【公安異能犯罪対策局】中間管理職アキヤマは今日も胃が痛い 作:丸井丸之
十数人での山狩り。山道を登る僕たちは、少しずつけもの道の方へと歩みを進める。
猟師の方々は人の味を知った熊は、怖がらない。むしろ好んで人間を食べようと近づいてくると言っていた。つまり僕らは獲物として、既に認識されているのだ。
その緊張感の中、久坂くんは静まり返っていた。いつもなら無駄口を叩くところなのに。
心配した僕が声をかけようとしたその時。
「悪い知らせよ。DNA鑑定の結果、ヒトを襲った熊は全て根室ヒサエと同一個体のものと、判別されたわ」
間宮警部がスマホを手に取りながら、周囲へ伝える。
「現時点から、根室ヒサエを連続襲撃犯の容疑者とする。相手が人間だと思う必要はないわ。既に理性を失った獣として対峙しなさい」
「了解しましたわ」
錦鯉くんだけがしっかりと返事をする。
さすが凶悪事件ばかりを相手にしている1課だ。こんな場面を何度も相手にしてきたのだろう。
だけど、猟師や協力してる地元の警官たちは戸惑いが強い。
麻酔銃を撃つといっても、それは人間へ銃口を向けるのと変わらないのだから。
そんな戸惑いがあったからだろう。近づいてくる襲撃者に気づくのが遅れてしまったのは。
「た、対象の熊です!」
誰かが叫んだ。
後方で悲鳴が上がる。振り向いた先には、今にも襲い掛かろうとする大型のヒグマがいた。
パニックになった集団ほど脆いものはない。ましてや、特化した訓練を受けているわけでもない。麻酔銃を構える猟師の射線を潰しているのは、我々警察官だ。
「異能の発動を許可する。やりなさいカオリコ!」
「お任せあれ、ですわ!」
対象へ向けて手をかざす。
次の瞬間、暴れていた巨体が不自然なほどピタリと静止した。
これが念動力――精神の力で対象に干渉する異能だ。
その瞬間、間宮警部の号令が飛ぶ。
「麻酔銃の発砲を許可する!」
火薬音が山中に響く。
放たれた麻酔弾は、確かに熊の分厚い肉体へ命中した。
ここから目標が沈黙するまでの十数分間、我々は何とか持ちこたえなければならない。
「錦鯉くん、君の異能発動時間は!」
「持ってせいぜい5分ですわ秋山さん。麻酔が効くまで持ちませんことよ!」
「――っ! 全員後方へ移動しよう。距離を取って、熊の突進を防ぐんだ」
「待って秋山くん。カオリコは対象から目を離すことができないの。あまりに距離を取りすぎると、その時点で効果が消失するわ」
そう都合よく行かないか……。
しかしこの緊迫した状況で、距離を取らない選択肢はない。
防護盾やライフルを構えながら、全員が一歩ずつ後ずさる。
「申し訳ありませんわ……そろそろ限界が」
体感では一瞬だった。
錦鯉くんの額には大量の汗が滴る。
まだ距離は数メートルしか取れていない。興奮した熊は、低く唸り声を上げたままだ。
こうなったら最悪、射殺も視野に入れなければならないかもしれない。
根室家の父親と娘の顔が過るが、致し方無い。
「あ、もう……だめ」
意識を失った錦鯉くんを間宮警部は抱きとめる。
次の瞬間、拘束から放たれた熊は我々めがけて襲い掛かる。
もう撃つしかない。そう決断しかけた時。
「後は頼むわ」
久坂くんはそう告げて、異能を発動させた。
巨大な獣へ、真正面から踏み込んだのだ。
常人なら自殺行為としか思えない距離を、迷いなく。
体重差は優に300キロ以上。その質量の差を覆すのは至難の業だろう。だけど、彼の異能はA級――踏み込んだだけで地面を砕き、熊の突進を真正面から押し返すほどの膂力だった。
雄叫びを上げながら、彼は熊を力任せに押し返した。
だが、その先は――
「――あ、危ない!」
次の瞬間。
押し切った勢いのまま、久坂くん自身も前へ倒れ込む。
巨大な熊と共に、彼の姿は崖下へと消えた。
「久坂くんッ!!」
崖をのぞき込むが、木々が邪魔で何も見えない。
すぐに駆けつけようとする僕へ向かって間宮警部は制止する。
「落ち着きなさい秋山くん! 二次遭難になるわ!」
彼女に腕を掴まれる。
そんなことは分かっている。
分かっているけれど、感情が抑えきれない。
「……彼は私の部下です。今助けに向かわず、いつ行くというんですか! 」
