも動かなかった古い剣が、ずっと待っていた手にようやく掴まれたみたいに、すっと石台から抜ける。

 

 白い光が、拝所いっぱいに満ちた。

 

「えーっ!?」

 

 思わず声が出た。

 

 

 

 

 祠を守るお爺さんが、口を開けたまま固まっている。クラリッサさんも、珍しく目を見開いている。エルミナさんは胸元の聖印を握って、まっすぐユリスくんを見ていた。

 

 ユリスくんは、手の中の聖剣を見下ろした。

 聖剣が、淡く光る。

 

 ユリスくんの手が、少しだけ動いた。

 振ったというより、剣の重さを確かめようとして、切っ先が流れたくらいだった。

 

 次の瞬間、白い斬撃が飛んだ。薄く、速く、まっすぐに。

 それは石畳の上をかすめ、岩の点在する開けた地面を抜けて、離れた岩壁へ届く。

 

「びしっ」と、硬いものの奥に細い亀裂が走る音。

 

 遥か遠い岩壁に、深い白い傷が刻まれていた。見ただけで分かるくらい深い裂け目が、大きくまっすぐ走っている。細いのに、底が見えない。

 

「おお……あの距離まで……!!」

 

 

 

 

 

 

 その時だった。

 こつん、と音がした。

 

 遠くではない。

 聖剣が刺さっていた石台の下からだった。

 

 石の内側を、誰かが指先で叩いたような、小さな音。

 

 こつん。

 

 祠守りのお爺さんの顔から、血の気が引いた。

 

「……祈り喰い……?」

「知っておられるんですか?」

 

 エルミナさんが尋ねる。

 お爺さんは、石台から目を離せないまま、小さくうなずいた。

 

「昔、リューベル領主が旧巡礼路を開き直そうとしたことがありました。そこに出たと言われる魔物が、祈り喰いです。騎士、兵士、神官、魔法使いを集めた、総勢三百名が討伐に向かいました。荷馬車も何台も連ねた、本格的な軍でした」

 

 お爺さんの声が震えている。

 

「戻ってきたのは、空の荷馬車が二台だけだったそうです」

 

 誰も、すぐには言葉を返さなかった。

 

 

 

 

 

「それ以来、旧巡礼路は閉ざされました。祈り喰いは、人が神や聖なるものへ捧げた祈り、願い、供物、封じの力……そういうものに巣食って喰らうものだと伝わっています」

 

 お爺さんは、聖剣が抜けた石台を見た。

 

「聖剣は、あれをここへ押さえつけるために刺されていたのかもしれません」

 

 その間にも、石台の表面に細いひびが走った。

 

 こつん。

 

 三度目の音が鳴った時、ひびの間から黒い根のようなものが這い出した。

 

「ネリネ。下がって!」

「うんわかった」

「ネリネ!」

「下がってるよ?」

「もっと!」

 

 私はもう少し下がった。

 かなり下がったと思うのに。

 

 

 

 

 

 黒い根が跳ねた。

 鞭みたいにしなり、祠守りのお爺さんへ向かって伸びる。

 

「させないわ!」

 

 クラリッサさんが前に出た。

 

 光の結界が、ばちん、と音を立てて広がる。黒い根が結界に突き刺さり、そこに小さな穴を開けた。

 

 でも、崩れなかった。

 

 穴の周りの光が、わっと流れ込む。傷口を塞ぐみたいに、結界が自分で戻っていく。

 

「……通さないって言ったでしょう」

 

 クラリッサさんの口元が、少しだけ上がった。

 かっこいい。

 

 

 

「ユリス!」

「分かった!」

 

 クラリッサさんの声に応じて、ユリスくんが走った。

 

 ついさっき聖剣を抜いたばかりの人とは思えない速さだった。白い剣が光り、黒い根がまとめて切り飛ばされる。

 

 地面は傷つかない。

 石台も壊れない。

 黒い根だけが、白い火に触れたみたいにほどけて消えた。

 

「右から来るわ! 防御して!」

 

 クラリッサさんが叫ぶ。

 

「はいっ!」

 

 エルミナさんが祠守りのお爺さんを支えながら、淡い祈りの光を広げた。お爺さんの足元で揺れていた白い光が、少しだけ持ち直す。

 

「勇者様、石台の下です! 祈り喰いは祈りの残りを喰らって形を保ちます。中心を断てば、崩れるはずです!」

 

 ユリスくんが石台を見る。

 黒い根の奥で、どくん、と何かが膨らんだ。

 たぶん、あれが中心だ。

 

 

 

 

 ユリスくんが踏み込んだ。

 

 黒い根が、わっと広がる。上から、横から、足元から。いっせいにユリスくんへ絡みつこうとした。

 

「クラリッサさん!」

「呼ばれなくてもやってるわ!」

 

 クラリッサさんの結界が、ユリスくんの前で何枚も開いた。

 おお。同時展開はけっこうな高等技術なのに。

 三枚目で、根が押し返される。

 

「今よ!」

「行くぞぉーっ!」

 

 ユリスくんが叫んだ。

 聖剣の白い光が、一気に伸びる。

 

 

 

 ユリスくんが振り抜いた剣の光は、黒い根の束を裂いて、石台の奥にある黒い塊へ届く。

 ずばっ、と音がして、祈り喰いの中心が、真っ二つに割れた。

 

 黒い根が、まとめてほどけていった。石台に絡んでいたものも、結界を叩いていたものも、お爺さんの足元へ伸びていたものも、全部、糸をほどくみたいに消えていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ユリスくんは、聖剣を構えたまま固まっている。

