勇者が生まれないか街を見張っていた魔物の私、懐いてきた子をうっかり勇者に育て上げてしまう 作:うちっち
「セフィラに行くには、霧渡りの谷を通る必要があるわ」
なんだか深刻な顔で、クラリッサさんが口を開いた。
霧渡りの谷。あそこだよね。
「とにかく魔物が多いの。空を飛ぶ魔物がすべて集まると言われているわ」
「雲に含まれる水が美味しいので」
「知ってるの?」
「モルもあそこの出身ですから」
足元で、モルが私を見上げた。なんだか複雑な顔をしている。
空飛ぶ魔物が集まると言われたけど、モルは飛べない。岩肌に貼りついて暮らす雲羊は、あそこではちょっと肩身が狭い存在なのだ。
霧渡りの谷の雲はもこもこしていて、吸うとすごく美味しい水が飲める。
モルももこもこしているので、顔を突っ込んで思いっきり吸ってみたことがあるのだが、水は飲めなかった。干したお布団の匂いがした。
吸ったあと、げしげしと蹴られた。
「ネリネが心配だな……まだ包帯も取れてないのに」
「遠回りすることは、できないんですか?」
エルミナさんが、心配そうに聞いた。
「他の道で行けないこともないけど、半年くらいかかるわ。谷を抜けると二週間くらいなのだけど……」
「なら……」
何か言いかけていたユリスくんを遮って、私は手を挙げた。
「じゃあ谷を抜けましょう! 私の体調もそろそろ上向いてきたので!」
「まだ手術から三日くらいしか経ってないのにですか……?」
「私、せっかちなので。注文した料理が40分出てこなかっただけでぷんすかしちゃいます」
「それはその店に問題があるんじゃないかしら」
「あれは入店直後に釜めしなんて頼んだネリネ姉ちゃんが悪い」
「だって名物だって書いてあったから……」
「せっかちだとしても傷の治りとは一切関係ないと思うわ」
「ともかく! これを見てください! 手術してくれた先生も、『もう動いていい』ってお手紙をくれたんですから!」
私は、ノルクに頼んで書いてもらった手紙を見せた。
三人が、私の手元を覗き込む。
「本当みたいですね……」
エルミナさんの呟きに、地味に、私の心が傷ついた。
私の大丈夫だという台詞を、彼女は一切信じてくれていなかったらしい。
患者の気配に寄ってくるさすらいの医者より下。
かなしい。
というわけで、霧渡りの谷に向かうことになった私たち四人。
ユリスくんだけは、「医者がそう言ってても安全策を取るべきだ」と慎重論を唱えた。
けれど、そこは私も引けない。「守ってくれるって言ったよね」と言うと、ユリスくんは黙った。
なんといってもセフィラは聖都である。美味しいものがたくさんあるに決まっていた。早く着きたい。
霧渡りの谷は、遠くから見ると、白い雲が地面に沈んでいるようだった。
左右から切り立った岩壁が迫り、壁沿いに細い山道が縫うように続いている。道の先は霧に飲まれ、十歩向こうさえ白くにじんで見えた。
そっと、山道に足を踏み入れる。湿った空気が頬に触れる。
水の匂いがした。
冷たい石と、苔と、霧の奥に溜まった澄んだ水の匂い。
耳を澄ますと、どこか高いところで、岩を削るような音がした。
がりがり。
それから、少し遅れて、谷の上の霧が大きく揺れた。
見上げても、白い霧が厚く垂れ込めているだけで、姿までは分からない。
けれど次の瞬間、谷道が少し暗くなった。
霧の向こうを、影が横切っていた。
大きい何かが、空を横切っていた。影には、大きな翼がある。片方の翼だけで、谷の片側の岩壁から、反対側の岩壁まで届きそうだった。
ぱらぱら、と冷たい水滴が落ちてくる。
岩壁の上の方で、また爪の音がした。がり、がり、と、硬いものが石を掴み直す音。
影が消えたあとも、谷の霧だけがしばらく遅れて揺れていた。
ユリスくんが、無言で聖剣の柄に手を置いた。
クラリッサさんも、さっきまで地図を見ていた目を上へ向けている。
