※6期+ゲ謎軸
※カップリング無し
※オリジナルの妖怪・妖術・モブ・設定を含みます。
※水神の話です(養父死亡シーンあり)
※何でも許せる方のみ閲覧をお願いします。
神の光が空を割る
祝いの音と雨が呼ぶ
赫いホオズキ目を覚ます
瞼のない目は足の下
とある山の頂へ伸びる階段を一段、また一段と踏み締め登る青年がいる。四日に一度休む事なく続くこの掟は終わりの見えない祟りであり、男はこの祟りを背負う一族に生まれついた。一度はこの道から逃れようともがいたがその術はなく、また血族の情により同じ道を歩む覚悟を決めた。
そんな男を上空から見つめている目玉がひとつ。
「本当に他に手立ては無かったんでしょうか」
記憶を辿り己の果たした役目を振り返り、鬼太郎は思わず呟いた。
「氏神というものは土地と血との繋がりが強いものじゃ。外からの力では太刀打ちできぬものなのじゃよ」
頭の上から聞こえた声に、答えの分かっている問いを投げてしまった自分を恥じた。かつてあの青年に外への道を諦めさせたのは他でもない自分で、その際に同じ問答をしたはずだ。
それしか方法はない。そう父に教えられた。
抗えば災いが降りかかる。どの文献にもそう書かれていた。
逃れる望みを抱いただけでもたちまち病となった。これは当の番人の体験。
子に自由のない心身共に過酷な人生を歩ませたいなどと願う親はいない。だがそうしなければこの命を守れない。そう苦しみ抜いた顔で頭を下げられて力を貸した日を、鬼太郎は思い起こしていた。気乗りしない案件などいつもの事、それでもこの件に関しては、子を思う親からの頼みであり、自分勝手な人間が招いた厄介ごとの後始末ではないのだからマシな方だった。
妖怪ポストをしていなければこんなふうに縛られた人間がいると知る事もなかったろう。誰に頼まれたでもなく、あの青年のように血で背負った役目でもないのに妖怪ポストを始めた自分は、自ら呪いを招いているのだろうかと迷う日は多い。
「行こう」
鬼太郎がそう声をかけると、一反木綿は「はいよ」と返事をし、音もなくひらりと方向を変えて静かにその山から離れた。
「次はどこやったかいね?」
「えーと……あっちかな」
自信なさげに指差してから目玉親父を見上げると、小さく頷くのが見えた。ほっとして無意識に吐息が漏れていたらしく、それを合図にするよう一反木綿は速度を上げた。
そこは眩むほどに緑が濃く生い茂り、人間の知る動植物だけではなく形容し難い生き物で溢れる森の中にあった。囀るような笑うような声、地を蹴る足取り、草を掻き分ける擦れた音、宙を泳ぐものの起こした小さな風が地上に届き弁柄色の髪を揺らす。
晴れた空の下、鬼太郎はゲゲゲの森を歩いていた。多彩な姿と音を内包する森にあって、その足が立てるのは自然の素材から作り出された人工物である下駄のカランコロンという小気味良い音。独特な足音はこの森ではすっかり馴染んでいて今更誰も気には留めず、だが顔見知りはこれを聞きつけると草むらや木の枝の影から顔を覗かせて挨拶をする合図となっている。
カランと音を立てて地面に降り立つと、丁度猫娘が歩いてきた。
「あら、出かけるところだった?」
「ああ、何か用か?」
「別に。ポストに手紙が来てるかなと思って」
誰かに頼まれて始めたわけでもない妖怪ポスト、それを頼まずとも手伝ってくれる猫娘は鬼太郎にとって大切な存在だ。姉のようであり妹のようでもあり、仲間内では一番妖怪ポストを手伝ってくれている理解者だ。猫娘は妖怪の中でも人間の文化や習慣に明るく流行り物に詳しいが、根っからの人間好きと言うわけでもない。それが何故ここまで協力してくれているのかを鬼太郎は分かっていない。それでも一人ではどうにもならない依頼は多く、彼女の手が大いに助けになっている。いつもそれに感謝しているが、当の猫娘は暇だからなどと嘯いて取り合う事もない。
「今日は何も入ってなかった」
「そう」
妖怪ポストに手紙が入っていないと言う事は、助けを求める人間がいないと言う事だ。平穏な日々のありがたみを身に沁みて知る鬼太郎からしてみれば、このままポストが必要なくなればそれに越した事はない。
だが猫娘は少し違う。争いは望まなくともこうして鬼太郎に会いに来る口実になるため、出来ればずっと続いてほしいと密かに願っている。
しかし勿論こうして手紙の届かない穏やかな日はやはり好ましくもある。常ならばこんな日は屋根の上で寝転んでのんびりしている鬼太郎だが、ここ最近はそうではなかった。
「最近よく出かけてるのね」
「ああ」
「何かあったの?」
「いや」
鬼太郎との会話は途切れがちだ。これが単なる性格でありわざとそうされているのではないと重々承知している猫娘は、どこまで首を突っ込んで良いものかとさりげなく探る視線を向けた。鬼太郎の表情は読みにくいがもう何十年も付き合いがある。これは特に機嫌が良くも不機嫌でもない顔だ。勇気を出してもう一言踏み込もうとしたところ、目玉親父が先に口を開いた。
「鬼太郎や、お前は本当に口が足りんのぅ」
「父さん」
「いつもすまぬな、猫娘」
「わ、私は別に気にしてないわよっ」
息子と比べると父親は幾分かそちらに目敏い。猫娘は気を遣われた事で秘めるものを覗かれたように思わず語気を強めた。
「で、なんなの?」
「それがのぅ……」
それは半年程前の事、この日鬼太郎はいつも通り妖怪ポストに届いた手紙を片手にとある町まで出掛けていた。
「もう人間に悪さするんじゃないぞ」
「分かったよぅ」
夕暮れ時の公園で、鬼太郎は袖引小僧を嗜めていた。袖引小僧は名前の通り、夕刻になると道行く人間の服の袖をつんつんと引き、何事かと振り返ると姿を見られる前にさっと身を隠し、気のせいかと人間が再び歩き出すとまた袖を引く、ただそれだけの悪戯好きな妖怪だ。事件と呼ぶ程でもない事案だが、される人間側は迷惑なものである。人間に化けた猫娘を囮に誘き出し、まんまと引っ掛かった袖引小僧を人間より素早い動きで振り向いた彼女の鋭い爪で少々脅かしてやると、その場で尻餅をついて震え上がった。
「これで懲りたでしょ。さ、帰りましょ」
転ばせた袖引小僧を起こしてやりながら、猫娘は内心役に立てた事に緩みそうになる頬をきゅっと引き締めて、やれやれという顔を作る。だが鬼太郎は辺りをぼんやりと見回していた。
「……」
「鬼太郎?」
「この辺は前に来た事があるよな?」
「え? ……ああ、そういえば、たくろう火のいた遊園地が近いわね」
鬼太郎は再度辺りを見まわし、何かを確かめるように小さく頷く。
「……そうだ、うん」
「何か気になる事でもあるの?」
「いや、なんでもない。帰ろう」
そんな何気ないやり取りを語る目玉親父に、猫娘は先程自分で言った「最近」は思い返してみるとこの少し前からだったなと気がつく。
「ようよう聞いてみるとな、まなちゃんのお陰で記憶が戻ったが、実感が薄いようなのじゃ。実際その場に出向くとようやっとしっくりくると気づいてな、それであちこち出向いておるんじゃよ」
人間の友人であるまなが、あらざるの地へ堕ちた鬼太郎を救うため自らの記憶を譲渡したのは数年前。まなが妖怪達と過ごした日々は絶望により封印されていた記憶と心を解き放ったが、鬼太郎は見た目は子供のままでも人間の一生分に相当する年月を生きているため、記憶もそれに相応し膨大である。ゲゲゲの森での記憶は同じ場所に現在も住んでいるためすんなりと馴染んだが、出先での景色は未だぼんやりと、まるでテレビの画面を見ているような心地でいた。客観的な景色はその地に赴きその場の空気を吸い、初めてそれが自分の体験だと思い出せるのだった。
「へぇ、そうなんだ」
「ああ」
「この程度のこと、説明してやらぬか」
己の話す量に比べ、口の重い息子が発した言葉の短さに目玉親父は目玉を振るう。昔からこうであるが、心配してくれている猫娘にもこの調子なのだから困ったものだ。
「儂も水木もよう喋る方じゃのに、この子は誰に似たのやら」
不意に父の口から、鬼太郎を墓場で拾い育てた人間の友人の名が溢れるのはしょっちゅうだ。それだけではなく鬼太郎の母である妻も先祖も、まるで今も隣にいるかのようにいくつもの名前が飛び出す。その中の誰一人にも会った事はなくとも、猫娘は毎度のせいかすっかり彼らを知人のように捉えていた。
「むしろ親父さんがよく喋るから、鬼太郎は口を開く必要がなかったとか?」
思わぬ指摘に、目玉親父は数センチ飛び上がる勢いで驚いた。確かに言われた通り、人間の友人宅で世話になっていた頃は鬼太郎が何か言う前に、何をしたいかこれが欲しいかと構っていたと思い出す。それは息子が赤ん坊の時期であり、人格形成に大きく関わっていたはずだ。
「なんと! そうなのか、鬼太郎や?」
「うーん、どうでしょう、僕にも分かりません……」
「もしそうであったなら申し訳ない事じゃ……幼い倅から言葉を奪ってしまったなどと」
「そんな風に思う必要はありませんよ、父さん」
自分の性格がどうやってかたち作られたのか、予想はしても明確な答えは持てない。それに原因が発覚したところで今更変わるものでもないだろうと控えめに答える。
「しかしなあ……せめてこれからは少し話すのを控えようかのう」
「やめてください。僕は父さんの話を聞くのが好きです」
だからこれからも変わらずにいてくれと物語る小さな微笑みに、猫娘はこの親子の距離の近さを少し羨んだ。猫娘は妖怪だ。元はただの猫であっただろうがその頃の記憶はあまりなく、自分の親についてはほとんど何も覚えていない。今更会いたいと思うものでもないが、鬼太郎を見ているとどんな親の元に生まれ、どんな兄弟姉妹がいたのかくらいは、思い出せるものなら思い出してみたいなと思う時もある。
「手紙が来てたんじゃないなら私は帰るわ」
何事もないのならばあまりしつこく話してもと踵を返した猫娘に、先ほどの父の言葉に従い、鬼太郎は普段思っていても声に出す事のあまりない言葉を押し出す事とする。
「猫娘、いつも妖怪ポストを手伝ってくれてありがとう」
心配もしてくれて、と聞こえ、猫娘は丁度背を向けたばかりで赤くなろうとしている顔を見られずに済み良かったと内心ほっとしながら、いつものクールな口調で「別に」と振り返らないよう来た道を戻って行った。
そうして猫娘を見送った鬼太郎はいつもの如く下駄を鳴らし、家からほど近い木々の開けた原っぱへを抜けて本日の目的地へと向かう。今日は万年竹のいた藪へと出向いてみるつもりだ。こうして一つずつ自分の辿った道を歩き直し、人間の友から貰った時間を無駄にしないよう日々を過ごしている。
深い山間にある湖とその中央に浮かぶ小島を足元に、鬼太郎は中腹の木の上から周囲を見渡す。科学や文明を用いて切り拓いた山は、だが人間の手がなくなるとそれを凌駕する勢いで取り返しにかかるものだ。かつてこの場所に似合わぬ間隔で立ち並んでいた家々は焼け落ちた事も手伝い、今ではすっかり草木に覆われ、人の作った道もどこにあったのか殆ど分からなくなっている。だがあちこち見て回る内に、村の中心部であった場所から少し離れた、トンネルを抜けた近くで動くものを見つけ、鬼太郎は木から木へと飛び移りそれを確かめに近くへ向かう。
「父さん、あれは……」
古い家屋があった場所で数人の人間が何やら作業をしている。母屋の縁側で若い夫婦と見られる男女が農具の手入れをしていた。よく見ると朽ちていた平屋の茅葺屋根は新調され、家畜小屋には山羊もいるようだ。
「おお、なんと。人間が越してきたのか」
ここは化け物に呪われた土地として忌まれ、そして忘れられた村である。その化け物の正体は狂骨だ。ここで生活を始めているらしいあの二人はそれを知っているのかいないのか、暫く様子を伺うも、面白半分で居を構えたようには見えない。
「ここが再び人間の住める場所となったのは他でもない、お前のお陰じゃな、鬼太郎」
「僕は別に……」
村を埋め尽くしていた狂骨を鎮めて回ったのは他でもない鬼太郎だ。父の敵わなかった、やり残した無念を晴らした息子、と言えば聞こえは良い。だが当人にそんな晴れやかなつもりではなく、褒められたところで素直には喜べずにいる。
「謙遜せんでいい。あの男も褒めてくれるじゃろうよ」
父の言うように、もし養父がこれを褒めてくれたならば、少しは嬉しいと思えるのか。鬼太郎は上手く想像できず、半ば無理やりに口元で少しだけ笑って見せた。
「それより、確かにこの村に狂骨はもういませんが、人間が生活しても本当に大丈夫なのでしょうか?」
ここは山深い場所だ。それはつまり、妖怪にとって住みよい場所でもある。現代のコンクリートで埋まった地にも変わらず妖怪はいるものだが、やはりどうしても本来の習性に環境が合わず、泣く泣くゲゲゲの森へ越してくる者も少なくない。であるから所謂、昔ながらの暮らしを続けている人間の近くというのは、妖怪には恰好の棲家となりうる。
「人間とは強い生き物よ」
しかし目玉親父は満足そうに腕組みをした。便利な都会を捨て自ら山で自給自足に近い暮らしを求めるのならば、きっとそんなにやわな者達ではなかろうとニコリと笑う。鬼太郎は父がそう言うのならば間違いないと、彼らに気付かれる前にその場から離れようとした、その時。
「ん……?」
何かに射抜かれたような気がして、鬼太郎は振り向き一点を見つめる。
「どうした?」
「あ、いえ……何かに見られているような気がしたんですが」
そう言い一方向を見つつも、鬼太郎の右目は何も捉えられてはいなかった。妖気を感じ取る髪も反応していない。それでも肌が粟立つような気がする。
(前にも感じた……僕はこれを知ってる……)
懐かしいとは少し違うような、胸の奥深い場所がざわつく既知の感覚。鬼太郎がこれを感じたのはこれで数度目だった。そのいずれもかつて哭倉村があったこの山であるが、回を重ねるごとにより強く感じるようになっている。最初は狂骨の気配かと思っていたのだが、それらがいなくなった今日はそれを視線だと判別できるほどに強くなっていた。
「調べてみるか?」
目玉親父は同じように向いている方向に目玉を向け尋ねるが、これを感じているのが自分だけであると鬼太郎には分かっていた。今は目玉だけの姿であっても父親の妖力や勘、経験に絶対の信頼をおいている鬼太郎は、その父が何も察していないなら危険はないと、見つからない目ではなく頭の上の目玉に意識を向ける。
「……いえ、気のせいでしょう」
獣か神霊か、それらがいても不思議はない山の中ですからといつも通りの柔らかな口調に戻った息子に、目玉親父も警戒を解いた。
「そうか」
「はい。そろそろ帰りましょう」
人間に気付かれないよう下駄を鳴らさず枝を飛び移りその場から離れた鬼太郎は、胸の内に秘めた小さな思いを父に悟られなかった事にほっとしていた。
(……あれがあの人であったらと思うのに、あの人がここに囚われているのは嫌だ)
感じたものが視線であるのならば、つい望んでしまう自分を止められないでいる。父には見つからない探し物を諦めきれないと知られているし、反対されているわけでもない。だが同時に心配させていると理解している。それにもし本当に心残りからの視線であるならばもっと優しいものであるはずだと、そんな都合良く考えてしまう勝手な勘違いはしまっておきたかった。記憶ほど自由で厄介なものはない。
(会いたいだなんて、僕もまだまだだ)
何をしても誰に出会っても埋まらない空白は、蓋をしてしまうしかない。鬼太郎は弱い幼い自分を置き去りにするような気持ちで山を駆け降りていった。
その後ろ姿を見つめるは、赫い二つの目玉。
『見つけた、見つけた、戻ってきた、行ってしまった』
長い首を持ち上げ、生い茂る木の中を降りていく微かな葉の揺れをどこまでも追う。それはとても人間の目では見つけられない僅かなものであったが、「それ」にははっきりと見えていて、疑念はようやっと確信に変わり、頭の中はひとつの考えで埋め尽くされていった。
『追わねば、追わねば、あれを喰わねば』
哭倉村からの帰り道に訪れた、見渡す限り人工物もなければ木も生えていない雑草だらけの土地はフェンスで囲まれていた。立ち入り禁止を意味するそれを飛び越えるのは簡単だがそうしなかったのは、その中に人影を見つけたからだった。
「君はもしかして……」
敷地の一角に土と石、そこに廃材が混じった小さな塚のようなものの前で手を合わせていた青年は、振り返ると少しだけ驚いたような顔をしてから微笑む。
「お久しぶりです。本当に姿が変わらないんですね。あの時はありがとうございました」
あの頃より背は高く声が低くなっている青年の名を記憶を辿り思い出し、鬼太郎は無表情のまま尋ねた。
「……黒須大輝さん、ですね……? どうしてここに?」
彼の父親はかつてこの地にメガソーラー発電所を建設すべく現場を取り仕切っていた建設会社の社長である。泥田坊と黒須との死闘の末、鬼太郎は泥田坊を退治した。鬼太郎が止むを得ずそうしたのは他でもない、今目の前にいる黒須の息子である大輝を守るためであった。妖怪より人間に肩入れしたわけでは決してなく、あの時大輝は鬼太郎より小さなほんの子供で、彼を巻き込む事、また彼が親を失う事をとても見過ごせなかった。
その息子がこんな夕暮れ時に一人で何をしているのだと思わず訝しむと、大輝は両手を合わせて塚に向かって小さく頭を下げてから立ち上がる。
「毎年来てるんですよ。拝む人がいなくなるとまた暴れ出すものだって父が」
言われてみれば、泥田坊と黒須社長が対峙したのはこの季節であったかと思い出す。そうして同時に、神も妖怪も人間が作り出したものであるとも思い出した。人間は昔から敵わぬ自然の脅威、説明できない現象、それらを恐れ、姿と名を与えて脅威の正体とし、拝む事で制しようとする。明確な宗教を持つ人の割合が海の外より少ないと言われるこの国で、だがこの考え方は無意識の内に受け継がれているのだろう。
「して、そのお父上は?」
「それが仕事で怪我をしてしまって、今年は僕一人で」
鬼太郎は大輝に何も企みがないと知るや肩の力を抜いた。しかし今この場に立った事でここで起きた事が実感として鬼太郎の中に馴染み、体内電気を伝い感じた泥田坊の憎しみが呼び起こされたばかりだ。起こった事は覆らずにやるせなさに拳を作るしか出来ずに、悟られないようゆっくりと深呼吸する。
「鬼太郎さんはどうしてこちらに? 手を合わせにですか?」
「泥田坊は死んでいない」
己を落ち着かせる事が間に合わず、大輝の言葉に少し語気を強めてしまった。泥田坊を退治したのは他でもない鬼太郎自身だが、妖怪と言うものは動植物とは違った存在だ。現象である妖怪は肉体を持たずにいる者も多く、人間のような明確な死は適応しない。特に泥田坊には怨念とも呼べるものがあるため、今はその力が粉々に砕け散っているような状態であるだけで魂は地獄へは向かっていない。そう説明された大輝の表情がさっと陰る。
「そうなんですか? ……てっきり死んだとばかり……」
死の証としてせめてもと盛った塚に毎年律儀に拝みに来ている側からしてみれば、今更そう知ってもすぐには気持ちの整理がつかないだろう。それは理解するが、人間の勝手な思い込みには何度目でも辟易としてしまう。意識してやっておらずとも、己の表情の乏しさがこんな時ばかり打ってつけであることに内心で苦笑した。
「死んでいてほしかったですか?」
「……そんなつもりではないと言えたら良いんでしょうけど」
ストレートな言葉に大輝は言い淀みながら、なんとか場の緊張を解そうと笑おうとする。あの頃の幼さは薄れ、彼は大人への階段を着実に登っているようだ。
「泥田坊の怒りを今では理解できます。でも父のした事も間違いではなかったと思う。あれは答えのない問いで、鬼太郎さんに嫌な役を押し付けてしまった事は申し訳なく思っています」
田を守る神のような泥田坊が人間の勝手で一方的に田を奪われ、それをゴルフ場にされた。その怒りは当然だ。それを妖怪と人間の仲介者である鬼太郎に力で抑えつけられたのだから煮湯を飲まされたと感じただろう。おまけに次はそのゴルフ場をメガソーラー発電所に作り替えると言うのだ。泥田坊にしてみれば人間の行いは傍若無人でしかなく、火に油を注いだに他ならない。だが大輝が言ったとおり、黒須のした事は間違いとは言えない。ゴルフ場の跡地を田に戻す人間もおらず、ただただ削られた土地として捨て置かれるだけであったのを、未来を見据えた場所にしようとしたのだから。それに黒須には養わねばならない子もいた。黒須も泥田坊の怒りを理解し鬼太郎への感謝の念はあったが、それだけでは人間は生きてはいけないのだ。
そんな黒須の息子である大輝は父親の背中を見て育ってきた。自分と父親を助けたのが鬼太郎で、今自分達は泥田坊の犠牲上に生きていると、だからせめてもと手を合わせに来ていたのだ。
「……でもやはり、妖怪は怖いです」
名を知り感情を知っても、決定的な対処法がない存在である泥田坊に抱くのは畏怖の念。そんな妖怪に近い鬼太郎をもまた、怖いと感じてしまう。
「鬼太郎さんは、人間が怖いですか?」
日の落ちた荒れ地で、鬼太郎は答えの出なかった大輝からの問いを何度も頭の中で繰り返しながら小さな塚を見下ろしていた。喉の奥に小骨が刺さったようで気分が悪い。これは自分の狡さのせいだ。泥田坊は死んでいないと告げた際に、伝えなかった事がある。それを伝えるべきであったか、これで良かったのか分からない。
街灯もなく真っ暗な荒れ地に、月と星が降り注ぎ影を作っていた。人間の手がなくとも夜道は微かに照らされ、それを反射したのか塚の片隅に小さな淡い光が浮いていた。
(これは……?)