間宮警部は、わずかに目を見開いた。
制止の手を振りほどき、僕は崖下へ続く斜面を駆け降りる。
生きててくれ、久坂くん。君はこれからもっと、色んなことを経験して大人になっていくんだから。
どれだけ探したか分からない 。日が傾き始める中ようやく、地面に倒れ伏す彼と熊を見つけた。
ピクリとも動かないその姿に、慌てて近寄るとピースが掲げられた。
「へへ、どうよカゲフミ。やってやったぜ」
「君という奴は、本当に……」
「熊の婆さんは気絶しちまってる。俺も左手が折れてる気がするけどそれだけだし、大成功だろ」
「それを“だけ”で済ませるな! 打ち所が悪かったら……死んでいたかもしれないんだよ」
「わあってるよ。心配かけて……ごめん」
そっぽを向いて謝るところが久坂くんらしい。
でも、これで安心した。失踪事件は幕引きを迎えようとしているのだから。
公用携帯で助けを求め、僕と彼は他愛もない雑談を交わしていた。
しかしこの時の僕らは、まだ知らなかった。
この事件が、誰一人救われない結末へ向かっていることを。
▼
「……本当に、ありがとうございました。母を見つけていただいて」
根室マコトは深々と頭を下げる。
あれから結局、根室ヒサエは人間に戻れていない。心も体も完全に野生化してしまっていたのである。
今は檻に収容しているが、今後どうなるか分からない。人を襲い、命を奪った事実は消えることがないのだから。
「異能による意図的でない犯罪は、基本減刑が施されます。ですが、どういう処分が下されるかは未知数です。ご家族として不安に思うでしょうが、ご了承ください」
「いえ、刑事さん。ここまでして頂いて、何も不満はありません。あとはもう、穏やかに暮らせればそれで……」
その表情は何とも形容しがたいものだった。
安堵ではない。母親を失いかけている息子の顔でもない。
長く背負っていた荷物を、ようやく下ろした人間の顔だった。
「パパ、おばあちゃんはもう帰ってこないの?」
「当分の間はそうなりそうだ。しばらくは2人っきりで過ごすことになるよ」
「そうなんだ……それじゃあママ帰ってくるかな」
「っ! あぁ、どうだろう。そうなってくれたらどれほど嬉しいか」
家族の一風景。
その光景に僕は……。
「……ご家族との面会は、後日許可されるでしょう。その際は、改めてご連絡します」
「分かりました。連絡をお待ちしています」
刑事さん、本当に。本当にありがとうございました。と礼を言い親子は去っていった。
まるで、長い介護が終わったかのように。
あれから各所を巡り、トクノウへと戻った時にはもう夜も更けつつあった。
「おう、戻ったか若旦那」
「トクさん……まだいらしたんですか」
「雑務をこなしてたらこんな時間になっちまったよ。昔は二徹、三徹が当たり前だったのに、もう駄目だな。体が悲鳴を上げやがる」
「そりゃそうですよ。もう定年間近なんですから」
茶化した態度に、自然と笑みがこぼれる。
張り詰めていたものが、少しだけ緩んだからだろうか。
自分の中でため込んでいたものを、吐き出したくなってしまったのは。
「申し訳ないんですが。帰る前に……少し、話をしてもいいですか」
態度から察してくれたのか。「長くなりそうだ。お茶を入れてくる」とトクさんは言う。
向かい合って腰掛けたソファの柔らかさとは真逆に、僕の表情は強張っていた。これから相談する内容によって、他人の人生が左右されるのだから。
「アキラは腕の骨折だけですんだらしいな」
「え、ええ。今は自宅で療養させてます」
「しっかしすげえな。根室ヒサエが獣化した時の体重は300キロを超えていたらしいじゃねえか。
それを力比べで勝る嬢ちゃんの異能は、規格外だな」
「A級に指定されるだけはありますよ。彼が過去に犯した犯罪のことも考えると尚更に」
飲み込んだお茶は火傷するほどに熱かった。
「すまねえ余計な話だったな……で、若旦那は何をそんな辛気臭い顔をしてんだ」
「……職業病ですかね。素直に人を信じれず疑ってしまうのは」
「根室マコトを疑っているのか」
「いえ、もう自分の中では黒と断定してます」
なぜなら。