「……霧翼竜ね。霧渡りの谷が危険地帯とされているのは、魔物が多いからだけじゃない。魔物が多い場所には、それを狩るものがいる。霧翼竜は、その頂点よ」
私は、霧の奥を見た。
「上ばかり見ないで。足元も悪いわ」
クラリッサさんの声は落ち着いていた。
でも、少しだけ低かった。
しばらく進むと、谷道の脇に洞窟があった。
岩の天井から、透明な水が細く滴っている。ぽたり、ぽたりと石を打つ音が、霧の中でやけに澄んで聞こえた。
「綺麗な水ですね」
エルミナさんは小さな器に水を受け、指先をかざした。淡い光が、水面に丸く広がる。
「飲めます。とても澄んでいます」
「水が飲めるか分かるんだ」
「はい。毒や悪いものが混ざっている時は、祈りの光が濁るんです」
便利。私にかざされたらどうなるんだろう。エルミナさんの好奇心が仲間に向かって発揮されないことを、私はただ祈った。
水は冷たくて、少し甘かった。喉を通ると、体の奥がすっと洗われるような感じがする。
クラリッサさんは洞窟の出口近くで、足元の植物を見ている。
「これは食べられるわ。こっちは駄目」
「草も分かるんだ」
「本で読んだもの」
クラリッサさんは、当たり前のように言った。
せっかくなので、少し休むことになった。
洞窟の奥は浅く、外の霧が白い幕みたいに入口へ垂れている。風は通るけれど、谷道よりはずっと落ち着いていた。
ユリスくんが乾いた枝を集め、クラリッサさんが火種を起こす。
最初は頼りない赤だった火が、乾いた枝を舐めるうちに少しずつ大きくなる。洞窟の壁に、私たちの影が揺れた。
入口の向こうには、まだ白い霧がある。
近いのに、外だけ別の場所みたいだった。
クラリッサさんが選んだ植物を、私が細い枝に刺して火にかざした。葉の端が少し丸まり、じゅ、と小さな音を立てる。雨上がりの草を踏んだ時の匂いに、少しだけ香ばしさが混ざったような匂い。
「焦がしすぎないで」
「これくらい?」
「今、少し焦げたわ」
「これは香ばしさだよ」
「焦げよ」
クラリッサさんの判定は厳しかった。
焼けた草を少しだけ塩で食べると、思っていたよりおいしかった。
最初に青い苦味が来る。でも、そのあとにほのかな甘みがあって、噛むと葉の中から温かい汁が出た。しゃくしゃくしていて、少し山菜に似ている。
「おいしいね」
「本当です。苦味も強すぎません」
エルミナさんも、嬉しそうに食べている。
薬湯を作る人だけあって、苦味にこだわりがあるらしい。
ユリスくんは、一口食べてから大きくうなずき「こんなうまいもの食べたことない!」と小さく叫んだ。たぶん1人だけやることがなかったから、褒める係を買って出たものだと思われた。
「無理に褒めなくていいわよ」
クラリッサさんが静かに言った。でも、少しだけ口元がゆるんでいた。
外で、何かの羽音が遠くで鳴った。
ぱさり、と大きく。
ユリスくんが顔を上げた。
クラリッサさんも、手にしていた草を食べる前に止める。
しばらく待ったけれど、それ以上は何も起きなかった。ただ、霧だけが入口の向こうでゆっくり流れている。
「……行きましょうか。あまり長く留まる場所ではないわ」
谷を進むほど、霧は濃くなった。
谷沿いの道の幅は、人が二人並べるかどうかくらい。片側は濡れた岩壁、もう片側は白く霞む斜面になっている。足元の石は丸く、霧に濡れてつやつやしていた。
その時、霧の中から小さな羽音がした。
ぱたぱた。
「ん?」
白灰色の小さな鳥系の魔物が、霧の奥からふわふわと飛んできた。丸い体に、短い羽。くちばしは黒く、目はつぶらで、見た目だけならけっこう可愛い。
1羽が、私の肩に止まった。
もう1羽が頭に乗った。
少しだけ爪が髪に引っかかる。
外套の裾に1羽。
包帯を、くいくいとかじるのが1羽。
「あ、包帯はだめ」
その子は、こちらを見上げた。なんとなく、「なんでこんなの着けてるの?」という疑問を感じた。
かしこい。
ちょっと見覚えがある気がするので、知り合いなのかもしれない。
「ネリネ!」
ユリスくんの声が鋭くなった。