屈んでそっと手を伸ばすと、光は手のひらの上でほのかに温度を持っていた。これは泥田坊の無念のかけらだと、鬼太郎は光が消えてしまわないようそっと両手で包み込んだ。
泥田坊は死んでいない。人間が覚えている限り完全に消滅することはない。三十年の時を経て黒須に襲いかかったのは、黒須が泥田坊を覚えていたからだ。
「知らない事が一番怖い。知らなければ気づかない内に喰われてしまう」
供養として毎年手を合わせに来ている親子は、泥田坊を生かし続けている。これを教えたならば、恐らく本当に泥田坊は消滅する事になるだろう。鬼太郎にはそれがどうしても許せなかった。けれど同じだけ後ろめたさもあり、刺さった小骨は時が進むにつれ奥深くに潜り込む。そんな自分を蔑むため、今も耳の奥に残る言葉を音に出す。
妖怪に近しい自分が人間のように学校へ通う意味を教えてくれた人間の言葉を、こんなところで口に出す罪悪感に心が蝕まれそうだ。大切な思い出を自らの声で上書きして消してしまうのが怖くて、名前すら出さないようにしているのに。
「あやつがよう言うとったな」
目玉親父は鬼太郎とは反対だった。口にする事でその者の輪郭を忘れないように何度も模る。自分もそう出来たなら少しは楽になれるのかと考えるが、鬼太郎はこの輪郭を他の誰にも知られたくなくて口籠った。
何故こんな事をと思うのに、それでも手放せない心を共有するつもりは毛頭ないのだ。
「井戸の水が枯れた?」
暖かな日差しが木々の隙間から溢れるある日の午後に、鬼太郎はちゃぶ台の上に並ぶ数枚の手紙を読んでいた。妖怪ポストに届く手紙の内容はいくつかの規則性があり、単なる錯覚や思い込み、または科学や医学で説明がつくものも多い。それらの中から妖怪の絡んでいそうな案件を読み解くところから始まるのだが、この日猫娘が目を通した内の一つに気になるものがあったらしい。
「そう、ある日突然ね。しかもその夜、龍が現れたとか。で、それを調べてほしいそうよ」
子供の字ではないそれを差し出され、鬼太郎は気乗りしなさそうに文字を追う。
「龍ねぇ……山で龍なら妖怪より神や主に近いんじゃないか?」
「じゃ、パス?」
妖怪ならば鬼太郎で対処するが、相手が神や山の主ならば話は少し違ってくる。妖怪の中には神と妖怪の境目が曖昧な者もいるし、荒ぶる神を相手にした事もあるが、何せそれらは厄介なのだ。現象である妖怪とは成り立ちが違い、また比べ物にならないほどの強い力を持つ事、場合によっては呪いを受ける事もあるため、迂闊に手を出すのは危険すぎる。
見捨てるではなく、入らずの山のタイタンボウに縛られる一族然り、鬼太郎では手の出しようがない相手は少なくないため考えあぐねていると、手紙を見ていた目玉親父が封筒を持ち上げた。
「鬼太郎や、この手紙の住所を見てみなさい」
「……ここは……」
鬼太郎は封筒を受け取ると差出人の住所をじっと見つめた。書かれていたのは哭倉村に程近い住所だった。ここで鬼太郎の中の点と点に突如として繋がりを覚えた。
(もしかして、あの時感じた視線はこれだったのか?)
龍は水の神であり、それが何らかの事情で姿を現した事で井戸が枯れたのか。哭倉村で感じた視線、あれは獣でも妖怪でもなく、鬼太郎よりももっと強い力を持っていた。だから視線の元を見つけられなかったとすると納得できる。
「……確かあの村を支配していた一族の名前には「龍」の字が入っていましたね」
「うむ」
「じゃあ本当に龍がいるって事?私も何度も一緒にあの村に行ったけど、そんな気配は感じなかったけど……」
「儂もじゃよ。しかしそれだけでいないとは言えぬ」
神の遣い、または神そのものである龍に気が付かないなどと言う事はあり得るのか。だが相手がこの場にいる三人ではとても手も足も出ない程の力を持つ存在であれば、それが本気で姿を隠していたのならば、存在を察する事など出来ない。特に龍の力は強力なだけでなく巧みでもある。
そしてあの山に龍がいるとして、それが現れたことで何かが起こるか、はたまた手遅れなのか、問題はそこだ。
「少々気になる。話だけでも聞きに行こうぞ」
「そうですね」
もし本当に龍がいたとして鬼太郎に何が出来るかは分からない。それでもあそこに越してきていた人間がいると知っている以上、このまま黙って見過ごすにわけにはいかず、鬼太郎は手紙を懐にしまうと立ち上がった。
鬼太郎達はカラスに運んでもらい山裾に降り立ち、徒歩で手紙にあった住所へ向かった。哭倉村とは山を挟んで反対側にある村へ人目につかないよう途中までは獣道を歩いて登り、村の入り口に掛かったところで茂みから姿を現すと、後ろから駆け寄る足音がする。
「……え、鬼太郎君?」
聞き覚えのある声に振り向くと、以前会った時と同じ青いジャンパー姿の山田がぱっと表情を明るくした。
「おお、山田殿ではないか」
「親父さんに猫娘さんも! お久しぶりです」
以前より少しだけ頭に白いものが混じっているが変わらず元気そうで、山田はぺこりと頭を下げる。
「こんな所で何をしてるのよ? まぁた雑誌の取材とかで鬼太郎に付き纏ってるの?」
「ああいえ、違いますよ、哭倉村の様子を見に来たんです」
山田は慌てて首を振り、鬼太郎に睨まれないようにと笑顔を浮かべる。今は別の出版社に勤めてオカルトとは無縁の記事を書いているそうだが、いつ何時訪れるやも知れないシャッターチャンスを逃さないためか首にはカメラをぶら下げている。そのカメラに探るように顔を近づけ威嚇する猫娘にびくつきながら、山田は身の潔白を証明しようと早口でここにいる理由を話し始めた。
「お陰様であの記事は結構好評でしてね、たまに肝試しに行く人がいるようです。で、先日若者に人気の動画配信者がそこに目をつけたらしく、今度ここに撮影に来るってネットで宣言してて」
山田によると、その人物から事前に哭倉村について話を聞かせてほしいとメールが送られてきたらしい。記事が好評なお陰で山田には他にもその手のネタを扱う出版社やテレビ局から接触があったが、それらを全て断っている。であるから動画配信者にも丁寧に断りを入れたが、その人物はそれしきの事では諦めないようだった。
「ああ、たぶん見た事あるわ、その人間のブログ。確かあの記事について興味があるように書いてたわね」
「ええ。僕の記事では地下通路への入り口の場所を特定されないように書いたつもりですが、それもあの場に直接行かれると時間の問題で知られてしまうでしょう。もしあの穴倉で事故でも起きれば僕のせいになってしまうし、鬼太郎君達にも迷惑をかけてしまう。それで気になって見に来たんですよ」
山田が思い入れのある雑誌の最期のためと書いた渾身の記事には、鬼太郎と、それ以上に目玉親父が指図をして、忌むべき因習に巻き込まれた子供らの悲劇が心無い者の手で娯楽として再び弄ばれないよう、書き直させた箇所が多くある。山田も飯の種ではあるが実際にその悲劇を目撃した者の話、そこから生まれた一筋の希望である鬼太郎の存在を尊重して、かつ記事として読み応えがある内容にすべく奮闘した。そうして雑誌は華々しく散ったが、その出来栄えに山田には現在身を置いている出版社の他にもいくつかから誘いがあったのだそうだ。それも含めて鬼太郎達に感謝をしており、であるから鬼太郎のゴシップを狙うわけはないと弁明した。
「ほうほう、なるほど」
「へぇ……見直した」
山田はひとまず目玉親父と猫娘の誤解は解けたとほっとする。鬼太郎はと言うと前回の取材の時からそうであったように、こちらから聞き出さなければ口を開く事もなく、父親が納得したのなら鬼太郎も同じであると理解していた。
「見直したって酷いなぁ、僕の事をどんな風に思ってたんです? ……ま、実際は他の取材も兼ねてるんですけどね」
カメラを持ち上げて写真を撮るフリをすると、猫娘はやっぱり、と言いたげに腰に手を当てた。
「と言うと?」
目玉親父が狙った通りに尋ねるものだから、山田は前のめりになる。
「なんでも、この村で龍が出たとか!」
仕事ではなくなったが、山田は目玉親父の話を聞いてからというもの、根っからのオカルト好きが加速したようだ。
「おお、儂らと同じ目的ではないか」
「そうなんですか⁉︎」
龍などという嘘のような話に嬉々としてこんな山奥まで足を運んだ物好きは、目玉親父の一言で期待に胸を膨らませた。簡単に妖怪ポストの手紙の内容を伝えると山田が嗅ぎつけたネタと似たようなものであったらしく、どうせなら手を組んで正体を探る事になった。
「これが枯れた井戸か」
手紙に書かれていた住所を尋ねると、玄関のすぐ近くに井戸が見えた。鬼太郎が近づいてみるも、髪は特に反応がない。むしろ井戸よりも民家の近くにいた妖怪の方に反応したくらいで、覗き込んでも乾いた底があるだけだ。
「どちら様で?」
訝しげな声に振り向くと、五十代くらいの男性が立っていた。
「ゲゲゲの鬼太郎です。手紙を頂いたのですが、この方をご存知ですか?」
懐から差し出した手紙に、男性は警戒を解きつつも驚いたのか、大きな声で「あ!」と叫んだ後に当たりをキョロキョロと見まわして、鬼太郎達を家の裏手まで連れて行った。
「本当に来てくれたんですね!ありがとうございます。いやぁ噂には聞いていましたが、本当に子供だとは……」
まじまじと見下ろされるのにも慣れている鬼太郎は動じず、男性はその反応の無さに怒らせたかと慌てて視線を逸そうとした。が、すると次は頭の上の目玉親父に気がついて、今度はそちらをじっと観察した。これはすっかり定番の流れで、目玉親父はにこりと笑って見せる。
「して、詳しく話を聞きたいのですが」
「あ、はい、いや失敬。えーと、とは言うものの手紙に書いた通りで、ある日突然井戸が枯れてしまったんだ。そしてその夜、山の頂上に龍が出た。どう関係があるのかも分からないし、とにかく気味が悪くて」
男性は相手が子供と見るや口調を崩し、あまり近づきたくないのか、話しながら井戸を指差した。
「村には龍を見た人が他にも数人いる。私の父も見た。あとは……ほら、あの向かいの家の奥さんも。井戸が枯れたのはウチだけじゃなくてこのあたり一帯でね、近所で集まってどうしようかと話し合いをしてたんだが、その時に出たんだ。我が家は代々この村に住んでいるが、今年八十歳になる父もこんな事は初めてだと言っていた」
山田は鬼太郎達の後ろで話を聞きながらメモを取っているが、鬼太郎は相槌も打たずにじっと耳を傾けていた。そんな息子の代わりのように目玉親父が相槌を打っていて、男性には奇妙で仕方がないのか助けを求めるようチラチラと猫娘と山田に視線を送る。
「この村に龍の伝説などはありますかな?」
「私は詳しくは……蔵にあった曾祖父さんの手記に、大昔に長いこと雨が降らない年があったそうで、その時に村の娘を一人、龍神の生贄にした事があると言い伝えを聞いた、と書かれているくらいしか……」
「その龍神について詳しく知る人はおるかのぅ?」
「あー、それが……この村じゃそう言った話は大っぴらに話しちゃならんことになっていて……、今日君達に来てもらったのも、私が呼んだとバレるのは少し困るんだ」
それで家の裏に連れてきたのだなと猫娘は腕組みをして、男性をやや上から見下ろして不満気だ。
「龍神の話をしてはいけない理由を伺っても?」
鬼太郎は特に気を悪くしたようでもなく、淡々と理由を尋ねる。男性はそんな心配なかろうに、もう一度当たりを見回してから声を落とした。
「もう七十年前になるか……山の裏にある村がある時一晩でなくなったのさ。村は炎に包まれて、一人も残らず全員死んだとか。原因はハッキリしないし、だから皆龍神の祟りなんじゃないかと疑っていて、それ以来この村では龍神のことを口に出す事は禁止になってな」
男性の話の真相を知る四人は無言でチラチラと視線を交わした。ここで哭倉村の末路に関係していると知られればいらぬ疑いを持たれかねない。四人は口に出さずして、問われない限り自ら口に出すべきではないと決めた。
「では村の方にも話を聞くのは難しいかのぅ?」
「恐らく……ただあの夜見てしまった人達になら……」
龍を目撃した者達は恐れている一方で、正体を知りたいと好奇心も少なからず持っているらしい。妖怪も神も、人間がその存在を定義付けたものだ。男性が手紙を送って来たのも同じで、であるから、話を聞き出すのはそう難しい事ではないと思われる。しかしあくまで表面上は困難である必要があり、男性から決して自分が鬼太郎達を呼んだとバレないように、と重ねて釘を刺され、四人は一旦その場から離れた。
「じゃあ、手分けして龍を見た人達に話を聞いてまわりましょ」
「そうだな。大勢で動くと目につくから別れて聞き込みをしよう。僕は遠いところから回る」
ただでさえ小さな村と言うものは外部の人間に敏感で、その噂は風のように隅まで行き渡るものだ。既に警戒の目は光っているだろうが、下手に村人を刺激しないようにしなければならない。四人は夕刻に村の入り口で待ち合わせる事にして、三方向に別れてまずは手紙の主から聞き出した、龍を目撃した人物を尋ねて回った。
「ああ、あの日龍を見たよ。そりゃあ驚いたさ。……実は誰にも言った事がなかったんだけどね、私は前にも妖怪を見た事があるんだ。ありゃ百々爺だって死んだうちの親父が言ってた。龍ってのは妖怪の仲間なのかい?」
「それは恐ろしかったよ。夜だったし雨が降っていたからはっきりと姿が見えたわけではないが、山の頂上からそれは大きな龍が現れたのさ。襲ってきたりはしなかったが、それまでまだ無事だったウチの井戸の水が龍に吸い上げられちまったんだよ」
「この山には妖怪もいる。龍神を見た事はないが、子供の頃に河童なら見たよ」
「ウチの婆さんが子供の頃に、山の裏側の村が龍神様の祟りで焼けて村人全員亡くなった、なんて話を聞いたとか。作り話だと思ったけど、確かにあの村は焼け落ちたような跡ばかりだし、本当なのかねぇ? でも龍神なのに火事ってのもおかしな話さね」
鬼太郎が聞いた話は皆似たようなものだった。人間は口を封じられると話たくなるもので、声をかけると最初は怪訝そうに顔を顰めるが、龍神の名を口にすると村人達は妙にそわそわと物陰で話し始めるのだった。そんなものは存在しないと否定される一方で制限される矛盾は、その存在を肯定している。多数に目撃されもはや無視できなくなってしまった龍神により、抑圧されていた反動のように妖怪の話も多く聞かれた。
「どうやらこの山には昔からの龍神の伝承はあるようじゃな。しかしその中にはあの時の話も混ざっておるようじゃ」
「七十年前だもの、人間からしてみれば十分昔話になるわよ」
「そうじゃなあ」
猫娘が持ち帰った情報も似たり寄ったり、井戸の枯れた家は無事な家の井戸を使い凌いでいるが、水道局が調べても原因がわからずに、このままでは村での生活が立ち行かなくなるだろうと皆不安がっている。
「井戸を枯らす龍……一体何のために……?」
ゲゲゲの森にある書物庫で読んだ本やこれまでに関わってきた事案から龍に関する記憶を辿るも、鬼太郎は時間が経つにつれはっきりと感じるようになってきた視線が気に掛かり集中できずにいた。目玉親父も、元が猫であるため自分よりも気配を察するのに長けている猫娘も視線を感知していない点も気にかかる。
と、そこへ山田が戻ってきた。
「遅くなりました、この村だけでなく哭倉村についても少し探れましたよ」
「哭倉村についても、とは?」
山田は手にしていたノートをめくる。さすが本職であるためか、走り書きながらノートには聞いた話の内容だけでなく、その中で湧いた疑問や、話し手の様子まで細かく記されていた。鬼太郎が自分と猫娘が聞いた話を簡単に伝えると、山田はノートの中から鬼太郎達が掴んでいなさそうなネタを選んで話し始める。
「この村の話は皆さんと同じような話ばかりです。その中にもありますが、哭倉村は龍神の呪いで滅んだと言われているようです。これは詳細を知る人がいなかったため、この地域にあった伝承と一族の名前を関連付けて推測した噂話が元のようですね。最初にその話を聞きつけたと言う人物はもう亡くなっていましたが、発端はその人かと思われます」
「あれで生き残った人間は水木だけであったし、記憶も失っておったからな……。あそこで本当は何が起こったかを知る術はなかったじゃろう」
「ええ。あと、どうやら龍賀一族は哭倉村だけでなくこの周辺の山にあるいくつもの村の祭儀を取り仕切っていたようです。秋と年始の祭りもこの村と合同で行っていたそうですが、あの一件で全て燃えてしまいましたし、任せきりだったせいか祭りのやり方が分からなくなったそうです。今ではこの村だけで秋の祭りを取り行っているようですが、随分と小規模になってしまっているようです」
臆せずに廃村まで鬼太郎を追いかけてきただけはあり、山田はフィールドワークが得意なようだ。鬼太郎達とは違う角度から村と龍神について調べ、村のあちこちにある小さな社や村外れにある廃れかけた神社にも足を伸ばしており、そこでカメラで撮った画像を見せると、目玉親父は静かに唸った。一見ありふれたものに見えるが、よくよく見ると供物こそないにしろ、社の祭壇などは哭倉村で見たものと似通っている。
「さて、どうするか。龍が現れたのは夜のようじゃが、待ってみるか?」
「今夜も雨が降りそうですしね」
見上げると暮れかかった空には薄雲が覆い、その向こう側の月にはうっすらと光の輪が見える。すん、と遠くの匂いを嗅ぐように空気を吸い込むと土の匂いが濃い。