「元妻の証言。そして、監視カメラに残った運転記録。この二つが、実の母を山へ遺棄したことを何よりも物語っていたんです」
「そうか……元嫁は何て証言したんだ」
「当時、認知症が進み始めた根室ヒサエは、異能を無意識に発動させることが増えていたんです。
ですが、彼女はC級。最初は小熊サイズの可愛いものだったと語っていました」
しかし、異変は起きた。
二十年前、突如全人類に生まれた異能という力は今でも、解明されていないことが多い。
その中の一つが、異能力の増減だ。
「加齢や感情の高ぶり。そういった様々な要因で、異能力は発揮する力を変化させる。今回の認知症も悪い方向に作用した一例でしょう」
「命の危険を感じた元妻は、警察に相談するなりを提案したらしいのですが……」
「根室マコトは首を縦に振らなかった」
「その通りです。閉鎖的な田舎の世間体、母を思う息子の気持ち。色々思うところはあったんでしょう。しかし、離婚と同時に職も失い、彼は次第に追い詰められていった」
「……」
トクさんは、何も言わず顎を摩るだけだった。
「監視カメラに残された映像は、母と2人で出かける根室マコトの姿。そして、その日の夕方に1人で帰宅する彼が記録されていたんです」
「そうか。もし、事実を問い詰めて反論したとしても、理詰めで追い詰めることは可能そうだな」
「はい。僕は根室マコトを遺棄罪の容疑で逮捕できる。そして、山へ捨てた結果、人が死んだ責任も 」
「若旦那はどうしたい?」
交差する視線。
「遺棄した結果、人が死んだ以上。警察として見逃すことはできません。けれども……」
「逮捕することで幸せになる人間よりも、不幸になる人間の方が多そうってか」
「……ええ、そう考えてしまう自分がいるんです」
「ふう、なんて難儀な話をこんな時間にするかねえ」
そう言いながら笑うトクさんは、熱い茶を一口すすった。
「勤続35年。新卒の時からずっと現場でいた俺にも、答えは分からねえ」
「トクさんでもですか」
「バカ野郎。俺はキャリア組みたいに頭がいいわけじゃねえんだ。考える前に体が動いちまうからな。
だけど、そんな俺でも自分に課していることがある。それはな――自分に軸を持つこと。
要はまぁ、自分が何を守りてえのか、それだけは見失うなってこった 」
「……僕にはまだ、その軸が定まっていない気がします 」
「へっ。まあ年寄りの戯言として聞いといてくれよ。
俺は軸を失った警察官を何人も見てきた。異能力が生まれて混乱する社会の中で、そりゃもう悩むやつが大量発生よ」
「その頃はまだ異能犯罪対策局もないですし、対異能法も無かった時代ですよね」
20年前、世界は荒れた。僕はまだ16の子供だったけど、あの時ほど不安になったことはなかった。否が応にも、日常が変質していくことを肌で感じられたんだ。
突然炎を出す子供。
力を制御できず家族を傷つける者。
異能を理由に私刑を受けた人。
あの頃の日本は、法よりも恐怖による暴力が先走っていた。
だから、強制力のあるルールが何よりも必要とされたんだ。
「俺はいろんなやつを見てきた。警官を辞めるやつ、病むやつ、犯罪に手を出すやつ。
これ以上、俺を寂しがらせないでくれよ若旦那。お前さんの同期みてえにな」
「……逃げずに考えます。今日は悩んで悩みぬいて、明日答えを出します」
「ああ、それがいい。悩むのは若者の特権だ」
「僕はもうアラフォーですけどね」
「かぁー、おまえさんもそんな歳か! 俺も歳をとるわけだわ!」
そう言って、2人で笑い合う。
トクさん、ありがとう。張り詰めていた胸の内が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
翌日、僕は根室マコトを面会という名目で呼び出していた。
檻に収容されている根室ヒサエの前に。
彼は、実の母親を直視しようとしない。背を向けて、僕と向き合っていた。
「母が元気そうで安心しました。もう充分です。私はもう失礼して――」
「マコトさん、本題は違うんです」
「え? それは一体……」
「あなたが“失踪した”と言っていた日より、さらに数日前。あなたは母親と山へ向かっている」
「……」