振り返ると、彼は聖剣に手をかけている。顔が真剣だった。
「ネリネが!!! 襲われてる!!!!」
「襲われてないよ」
私は肩の鳥を見た。鳥は、くるる、と鳴いた。
「たかられてるだけ」
「同じだよ!」
私は鳥たちを乗せたまま、山肌に備え付けられた、煉瓦造りの細い道を進んだ。
小さな羽音に囲まれながら進んでいると、クラリッサさんが口を開いた。
「そういえば、セフィラで仲間をもう一人加入させるべきだと思うわ。明らかに前衛が足りないもの」
「俺がいるけど……」
「あなた一人でしょ。今の私たちの編成は不十分よ。前衛として勇者一人、後ろに神官と魔法使い、最後尾に村娘」
「私、前衛やりますよ」
私が立候補すると、クラリッサさんとエルミナさんは非常に困った顔をした。
5歳の子が「私もパパと一緒に働きに行く!」と言い出したのを見たみたいな顔だった。
「できるだろうけど……でも……」
ユリスくんだけがそう言って、腕を組む。
クラリッサさんが、ユリスくんをつんつんと突っついた。
「ちょっと待って。ネリネって村娘じゃないの?」
「村娘だけど。ネリネって俺より強いよ。俺の剣の先生だから」
「うっそでしょ……え? 冗談?」
クラリッサさんが、信じられないものを見る目でこちらを見てくる。
私は胸を張った。
「私がユリスくんに剣を教えました。転んだり剣を逆に持ってたユリスくんにですよ」
「ネリネ姉ちゃん」
「嘘です。ユリスくんは右足に左足を引っかけて転んだりしないし、剣を正しく持つ才能があります。自慢の弟子です」
私はモルの背中へ手を伸ばした。
もこもこの毛の中は、見た目よりずっと広い。魔王城から持ってきたものや、旅先で必要そうだと思ったものが、いろいろ入っている。
村娘が使う武器とは何か。
私は「何となくかっこいい」という理由だけで巨大な斧とかよく使っていた。……あれを、普通の顔して出してみる……? 私の身長の2倍くらいあるけど……。
いや。自分より大きい斧を振り回すのは、村娘ではない。
手を突っ込んで、ごそごそ探る。すると、ふと棒みたいなものが手に触れた。
引っ張ってみる。
出てきたのは、柄の長いほうきだった。
道を掃くための、ごわごわしたやつ。
穂先は少し硬く、柄はそこそこ長い。これで叩かれると、きっと痛いに違いない。
私がほうきを持って構えると、三人はしばし黙った。
霧の中で、小さな鳥たちだけが、私の肩や頭でくるくる鳴いている。
そして、3人は何かを決意したように頷き合った。
きっと、この武器の破壊力に説得力を感じてくれたに違いなかった。「なるほど、二つの意味で掃除するってことね」とかクラリッサさんが言ってくれないかなと思って、じっと見つめた。
クラリッサさんは、黙って視線を逸らした。
その時だった。
肩に乗っていた鳥が、ぴたりと鳴くのをやめた。
頭の上の一羽が、羽を膨らませる。外套の裾を引っ張っていた小さな魔物も、包帯をかじっていた子も、まるで同じ合図を聞いたみたいに、いっせいに顔を上げた。
肩が軽くなる。頭も軽くなる。
私にたかっていた小さな魔物たちは、次々に羽を広げて、霧の奥へ逃げていった。外套の裾に潜ろうとしていた子なんて、足を滑らせながら転がるように飛んでいく。
同時に、霧の上で、大きな翼が鳴った。
ごうん、と、谷の空気をまとめて押し潰すような音だった。
濡れた石の上を、白い霧がざわざわと流れていく。
ユリスくんが、聖剣を抜いた。
「ネリネは後ろへ」
「私、前衛」
「下がって!」
ユリスくんの声が、いつもより強かった。
エルミナさんが私の腕を取って、そっと後ろへ引いた。
「ネリネさん、こちらへ」
「私、いけるよ」
「それは、あとで聞きます」
私が最後尾に下げられた直後、霧の奥から黒いものが勢いよく落ちてきた。
巨大な爪だった。
大人の胴くらいある指が三本、霧を裂いて谷道へ叩きつけられる。煉瓦が砕け、破片が散った。衝撃で足元が跳ねる。