「……それに今夜現れる気がします」
鬼太郎が山の頂上を見上げる。目玉親父は丁度頭の上にいたこともあり同じ方向を見上げるが、息子が何を見ているかは分からなかった。
「何故分かる?」
「前に感じた視線を強く感じます。もしあれが龍ならと」
「なるほど」
こういった直感は案外当たるものだ。一行は村から少し離れた沢の近くで一休みできそうな岩陰を見つけ、火を起こして龍の出現を待つ事にした。
普段からゲゲゲの森で暮らしいる鬼太郎はまるで勝手知ったる場所のように木で骨組みを作り、檜の葉で屋根を作っていた。さすがに寝転んで眠るような事はできないが、周囲が暗くなると同時に降り始めた雨を避けるには十分だ。
「ふぁあ……寒いし眠い……」
大きな欠伸と共に気の抜けた声を出す山田に、猫娘も同じくつられそうになりぶるっと頭を振るう。緊張感がないなどと鬼太郎に思われたくなくて何か話題を、と周囲を探すと、尖った耳がそれを捉えた。
「雷……」
雨音に混じる空気を揺らす低い音。本来山の中で休む場合、今いるような沢の近くは危険である。目的が龍神であるから水に関係するこの場にいるが、今聞こえた音が雷ではなく急な増水ではないかと耳を澄ませた。低く広く、星を隠している雲を撫でる手のような光を伴い響く音は胸をざわつかせる。元は現象であっても動物が持つのと同じ本能的な不安を覚えるも、それは雷鳴のせいではないと知る。
「……え⁉︎」
何の前触れもなく、目前を流れる川の水は、増えるどころか急速にその量を減らした。
「なんじゃ?」
その場にいる全員がそれに気がつき腰を浮かせる。川の水は栓を抜いた風呂釜のようにみるみる減って、すぐに枯れて川底が露わになった。
と、それまで雲を伝うように鈍かった光が矢のようにすぐ近くに落ちて、それとほぼ同時に耳をつんざく衝撃音がした。四人は素早く互いの無事を確認し、間一髪で直撃は免れたと安堵しかけたが、事態はそれよりも悪いものであった。
「龍……!」
川の上流を見上げると、それは長い鎌首をもたげていた。川の水をそのまま宙に持ち上げているような細長い体は風に揺れる水面のように輪郭が一定ではなく、稲光を背にしている事で夜の闇に浮かび上がっている。その先端には光る目玉が左右にあり、頭のような場所には尖った角が無数に生えていた。
「あわわわわわ、龍神は本当にいたんだ……! 凄いスクープだぞこれは!」
いくらオカルト好きでもここまでハッキリとした異常を目にする者は滅多にいないだろう。山田は体の上下でまるで別の生き物のように、足は恐怖ですくんでいるものの、その手はカメラを構えてシャッターを押している。この場で一番弱いのは勿論人間である山田だ。彼が被害に遭わないよう、そして鬼太郎の足手纏いにならないよう、猫娘は山田の首根っこを掴むと先程まで雨宿りをしていた岩陰に放り投げた。
「あんた、隠れてなさい!」
「ひいいいい」
投げられた事でやっと状況を理解したのか、山田はカメラを守りつつ岩陰から茂みにばたばたと逃げ込んで、そこから眼鏡の目を覗かせる事にしたようだ。そんな人間には目もくれず鬼太郎をまるで見定めるよう睨みつけていた龍は、前動作無しに、頭から飲み込もうとしているように襲いかかってきた。鬼太郎は飛び退いてそれをかわし、次の動きを予想するためにも全体を見渡そうとした。だが龍の尾にあたる部分を探すも、川がそのまま龍になっているようだ。
『見つけた、見つけた、最後のひとり、ようやく見つけた』
細かく空気を震わせるような声が龍から発せられたかと思うと、再び鬼太郎に襲いかかる。鬼太郎は後ろに飛び退いたが、干上がった川底に頭から突き刺さるような体勢になっていたはずの龍は、その巨体に似合わない素早さで頭を持ち上げて追撃する。その首を切り落とそうと猫娘の鋭い爪が横から伸びてくるも手応えはなく、しかし若干動きを鈍らせる事には成功して鬼太郎は飲み込まれずに済んだ。それでも龍は猫娘をチラと見やる事もなく、再び鬼太郎に狙いを定めるべく頭を持ち上げる。
攻撃を避け逃げながらもその正体を探る鬼太郎は、ふと違和感がして稲光に浮かび上がる龍の姿を注視した。
「なんだ、あれは……?」
龍の頭には複数の角があるが、その形は角と聞いて想像するのとは違い左右非対称で、形も随分と歪だ。更に体は水で構成されているようだが、角は質感も違って見える。しかしこの場にある明かりは不規則な稲光だけで、更に攻撃までしてくるため、じっくり見る事は出来ないでいた。
小さくすばしっこい鬼太郎を捕える事ができないで、龍は苛立ったのか噛みつくのをやめて高く首を持ち上げる。光る目だけでその動きを追うと、飛び跳ねて攻撃を避けていた鬼太郎が着地したまさにその場所に、稲妻が矢のように突き刺さった。
「……っ!」
直撃こそしなかったものの掠ったのか、鬼太郎は左腕を押さえて茂みの中へ逃げ込んだ。
「どうして龍は鬼太郎だけを狙うの?」
こっちに向かって来なさいよと苛立つ猫娘は爪で龍の体を攻撃するも、ただの水を跳ねさせただけで効果はない。
「鬼太郎、大事ないか⁉︎」
「っ、はい、大丈夫です」
一旦木々の間に逃げ込み、龍の背後にまわり込もうとしている鬼太郎の髪にしがみついていた目玉親父は、見上げるように振り返りつつ目玉を顰める。
「龍……あれがか……?」
何故狙われているかは分からないが、このままただ一方的にやられてはいられないと髪を逆立てようとした鬼太郎に、その髪の上から目玉親父が叫ぶ。
「いかん! 鬼太郎、あれを傷つけてはならぬ!」
「ですが父さん、このままでは」
「手は出さずに避けるのじゃ! 猫娘! お主もじゃ、何もしてはならぬぞ!」
目玉親父が反撃を許さない以上、鬼太郎はそれに従う。何故かと問いたいところだが今はそんな余裕もないし、必ず訳は後で聞かせてもらえるだろう。父親を信じて、鬼太郎は龍から離れようとした。
『逃げる、逃げる、されど見えているぞ、最後のひとり、お前を喰らう』
龍は言葉通り鬼太郎の動きを的確に追っているようで、木ごと飲み込むつもりなのか、からだを高く持ち上げ茂みに頭から突っ込んだ。
「鬼太郎!」
滝壺の真下にいるような大量で重い水が鬼太郎に降り注ぎ、体を圧迫する。時間はほんの数秒であったがあまりの重さにその数秒は何時間にも思え、やっとそれが終わったかと思うと、今度は逆再生のようにその大量の水が宙に吸い上げられた。鬼太郎は伸ばした手が触れた大きな木の枝を掴み、決して離すものかと指に力を込める。吸い上げられる水がなくなると失われていた重力が襲い来て意識が朦朧としかけた。なんとか枝の上に体を乗せた鬼太郎に、崩れていた形を戻した龍は、先ほどとは違いどこか満足そうに声を高くした。
『強い、強い、お前を喰らう、お前の力を手に入れる』
「避けて!」
肩で息をしながらどこか遠くに龍の歌うような声を聞いていた鬼太郎は、猫娘の叫びにはっと顔を上げる。目前には大きく口を開いている龍のもう避けきれない光景があって、思わずぎゅっと目を閉じてその瞬間を迎える。
「……っ」
水圧を覚悟していた鬼太郎だが、先程の重さや息苦しさは嘘のように感じなかった。龍に呑まれて死ぬとはこんなにも一瞬で呆気ないものなのかと虚しさが浮かぶ。衝撃に備えて閉じた目を開ければそこは地獄の入り口なのだろうか。何度も足を運んだ事のあるその場所に、帰れない足で立つのはもっと先だと思っていたのに。しかし済んでしまった事は仕方がないと、鬼太郎は観念して閉じていた瞼をゆっくり持ち上げて、死後の世界を見ようとした。
だがその右目に映ったのは、暗い山の中の木々と、そこにしとしとと降り注ぐ雨粒。それが木の葉からぽたりと一粒頬に落ちて、鬼太郎は恐る恐る顔を上げた。
龍は大きな口を開けて今にも喰らいつかんとしている。その姿のまま、ぴたりと動きを止めていた。時間が止まったかのようで、だが輪郭が揺らめいていて、止まっているのは時間ではなく龍だけのようだ。
(どう言う事だ? 動きが止まった……?)
目を凝らすと、水で出来ている龍の口の中に何かが揺らいでいる。暗い中でそれはぼんやりとした青い光を帯びていて、その色から目が離せなくなった。
「……ぁ、」
記憶は時間の流れの中で薄れゆくものだと皆は言うが、鬼太郎はそうではなかった。光の差し具合で時折夜の一番深い時間のような青に見えるその色は、網膜に焼けついて鮮明に残っている。それに似ていると思った。
頭の片隅でどうしてと疑問を投げかける声と、似ているだけだと否定する声がする。そんな声に耳を塞ぎ、まるで光に引き寄せられるよう、鬼太郎の手は本人の意識の外でそれに向かって伸びていた。自分が今置かれている状況も周りの様子も忘れてしまう程、その微かな光から目が離せない。
(あれは……)
青色は元より頼りない弱い光であったが、瞬きの合間に更にその明るさを失っていく。早く掴まなければとふらりと立ち上がったその瞬間、鬼太郎の体に何かがぶつかって、伸ばしていた指は水に触れる事なく離された。
「鬼太郎! 何してるの、逃げるわよ!」
ぶつかったと思ったのは猫娘で、鬼太郎を抱えるとそのまま走って山を駆け降りる。すると龍は縛られていた縄から放たれたように体の自由を取り戻し、獲物を横取りされた憎しみのように頭を左右振り夜空に向かって声を上げた。咆哮は梵鐘に似た響きで、すぐさま猫娘に担がれた鬼太郎の後を追いかける。
「猫娘、待ってくれ、あそこに」
肩に担がれて運ばれている鬼太郎は猫娘の足を止めさせようとしたが、今ほんの僅かでも足を止めれば龍に追いつかれそうだった。
「猫娘、川から離れるのじゃ!」
川をなぞるように山を下っていた猫娘は、目玉親父の言葉に進路を変える。しかしいくら猫娘が懸命に走ろうとも龍からして見れば大した距離は稼げていない。ひょいと伸ばした首はあっという間に猫娘の頭上に届き、ぼたぼたと水滴が落ちてきた。鬼太郎が見上げると、見慣れた白いものが龍の背後に飛んできた。
「鬼太郎しゃ〜ん、猫娘〜! 乗りんしゃ〜い!」
日が暮れる前に援軍をと飛ばしていた烏が連れてきてくれた心強い仲間の登場に、猫娘はまず担いでいた鬼太郎を高く放り投げる。鬼太郎が高度を下げた一反木綿の背に乗った事を確認すると、次いで自分も木の枝目掛けて跳ねてから、その後ろに飛び乗った。
「助かったわ一反木綿、でも戻って!」
「なして?」
「置いてきちゃった人間がいるのよ」
詳しい話は分からないまま助けに来た一反木綿はそのまま山を下ろうとしていたが、そう言われて渋々方向を変える。
「仕方なかね〜」
仕方ないと答えたものの、いざ目の前に龍が迫っていると一反木綿は怯みそうになり、なるべく低空で地面のすれすれを飛び、猫娘に言われるまま沢にある大きな岩場に辿り着く。山田は言いつけ通り物陰から様子を伺っていたようだが、鬼太郎達の姿が見えなくなってから不安になったのだろう、首を伸ばしていたのを見つけると、それに向かって一反木綿が一直線に突っ込んできた。
「え? わ、わああああ! いいいいい一反木綿⁉︎」
龍の次は妖怪かと逃げ出した山田を背後から抱えて一反木綿は再び高く舞い上がった。まさかの状況に叫び声を上げ振り返った山田はその先に鬼太郎と猫娘を見つけ、自分を空中に攫った者が敵ではないと理解したが、足元は宙ぶらりんだ。
「じっとしとらんと落としてしまうぞ〜」
「ひいいい」
そうして気絶してしまいそうな山田を救出し、一行はからがら山から離れた。
山の麓にある寂れたビシネスホテルの一角に、鬼太郎、目玉親父、猫娘、一反木綿がいた。このホテルは元々山田が宿泊予約をしていた場所で、山から降りた後に追加でもう一部屋取ってもらったのだった。本当ならばいくら仲間であっても女性である猫娘と同室になるのは互いに気を使うので避けたいところだが、あいにくホテルの空部屋は一室しかなく贅沢は言えない。無理をお願いした山田は隣の部屋で撮った写真と見たもののまとめを行なっている。
「鬼太郎や、無事か?」
ベッドに腰掛けたまま俯いている鬼太郎に目玉親父が声をかける。鬼太郎は手元に視線を落としているがどこを見るともなく両手を擦り合わせ、聞き取れない程の小さな声で何やら呟いていた。
「……どうして……」
「どうしたの? 怪我でも……」
そんな鬼太郎に、一息つきつつ閉めたカーテンの隙間から山の様子を伺っていた猫娘も近寄り顔を覗き込む。普段からはつらつとしているわけではないその顔色は更に悪い。
「……行かなきゃ……戻らなきゃ……」
「何じゃ?何を言うて……」
震えていた小さな手に更に小さな手が触れ、鬼太郎はようやく父と目を合わせた。
「あの人がいた……、いたんです、父さん!」
「あの人とは……」
「龍の中にあの人がいました、僕を守ってくれた」
今にも泣き出してしまいそうな必死な片目で何かに急かされるよう立ち上がり、鬼太郎はカーテンを半分開ける。窓から見える山の頂上は夜の闇と雲に覆われ、雷は止んでいるようだがその形も判別できない。妖気を持つ者らにはざわざわと落ち着かない空気が立ち込めていた。
「いかなきゃ……今度は僕が助けなきゃ」
「鬼太郎、何があったの?」
「一反木綿、僕を山まで連れて行ってくれないか」
「ばってん……、そげな状態で戻っても龍には勝てんのじゃ……」
状況が分からず猫娘に助けを求めるよう視線を泳がせた一反木綿に、鬼太郎は思わず声を荒げた。
「僕はあれと戦うわけじゃない!」
「……鬼太郎、落ち着くのじゃ」
気を荒立てている鬼太郎と、それに困惑する猫娘と一反木綿、そんな三人は戒めるでも諭すでもない、普段と同じで少し飄々としたような目玉親父の落ち着き払った一声で呼吸を取り戻す。
「ぁ……」
特に鬼太郎は己が理性を失っていたと気づいて、浮かせていた腰を下ろす。そんな息子に目玉親父はゆっくりと近づき、苦い顔を見上げた。
「いたと言うのは、もしや水木か?」
「……はい」
「間違いないのか?」
「僕があの人を間違えるなんて……!」
ここで唯一自分を分かってくれた、分かってくれると期待していた相手に重ねて尋ねられた事がまるで疑われているように聞こえてしまい、落ち着かせたと思った胸の内が荒ぶりかける。だが赤い真っ直ぐな瞳に映る自分の姿に、ぐっと拳を作って一度息を吸って吐く。父は自分を疑っているのではない。信じようとしてくれている。それに元より、こんな話は自分が一番信じられない。
「……そんな事は、……それに目が合ったと思いました……」
口に出すとその根拠の危うさを思い知る。あの龍の中にもう一人の父がいる気がした、目が合った気がした。それらはどちらも自分本意の感覚でしかないもの。ポストに投函される手紙の大半は人間の思い込みや強迫観念、被害妄想からくる実態のないものである。それをいつも、やれやれ人間というものは、なんて半ば呆れながら読んでいるのに、まるでそんな自分にばちが当たったような気がした。
「確かにあの龍はとどめを刺そうとする直前に一瞬動きを止めた。しかしそれだけであやつがおると決めるのはあまりに危うい」
「……父さんは感じませんでしたか?」
自分が生まれる前に何があったのか、その話は何度も聞かされてきて知っているし、実際の記憶にある父二人は間違いなく良き友人関係であった。存在を感じたのは妖怪アンテナではなかったが、例えば絆のようなものがそうさせたのならば、父も何か引っ掛かりを覚えているのではないかと期待してしまう。
「何も」
しかし目玉親父はゆっくりと目玉を振るう。自分だけが感じたのならばいよいよそれはただの願望であったのかも知れないが、それに縋っていたかった。
「……でも僕は確かに感じたんです。あの人が……龍の動きを止めてくれたと……」
「そうか……」
息子だけが受け取ったものに安易に同調する事は出来ない。だがこれより以前から、鬼太郎はこの山で視線のようなものを感じていて、予想通りに龍が現れた。しかしここで押し問答をしていても埒が開かないと、目玉親父は一旦そこへの言及を止める。
「して、どうする? 龍の中にあやつの意思か魂か、それが残っていたとして」
鬼太郎は父からの問いかけに言葉に詰まる。どうするかなどと、聞かずとも答えは分かるだろう、父も同じ気持ちにならないのかと。否、ここには猫娘も一反木綿もいる。きっと彼らとこれからの話をするためだと一瞬でも父へ失望など抱いてしまった自分を心内で責めた。
「……助けたいです」
「助けるか……気持ちは分かるがのぅ」
「鬼太郎を拾って育ててくれた人間なんだっけ」
普段と違う空気を緩和しようと、猫娘が控えめに会話に加わる。目玉親父はこくりと頷き、俯きかけている鬼太郎を見上げた。
「だから、あのまま暴れるのを放っておくのか?」
「そう言うわけでは……!」
目玉親父が無条件に自分に加担しないのは、龍の手強さ故と鬼太郎も頭では分かっていた。単に力が強いからではなく、あれを構成しているものが捉えどころのない水であるためだ。猫娘の鋭い爪は効果を発揮せず、それよりもまずあれを傷つける事に嫌な予感しかしない、そんな対処法が未知の相手に仲間を巻き込むのは後々鬼太郎自身を傷つける事になる。それを案じているためだと。父の考えを理解できる、ならば自分一人でやるしかないと膝の上で作った拳に、目玉親父の小さな手がそれを緩めようとそっと重なる。