 

「……倒した?」

「はい……消えました」

 

 その言葉を聞いて、ユリスくんがようやく息を吐いた。

 

 クラリッサさんも結界を下ろす。エルミナさんは、お爺さんの肩に手を添えたまま、ほっとしたように目を伏せた。

 

 みんな、石台を見ていた。

 そこにはもう、黒い根はなかった。

 ひびの入った石台と、聖剣が抜けた跡だけが残っている。

 

 私は、少しだけ首を傾げた。

 

 それから、もう一度だけ石台を見た。

 

「ネリネ? どうかした?」

「なんでもないよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 祈り喰いが消えたあと、私たちはいったん泉院へ戻ることになった。

 

 ユリスくんは聖剣を布で包んでもらい、何度も何度も手元を見ていた。クラリッサさんは結界碑の写しを抱えたまま、まだ何か考えている。エルミナさんは祠守りのお爺さんの様子を気にしていた。

 

 私は、また足湯へ連れていかれた。

 ユリスくんがすごく嬉しそうに引っ張っていくので、何も言えなかった。

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 ユリスは、足湯の縁に座るネリネを見ていた。

 本人は妙に真剣な顔をしていた。

 

「三度のごはんより好きなんだよね」

 

 ユリスが言うと、ネリネは少しだけ胸を張った。

 

「うん。足湯はかなり好き。嘘じゃないよ」

 

 ユリスは少しだけ笑いそうになった。

 まだ手の中には、あの白い光の感触が残っている。

 

 祈り喰いは恐ろしかった。

 

 石台の下から響いた、こつん、という音。祈りを喰らう黒い根。結界を食い破ろうとする力。祠守りの老人の震えた声。

 けれど、聖剣は届いた。斬れた。守れた。

 これなら、きっと……。

 

 その時、布に包んだ聖剣が、かすかに熱を持った。

 ユリスは瞬きをする。

 

 湯気の向こうで、ネリネの輪郭が少しだけぶれた。

 包帯に巻かれて、足湯の縁に座っている小さな村娘。

 その奥に、何かが見えた。

 

 ……翼だった。

 

 背中の奥に、ありえないほど大きなものが畳まれている。広げれば、この中庭どころか、空そのものを覆ってしまいそうな影だった。

 

 夜空を、何度も何度も折りたたんで、小さな体の奥へ押し込めたような黒。

 ユリスは息を止めた。

 

 祈り喰いとは、比べものにならなかった。

 

 斬れるとか、斬れないとか。

 倒せるとか、倒せないとか。

 

 そういう形で考えること自体が、間違っている気がした。

 

 小さな村娘の奥に、夜そのものが畳まれている。

 

 

 

 ……昨日、ネリネは黒い術を受けて倒れて、心臓が止まった。

 きっとあれだ。あれが、まだ残っている。

 

 そう思った瞬間、聖剣を握る手に力がこもった。

 

「ユリスくん?」

 

 ネリネが首を傾げた。

 そこにいるのは、足湯が好きだと言い張る、包帯だらけの村娘だけだった。

 

「……何でもない」

 

 ユリスは答えられなかった。

 ただ、ネリネから目を離せなかった。

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

 その夜。

 私は、温泉宿の窓から、そっと抜け出した。

 

 外套を脱いで、背中の羽根を広げる。

 久しぶりに、ちゃんと広げた。そして、夜空を飛び、聖剣の祠へ。

 

 

 

 

 

 聖剣の刺さっていた石台では、こつん、と音が響いていた。

 

 やっぱり。

 祈り喰いは、いったん倒されたけど、まだ生きてる。

 強さで言うと、魔王城の中堅の魔物くらい。野生の魔物にしては、だいぶ強い。

 

 

 石台のひびから、黒い根がにゅるにゅる這い出した。

 昼間ユリスくんが斬ったものより、少しだけ太い。怒っているらしい。

 

 根の先が、ためらいなく私の足元へ伸びてくる。

 受けてみる。

 くるりと足首に絡む。表面がぴりぴりと痺れた。おお、なかなか強いぞ。

 聖剣って、持ったばっかりで、これを倒せるくらいになるんだぁ……。

 

「お前、魔物じゃないのか?」

「え、うん。そうだよ」

「なぜ人間なぞと一緒に来たのだ……?」

 

 普通に聞かれた。

 

「勇者のお姉さんだから……」

「魔物なのにか?」

「いや、お姉さんじゃないのにお姉さんって言われてるの」

 

 一瞬、祈り喰いの動きが止まった。

 

「意味が分からん。では、なぜ人間の町にいる」

「温泉卵がおいしかったから……食べたことある? ぷるぷるしてるよ」

「ない」

「それはもったいないね」

「我は祈りを喰うものだ」

「卵も食べた方がいいよ。祈りだけだと栄養が偏っちゃう」

「食わん。知らん。もういい。邪魔をするなら、お前から殺す」

「えー……。話の途中なのに」

 

 

 ぺきぺき、と祈り喰いは根を伸ばしてくる。あっという間に全身巻き付かれた。そのまま、ぎゅっと締め付けてくる。包帯の上からだったので、二重にぐるぐる。

 

 まあ、いいか。

 

 私はそのまま、()()()()()()、翼を広げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 宿に帰ると、モルが着替えをくわえて寄ってきてくれた。えらい。

 真面目に戦うと、背中が破れるから。

 それは、ちょっと面倒だ。

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