ユリスくんが聖剣を横に払った。
白い光が、刃の形にならず、風になった。
聖剣から吹き出した白い暴風が、正面の霧をまとめて押し返す。水滴も、砕けた石の粉も、一緒に吹き飛んだ。
その奥に、霧翼竜の首が見えた。
大きい。近くで見ると、さっきの影よりずっと大きく感じた。
白灰色の鱗。岩壁にかけられた爪。頭の横には濡れた角が伸びていて、目だけが、霧の奥で薄く光っている。
ユリスくんの白風は、霧翼竜の顔面にぶつかった。
霧翼竜の首が、少しだけ後ろへ押される。
巨大な翼が開く。風が返ってきた。
「っ……!」
ユリスくんの足が、濡れた石の上を滑った。
その背中に、エルミナさんが両手を向ける。
「ユリス様の一撃が、届きますように」
祈りの光が、細い糸のようにユリスくんへ伸びた。
光は傷を塞ぐ時のものとは少し違っていた。ユリスくんの肩、腕、背中、足元へ流れ、彼の体の中の力を一本の道に揃えていくみたいに見える。
ユリスくんが息を吸った。
足が止まる。聖剣の光が、もう一段白くなった。
「もう一回行くぞ!」
ユリスくんが叫んで、聖剣を振った。
今度の白風は、さっきより太かった。
霧翼竜の翼から返ってきた風とぶつかり、谷の中で白い渦が弾ける。霧がちぎれ、竜の肩から翼の付け根までが露わになった。
その時、霧翼竜が岩壁を蹴った。
あの大きさなのに、動きが速い。谷の片側の岩壁から反対側へ、霧の中を泳ぐように移動する。尾が遅れてしなり、濡れた石畳を横から薙いだ。
「足元!」
クラリッサさんが叫んだ。
尾がかすめた谷道の端が、崩れる。
石が落ち、白い霧の下へ、音もなく消えていく。
足場が細くなる。
ユリスくんが一歩横へ動こうとして、足を置く場所がなかった。
その瞬間、クラリッサさんが杖を振った。
空中に、薄い光の板が浮いた。
一枚。二枚。三枚。
透明な石畳みたいな結界が、崩れた谷道の先へ連なっていく。橋だった。空中に架かった、白く薄い結界の橋。
ユリスくんがそこへ足を乗せる。
割れない。
霧翼竜の尾がもう一度来た。
結界橋の端が、ばき、と音を立てて欠ける。けれど、欠けた場所へ周りの光が流れ込む。前にリューベルの結界碑で見せてくれた、あの戻る結界だ。
「進んで!」
ユリスくんが結界橋を蹴って聖剣で斬りかかる。
エルミナさんが祈りを繋ぐ。
クラリッサさんが橋を伸ばす。
勇者一行だった。
霧翼竜が、ぐるぐると喉を鳴らした。
低い音だった。怒っている。あるいは、面倒な獲物だと認識したのかもしれない。
次の瞬間、竜の翼が大きく開いた。
白い霧が、巻き戻る。
ユリスくんの白風で開いた場所へ、霧翼竜自身が羽ばたきで霧を戻した。視界がまた白くなる。巨体が見えなくなる。
霧の中から、爪が来た。
今度はユリスくんではなく、クラリッサさんの方へ。
「クラリッサ!」
ユリスくんが叫ぶ。
クラリッサさんは結界橋を維持したまま、もう片方の手を上げた。小さな結界が爪先の一点に生まれる。けれど、その一点が爪の向きをずらした。
霧翼竜の爪は、クラリッサさんの横を外れ、石畳に突き刺さる。大きな破片が飛んだ。その一つが、エルミナさんの足元へ跳ねる。
私は思わず前へ出た。ほうきを両手で握る。飛んできた石の破片を、ほうきで払う。ばしん、と大きな音がした。石は横へ弾かれ、岩壁に当たって砕けた。
三人が、こちらを見る。
霧翼竜の頭が、霧の中から落ちてくる。
「ネリネ!」
ユリスくんの声。
エルミナさんの息を呑む音。
クラリッサさんが結界を張ろうとした気配。
でも、少し遅い。
私はほうきを握り直した。道を掃くための、ごわごわしたやつ。
村娘が持っていてもおかしくなくて、長くて、そこそこ硬い。
柄に、ほんの少しだけ力を通す。ほうきの木の繊維が、内側からぴんと張る。
霧翼竜の鼻先が迫る。
私は一歩だけ踏み込んだ。濡れた石の上で足が滑らない位置。竜の頭の重さが乗る前の鼻先。そこを、ほうきで殴り飛ばす。
バゴッ!!!