「鬼太郎よ、お前が信ずるのならばそれに賭けよう。助けたいと思うのも当然じゃ。そのためにも、まずは本当にあの男の意思が残っているのかを探る必要があるな。その後のことはそれからじゃ」
息子の決意の揺るがなさに、父はどこまでもそれを助けようと微笑む。力の入っていた指を解いて手のひらに目玉親父を乗せて、鬼太郎はやっと顔を上げた。その周りで猫娘と一反木綿は頷く。
「ありがとうございます、父さん……。怒鳴ってすまなかった、猫娘、一反木綿。助けてくれてありがとう」
「今更何言ってるのよ」
「そうそう、任せんしゃい〜」
目玉親父は皆を見渡し、そしてにっこりと笑う。
「さて、餅は餅屋。明日は河童と酒盛りじゃな」
「鬼太郎、眠った?」
普段は妖怪達と共に夜に起きている鬼太郎だが、龍から受けた攻撃のためか疲れが見えていた。加えて龍の中に存在しているかもしれない元養い親の存在で精神にも落ち着きがなくなっていたため、やや強引に寝かしつける事とした。最初こそ自分は平気だと明日のために出来るだけ情報を集めに行こうとしていたが、今いるビジネスホテルは山の麓にあり、迂闊に出歩いてはどこで龍に出くわすか分からない。そう言ってなんとか部屋に留めてベッドに横たわらせていると、口とは違い体はやはり疲れていたのかすんなりと眠りに落ちた。
「ああ、なんとかな」
猫娘は鬼太郎を寝かせるためにホテルのロビーにおり、部屋を出た目玉親父は一反木綿の背からロビーのソファに飛び降りる。
「すまぬな猫娘、心配をかける」
「私は別に心配なんて……!」
照れから自分を情の浅い性格だと偽っている猫娘は、目玉親父の言葉に反射でそう言ってぷいと顔を背ける。勿論それを分かっている目玉親父は余計な事を言わず、ふっと微笑んでから真っ暗な窓の外を見やった。夜の気配には慣れ親しんでおりホテルの外にもそれらを感じるが、そのどれもに敵意のない事を確認する。
「……鬼太郎を育てた人間のこと、ちゃんと聞いたことがないんだけど、私が聞いても良い話?」
少しの沈黙の後に、猫娘は様子を伺いつつ尋ねる。さすがにあんなものと対峙して知らぬままでいるのは不自然だ。目玉親父は猫娘の気遣いを感じ取り、それを和らげようと何でもない事のように振り向いた。
「構わぬよ。今のあの子の前では少々話しづらいがな」
これまでも目玉親父は水木の話をしてきた。それは鬼太郎の前でも同じで、しかし鬼太郎はそこに口を挟む事はせず、猫娘や他の仲間達も薄っすらとその存在を知る程度。目玉親父はソファの上で胡座をかき、まるで囲炉裏端で子供らに話す昔話のように語り始めた。
「あの子を育てた人間は……水木は、あの子を子供として扱ってくれる者であった」
終わりがいつかわからない目玉親父とは違い、人間には多少の差はあれど明確な終わりが分かっている。であるからか、人間ではなくとも短いであろう子供の時間は、目一杯子供として過ごすのが良いと、水木は持てる時間の精一杯で褒めて叱って、本当の息子として鬼太郎を育てた。日々はあまりにささやかで、特筆して書き留めるような事もない穏やかな毎日を三人は過ごしていた。
だがそんな日常はある日突然失われた。その頃に住んでいた町を、洪水が襲ったのだ。
「止まないな……」
前日から降り続ける雨を窓越しに見上げ、水木は気怠そうにため息を吐いた。
「警報が出てるから、今日は外に出るなよ」
「はい」
「そう言うお主は仕事に行くのか」
予報ではこの後更に雨は強まるらしく注意が呼びかけられている。しかし電車は辛うじて動いているようで、となると出社せねばならないのが日本の会社員だ。昔のような出世欲もなくなったが雨ごときで仕事を休むわけにもいかず、水木はわざとおどけたような顔をした。
「次は昼まで寝てられて、雨の日は休める妖怪の会社を探すとするか」
「そうしてください」
隣に並んで外の様子を眺めていた鬼太郎が真面目に同意するものだから、父二人は同時にふっと笑い、水木は大きな手のひらで鬼太郎の頭をガシガシと撫でた。このまま家にいたいがそうもいかず渋々支度を始めた養父を横目に、鬼太郎はそのまま外を眺める。それは遊びに出たいと言う子供らしい気持ちからではなかった。正直鬼太郎は雨が降っていようがあまり気にならないが、養父をいたずらに心配させるべきではないと、悪天候の日は大人しくしている。しかし今日はそう言った気遣いではなく、先程から胸騒がしてならず、本当ならば水木にも家にいてほしいくらいだったが、これを口に出すのは気が引けた。養父は自分達を食わせていくために働いてくれているのだから、我が儘を言ってはならないと父にもいつも言われている。
「じゃあ行ってくる」
いつもは布団か部屋の中から見送るが、この日は何となく離れがたく、鬼太郎は玄関まで見送りに降りた。靴を履く広い背中の向こう側は大雨で、もし今ここで抱きついたら家にいてくれるかなと想像してみる。革靴の足音が聞こえづらいほどの雨音が不安を増長させていた。最後に振り向いてもう一度頭をぽんと撫で、水木は玄関の敷居を跨ぐ。だが一人分開いた玄関扉から、遠く声がした。それは人間には聞き取れない鳥や虫達の声で、雨音に掻き消されながら仲間に届けようとしている警戒の音だった。
「水木さん、待ってください!」
鬼太郎はすぐに下駄を履いて後を追う。呼び止められて振り向いた水木の足元で跳ねる雨粒の位置が高い。排水が間に合っておらず道路全体が水溜まり状態になっていた。
「どうした、きた……」
傘も差していない鬼太郎に駆け寄るも、不自然な空気の揺れを感じてすぐに山手の方角へ視線を移す。鬼太郎も同じく目を向けると、何か得体の知れない黒く大きなものが迫っていた。それが何か判別した時にはもう遅く、鉄砲水は鬼太郎の胸の高さにまで届く。
「うわああ!」
「鬼太郎!」
衝撃に傘が飛び、だがそんなものより鬼太郎が流されないようにと腕を掴む。鬼太郎も水木のスーツを掴んで、流されながら近くの電柱に二人でしがみついた。
「鬼太郎、無事か⁉︎」
「は、はい、なんとか……、父さんいますか?」
「儂は大事ない」
鬼太郎の髪にしがみつく父を確認し、ともかくこの状況から脱しなくてはと辺りを見回す。だが目に入るのは一面茶色く濁った激流で、山を削りあらゆる物を飲み込んできたのだろう、人間よりも太く長い倒木や自転車、家具なども混じり、何より水の勢いがとてつもない。早くここから逃げなければ鬼太郎が目玉親父共々流されてしまうし、水木自身も身の危険を感じていた。水木は流されないよう体勢を取り、鬼太郎を抱き上げた。
「落ちないようしがみついとけ!」
「水木さん、でも」
「いいから!」
自分の方が体は小さくとも力が強いと言いかけたが、水木に一喝され言われた通り首に抱きつく。こんな状況にあるが、鬼太郎にはこれが嬉しかった。この人間は自分を利用しようなどと考えもしない、それどころか己の身が危うい時にでも子供であるからと助けようとしてくれるのだ。いつも近所の歳の近い子らに化け物だと揶揄われているし、その親達からも値踏みするような目で見られている。彼らは自分とは違う種類の生き物である人間、だがこうして自分を守ってくれるのもまた人間で、鬼太郎にはこの養父が彼らと同じ種である事が信じられないでいた。心も体も弱い人間をそれでも信じたいと思ってしまうのは、ひとえに今自分を守ろうとしてくれている男がいるせいだ。
「くっそ……進めない……」
一番近くにある避難できそうな場所は自宅のある建物で、その玄関まではたった十メートルほどの位置であったが、思うように進めず押し流されるばかり。隣の電柱まで届かないが懸命に手を伸ばすと、鬼太郎が髪を伸ばしてそれに巻きつけた。その髪を短く戻す力を借りつつ水木は少しずつ前へ進む。次は開け放していた玄関扉から家屋の中の柱に髪を巻きつけ、やっとの思いで戸口まで到達した。あと一歩で中に足を入れられる、そこで水木はふいに何かを感じ、水の流れくる方向を一瞬見ると、目玉親父が髪を掴んでいる事を再確認してから鬼太郎の体を投げ飛ばした。まさかの事に飛ばされた鬼太郎は驚き、着地した階段にしがみついて急ぎ振り向く。しかし目の前には濁流に飲み込まれ変わり果てた町があるだけで、水木の姿はどこにもなかった。
「……不思議なものでな、その者の死に目にあうとどんなに辛くとも死を受け入れる事が出来るものだ。だが鬼太郎は、自分を助けてくれた人間が『振り返ったらいなくなっていた』のじゃ」
鬼太郎とて頭ではわかっていても、何年経とうと心は納得できずにいる。まなから貰った記憶のように、実感が湧かないのだ。
振り向いた先に伸ばしかけた己の手だけがあって、鬼太郎はほんの数秒呆然とした後に濁流に飛び込もうとしたが、目玉親父がそれを制した。
「ならぬ! いくらお前でもこれは無理じゃ!」
「……っ、でも!」
力の強さも丈夫さも、姿形が似ている人間とはまるで違う幽霊族。そんな自分が危険ならば、人間などどうなってしまうと言うのか。鬼太郎は飛び込ませてもらえないのならと階段を駆け上り、窓から飛び出して屋根伝いに水の流れを追った。しかし目に映るのは轟音を立てる茶色い水面と力無く流されている物ばかり。そこに雨音が混じり、叫んでもどこにも声は届かない。鬼太郎は屋根から屋根を飛び移り流れを追うも、途中で目の前で家が流されて先がなくなってしまった。
数日し、ようやく水が引くと鬼太郎は一度自宅のあった場所まで戻り、そこから流れに沿って町を隅々まで探し回った。朝も昼も泥をかき、探して探してやがて草臥れて気を失うように眠り、目が覚めるとまた泥をかき、ついに海に出たが手掛かりの一つも見つかる事はなかった。
「せめて骸が見つかれば諦めもつくのだろうがな……。気持ちの整理をさせるためにと墓を建てたが、鬼太郎にとって墓参りは供養にはなっておらぬようだ」
それはまるで年に一度の決意表明をしているように、あの日の出来事を胸に刻み直すように、骸のない墓に手を合わせる息子の姿に、目玉親父はかけてやるべき言葉を未だ探している。
扇はその持ち手部分に、骨がバラバラにならないよう止めておくための要と呼ばれる小さな金具がついている。要の両端は釘の頭のような形状をしており、今の鬼太郎を扇に例えるならば、その片方を失っているようなものだ。残っている片方は今も鬼太郎を支えている父であり、失った裏側は養父だ。鬼太郎は失った片方の要を指で無理矢理に押さえつけて扇の、魂の形を保っている。鬼太郎と水木は深い絆で結ばれているがそれは思い出などではなく、思い出にしないため指を外さぬよう、指で隠すよう今も続いている。
目玉親父はそこで一度ふっと息を吐いた。隠してはいないが皆遠慮してこの話には触れようとしないため、久方ぶりにあの日の光景を鮮明に口に出した疲れがあった。猫娘は何と言って良いものか分からず、鬼太郎が育ての親について口に出さない理由を、これまで迂闊に聞き出すような真似をしなくて良かったと思いつつ、鬼太郎がいないこの場で聞いてしまって良かったのかとひとり問答する。
「疲れたか、猫娘や?」
目玉親父は柔らかな口調で尋ねた。猫娘は黙って首を振る。これまでもずっと息子を隣で支えてきてくれた優しいこの子は、やわではない。目玉親父はゆっくりと話を続ける事にした。
「そしてな、鬼太郎が諦めきれぬ理由がもう一つある。……それは水木の体だけでなく、魂も見つからぬからだ」
「魂も……?」
「そうじゃ。知ってのとおり、死んだ者は皆等しく地獄で裁判を受ける。しかし時に強い念を持ち現世に留まる者、自分の死に気づかず彷徨う者もおる。そのどちらなのか、水木の魂は地獄へ向かった形跡がない。じゃからまだ現世を彷徨っているのだろうと、探し続けておるのじゃよ」
洪水の後、人間と関わるのも辛かろうと目玉親父はゲゲゲの森の奥深くで暮らすことを提案したが、鬼太郎は水木の魂がいつか縁のある場所へ戻ってくるかもと森の浅い場所に居を構えた。そして人間界の異変を見逃さないよう妖怪ポストを始めた。水木は生前、一度たりとも鬼太郎に人間を助けろなどと言った事はない。そして鬼太郎がかつて口にしていた、人間と妖怪はあまり関わりすぎない方が良い、人間は妖怪を怖がるくらいで丁度良い、とも言っていない。ただ己の思うままに生きろとだけ願っていた人間に育てられた子は、己の好きで養父を探しつつ妖怪と人間の調停を行なっている。
「哭倉村の狂骨を鎮めておったのもそれ故じゃ。もし良いものでなくとも縁のあるあの村に水木が辿り着いて、狂骨に飲み込まれてはいかんからとな。そうならぬよう、そして既にそうなっておるかもと一人ずつ確認しながらあの世へ送ったのじゃ」
「……だから今でも時々あの村に行ってたのね。もう狂骨はいないのにどうしてかと思ってたわ」
「うむ。だが最後の一人、あの子を送っても水木は見つからなかった」
自分の知らない縁の地を探し随分あちこち巡ったが、それらしい噂を聞く事もなく、鬼太郎は諦める機会すら掴めずにいる。これがいつまで続くのか、親としては残酷でも早く気持ちの整理をつけさせたいと願う一方、そうなった時にそのまま息子が崩れ落ちてしまわないかと心配している。
「親父さんは諦められたの……? その人とは友達だったって……」
鬼太郎が抱えているものの一端を知り、すると浮かんだ疑問を恐る恐る猫娘は尋ねた。目玉親父は僅かな時間迷い、視線を下げた。
「……儂は鬼太郎よりほんの僅かに早く振り向いていた。だから見たのじゃよ、……あの男が流れに飲み込まれるところを」
水の勢いが強くなったのか足元を何かに掬われたのか、沈む寸前の顔を、伸ばした手を目玉親父は目撃した。伸ばしても決して届かない手を伸ばす事すら叶わなかった、あまりにあっけないその光景は何年経とうと薄れない。
「あの瞬間に悟ってしまったのじゃよ……ああ、これは助からぬと……なんとも薄情な話じゃ」
「そんな……」
何もできなかった悔しさに己を責める目玉親父の気持ちが痛いほど分かって、猫娘はそれを否定しようとした。しかし目玉親父は目玉を振るう。
「勿論儂とて悔しい。申し訳なくも思う。儂らを助けていなければあやつ自身が階段を登れていたかもしれぬのにとな……。そして残酷でも、あの最期を儂ではなく鬼太郎が見ておれば……そうすればここまで長く苦しむ事はなかったろうに」
目玉親父は妻と出会うまでに幾人もの血族を見送っており、自分が最期の一人と思っていた。中には最期を知れない者もいる。であるから、ある時ふっと切れて繋がる先の無くなる糸の辛さに慣れていた。その時の気持ちの処理の仕方を知っていた。取り残される虚無感をいつも抱えていたから、今更一人分増えたところで大差はないのだ。だが鬼太郎は違う。どうせ辛い思いをするならばせめて自分が背負ってやりたいのに、天はそれを許さない。
「鬼太郎の言う、龍の中にまだ水木がおるという話は、あの子の願望が見せた幻かもしれぬ」
それに巻き込んでしまっているならばすまないと頭を下げられ、猫娘はそれを止めた。
「それでも鬼太郎がやるって言うなら私は付き合うだけよ」
事実でなくとも、それならばそれで鬼太郎は次を探せる。そのためにならばいくらでも手を貸すと、決して軽くない決意を猫娘はさも愚問に答えるようフンと脚を組んだ。目玉親父は滲む目玉で微笑む。
「……いつもお主には助けられてばかりじゃな。鬼太郎もどれだけ心強いか」
「暇だから手伝ってるだけよ。……それに鬼太郎を助けるのはきっと私じゃないわ」
ふいと暗い窓を見やると、自分の顔と目が合う。そうだ、そのまま強気でいろとガラス窓の自分を睨みつける。大切な仲間を守るため、願った役目ではなくとも自分にできる事をするのが自分だ。猫娘は不敵に笑って見せる。
◇◇◇
辿れ辿れ、熱の在処
淡い魂、青い火を
墓場で見つけたあの火を探せ
水の中を泳いでいた。否、水は自分だった。
土の下に眠る体を天から落ちてくる雨粒と混ぜて膨らませて、地面深くに潜った。恵みの雨、体の形を保つのに役立つ雨。これだけの雨が続いている今ならば辿り着けると、そのまま古い川の流れに乗って山を下る。熱の在処は住処から遠く、辿り着くまでには大きな体が必要で、天が与えてくれたこの機会を逃すまいと体をくねらせ勢いをつけた。山から離れて大きな川に出て、目当てが近づくと堤防を破り流れから外れた。いよいよここからだと人間の作った不自然な地面を這うと、そのため体は崩壊を始めている。だが小さな熱を喰らうには足りるだろう。いつもの澄んだ視界とは違って今目の前は濁っているが、それも関係ない。その熱ははっきりと見えていた。もうすぐだ。あと少しで届くのだ。
いよいよ目指す熱が近づいて、逃さぬように大きく口を開ける。それはこちらに気がついて、何かを投げ飛ばす。ああ、待ち望んだ瞬間だ。熱と目が合って、しかしそれは抗う力を持たない。
この時を待っていた。なんと喜ばしい。天を見上げてその時を待つ。
だがそれは間違いだった。喰うべき魂はこれではなかった。
まるで腹でも刺されたような衝撃に飛び起きた。破裂しそうに心臓が早鐘を打ち全身が震えていて呼吸がままならない。視覚情報からこれが夢であると分かっているのに、山を削りながら下り街中を這った匂いと、見つけた熱をこの口で噛んだような触覚がして吐き気がした。
(これは龍の記憶か?……あの日の……)
理由も理屈も理解できない中で見えた情景と感情は、まるで自分のもののように思えて鬼太郎は混乱する。
(分かってたはずだ……!)