「監視カメラにも記録が残っていました。帰りの車ではあなたが1人だったことも」
「……何が言いたいんですか」
根室マコトは怯えたように僕を見つめる。
「本当のことを教えてください。あなたは母親を――山に置き去りにしたんですか?」
「――ツ! ち、違う。置き去りじゃない……あれは、あれはっ!」
「落ち着いてください。私はあなたを責めたいわけじゃないんです」
「う、嘘だ!」
「事情があったんですよね? 母親を大事にしていたあなたが、そうせざるを得ない事情が」
空気は静まり返る。
何秒でも僕は待ち続ける。彼が喋りだすまで。
「国の犬に、私の気持ちが分かってたまるか……」
「分からなくても、知ることはできます」
「綺麗ごとを抜かすなぁ!」
昏い瞳が僕を睨む。
逸らしたい気持ちを必死に抑え、まっすぐに僕は見つめ返す。
視線を逸らしたのは、彼の方だった。
「……山に行きたい。最初にそう言い出したのは母からでした」
閉じていたはずの口がゆっくりと開かれる。
田舎育ちで山が好きだった母。小熊へと変化し、無邪気に遊ぶその姿は、あまりにも自然に溶け込んでいたと。
お金の余裕はなく、介護に追われ、妻も仕事も失った。
残った唯一の宝物は、娘の将来だけ。
妻ではなく自分を選んでくれた娘が、爪痕による傷を見せてきたとき血の気が引いた。世界が、真っ黒になってしまった。
そう、噛み締めるように告白する根室マコトの目には、何も映っていなかった。
「だから魔が差したんです。このまま母を置いていけば、大好きな自然に還るだけ。私たち家族はようやく平穏を手に入れられるんだと」
「それで母親を置いて、1人で帰宅したと」
「そうです。そして、テレビで熊による死亡のニュースを見たとき、笑ってしまいましたよ。神様は私を許さないんだって」
僕は何も言えず、ただ口を噤むことしかできなかった。
「でも縋ったんです。小熊にしかなれない母が人を襲うはずがないと。野生の熊が襲っただけだと。
けれど、結果は違った。少し見ない間に、母は化け物のように大きくなってしまった」
振り返った根室マコトは、縋るように檻へ額を押しつけた。
「母は人殺しじゃない。本当の人殺しは、私なんです……っ!」
「……あなたのような人を追い詰めてしまったこの社会は、未熟なんだと思います。
手を差し伸べる支援があれば、あなたもお母さんも幸せに過ごすことができた。
僕は社会の一員として、あなたに申し訳なく思う。ですが――」
「――あなたを逮捕し、罪に問うことも社会の一員である僕の責務なんです」
力が抜け、崩れ落ちる根室マコトは静かに震えていた。
僕は公用携帯を取り出し、逮捕の手続きを進めようとしたその時。
「マ、コト……」
それは人の声ではなかった。
いびつで、くぐもった声は、檻の中から聞こえていた。
震える体で見上げた息子は、そこにかつての母の面影を見た。
「か、母さん?」
「マコト……ゴメン、ネ」
ありえない……認知症と異能による野生化で、彼女は完全に人としての理性を失っていたはずなのに。
この時だけは、檻の中の獣は確かに母親だった。
「あ、あぁ……私は、私は! なんてことを……っ!」
慟哭が室内に響き渡る。
誰も幸せにならないこの結果を、僕は受け止めなければならなかった。
罪を犯した男が、そこまでして守ろうとしたものからの非難も含めて。
「嘘つき! パパのこといじめないっていったじゃない!」
「――っ!」
ギブスを巻いた久坂くんは、すまねえと返すしかなかった。
家族を思って身を呈した彼が、理不尽な非難を浴びる。
娘は結局、母親に引き取られて暮らすことになったらしい。その環境を作ったのも、僕の決断のせいだ。
「……罪に問わなくてもよかったんじゃねえのか」
二人きりになると、久坂くんはぽつりと呟いた。
「その選択肢もあった」
「じゃあそれでよかったろ!」
「でも、それを許した瞬間。僕はきっと、自分が何を守るべきか分からなくなる。警察官として」
「……そうかよ」
そう言い残し、彼は僕から離れていく。
それは、互いの決裂を静かに示しているようだった。
離れていくその背中を僕は――引き止めることができなかった。