けっこうな音がした。
直後、霧翼竜の頭が横へ跳ねた。霧翼竜は低く鳴いて、体勢を立て直した。
私はほうきを見た。穂先が少し曲がっていた。使える。
「ほうきって、竜の頭を弾けるものだったかしら……?」
「使い方かな」
「その説明、形が悪いわ」
クラリッサさんの声は、いつもより少し揺れていた。
ユリスくんは何も言わなかった。ただ、私の手元を見ていた。
木剣を合わせていた時のことを、思い出しているのかもしれない。
ユリスくんが小さかった頃。転ばない速さで踏み込んだこと。見える軌道で振ったこと。届く距離に、ちゃんと立っていたこと。
あれが、手加減だったこと。
でも、相手が本気だったか分かるのは、ユリスくんが成長したからだ。
霧翼竜が、また動いた。怒ったらしい。爪が来た。
柄を斜めに入れて、爪の横腹を流した。爪は外れ、地面を抉る。
ユリスくんがそこへ聖剣を叩き込む。
エルミナさんの祈りが、ユリスくんの背を支える。
クラリッサさんの結界橋が、私たちの足元を伸ばす。
霧翼竜はぐらりと揺れたあと、大きく後ろへ下がった。
逃げたのではない。たぶん、何か吐くつもりだ。風か、炎か。風かな。たぶん。上位種は、自らの能力を破壊に変える手段を必ず備えている。備えていなければ上位種ではない。私もそうだから、分かる。
周りを見た。
ユリスくんは前。クラリッサさんは結界橋を維持している。エルミナさんは祈りを繋いでいる。
私は避けられる。
でも、他はまだ避けられない。
たぶん、この中で狙ってくるなら私だろう。
少し飛び上がり、ほうきの柄を両手で握る。
霧翼竜がこちらへ向かって、口を開けた。こちらへ暴風が巻き起こる。
衝撃。
ほうきの柄が、みし、と鳴る。
世界が横へ飛んだ。
「ネリネ――!」
ユリスくんの声が、霧の中で伸びる。
私の背中に、谷の岩壁が当たった。当たったというより、そのまま壁にめり込んだ。口の中が少しざらっとした。包帯の端が、どこかに引っかかっている。
私は埋まったまま、少し体を動かした。みんなの声が遠い。
「ネリネ!」
「ネリネさん!」
「返事をして!」
返事の前に、霧翼竜がまだいる。
翼、出すか。そう思った。
完全に広げる必要はない。ちょうど岩壁の中だし、霧もある。ちょっとだけ。うん、いけるいける。背中の奥で、畳んでいたものがわずかにほどける感触。
そして。
ひらり、と。1枚の灰色の大きな羽根が、霧翼竜の上に現れた。
羽根はひらひらと舞い落ち、霧翼竜の肩に触れる。
音もなく、羽根が触れた場所だけが、消えた。羽根はそのままひらひらと、竜の体を通り抜けて、谷の底に落ちていった。竜の白灰色の鱗も、その下の肉も、血も、骨も。羽根が触れた場所だけが、形ごと消えていた。
霧翼竜が悲鳴を上げた。困惑と、それより大きな……恐怖の響き。相手の力を理解できるのが、強い者の資格。
霧翼竜は岩壁を蹴り、谷の上へ跳ねる。翼が霧を巻き上げ、白いものが視界いっぱいに吹き荒れた。次の瞬間には、もう姿は見えなくなっていた。
「ネリネ!」
ユリスくんの声が近くなった。石を掘る音がする。
「大丈夫だよ。大丈夫大丈夫」
「大丈夫じゃない!」
即答だった。
岩がどかされる。
ユリスくんが、ほとんど手で石を掻き出していた。聖剣がほっぽり出されていた。
クラリッサさんが結界を差し込み、岩が落ちてこないように支えている。
エルミナさんは、今にも泣きそうな顔で私の腕を取った。
ようやく、体が岩壁から抜ける。服は破れていない。羽根を1枚だけ出した私、えらい。
「ネリネ、痛い? どこが痛い?」
「口の中がじゃりじゃりする」
「そういうことじゃなくて!」
ユリスくんの声が震えていた。
エルミナさんが、すぐに回復魔法をかけてくれた。
淡い光が、頬と肘を包む。擦り傷がすっと消える。温かかった。
エルミナさんが、目を見開いた。
「……これだけ、ですか?」
「うん。ちょっと擦ったくらい」
「でも、今、岩に……」
「石が柔らかかったのかも」
「そんなわけないわ。ここの岩は武器に使われるくらいに頑丈よ。普通なら死んでいるくらいの大怪我のはず……」
「丈夫なのかも」
「その説明、形が悪いわ。いったい……」
まずい気がする。
何か、誰か、この流れを変える何か、みんなの目を引く何かはない……? と思いつつ、そんな都合のいい何かがあるわけ……。
その時、霧の向こうから足音がした。
コツコツと濡れた石を踏む、規則正しい足音。
クラリッサさんが杖を構えた。
ユリスくんが聖剣を拾う。
エルミナさんが私の前に半歩出る。
霧の向こうから、黒い外套が現れた。
涼しげな顔。旅の医者。
ノルクだった。
「私が診ましょう」
「せ、先生!?」
エルミナさんが驚いている。
「どうしてここに……?」
ユリスくんもびっくりしている。
クラリッサさんは、驚きより疑いの目だった。
「あなた、セインベルにいた医者よね?」
「はい」
「なぜ霧渡りの谷に?」
ノルクは、まったく表情を変えなかった。
「旅の医者です。患者の気配が来たので参りました」