養父はあの時死んだ。あの状況で脆い人間の体が無事なわけはない。だが魂は人間も動物も幽霊族も同じである。だからせめて魂だけは未だどこかを彷徨っていると、それに望みを託し縋ってきた。しかし本能が察してしまった。
養父はあれに飲まれて死んだ。
あの瞬間に養父を感じ取ったのは間違いではなかった。しかし蛇が獲物を丸呑みにし、その全てを己の血肉とするよう、あれに飲まれてかたちを留めておけるものなど在るのか。あの時父が攻撃を止めたのも納得ができる。あれは妖怪などではなく、決して手を出してはいけない絶対的な存在だ。
「目が覚めたか」
ほんの僅かに開いた扉から中を覗いた目玉親父は、息子の様子がおかしいのをすぐに察して小走りで側まで駆け寄る。
「どうした、どこか痛むのか?」
「父さん……僕はあの人を、……違う、僕じゃなくてアレが、……僕があの人を飲み込んで……」
小刻みに手が震え、途切れ途切れの言葉を紡ぎながら目の前の父を映さない目は泳いでいる。
「……落ち着くんじゃ」
動揺に流されないようはっきりと言うと、鬼太郎はやっとその声の向こうに父を見つける。今自分がいる場所と側にいる者と、これが現実だ。つまり自分が見たものは夢なのだと、カラカラの喉で無理やり微かな唾を飲み込んで感情を鎮める。
「……夢を見ました」
一度目を閉じ、肺いっぱいに空気を吸い込んで細く長く吐き出す。
「雨で大きくした体で山を下って、町を走って、……そしてあの人を見つけて……飲み込んだ……」
「もしや龍の記憶を夢に見たのか?」
「あれは龍ではありません。……とても似ているけれど違うものです」
記憶を見たからか、自分を襲ったもの、そして養父を飲み込んだものが龍ではないと分かった。龍ならばもっと違う方法で、あんな風に地を這わずに目的のものを探すだろう。
「でもどうしてこんな夢を……」
「襲われた時に水を飲んだのだろう、その影響ではないか」
血により親と子が似るように、水は時に記憶を宿す媒体となる。人間どころか幽霊族でも敵わない強い力を持つものの水ならばその影響力も恐らく桁違いで、鬼太郎は思わず腹をさすった。つまりこの体が吸収してしまった水には、養父の魂が僅かでも溶けているのかも知れない。
そしてもう一つ、それよりも恐ろしいものに口元を覆った。
「どうした?気分が悪いか?」
「……いえ……あの人を飲み込んだ瞬間の感触が、残っていて……」
砂漠で見つけた果実に歯を立てたようなあの甘美な一瞬の夢は、まるでこの身に起こった事のように錯覚を起こした。昔から妖怪だとか化け物だと呼ばれ人間社会に馴染めずとも、そんなものは知らない誰かの作り上げた虚構の姿であり、本来の自分の姿ではないと無視をしてきた。だが人間を喰らった恍惚に囚われてしまえば、悪意の言葉が現実となってしまう。それが恐ろしくて堪らなかった。
「僕があの人を……」
「鬼太郎、違うぞ。それはお前の記憶ではない。お前はそのような事はしておらん。間違えてはならぬ」
目玉親父の小さな手が精一杯強く鬼太郎の指先を握る。この感触こそが現実であると教えられ、鬼太郎は口の中に残る感触を消そうと、握られている指に意識を集中させた。
「そう……そうですね、これは僕の記憶じゃない……」
「そうじゃよ」
「……父さん、あれの中にあの人がいるのは間違いありません」
「そうか……」
息子を信じていないではなくそんな事実があり得るのかと半信半疑であったが、夢に見たと言われれば信じざるを得ない。それこそ夢は当人にしか見えないものだが、知るはずのない光景に震えている手が事実である証拠だと思えた。つまり友人の魂は存在しており、息子の諦めの悪さは正解だった。それにひきかえあの瞬間に諦めてしまっていた自分の薄情さに責められるようだ。勿論鬼太郎がそのような考えを持つはずもない。目玉親父は目玉を振るってそんな被害妄想を追い払った。
だがそんな目玉親父でも、この事実を手放しで喜べるものであるか容易に判断を下せないでいた。相手の正体も分からず、鬼太郎が願っているであろう結末へ導けるのかと新たに疑問が生まれる。
「父さんはどこにも行かないでくださいね……僕が守りますから、だから」
思わず険しい雰囲気を出してしまっていたのか、落ち着けるために引いていた感情の手綱が緩むのを感じ、目玉親父はパッと表情を普段と同じにした。
「鬼太郎、ゆっくり息を吸うてみい。……そうじゃ、さ、もう一度」
言われた通り、鬼太郎は肺に空気を吸い込み、吐き出すを繰り返す。今優先すべきは先の事ではなく息子の心を落ち着ける事。懺悔は後でいくらでもできる。
「よく聞きなさい。儂はどこにも行かぬよ。お前の側におる。そのためにこんな姿で未だこの世におるんじゃ、守ってなどもらわずともどこにも行きはしない」
自分を犠牲にしがちな鬼太郎の性格は自分と友人のどちらに似たのだろうか、もしここに妻がいれば両方だと笑うのだろう。似て欲しくところばかり似てしまった息子は、妻に似た色の目をようやくいつもと同じにした。
「……はい」
「さて、話を戻そう。あの山におるのは龍ではないのだな?」
「そう思います」
「そしてその中に水木の魂が残っておると」
鬼太郎はこくんと頷く。その顔に迷いはないが、不安は見え隠れする。
「あの人を助けるなんて……無理な話でしょうか……」
「そう答えを急ぐでない。まだあの龍もどきの正体すら分かってはおらぬのだから」
「……はい、父さん」
逸る気持ちに状況を見誤るなとこれまでも教えられてきた。今回の相手はこれまで以上に、単純な力の強さで推し勝つべきものではない。
「しかし、やはりそうか……龍ではないか……」
目玉親父は反撃を止めたさせたのが間違いではなかったとほっとした。そのせいで鬼太郎は危うく飲みこまれかけたが、例え龍であってもそうなれば相手は神に近いものである。襲われたからと反射で傷つけては取り返しのつかない事態になりかねない。
「父さんはあれの正体は何だと思いますか?」
「さてなぁ……今は未だ分からぬ事の方が多いからな、安易に言うべきでない気がするのう」
憶測で事を進めれば思い込みで大切なものを見逃す、これも何度も教えられてきた事だ。鬼太郎は山と夢で見たものを思い返そうとしたが、目玉親父はそれを止めた。
「日が昇るまでまだ少しある。もう一度眠りなさい」
「ですが……」
「焦ったとて事態は好転せぬよ。それよりも体力を回復させ、頭をスッキリさせる方が道も見つかる」
相手が何であるか、水木を助ける事ができるのか、相談すべき事は多いが今は情報が少なすぎる。父にそう言われて体を横たえたものの、気持ちが昂っていてとても眠れないのでは思っていが、体はくたびれているのか鬼太郎の瞼はすぐに重くなる。夢に落ちかけながら、鬼太郎は断崖にかけた指を離すまいとするような焦燥感から争うよう思考を続けた。
龍もどきの中に感じたものが養父の魂の残り火であったとして、鬼太郎を喰らおうとした際に動きを止めたあの瞬間に燃え尽きていないと言えるのか。あの男ならばやりそうな無茶を思い、もう視界が暗く閉じる。
(死んでまで僕を助けようとなんてしなくて良いんですよ……)
これを伝える術すら持ち合わせていない自分のちっぽけさはまるで泣き疲れた赤ん坊のようだと、惨めさと共に夢も見ない眠りに就いた。
朝日が昇り、鬼太郎達は二つ隣の山の中にいた。龍について調べるため妖怪達に話を聞く事が目的で、山田はホテルとその近くで情報の整理と収集を続ける事とした。山の中服から歩道を離れ、人間には見分けが困難な獣道を行くと沢に出た。そこには河童が数匹おり、近くには山に住む他の妖怪の姿も見える。
「いつぞやは世話になりました」
珍しい来客に興味と警戒の半々で近寄ってきた河童達に、目玉親父が手のひらの上からそう挨拶して持参した地酒を手渡す。河童は怪訝そうな顔を水面から半分だけ出していたが、久しぶりに顔を見た知人の名前が咄嗟に出なかっただけのように、すぐに相手に思い当たって上半身まで現した。
「おお、これは幽霊族の。いやいや、あれしきの事。久しぶりですな」
「あれからどうしていたのかと心配しておりましたぞ」
三匹の河童と目玉親父は挨拶を兼ねて簡単に自己紹介をし合った。七十年前はお互いの名すら知らないままであったが、妖怪の間ではままある事だ。河童は複数人で生活している事が多いが、特に相手が一人しか見当たらない場合、個別の名前を呼ぶ事はあまりない。あの時の河童達にとって目玉親父は、幽霊族の男、という情報だけで十分なのだった。
しかし今は色々と聞きたい事があるし、この場に幽霊族は二人いる。河童達に呼び分けてもらうため、目玉親父は自分と鬼太郎、そして猫娘と一反木綿を紹介し、皆それぞれ挨拶を交わした。
「今日は少々お尋ねしたい事がありましてな、近頃ここあたりで龍のようなものが出たとかで。何かご存知ありませぬか?」
場が和んだところで目玉親父が切り出すと、河童達は話を聞いて欲しかったのか状況を変えて欲しいのか、我も我もと押し合うように口を開く。
「ああ、見たよ」
「あれは雨の夜だった」
「そりゃあ驚いたのなんのって」
「昨夜も似たような声が聞こえていた」
「そうそう、おっかないね」
「でもあそこにいたのは龍ではなかったのになぁ」
「ふむ、龍ではないと?」
それまで前列にいた若い河童の後ろから、年長の河童が「そうじゃ」と声をかける。若い衆は年長河童のために場所を譲り、鬼太郎も視線が同じ高さになるよう手のひらを下げ、二人を向き合わせた。
「あれは龍に似ておるが、少々違うものじゃ」
「と、申されますと?」
「もう少しで龍になれるはずだったもの……ナガムシじゃよ」
「ふむ……」
目玉親父が腕を組み考え込むと、良いところを見せようと再び若い河童達が話し始める。
「でもあれはいつからか姿を見なくなったんだよ」
「噂じゃ人間に地面の下に閉じ込められちまったんだとか」
「とんと寝床から出てこなくなった」
「百年か、もう少し前の事だったかな」
「そのせいで大百足が大将を気取って、俺らはみな迷惑していたのさ」
大百足と聞き目玉親父は渋い顔をする。確かにあの小島には多くの妖怪がいて、彼らは穴倉から漏れ出る瘴気の影響で普段よりも荒ぶっていた。中でも大百足は元より気性が荒く、龍すら喰い殺す強者もいる。その大百足が姿ある時には敵わないものがあの穴倉にはいたと言うことか。
「しかしあの晩に皆いなくなってしもうた。人間も妖怪も全てな。儂らも慌てて逃げ出して、ここに戻ってきたのもつい最近なのだよ」
「ここは人間の手が然程入っておらぬようですな」
「うむ、お陰で水も綺麗な方さ」
「なのにまた水が悪くなってきてな、あの山も枯れそうだ。だがあそこは俺らの故郷だからね、離れがたいんだよ」
「それでここに?」
「ああ、せめてまだ水の綺麗なこの山で様子を伺っているのさ」
「……実は昨夜、あの山で倅が襲われまして」
目玉親父の言葉に河童達は一様に驚き、鬼太郎を見つめる。姿形がまるで違っても妖怪達は鬼太郎と目玉親父を同じ種族であると見抜き、また親子であると言われずとも感じ取る者が多い。
「お前さん、親父殿にそっくりだな」
「そっくりどころか生き写しだ」
「ああ、でも髪の色は違うんだね」
「あれぇ、そうなんかい?」
顔が似ている事はたまに聞くが、父の髪の色の話を初めて知った一反木綿が鬼太郎と目玉親父を交互に見つめる。目玉親父は振り返り、ふふっと笑う。
「そうじゃなぁ……鬼太郎の髪は母親似じゃからな。儂の髪は白かったんじゃよ」
「へぇ、見てみたかったわね」
「写真とか残っとらんのかい〜?」
静かに目玉を振るう目玉親父は何を見ているのか、懐かしむように鬼太郎を見上げ、そしてにこりと微笑んだ。
河童達から話を聞いて山を降り、ホテルに戻ったのは昼過ぎだった。部屋に戻った音を聞きつけたのか、一息つく間もなく山田が慌ただしく扉を叩く。
「鬼太郎君おかえり! これ見て!」
扉を開けると挨拶もそこそこ、山田は持ってきたノートパソコンごと部屋に入り、備え付けのテーブルの上に置いて画面を見せた。パソコンの画面にはあの状況ながら無心でシャッターを切った大量の写真の中の一枚が表示されており、暗闇の中で稲光を浴びて鮮明に映し出されている龍のような姿が映っていた。その頭にあたる部分にある角と思っていた部分を拡大する。
「龍の頭にあるもの、これって角じゃなくて木の枝じゃないかな?」
「木の枝……?」
「……ねぇこれ、何か花が咲いてる?」
猫娘の言葉にその場にいる全員がもう一度目を凝らして画像を見た。確かに言われてみれば淡い紅色の花びらのようなものも見えた。
「桜……?」
「成程、やはりそうか」
目玉親父は拡大されてぼやけているものの、明らかに体とは違う質感の角をじっくりと見つめ、確信を得たのかそう呟いた。
「あの一族が祀っておったのは、元は山そのものじゃろう」
目玉親父は説明を始める前に、まず最初に山田に河童たちから聞いた話をしてやった。山田はそれを聞きながらノートに気になる単語を書き留めていたが、あるところでふと手を止める。目玉親父は次いで龍の正体について話しを進めた。
「河童達はあの山にいたものは龍ではなくナガムシだと言っておった。ナガムシは山言葉で蛇。この画像から分かる通り、一見龍に見えたが、蛇の頭に刺さった枝が角に見えた。それに加えて儂らが勘違いしたのも、一族が名に龍を冠しておったせいもあるか」
「蛇ではなく龍を名に使っていたのは権威のためですかね、親父さん?」
「かも知れぬな。ここから然程遠くない山に古くからある神社がある。御神体を石、そして蛇とするその神社でかつて行われていた祭り、その際の供物の中には串刺しにした兎があるのじゃが、あの村の社にも同じものがあった。あの村で祀られていた神はその流れを継いでおるのではないか」
「それが蛇ですか?」
「うむ。山の手の鳥居は山を崇める証。供物の兎は先に述べた通り。そして河童達の言うておった島にいた大百足」
「大百足って、いくつも伝説がありますよね。赤城山で蛇と戦ったとか」
「ふむ、山田殿はよう知っておられる」
「い、いやぁ、この手の話を扱うのが仕事ですから……」
単なるミーハーなオカルト好きと思っていたが、山田は神話や民間伝承なども勉強しているようだった。一同は関心して口々に「おお」と感嘆を漏らし、目玉親父は心強い助っ人が現れたと満足そうに話を続けた。
「蛇と大百足は所謂ライバルとして語られる事も多い。河童も似たような事を言うておったじゃろう。しかしその大百足がとんと敵わぬほどに強い蛇、つまりあの一帯を統べる蛇神があの山にはおったのだろう」
山深い村の、見渡せる範囲を治めていた蛇神。それほどの存在ならば、姿を表せば龍と見間違えるのも無理はない。
「龍と蛇はどちらも水に関係するんですよね。山はどう関係するんですか?」
「蛇は山の神の象徴として用いられる事があるんだよ。同時に水の神であり田の神でもあるんだ。蛇信仰は日本では古くからあって、龍は仏教の伝来で日本に入ってきたんだけど、姿の似た龍は元々あった蛇信仰と結びついた、……ですよね?」
「うむ」
元々持っていた知識、そこに昨晩の事があったからと山田はホテルで龍についてあれこれ調べなおしていたらしい。蛇と聞き、鬼太郎は村にあった地下通路を思い出した。
「あなぐらへ続く曲がりくねった道……もしかして、あなぐらは蛇の巣穴ですか?」
一族の屋敷から禁域へと繋がる地下の隠し通路には鳥居が連なっている。鳥居は神と人間の住む世界を分ける境界であり結界、そして神の通り道だ。その行き着いた先の大きな地下空間の中心にはかつて地下水の溜まった池があり、天井には蛇が出入りできそうな穴もある。
「あれが巣穴ならば蛇の大きさは桁違いじゃな……」
一同はごくりと唾を飲み込んだ。
「あの蛇の頭に刺さっていた枝が桜なら、血桜が関係しているのでしょうか」
「……考えとうないが、蛇神を血桜の養分にしておったのやも……狂骨を使役しておった裏鬼道衆を抱えておったのじゃ、あの一族ならそれくらいやりかねん」
本来ならばとても太刀打ちできない蛇神になんらかの方法で血桜を植えた事で蛇の力が弱まり、いつしか一族が蛇に成り替わり山を支配するようになったのだろう。蛇に敵わなかったはずの大百足は抑えつけるもののいなくなっあの小島で我が物顔で暴れていたところ、瘴気にあてられ益々凶暴になったと思われる。
「いくら大勢の同胞から血を奪っているにしても、あの血桜は大きすぎると思っておった。幽霊族だけでなく神である蛇の力を吸っておったのならあそこまでの巨木になったのも納得じゃ。その血桜が消滅した後も枝が刺さったまま、傷口から血が流れるように神としての力を失いつつあるのやも。再び地上に姿を現す際に大量の水を必要としているのは、もう己の力だけでは姿を成せぬから……入れ物に使う水が必要だったのか」
「そのために井戸を枯らせたと……」
そして水木の命を奪った洪水もまた蛇の起こしたものだ。山を下りその体はかたちを留めていられなくなったが、それでも牙が届くほどの力を持っていた。夢でその一端を感じていた鬼太郎は、蛇の大きさ、力がまさかそれほどに強かったのかと身震いする。
「あの時完全に血桜が消滅していれば蛇は力を取り戻し、狂骨など一撃で散らして山は元通りになっていたやも……、儂の力不足のせいか……」
人間の身勝手さを目に見える形にしたような忌まわしい妖術の樹は、あの時消滅したと思っていた。当時はまさか他に犠牲が在るとは思わずに、また自身も大怪我を負っており目の前の光景で手一杯だった。それでも何か出来たのではと、これは過ぎ去った今だから抱える後悔だ。こんな後悔は生きているからこそで贅沢なのだと分かっているが、その後の友人の最期を思うとつい留めきれずに口から零れ落ちた。
「そんな言い方しないでください! 父さんは自分を犠牲にしてまで狂骨達の依代になったんでしょう?」
「……だがそれも足りんかった。お前にその後始末をさせてしもうたしな……」
「あの数を一人でどうにかするのは誰にも出来ない事です。蛇神ですら太刀打ちできなかったんです、父さんが背負うものではありません」
「しかし……」
「鬼太郎の一人で抱え込もうとするところ、親父さんに似たのね」
目玉親父は流行り物にも興味を持つ柔軟さがあるが、根底にはなかなかに頑固な面も持ち合わせている。その点鬼太郎の良く言えば信念を貫く性格、俗に言う頑固さがあり、それは誰に似たのやらと思われていたが、やはりこの二人は似たもの父子である。そんな父子が互いに引かない様子に見かねたのか、それまで静かに話を聞いていた猫娘がわざと「はぁ」と音に出すようにため息を吐いた。
「すまぬ……皆に気を遣わせた」
「そんなんじゃないわよ」
「父さん……」
「過去を悔やんでも仕方ない。今は出来ることを考えねばならぬな」
目玉親父はそうにっこりと笑った。無理に作った笑顔でも心は引き上げられるものだ。山田も雰囲気を変えようとぱらぱらとメモをめくる。
「えっと、つまりあの山にいた蛇神が井戸を枯らせていたと。でもそれでどうして鬼太郎君だけが襲われるんでしょう? 弱ってるのにわざわざ姿を現してまで」
「蛇は怨みの強いいきものじゃ。怨む相手としてあの時村にいた者を標的にしておるのやもしれぬ」
消滅したはずの血桜が刺さっていたのは蛇の怨めしい気持ちが留めたものだろう。そしてやっと一族から解放されたと思ったが村は狂骨で埋め尽くされ、蛇を祀る人間は一人としていなくなってしまっていた。人間に捨てられれば神は神でなくなり、力は弱まる。怨みを原動力とするため、必死に最後の一人を探しているのだろうか。
「鬼太郎はあの時まだ腹の中にいたが、それでも確かにあの場におった」
何の罪もない被害者である幽霊族達、その最たる母親の腹の中にいた小さな命に怨みを向けるなど一見するとお門違いな話だが、相手は人間や妖怪ではない。神の思考はそう易々と理解できるものではないが、命をその単一のものではなく血脈として捉えているのだとすれば合点がいく。
「僕とあの人を探していた……」
腹の中がざわざわとして、鬼太郎の口からぼそっと声が漏れる。
「鬼太郎?」
「父さん、蛇は水の神ですよね。雨や雷にも関係しますか?」
「うむ。雷神は蛇の姿で現れるとも言われるしな」
蛇は水神が実体を持った時の姿であり、水と関係する雨、そして雷もまた一体である。「雷」の「田」の字のは田畑ではなく雷の音を表すものが元であり、「神」の字の「申」は稲妻であるから、雷の「田」と同じ。つまり「神」は「雷」であり、蛇を意味する。
そう説明され、鬼太郎の顔から血の気が引いていく。
「墓場であの人に拾われた夜は雷雨でした、……あの雷は蛇……雷雨に紛れて探していたんだ……そしてあの夜、僕とあの人を見つけた」
神の鳴らす音は神が山から降り春の訪れを示す祝福の音。だがあの夜のそれは蛇にとっては喜びでも、自分達には真逆の意味を含んでいたなんて。
蛇は水木と鬼太郎を見つけ、力を蓄えながら機会を伺い、あの日洪水に乗じて水木を飲み込んだ。そして残る最後の一人である鬼太郎を喰らい怨みを晴らそうとしている。
「ほんじゃあ、あの蛇を倒せば良かとね?」
「ならぬ。相手は神、それも蛇神じゃ。蛇の怨念は凄まじい。直接手を下せば蛇を殺せたとて鬼太郎が呪われる」
「じゃあどうすれば……」
猫娘がちらりと伺い見ると、鬼太郎は青い顔で他の誰にも見えないものを見ているような、この場にいないような目をしていた。深刻な息子の様子に、目玉親父は猫娘と一反木綿、山田を安心させようとしたのか軽い口調を使う。
「いずれ力を失うにしても、蛇の弱るのを悠長に待ってもおれぬし、何か手を考えぬとな。どれ、もう少し探りを入れてみよう」
話がひと段落したところで、各自少し休憩を取る事にした。山田はほぼ寝ずに写真の整理と資料集めをしており限界のはずだが、呑気に寝ていられないとパソコンに齧り付いて更に情報を探っている。猫娘と一反木綿もじっとはしていられないのか、自分達は標的になっていないからと休憩を早々に切り上げ他の妖怪にも話を聞くため山へと出かけて行った。鬼太郎も猫娘達に同行しようとしたが山に近づくのは危険であるし、ならば行きたいところがあると一旦山から離れ、カラスに運んでもらいゲゲゲの森へと戻った。そこから目的地へ向かう途中、茂みから飛び出した白い影に足を止める。白い影は猫ほどの大きさで、飛び出した勢いから四つん這いで着地して鬼太郎に気がついた。
「すねこすり」
現れた白い影の正体に挨拶のように名前を呼ぶと、すねこすりも珍しいものを見たような顔で鬼太郎を見つめた。鬼太郎は人間のようにツリーハウスを拵えているが、妖怪の中には動物と同じように自然に出来た樹洞や岩の隙間、また木の上で雨風を凌いでいるものもいる。すねこすりはまさにその通りであるが、時折森で見かるものの普段どこを棲家としているかを鬼太郎は知らない。
「久しいな、どこへ行くんじゃ?」
目玉親父は鬼太郎の頭の上から愛想よく挨拶がてらに尋ねた。
「腹が減ったから街に気力を吸いに行くのさ」
気力と聞いて思わず身構えたのは目玉親父だった。鬼太郎は変わらず乏しい表情のまま瞬きをするばかり。わざと気にかかるような言い方をして反応を伺おうとしていたのか、鬼太郎がそこに引っ掛からなかったなと、すねこすり少しばかり笑って見せた。
「心配しなくてももう誰か一人に憑いたりしないよ」
目玉親父の見せた懸念を見せなかった鬼太郎を、まるで試験に合格した者とでも言いたげだ。目玉親父の抱いた懸念を責めるつもりはない。それは自然な事だとも思う。だがやはり、信じてくれているのだなと実感出来るのは嬉しいものだった。
「お前のその下駄の音、良い時と悪い時がある」
「え?」
「悪い事を考えてると嫌な音に聞こえるのさ」
そのまま満足そうに森と人間の世界を繋ぐ方向へと歩き出そうとしたすねこすりに、鬼太郎が突如口を開く。
「これは僕の独り言だけど」
三角に垂れた耳がぴくりと動いた。鬼太郎は敢えて視線で小さな体を追わないよう続ける。
「マサエさんは元気にしてるぞ」
出てきた名前に思わずすねこすりの白い体がぴくりと震えた。まさか鬼太郎の口から再び出てくると思っていなかった名前に、嬉しいような、蓋をしていた傷口を開かれたような、そのどちらもが湧き上がってくる。かつて母と慕った人間の身を案じなかった日は一日とない。だがすねこすりは、ここで声に振り向いてはいけない気がした。
「誰のことを言ってるんだ?知らないね、そんな人間」
「先週のことだ。顔色も良かった」
すねこすりが決して振り向くまいとしているのと同じく、鬼太郎も視線を向けず声色も変えなかった。これはただのお節介で、すねこすりに感謝されたいわけでもない。それでも自分の見たものを伝えてやりたいと思ったのは、血の繋がらない親から受けた愛情に返せるものが厄災だった、そんな辛さが分かるからだった。
そんなすねこすりは鬼太郎の生い立ちを知らないが、何故そう思ったのか、哀れみを寄越したのではないと感じていた。それは普段と変わらない声色の不自然さからかもしれない。鬼太郎の声は感情がないのではなく、抑えつけているものだ。
「……そうかい」
ならばこのもたらされた情報を受け取っても罪を重ねることにはならないと思えた。
すねこすりと飼い主の人間との間に起こった問題は故意ではなく事故に近い出来事だった。それも含めて自分と似ていて、鬼太郎はゆっくり歩き出した背中にようやく視線を向けた。
「……車に気をつけろよ」
これから街中へ出向く小さな体にそう声をかけ、再び下駄を鳴らして歩みを進めた。
鬼太郎が後を追うように向かった先は、ゲゲゲの森と人間世界を繋ぐ神社の近くにある一軒家。そこに住んでいる普通の人間の一家の、一人娘の様子を遠目で伺う。これは鬼太郎だけでなく彼女を知っている妖怪達が自ら変わる変わる行っている事で、かつて自分達と近しい仲になっていたため、厄介なものに取り憑かれていないかとの心配から行っているものだ。自らの記憶を与えてくれたために自分を忘れた人間の友人は、変わらず元気な様子で異変も特に見られない。鬼太郎はほっとして、すぐにその場を立ち去り、猫娘達が待つ山へと戻った。
ホテルに到着するとまだ誰も戻ってきておらず、行き違いにならないよう帰りを待っている間、少しだけ窓を開けて山から吹き下ろす風を浴びて何やら考え込んでいた。
「鬼太郎や、大丈夫か?」
息子にとって心身ともに救いであった出会いに影が潜んでいた、目玉親父はそのショックを受けとめているのかと少しの間一人にしてやっていた。まなの様子を確認する事はこれまでも時折行っている事でも、このタイミングで行ったのは人間と言うものを確認したかったからでは、と思案しての事だ。目玉親父は窓枠によじ登り優しい声をかける。鬼太郎は少しぼんやりしているようだったが、父が視界に入って夢から醒めたようにほんの少しだけ口元で笑った。
「昔あの人に聞いた事があります。本当の、血の繋がった子供が欲しいですかと」
ぽつりと語り始めた鬼太郎に、どんな状況で、どうしてそれを尋ねたのかは不思議と疑問に思わなかった。鬼太郎は物心ついた頃にはもう自分の育った環境が周囲とはどうやら違うと気がついていた。自分の知らない場所でこれを問うたのは、養父の抱えていた遠慮を察していたからだろうと、絶妙な均衡で成り立っていた日々を思い返す。人間ではない幼子、その父親、彼と共にその子を育てる人間の男。三人は気の置けない仲でも、どこか互いに遠慮があった。それは互いへの優しさでできた、砂糖菓子のような脆い感情。
「分からない。考えた事がない。それよりもお前のそばにいたい。お前が大きくなるのを見ていたい」
これまで誰にも見せず大事にしまっていた言葉を、だがその時の養父の表情や声色だけは父にも見せぬよう単なる言葉として音に出す。
「僕は嬉しかった。……一人の人間の人生を滅茶苦茶にしていると分かっていて、それでも嬉しかったんです」
血の繋がった父がいる事、これ以上心強いものはなく、今もこうして近くにいてくれる事に救われている。この父がいなければ自分は今頃どうなっていただろう、父の支えがなければ妖怪ポストどころか生死すら危うかったろうと思っている。それと同じくらい血の繋がらない父親が大切だった。化け物の子である自分を息子として扱ってくれたその男は、お前がいるから生きる意味が見つかったとも言ってくれた。ただ穏やかに、普通とは少し違っても、その短い寿命を全うして欲しかった。
「それなのに僕のせいでそれすら叶わなかった」
墓場で自分を拾われなければどうだったろう。あの時あの人の元へ這い寄らなければ、蛇に見つかる事もなかったかもしれない。そんな考えても仕方のない「もしも」がとめどなく湧き、心が潰れそうだ。
「鬼太郎、それは」
「……なんて言えば、きっとゲンコツが降ってきますね」
だが鬼太郎は穏やかに笑って見せた。先程目玉親父がしたように、無理に作った笑顔。そうでもしないと本当に折れてしまいそうだからだ。己の命を粗末にするなど、あの養父は許さないだろうからそうした。
「あの人はそう言う人ですから」
躓いても歩き続けると決めたのは、養父へのせめてもの餞。手向ける花束の先にある空の墓に毎年そう誓っている。いつか再び出会えた先で、よくやったと褒めて欲しいから。
「……そうじゃな」
気持ちが折れてしまわないかと危惧していたが、息子は思っていたよりもずっとしっかりと己の両の足で立っている。そんな成長が嬉しく、ほんの少し寂しく、目玉親父は何かを思い出すよう目を閉じた。
「父さんもあの人も、いつも僕の事を一番に考えてくれてました。……今もそうです」
「それが親というものなのじゃ」
「はい。……ですが子供は子供なりに親の事を思っているんですよ」
「……分かっておるよ」
そう、そんな事は分かっている。
「水木とて分かっておる」
声に出さずとも分かっていて尚、言葉は力を持っている。これを友人は生きているうちに息子の口から聞けたのだろうか。どうかそうであって欲しいと願う。
「お前にはもう少し子供らしいワガママを言えるようにしてやりたかったのぅ……」
見かけとは違い小さな子供ではなくこうして気遣いができる我が子は、しかしもっと幼い頃から変わらずだ。育った環境がそうさせたのだろう、本人はこれを不満に思っていなくても、親からすれば物分かりの良すぎる子はそれはそれで不安になる。
「僕は十分ワガママですよ」
鬼太郎はにこりと目を細め、その瞼を持ち上げた下にあったのは、泣くのを堪えているような色をして、心に結んだ手綱を引いていた。
「あの人を蛇から救う方法はないと分かっているのに、僕は諦めきれてはいません。父さんはそれを許してくれています」
「もっと子供らしいワガママはないのか」
「これ以上がないんです。……父さんがいてあの人がいて、僕が子供でいられたあの日に帰りたくて仕方がない、甘えた子供なんです」
そう語る目は窓の外に向けられる。眺める山の青は深く、本来ならばその頂上に鎮座していたであろう山の神によって奪われた子供らしい時間を、否、未来を歪められたのは蛇の方なのだ。蛇の抱くぶつける先のない怒りや悲しみが分かるからこそ、この連鎖を止めなければならない。それが父と母と養父の三人の犠牲の上に生きている自分の宿命だと思った。静かにそう語る息子を抱きしめてやる体を持たない目玉親父は、歯痒くて堪らなかった。その役を任せていた信頼する友が、鬼太郎のもう一人の父親がこの場にいない寂しさは他の何者にも埋められない。
「儂らにとってお前は希望じゃよ、鬼太郎」
絶望の底に響いた産声は、神の鳴らす祝福よりも三人にとって救いの音であった。鬼太郎の手のひらの上でどうかこの事を忘れないでくれと請うた父に、鬼太郎は少し照れくさそうにはにかむ。そうして目を閉じ、一度深く呼吸をしてから言った。
「蛇の中のあの人の魂を、正しい場所へ送ってあげたいです」
日の傾きかけた頃、一行は集めた情報から計画を話し合い再び山へ入る事とした。蛇について、悪さをはたらく妖怪と違い「懲らしめる」と言うわけではないが、昔話で聞くような退治に近い形で鎮めるしか方法はなさそうだ。そのための準備をしている最中、ネットで天候の確認をしていた山田に鬼太郎が声をかける。
「山田さん、頼みがあります」
山田は振り向いた先にいた人物に聞き間違いかと眼鏡をかけ直す。これからあの蛇に対峙するのだから緊張もあるのだろう。それに比べて鬼太郎の落ち着きぶりは不自然なほどだ。
「何だい? あ、天気なら大丈夫そうだよ、今夜は雨は降らなさそうだ」
「天気を調べてくれてありがとうございます。ですがその事ではなくて、蛇の姿をできるだけ多くの人間に見せたいのですが、何か手立てはありませんか?」
「蛇の姿を見せたい?」
「はい」
これまで妖怪ポストで起こった闘いがテレビや新聞で報じられた事は数あれど、それらは鬼太郎から依頼したものではない。寧ろそれを避けるよう、どんなに大仕事であっても可能な限りひっそりと事を解決したがる性格だと、今日を含め数回しか会った事のない中でも察している山田は首を捻る。
「うーん、それなら……、そうだ! 昨日話した動画配信者に声をかけてみようか。生配信をすればきっと喜んで飛びついてくるよ」
元々山田は危険がないよう離れた場所から事の顛末を記録する手筈なので、その様子を配信してもさして状況は変わらない。幸い電波はそこそこ繋がる場所であるし、こんな山奥からの配信ならば現場を生で見たいと寄ってくるお祭り騒ぎ好きな人間がいてもそれは叶わないから、他の誰も危険に晒す懸念もない。
「ああ、ほら、早速返事が来たよ」
一見すると眉唾でしかないものでも、堂々と振る舞えば人はどこかで信じてしまうものだ。山田はこれまで哭倉村について話さなかった、それが記事の信憑性と疑心の両方を生んでおり、良くも悪くも次に語るものは何かと皆の興味を引いていた。その男が突然、蛇神退治を生配信するというのだから嫌でも注目は集まる。更に人気者がそれを支持すれば、嘘も事実に成りうる危うさがある。
「ファンと同時視聴会を開いても良いですか、だって。願ったり叶ったりだよ」
山田は慣れた手つきでサムネイルを作成し、配信予約をするとそのリンクをばら撒いた。サムネイルはさも緊急であるよう敢えて簡易的に作成したと鼻息荒く笑う。
「成程、ねずみ男がようやる手口じゃな」
「あいつは人間の性質を良く分かってるって事ね」
まずは人目につくこと、これが宣伝には欠かせない。山田は更に、記事にするために集めていた龍神や蛇神についての資料の中から簡単なものを送っておいた。
「でもどうしてそんな事をする必要があるんだい?」
一仕事終えたところで改めて尋ねる。この件には鬼太郎の出生、そして養父の死も関わっている。こと養父に関しては人の目に晒すのを避けたいであろうと今更ながら心配になるも、鬼太郎からは普段通りの落ち着いた口調と無表情が返ってきた。
「神を神たらしめるのは人間です。人間が蛇神を信じる、その存在を認知する事が後で必要になるんです。ですから特に山の裏の、井戸の枯れた村の人達には必ず見てもらわなければいけません」
これから起こる事、起こす事が終わった後のため、人目に晒されるのを好まない自分の事は二の次に。鬼太郎はそう己を抑え込んでいるように見えた。山田はこれが我が子ならば褒めてやるか大人になったなとその成長を喜んでやるか出来るだろうが、何と声をかけるのが良いか正解が出ずに「そうなんだね」としか言えなかった。
「一体どうなってるんだ、村中の井戸が枯れてるし、川も干上がってしまってるじゃないか!」
哭倉村へ入る前に手紙の送り主の元へ行くと、送り主は鬼太郎の姿を見るや駆け寄り大声で怒鳴りつけた。静かだった村は昨晩の騒ぎで混乱している。今にも胸ぐらを掴みそうな手紙の主から守ろうと、山田は間に割って入って落ち着かせようと焦る。
「その説明に来たんです! 昨晩龍が現れて、鬼太郎君が応戦したんですが」
「それで負けたってのか!」
男性はすっかり頭に血が上っている。理由は、鬼太郎に手紙を送った事で更に龍神を怒らせ、まだ無事であった井戸だけでなく川すらも干上がらせてしまったのでは、と村人から責められたからだ。今も周辺の家からまるで穢れのように遠巻きに覗き見られている視線を感じる。閉じた村に余所者を招いた、またその事を隠そうとしたことでまるで厄災の原因のように扱われ、パニックを起こしているのだ。これまで多くの手紙を受け取って来た鬼太郎は似たような経験を何度もしてきたためか、同じ土俵に立ち反論すれば火に油を注ぐだけだと知っている。引きずられぬよう大声で罵られようと平静を保つその表情に、男は聞いているのかと拳を振り上げた。
「勝ち負けの問題じゃないのよ、相手は神サマなんだから。それにどうして龍が暴れ出したと思ってるの?」
堪らず猫娘がピシャリと言うと、男はびくっと肩を揺らして挙げた手をおずおずと下げ、真っ直ぐな視線から逃れようと声を落とした。だが意地なのか語気だけは敢えて険しく吐き捨てる。
「な、なんだよ……俺は何もしてないぞ!」
「そうです。何もしなかった。だからです」
やっと口を開いたかと思えば何を言い出すのだと、また男の表情は険しくなる。
「貴方一人の責任ではありません。しかし神は人間に祀られなければならない。聞けばこの村で執り行われている祭りはごく小規模で、内容も十分ではなさそうですね」
「だから何なんだ」
「神を神として丁重に祀ってください。貴方もその姿を目にしたんです、見えないふりはもうやめてください」
「そんな事言ったって……この村ではその手の話は……」
「だから、それが原因なのよ!」
「ま、まあまあ猫娘さん、落ち着いて……。これをどうぞ」
苛立つ猫娘に、山田はそちらも宥めつつ持参した資料を男に手渡した。猫娘の目は妖怪の目になっており、山田も思わず肝を冷やし、男はそれ以上に怯えたように一歩後退りする。ばつの悪そうに渡された資料をぺらぺらめくると、山田はすかさずそれについての説明をする。
「この近隣地域の祭事に関する資料です。時間がなくて簡単なものしかご用意できませんでしたが、必要なら後日もっと詳しいものを揃えてお送りしますのでこちらに連絡をください。ああ、あと、この後生配信をしますので、できるだけ多くの村の方に見てもらってください」
「生配信……? なんの話だ」
「今夜必ず鬼太郎が龍を鎮めましょう。しかしその後はお主を含むこの村の人間次第ですぞ」
目玉親父のどっしりと構えるような物言いに、男はすっかり牙を抜かれて資料を見つめる。それで揉め事が収まるのならば、円滑に回るのならばと不都合に蓋をして無いもののように扱うその危うさは、小さな村に生まれ育った男にも身に覚えがあった。それは龍神に限った話ではない。簡単には取り払えない集団としての思考はしかし、危機を好機として変革を試みるならば今しかない。
「……村長に話してみるが……どうなるか分からんからな……」
「それで構いません」
見えないものを無いものとせず、神も妖怪も人間も互いに正しく畏れ、妥協できる距離を探る事、昔からしてきたように他と共存する方法を模索してほしいと言い残し、鬼太郎達は村を後にした。
半欠けの月が空に浮かんでいる。焼け落ちた村に一つだけぽつんと灯っている民家の明かりは、まるで水鏡で夜空を写したようだった。そこから更に廃村を進むと中心に小島を抱える湖がある。微かな風で月明かりを反射する水面が僅かに揺れているだけの静かな夜、獣や妖怪といった夜に属するもの達の気配すらしないのは、これからここで起こる事を察して息を潜めているからか。
そんな静寂の闇に、潰れた蛙の鳴き声のようなものが空気を揺らす。その小さな音は湖の周りを回るようゆっくりと移動していた。それに呼応するよう水面の揺れは次第に大きくなり、嵐の海原のように波打ち始め、ついには隆起した。丁度月を写していた部分が目玉となり、蛇が鎌首をもたげて、水を吸い上げられた湖の底が見える。
『喰わねば、喰わねば、わたしの蕨』
蛇は音の出どころを突き止めてかっと目を見開く。ホオズキ笛を鳴らして蛇を誘き出していた鬼太郎は、蛇がそう呟くと木陰に控えていた一反木綿の背に飛び乗った。輪郭がはっきりと定まらないながら頭と思しき高さまで上がり、鬼太郎は光る目玉を見つめて叫ぶ。
「堕ちた山の神! どうして僕を狙うんだ、あなたの怨むべき相手はもういないんだぞ」
『……蕨の子、お前の力を得るために』
そう言うと蛇は口を開けて舌を出す。
「蕨……、どういう事でしょう、父さん?」
「鬼太郎や、もしかすると」
目玉親父が何か言いかけたところで、蛇が襲いかかって来た。一反木綿はひらりとそれをかわし更に上昇する。
「蛇神、僕を怨んでいるのか? あの時村にいたというだけで」
『怨めしい、憎らしい、だがそれよりも痛むのだ、痛むのだ、わたしの棘を抜いておくれ』
昨日と違い蛇の動きは俊敏ではなかった。それは天候のせいか力が弱まってきているせいか、まるで冬眠から覚めたばかりのように鈍い。そんな蛇の輪郭を成す水は内部でそれを吸い上げ、表面に出ると重力に従い落下を繰り返している。その光る目から落ちる水が月明かりに当たり、まるで涙を流しているように思えた。
「怨みではないのか……?」
痛む、棘、とは刺さっている血桜の枝の事であるならば、鬼太郎を襲うのは怨みを晴らすための捕食とは違うのだろうか。蛇の目が常に動き回る一反木綿と糸で繋がっているように頭を動かす。
『駄目だった、お前では駄目だった、白い鱗に赫い目の、お前は同胞ではなかった』
鬼太郎の頭の上にしがみついている目玉親父は目玉を顰めた。確かに蛇の言う自分の本来の姿は、神の遣いとされる白蛇の特徴と似ている。狂骨を止めようと髪を伸ばしたあの姿を見た蛇には、仲間か、はたまた蛇の親と呼べる存在から遣わされた救いに見えていたのだろう。しかし狂骨達の依代になるためその体は朽ちてしまい、目の前で希望が打ち砕かれたと感じたのだ。
「……蕨とは蕨の恩じゃろう」
「なんね〜それ?」
「人間の習俗じゃ。蛇が千萱という植物の上で眠っておるとその間に千萱が伸び、蛇の体を突き刺した。悶え苦しむ蛇を蕨がその手で包み千萱を抜いてやった。そのため蛇避けの呪いとして『蕨の恩を忘れたか』と唱える」
「それはつまり、僕に助けを求めていると……?」
蛇は目玉親父に救われなかった絶望感に苛まれ、そして次に水木と鬼太郎にそれを求めた。あの時あの場にいて、血桜を利用する気のなかった者に、蛇は救いを求めたのだ。しかしその望みは叶わなかった。
『駄目だった、あの人間でも駄目だった。人間は弱い。弱い。私は間違えた。力を持たぬ人間に邪魔をされた』
「間違えたって……まさか……」
蛇は墓場で見つけた二人を狙っていたが、洪水で飲み込めたのは一人だけ。その一人である水木には血桜を消滅させるような妖力がなかった。普通の人間だから当然だ。蛇は再びの絶望と怒りの中で本当に狙うべきは血桜を消滅させた幽霊族の、その最期の一人である鬼太郎であったと結論を出し、だから狂骨という邪魔者がいなくなったのを機に姿を現したのだ。
(あの時あの人は僕を抱えてくれていた、そして僕を助けるために、蛇から逃すために僕を投げて……!)
もしあの時、養父が自分を投げ飛ばさなければ、養父を呼び止めなければ、蛇は自分だけを飲み込み、そうすれば満足して、養父は命を落とす事がなかったのか。
さあっと全身の血の気が引く音が聞こえたようで、鬼太郎は夢で見た養父の最期の顔を思い出していた。蛇の目線で見たあの瞬間に、水木と一瞬目が合っていた。水木は蛇に気がついて、だから瞬時の判断で鬼太郎を投げ飛ばし逃した。相手が何者かまでは恐らく分かっていなかったろう、それでも自分がどうなるかはきっと、そしてそれでも怯まなかった目は青みがかって、蛇の燃える火のような赤い目よりも強い意思を映して。
濁流の中自分を守ろうとしてくれた普通の人間に一瞬でも甘えてしまった結果、それが養父を死に追いやった。自分がいなければ、あの時甘えた心など持たずにいれば、自分さえいなければ、そんな後悔と激しい怒りで心臓が煮えたぎり、鬼太郎は胸元を掴んで泳ぐ視線を定められずに肩で呼吸する。
「僕のせいで……」
養父を救いたいなどと、どの口が言っていたのかと呆れてしまう。何度も掻き消した今更の「もしも」は正しかった。自分の甘さが招いた事態に憎しみが全身を支配していく。今からでも蛇に喰われれば蛇の無念は晴れ、養父を救えるならば、そんな可能性が万一にでもありはしないかと考えが頭をよぎり、体が無意識に一反木綿の上からずり落ちそうになる。
「鬼太郎、しっかりするんじゃ!」
寸前で小さな手のひらが弱い力で頬を叩いた。はっと意識を現実に戻すと、目玉親父が逆さまの格好で髪に捕まり目の前にぶら下がっている。
「迷うのも後悔するのも後でいくらでもすれば良い。今は蛇を鎮めなければ、水木を救わねばならぬ時じゃ」
「あ、す、すみません……!」
あの養父がこんな後悔を喜ばないと誰よりも知っているのは自分だ。そう語ったばかりで弱気になっていたと気づき、鬼太郎は一度ぎゅっと瞼を閉じて深く息を吸い込む。父も血桜の大半を消滅させたが、蛇に喰われたわけではない。蛇の思い込みに惑わされ、無駄死にすればそれこそ養父に合わせる顔がないと拳を作る。
「あの蛇、デカいのに動きも早かねぇ、厄介ばい〜」
鬼太郎が気持ちを立て直したと察した一反木綿が気の抜けたような声をかける。いつもの調子を思い出させようとする彼なりの気遣いだ。
「すまない一反木綿、なんとかこのままかわし続けてくれ」
「任せんしゃい〜落っこちんようになぁ」
一反木綿は速度を上げ、さらに上へ下へと激しさを増して逃げ回る。蛇は自身でもこの時を逃せば終わってしまう、今夜が最後の機会であると分かっているのか、残る力を振り絞り襲いかかる。
『お前は強い、強いお前を今度こそ、私の蕨になっておくれ』
蛇が一反木綿の背に乗る鬼太郎を追いかけ狙いを定める中、突如として山に乾いた音が響いた。蛇は思わず視線を外し音の出所を探す。
湖の真ん中にある小島の、丁度蛇の頭のある反対側から鳴り響くのは拍子木の音。山に囲まれ窪んで低くなっている池を囲むように、カァン、カァン、と小気味良くこだまする。
『嫌な音だ、嫌な音がする』
「よし、拍子木に反応してるわね」
拍子木を鳴らしているのは猫娘だった。猫娘は蛇が鬼太郎から意識を逸らしたのを確認すると、移動しながら拍子木を打つ。蛇が島を回り込んで猫娘の方へ移動すると、今度はまた反対側から似たような音がした。
『嫌な音だ、何を企んでいる』
湖の反対側の音は鬼太郎の下駄の音だった。一反木綿の背の上で下駄を飛ばし水面ギリギリの場所で下駄同士をぶつけて音を立てていた。蛇がまた鬼太郎に向き直ると、またしても逆の猫娘が拍子木を鳴らす。鬼太郎は頭を左右に振り苛立っている蛇の目の近くで叫ぶ。
「蛇神、あの人を飲み込んでも神には戻れなかっただろう? 僕を喰っても同じだ。そんな方法であなたは神には戻れない」
『いいや、いいや、わたしは神に戻るのだ。力を持つお前を喰らって戻るのだ』
蛇が大口を開けて鬼太郎に喰いつこうとしたが、思っているより首が伸びず直前で空を噛む。自身に何が起こったのかと湖を見下ろし、蛇は驚愕した。猫娘の拍子木、そして鬼太郎の下駄が音を鳴らした場所では、まるで体を縫い付けられるよう水は体の一部ではなくただの水面へと戻っていた。
『ええい、耳障りだ、嫌な音があちこちから聞こえる』
拍子木の音は邪気払いとして場を浄化させる意味も持つ。神であった本来の蛇ならば心地良く、また人間が己を祀る合図にも使われていた音を不快に感じているのは、怨みを纏っているからだ。浄化の音は尚も湖の周りを移動しながら鳴り響き、その度に蛇は体を地面から離せなくなっていく。御霊を入れ大きく見せるため使っている水が祓われ、蛇の欲望の役目を果たさなくなっていた。それに腹を立て、蛇は自分を縫い付ける糸から逃れんとするようまだ自由な上半身でもがいて暴れる。
「あなたにはもう名前も社もない、あなたを神たらしめる人間もいない」
望み薄でも鬼太郎は語りかける。ここで邪心を手放してくれれば手荒な真似はしないで済む、それに越した事はない。
『もう少しだった、もう少しだったのだ! 天に昇る日は近かったのだ! わたしは天に昇りたい!』
だが鬼太郎の願いはやはり届かず、蛇は苦しみ憎しみを増してそう叫ぶ。
「あなたが考えているのとは違う方法で、僕はあなたを神にする」
『ありはしない、そんな術はありはしない、戻らない、戻せない』
「そうだ、村もあなたも何ひとつ元通りにはならない! だから違う神にする。あなたは蛇だ、何度でも蘇る神だ!」
起きた事は覆らない。どんなに辛く悲しく、そして己に非のない理不尽であっても、時間を遡りやり直しは出来ない。過去も現在も変えられずとも、だが未来だけは選べる。これは鬼太郎が父と養父から学んだもの。疲れきった重い体を乗せて半歩ずつでも、足を前に進めて行くしかない。蛇には剃刀を飲み込めと言っているも同然だ。だがこのまま穢れに染まり堕ちてしまうのではなく、再生の象徴とされるように怨みを乗り越えた先に再び希望を見出して欲しかった。
『お前を喰らうしかない、喰らうしかない! 痛むのだ、棘が身を刺し痛むのだ!』
蛇は激しく抵抗する。のたうち回って縫い付ける糸を切るように長く高く頭をもたげる。
『嫌な音だ、嫌な音だ、この身が重くなる、このわたしを地に縛ろうなどと、愚か者どもめが!』
「きゃあああ!」
「猫娘!」
蛇は猫娘の真上に頭を振り落とす。猫娘は飛び退こうとしたが一瞬遅れ、水圧で地面に叩きつけられた。鬼太郎の声で救出に向かおうと一反木綿が方向を変えたところへ、いつの間にか束縛を逃れていた尾に薙ぎ払われそうになる。鬼太郎は咄嗟に一反木綿の背を蹴って下方へ逃し、その分尾の打撃を一身に受けて山の中腹へ弾き飛ばされた。
「鬼太郎しゃん〜!」
一反木綿の叫びが虚しく響き、蛇は雄叫びを上げる。
そんな一部始終をスマートフォンで遠目から撮影している山田は、手の震えで画像が乱れないよう堪えていた。
「あああどうしよう、鬼太郎君が……!」
生配信の視聴者は人が人を呼び、時間が経つ毎に増えいる。鬼太郎と蛇のやり取りの声は拾えていないが、巨大な水の蛇と対峙する姿だけでも十分に見応えがあるものだった。そして蛇を悪者にしないため、山田はどちらにも肩入れしないでただ状況を配信しようとしており、余計な声を入れないようにしていたのだが、鬼太郎の姿が見えなくなり思わず声を漏らしてしまった。助けたくともただの雑誌の記者である人間に出来る事などあるだろうか。下手に近づけばかえって迷惑をかけかねない。それでもそわそわと落ち着かず鬼太郎が無事な姿を見せてくれるの待つ十秒、二十秒が永遠に感じられ、緊張で速くなる自分の呼吸に落ち着かず、やはり様子を見に行くべきかと思った矢先、足元で何かが動いた。野生動物か妖怪かと身構えると、草むらから白いロープのようなものが現れた。
「えっ……蛇? ……あっ!」
スマートフォンが白蛇を写したかと思うと、それまでなんとか繋がっていた電波がぷつんと途切れた。急に何が起きたのかとスマートフォンの画面を操作するとすぐに電波は回復し、配信を再開すると白蛇の姿は消えていた。代わりのように、白蛇のいた場所に一メートルはありそうな大きな扇が置かれてあった。ギリギリまで調べ物をしていた山田にはそれが意味するものに瞬時に思い当たり、スマートフォンをポケットに入れると扇を抱えて駆け出した。こんな昔話のような事がと信じられない気持ちは、だが今目の前ではそれが現実に起きている。この判断は間違いではないともつれそうな足で走っていると、上空を白いものが横切る。一反木綿の背に跨った鬼太郎だ。山田は大声で鬼太郎を呼んだ。
「鬼太郎君! これを!」
安全な場所にいる筈の山田の声に一反木綿が急停止し、鬼太郎が頷くのを確認すると急ぎ山田の元へと降り立つ。
「山田さん、どうしたんですか?」
「こ、これ……白蛇が現れて、急に……これ使って……!」
ぜえはあと荒い呼吸のまま鬼太郎に扇を手渡す。鬼太郎が分からない顔で扇と山田を交互に見やると、目玉親父の瞳孔がかっと見開かれた。
「……そうか、かたじけない! 鬼太郎や、蛇の気をこの扇に向かわせ、その隙に蛇を討つのじゃ」
「蛇を討つ……」
かつて蛇に取り憑かれた娘を救うため、和尚が扇の要で蛇を突き刺して気を引き、その隙に呪いが降りかからないように蛇を退治した話がある。それを真似ろと言う事だ。元より似たような作戦であったが、何故ここにこんな大きな扇があるのか、裏で手引きしているのは誰なのだろうかと不安が過ぎる。これを仕掛けた者の正体の分からぬまま事を進めて、もっと取り返しのつかない事態になってはとその場の全員の胸の内に同じ不安が広がった。それでもこれを捨て去れば他に選べる道もない。誰かの思惑の中であってもまずは目の前の蛇を鎮めようと、誰も口には出さなかったが頷きあい、鬼太郎は扇を受け取ると一反木綿と共に猫娘の元へ急ぎ、山田は元いた場所へ戻ってスマートフォンで撮影を再開する。
「猫娘! 無事か?」
「これくらい平気よ。それよりそれ、何を持ってるの?」
「扇だ。これで蛇の気を引く」
強気な口調で猫娘は鬼太郎の後ろに飛び乗ると、一反木綿はスピードを上げて木々の間を飛び回る。その間鬼太郎は猫娘に後ろから片腕で抱えられながら扇を解体に取り掛かる。本来は工具などが必要だが勿論そんな悠長な事は言っていられず、鬼太郎はその力の強さで要の片側に爪を引っ掛け、強引に外す。使うのは要でありそれを失い形を崩した扇は今は不要だが、山田曰く白蛇から与えられたものを粗末に扱うには気が引けて、鬼太郎は猫娘にそれを託す。
「すまない、預かっていてくれ」
「分かったわ」
鬼太郎は手の中の要を見下ろし、それを強く握りしめた。
『いない、いない、わたしの蕨が姿を消した』
蛇の傷口からは依然として流れ出る血のように霊力が流れ出し、また雲ひとつない今夜の天候で力を補う雨もない。そんな中で己の動きを封じる拍子木に抗って、それらが重なりみるみる力が弱まっているのか、鬼太郎の位置をこれまでのように察知できなくなっているようだった。だが大まかな気配は感じているらしく、木々の合間を縫う一反木綿の白い影を見つけるとゆっくりとそちらに持ち上げた首を回す。と、一反木綿が突然空高く飛び上がった。蛇が好都合とばかりそれを追う。
『見つけた、見つけた、わたしの蕨』
わざわざ喰らいつきやすい位置に飛び出してきたと喜びを露わに大きく口を開けた、その背後から、何かが頭を貫いた。
『ぎゃああああ!』
衝撃に見開かれた光る蛇の目が地面に落ちる寸前に見たのは、一反木綿とその背に乗る猫娘、肩に乗る目玉親父と、そして鬼太郎のちゃんちゃんこだけだった。肝心の鬼太郎はそこにはいない。蛇の頭は湖のほとりに落ち、まるでまな板に打ち付けられた鰻のようにその場でもがき苦しんだ。
『これはどう言うことか! 憎らしい、これは同胞の扇!』
蛇の頭を貫き地面に這いつくばらせているものは、先程鬼太郎が扇から抜き取った要である。鬼太郎は蛇の感知能力が落ちてきたところを一反木綿から降りて蛇の背後に回り、要を投げつけていた。蛇は目玉親父の妖力とちゃんちゃんこで鬼太郎がいると誤ったと気づくも、それよりも強力な扇の力に絶望している。
『何故だ、何故だ、何故この要がわたしを!』
狼狽する蛇を近くの木に身を隠して見ていた鬼太郎の手は、指鉄砲を撃つ形でその人差し指の先を地面に向けていた。今が蛇を仕留める絶好の機会だ。それは分かっているし逃すつもりもない。だがこれを撃つより先に、どうしても確かめておきたかった。鬼太郎はすぅっと息を吸い込んで意識を集中させる。
(もうあの人の魂を感じない……消えてしまったのか……)
蛇を止めてくれた時は確かにはっきりと感じた養父の気配は、それ以降感じ取ることが出来ていない。今もそうだ。それ以前もその後も感じないと言う事は、やはりあの時が最初で最後、養父の魂、個人としての意思はもう無いのかも知れない。それでもあの蛇の中に確かに居たのだ。この指鉄砲を向けるとは養父に銃口を突きつけると同じである。
(ごめんなさい、僕を助けてくれた貴方を助ける方法がこんなもので)
それでもやらねばならない。生き地獄のような戦地ですら生きる事を諦めなかった男だ、例え意思を失っても死を望むことなど無いだろう。それでもこのまま放っておく事はできない。
(ですが祟り神として貴方を消したりしない……僕が正しい場所へ送ります)
今ここで鎮めなければ、鬼太郎がやらなければ、怨みは蛇の魂を完全に飲み込み、いずれ誰かに呪いを振り撒く厄災と成り果てる。そうなれば遅かれ早かれ誰かの手で最期は消滅させられてしまうだろう。それだけは避けたかった。やるならばこの手で、そして少しでも養父を正しい場所へ送れる可能性に賭けて。鬼太郎は止めていた息を吐き出して、もう一度深く吸うと木の影から飛び出す。
「指鉄砲!」
叫ぶと同時に指先から青白い光が一直線に伸び、蛇の左目を貫く。衝撃に桜の枝は抜け、同時にまるで血が飛び散るようそこから魂と思しき光の塊がいくつも空へ向かって飛び去るのが見えた。蛇が洪水で飲み込んだのは何も水木だけではない。その過程で巻き添えになった幾人もの命が解き放たれていく。
『ああ、棘が抜けた、抜けた、蕨の子よ!』
形を留める力がなくなり、大量の水が重力に従いただの水に戻る。バケツをひっくり返したような大きな音を立てて地に落ちた水は、そしてゆっくりと低きへ流れ湖を満たした。残されたのは十メートルほどの長さの白蛇だった。
『ああ、ああ、だがわたしがきえていく』
喜びと恐怖に包まれながら、蛇の体はみるみる縮んでいく。鬼太郎は実体に戻り血を流す蛇の抉れた左目から最後の魂が抜けるのを見届けた。空には昇る途中の魂がいくつも浮かんで見えている。今一反木綿の背に飛び乗ればあれらが昇る前に手に取れるだろう。あの中に養父の魂があるのならば、全てを投げ出して追って行けたならば。
「……っ、」
しかし鬼太郎はぐっと堪えて蛇の側へ膝を折った。
「僕はあなたを神に戻すと言いました」
今優先すべきはこの蛇を救う事。怨みを纏っていたとはいえ神に手を出したのだ、約束を反故にする事は許されない。
「山の神、蛇の神、足りない力は補えば良い」
そんな方法はないと言いたげな鈍く光る、瞼のない目が鬼太郎を見上げる。何を企んでいるのだと警戒する蛇は、だがもう頭も持ち上げられず縮みゆく体で待つしか出来ない。鬼太郎は己の左目の瞼の中へ指先を入れた。
「こんな方法ですまない、お前の形を変えてしまう。……それでも僕はお前に、田の神として生きてほしいんだ、泥田坊」
左目の奥から小さな光を取り出して、鬼太郎は静かな声で語りかける。それは塚で見つけた泥田坊の無念の塊。か細くとも生き続けていた魂のかけらだった。鬼太郎はこの時のためではないが、いつかどこか適した場所があるならと拾っていたそのかけらを、蛇の失われた左目の上へそっと落とした。蛇神は田の神でもある。一つ一つでは足りない存在でも二つを合わせれば新しい一つへと生まれ変われる、そう願っての事だ。泥田坊のかけらは蛇の中へすっと消えて、すると失われていた蛇の左目が再生した。蛇の体は丁度山で見かける一般的な大きさよりも少し大きなところで縮みが止まる。そして蛇は何も言わず、そろそろと草の上を這い湖へと入って行き、そのまま小島まで泳いで行った。
鬼太郎は空を見上げる。もう空へ昇る魂は一つも見えず、どうやら全て行くべき場所へ行ったようだった。
(これで良かったんだ……)
自分にそう言い聞かせる事しか出来ずその場に立ちすくむ。そうしなければ養父を追わなかった自分にその選択の言い訳ができない。せめて涙の一粒でも落ちれば少しは人間らしだろうか、だが自分は人間ではないし、わざとそんな風に振る舞うのは不誠実だと思った。蛇を鎮め囚われていた魂を放ったところで、鬼太郎にとっては「振り向いたら大切な家族が姿を消していた日」の続きなだけで何も変わりない。子供の自分をあの日あの場所に置いて、残りの半分だけで流れる時間を過ごしているからか、それとも単にそんな性格なだけか、情が薄いと言われればそうかも知れない。それでも蛇を通してあの瞬間を見ても尚、養父が死んだ事になんの実感も沸かないままなのだからどうしようもない。いつか自分が閻魔大王に裁かれる日までこの空白を抱えていくのだと諦めていて、ぼんやりと夜空を見上げていると近くに一反木綿が降りてきた。猫娘に預けていたちゃんちゃんこが、まるで慰めるように鬼太郎に巻きついてからいつもの姿に戻る。
「鬼太郎や……」
「あれで蛇は生まれ変われたでしょうか」
「……恐らくな……一からやり直しになるであろうが、あれらの時は永い」
「そうですね。……これで村の井戸も元に戻ったと思いますが、後で様子を見に行きましょう、父さん」
「うむ……」
「鬼太郎、これ……」
猫娘から扇を受け取りいつもと同じ声色で「ありがとう」と返し、鬼太郎は先程蛇に投げた要を探した。蛇のいた場所に落ちていた要を拾い上げ元の穴に刺すが、無理に外したせいで片方の半円部分がなく、扇としてはこのままでは使えそうにもない。それでもこれは借り物である。持ち主へ返さねばときちんと畳むと、扇は突如淡く光を帯びて鬼太郎の手から落ちた。そしてふっと、白蛇になった。
『礼を言おう、幽霊族の子よ、蕨の子。私の末子を戻してくれた』
先程とは違う声をした白蛇に、目玉親父がぞくりとする。
「あなたはもしや……」
白蛇は長い舌で空気を揺らす。まるで人間が人差し指を口元に当て言葉を止めるようなその仕草に、目玉親父はごくっと喉を鳴らした。
『倅に無闇に縁を結ばせるものではないぞ』
相手の正体を知れば、望む望まぬを問わず縁が結ばれてしまう。これ以上関わるとこの先何が待ち受けるか、これは白蛇からの気遣いとも取れる牽制だ。目玉親父は小さく頷き、それでも尋ねなければならない事はある。
「……何故ここにおられるのか」
『これは枝。わたしの土地にある本体からほんの少し小枝を伸ばしているだけだ。そして末子もまたわたしの枝。千萱から末子を救った蕨の子にこれを』
そう言うと白蛇は口をがばっと開け、青い火の玉を吐き出した。それを両手で受け取り、鬼太郎は目を見張る。
「……これは……」
『末子が飲み込んだお前のものだ。さてこの魂を黄泉へ送るか、はたまたわたしが抜けた後のこの入れ物を使うか、好きに選ぶが良い。もしこの入れ物を使うのならば、地獄に口添えくらいはしてやろう』
手のひらの上でゆらゆらと揺れる暖かな魂は、目も口もなくとも養父であると分かった。先程飛び去った幾つもの魂に気配を感じなかったのは、魂が自認を失って感知できなかったのではなく、白蛇が抜き取っていたから。自らを、そしてこの湖の小島に消えた蛇を枝と呼ぶこの白蛇はつまり、この国に古くから祀られる蛇神の始祖か。
『いつの世も、我々を祀るも鎮めるも捨てるも、それらは全て人間によって行われてきた。傷を負った末子を救ってやりたかったが、道具は与えられてもわたしが直接手を出す事は出来なかったのだよ。お前は人間ではないが、人間に育てられた子だ』
神も怪異も全ては人間がつくりだしたものである。どんなに強い力を持とうとも、結局のところその命運は人間に委ねるしかない。
そして化物退治には褒美がつきものだ。それがこれだと白蛇はにんまりと笑ったように見えた。
『しかしこの入れ物を使うと、それは人間ではなくなる。……よう考えよ』
白蛇はそう言い残すと現れた時と同じようにふっと姿を消し、残されたのは不完全な扇だけとなった。目玉親父はもういないその相手に深々と頭を下げる。
「かたじけのう存じます……」
鬼太郎は何が起こったのか追いつかないよう、呆然と両手の中の魂を見つめていた。否、白蛇の話も与えられた褒美も自分の願望も、それら全てを理解していた。それでも動けずにいるのは、一度はこの手で送ると決めた養父の命の選択を握っている高揚感からか。
「鬼太郎……」
「父さん……僕は……」
この魂を扇に移せば養父に再び会える。きっと望むようにずっと一緒に生きていける。だがそれは白蛇の言うとおり、養父を人間の道から外してしまう。それを養父が望むかどうか、頭の中で記憶の奥底に大切にしまっている声を思い出して尋ねてみる。あの人は何と言うだろう。どんな言葉を選び、どんな声色を使うだろう。
(悩んでるなんて嘘だ、僕は迷ってない)
そんな事は重要ではないと思っている自分がいる。迷っているのではない、彼にもう一度会えるのならば何を差し出しても良いと思っていたし、それは今も変わりない。それが恐ろしい。そして動けずにいる理由はもう一つある。
「鬼太郎や、ワガママを言いなさい」
「え……」
「今ばかりは誰の事も、何も気にせんでよい。幼子のように自分のためだけに」
「自分の……」
「世間体も、世の理も、儂の事も、水木が何を望むかも考えず。……お前が選んだ道ならば、儂と水木はそれを許す」
父の言葉に、胸の内を撫でられたようで一瞬心臓が跳ねた。
養父の名前を呼べなかったのは、養父との時間を大切にしたかったからだけではない。そこに他者を、父の介入すら許したくなかったのだ。同じように父との時間は養父に、そして招かれない限り、自分の知らない父と養父の思い出には足を踏み入れないようにしていた。鬼太郎は父が好きで、だからこそ気遣っているつもりが、自分もそうされていたのだと知る。三人で暮らしていた頃から、二人になってからは更に。
「父さんの事、も……?」
「うむ」
お喋りが好きでいつだってにこやかに穏やかに話を聞かせてくれていている父にも、息子に見せないものがあるぞと物語る、優しい眼差し。
だから何だと言うのだ。
そう頭の中で声がした刹那、ずっと引っかかっていた後ろめたさがストンと落ちた気がした。どんなに信頼しあっている家族でも少なからず皆互いにどこか遠慮を持つ。それは思いやりとも言うだろうか、何もかも暴く事を家族と呼ぶのではない。現に自分への隠し事があると知っても父への信頼は薄れないではないか。そんな当たり前の事を今更ながら理解した。鬼太郎は養父を父と呼ばなかったし、養父もそれを求めなかった。けれど父はそれを気にしていたのを知っている。そしてあの日からずっと養父を探している自分を自分で、親不孝者のように思ってもいた。
父はそれを全て分かっていて、そんな自分を赦して、それを責める理由などそもそも無いのだと背中を押してくれている。
「正しくなくても良い。……もしそれで恨まれるような事があれば、儂のせいにすれば良い」
「……あの人は恨んだりなんてしませんよ」
「そうじゃな。いや……お前に選ばせるようなふりをさせておいて、儂も本心ではあやつに会いたいだけなのじゃ……儂は水木に謝りたい」
そう、謝りたい。それは鬼太郎も同じだった。普通とはかけ離れた日々と最期を迎えさせたのは、人間ではない自分と縁を結んでしまったせいだ。誰よりも自分達の幸せを願ってくれた一人の男のその幸せを同じく願っていたのに、その男を犠牲にして生き残った父子は、例えそれが自己満足のためと言われようとどうしても謝りたかった。それでどうなるわけでもない。そんな一言のために道を外させず、この魂を地獄へ送ればいずれ転生し、幽霊族とは関係しない新たな人生を送れるのに。
(それでも……)
どうかこの我儘を許してほしい。許してくれるとわかっていてそれに甘えさせてほしいと、あの日あの場に置いてきたはずの自分が顔を出す。あの男ならばどちらを選んでも、それを選んだのが鬼太郎ならば受容する、そう言う人間だ。だが今更それを引っ張り出して一時の感情で選んでしまって、次は父を失う事にでもなれば今度こそ後悔では済まなくなる、そう怯えている残り半分の自分を慰めるよう手のひらの中の青い火を見つめる。
「自分のためだけ……」
一度捨てた幼いままの自分を拾い上げるのを赦してくれる父と養父がいる。だからもう我慢をやめて自分の好き勝手を選んでしまおうと、鬼太郎はゆっくりと手の中の光に顔を近づけた。
「……最期は僕がこの手で責任を取ります」
瞼を閉じそう呟いて、そしてそっと魂を落とした。
扇は白蛇の時と同じように音もなくその形に姿を変えた。鬼太郎の目の前には最後に着ていたスーツ姿の男が立っており、その瞼が微かに震え、眩しい光の中でするよう細く二度ほど瞬きをする。それを見開いた目で見上げている鬼太郎の呼吸は無意識に止まっていた。反するように鼓動が耳の奥にこだまするほど大きく脈打っている。そして突然男の膝がかくんと折れて前に倒れ、鬼太郎は慌てて両手を伸ばし全身で受け止める。
「水木さん……!」
これまで頑なに声に出さず頭の中ですら封じてきて、もう音の出し方すら忘れていたと思っていたその名前は、驚くほどすんなりと鬼太郎の口から発せられた。大きな体を抱えながらゆっくりと姿勢を落として座らせ、そのもたれかかってくる体重と温度に止まっていた呼吸が再開しており、徐々に早くなる。そう、ずっとずっと、これを探していた。
「ぅ……、」
小さく唸った声がして、水木はゆっくりと鬼太郎の肩に手を置き自ら体を支えて向かい合う。その顔が薄っすらと歪んで見えて、鬼太郎はもっときちんと確かめたいと覗き込む。これが夢ではないと、誰か頬を抓ってほしい。
「あ、の……」
言わなければ、謝らなければ、そのためにここにいるんだと自分を叱責し焦るほど、声が喉の奥に引っかかって出てこなかった。まず何と言おう、言うべきか、何から謝ればよいのか数えきれない想いが溢れて今にも決壊しそうだ。甘えて抱きつかずに貴方を救うべきであった、元々人間の世界には馴染めなかったのだからもっと早く家を出て独り立ちするべきだった、そもそも墓場で貴方に這い寄った事が間違いだった。そんな言い出せばきりがない後悔を口に出す勇気が出ないのは、懺悔に勝る幸福の日々があるせいだ。
「……僕……」
「また……お前に助けられたな……」
水木が先にそう言って、鬼太郎は聞き間違いかと瞬きをした。何故だか頬が冷たい。
「え……?」
「墓場でお前を拾って……生きる意味を見つけた……」
まだ力の戻らない手が添えられ、指で撫でられて頬が冷たい理由に気づく。
「蛇に飲み込まれた後も、蛇がお前を狙ってると知って、なんとかそれを止めたくてずっとお前の事を考えてた」
こつ、と額が合わさる。闇に惹かれて眠れない夜にこうして額を合わせて二人で話した。近所の子供に意地悪をされた後も、自分勝手な人間を見かけた時もこうして、何があっても誰に何と言われても、世界中が背を向けても二人の父親はお前の味方だと言ってくれたあの日と同じ光景が今目の前にある。
「まさかまた会えるなんてな」
そうにっかりと眉を上げて笑う顔は記憶と寸分変わりない。この手で壊してしまったと思っていた一人の男の人生を、これは自分が選んだものだと笑い飛ばしてくれる顔がほんの少し手を伸ばせば届くところにある。今、鬼太郎は『ゲゲゲの鬼太郎』ではなく、父親が二人いるだけの、ただの子供に戻っていた。
「……みずきさ……」
「俺を助けてくれてありがとうな、鬼太郎」
もう目を開けていられなくて、止め方の分からない涙が閉じた左目からも溢れて、鬼太郎は水木にしがみつき声を上げて泣いていた。もう何十年も堪えていた涙がその時間を取り戻すように次から次へと湧いて出て水木のスーツを濡らしていく。震える指で背中に縋りつき、謝るのも忘れて、嬉しいのかも分からなくて、ただただ感情に押し流されるように泣いていた。あの日からずっと抱えて蓋をしていたものは、寂しかった、会いたかった、それだけだ。
そんな鬼太郎をしっかりと抱きしめて、水木もこれが夢でないとようやく確信する。蛇の中で何度も失いかけた自分という存在を繋ぎ止められたのは、己よりも大切な息子を思っていたからだ。意識を奪われそうになる度にその一点で抗い続け、それはまさに扇が一つの金具でその形を留めるのと同じよう、水木の魂を支えていた。深く呼吸をすると、鬼太郎の体が記憶より一回り大きくなっている事に気がつく。それが何より嬉しかった。
「鬼太郎……少し大きくなってるなぁ」
「……みずきさ……水木さん……僕……ごめ、なさ……」
「ああ、でも本当に鬼太郎だ……」
名前を呼べる幸せを噛み締め、水木は丸い頭に頬を寄せる。この瞬間だけで終わりの見えなかった暗闇の時間が昇華してしまう、愛しい愛しい息子の背をゆっくりとさする。
「水木や……」
「よぉ、ゲゲ郎!」
そろりと近づく目玉親父もまた、目玉から涙を溢れさせていた。無二の友であり息子にとってもう片方の親である人間との再会は、この状況を夢にも抱かずにいた自分を責めずにはいられない。
「すまんかった……儂はお前を諦めてしもうておった……どうしてこの子のように信じておれんかったのか……」
そう目玉を下げる友の姿に、水木は片手を拳の形で突き出した。
「鬼太郎の面倒を任せきりにしてすまなかったな。でもお前がいるから心配はしてなかったぜ、相棒」
辛気臭い事は抜きだと笑う水木に、目玉親父は一瞬驚いてから更に涙を溢し、情けない苦笑いを浮かべる。友に見捨てられたなどと思っていない、もしそうだとしても全ては息子のためにそうしたに違いないと言いたげな笑顔がある。こんな男だからこそ鬼太郎は彼に懐き、父と呼ばずともそう思っている。大切な一人息子を預けられたのは、意識の外で自分もそれをよく知っていたからだと思い出した。
「……なぁに、大した事ではなかったわ」
拳に小さな拳を当てると、水木は指を開いて目玉親父を突いた。
「幽霊族ってのは本当に泣き虫だな。ほら、お前もだ」
「う……だって……」
「男がだって、なんて言うんじゃない」
スーツの袖で涙をゴシゴシと拭いてまるで空白の時間などなかったような口調に、鬼太郎は目玉親父と目が合うと思わずふふっと同時に笑った。この昭和の男は現代のそれとは違い、男は男らしくとこんな場面でも変わらない。それがおかしくて、愛おしかった。
「……はい、すみません」
「よし」
「じゃが水木や〜〜」
「お前がそんなでどうするんだ、しっかりしろ」
水木は鬼太郎の頭をがしがしと撫でて、未だボロボロと泣き続ける目玉親父を窘めた。これが彼らのいつもの光景、当たり前にあったなんでもない日々。ここに帰りたくて仕方のなかった鬼太郎はそれが叶ったのだと思うとまた鼻の奥がツンとして、滲む涙を拭って頼りなく微笑んだ。
「鬼太郎が泣くなんて……」
「こりゃ珍しかね〜」
「あ、あの、これはどう言う状況ですか?」
そんな一部始終を側から見ていた猫娘と一反木綿は、いつの間にか合流していたまだ息の荒い山田に少しだけ驚いて振り向く。配信は止めているようだがカメラは抱えたまま、しかし分からないままでもこれを許可なく撮影してはいけない気がしているらしく、説明を求めキョロキョロとしている。
「おお、そうじゃ山田殿、皆の反応はどうじゃった?」
「あ、はい、半信半疑でしょうけど、かなりの人数が見ていたようで……計画通りかと」
「うむ。ならばあとは手紙の主に任せるとしよう」
この後蛇が再び天に昇れるほど力を蓄えられるか、それは配信を見ていた人間と、それ以上に村人の信仰によってのみ結果が分かる。だがそこにこれ以上口を出すものではない。信仰が続かなければ蛇は小さな蛇のまま、例え信仰が続いたとして、いくら寿命の長い幽霊族でも蛇の行末を見届けるまでは生きられない。それで良いのだ。
「……で、えっと、……そちらの方は……?」
円満解決の空気の中、山田はひとり状況が分からないままで、これを尋ねて良いものか恐々視線を送る。鬼太郎の赤くなった目尻を指で撫でていた水木は少しの間の後で、自分の事かと気がつく。
「ああ、俺か。ええと、初めまして、水木と申します。鬼太郎が世話になっているみたいで……」
「え……ええええ⁉︎ あ、あの……『あの』水木さんですか? なんで? どうして? き、鬼太郎君、どう言う事だい?」
話に聞いていたまさかの人物は、その想像よりもずっと現実的でそれが非現実的に思え、山田は混乱して眼鏡を上げ下げしてそれが本物なのか幽霊を見ているのかと確認する。鬼太郎はもうすっかり普段通りで、落ち着き払った様子で、しかししっかりと水木の手を握ると養父を紹介するために山田の側へと連れて行く。
「説明します」
驚いたままの顔で話を聞く山田と、まるでさもずっと隣にいたかのような水木、そして淡々とした鬼太郎の奇妙な三人を眺め、猫娘は一反木綿の背の上の目玉親父に腕組みをして横目にふっと笑う。
「ね、言った通りでしょ親父さん。鬼太郎を救うのは私じゃない。鬼太郎自身よ」
「……そうじゃな」
どんな自分でも無条件に許してくれる父が二人もいるのだとようやく我慢を捨て、良い子でいよう、早く大人にならねばと抑え付けていた本来の子供らしい自分を救ったのは鬼太郎自身だ。これで性格が一変してしまったりはしないだろうが、これからはきっともっと肩の力を抜いて歩いていけるだろうと目玉親父はまたじんわりと涙ぐむ。と、鬼太郎が不意に振り向いた。
「父さん、すみませんが説明を手伝ってもらえますか?」
そう言った鬼太郎の正面では山田がしきりに首を傾げている。どうやら目玉親父が山田の知識に関心していたからと簡潔に話しすぎたのか、説明が上手くできないようだ。水木もそんな息子に「いつまでも甘え癖が治らないな」とくつくつ笑うばかりで、鬼太郎は父に助けを求める。目玉親父は涙を拭うとやれやれと苦笑した。
「うむ、任せなさい。お前は本当に言葉が足りぬからなぁ」