夜の池袋は、いつもより息苦しかった。
西口地下街の階段を上がるたび、ネオンと排気ガスが混じり合った空気が肺にまとわりつく。駅前ロータリーでは、いつものように酔客とサラリーマンと観光客が渦を巻いていたが、その喧騒の隙間に、明らかな空白が生まれていた。身寄りのない若者たちだ。家出少年、ネットカフェ難民、裏社会で消されたと囁かれる者たち。彼らの姿が、ここ数週間で急激に減っていた。
「また一人、行方不明だってよ」
「今度はあのガキか……ヤクザの揉め事か?」
そんな会話が、路地裏のクラブや暗がりで交わされていた。境界対策課が動き出したのは、そうした消失が単なる犯罪ではなく、境界異常の兆候を帯び始めた頃だった。
午前二時四十七分。池袋駅西口地下通路、封鎖されたメンテナンスエリア。
「再演対象:竜殺し、装甲強化、英雄補正……すべて接続、起動確認!出力七十八パーセント、問題なし。再演開始。バルムンク、展開!」
明るく弾む声が、湿ったコンクリートの壁に反響した。
「さあ、来なさい!この新種の白ヒルども!天才美少女・御伽ヒメが華麗に一掃してあげるわ!」
眼前には、真っ白な肌をした異形が十数体、蠢いていた。体毛は全て抜け落ち、眼窩は皮膚で塞がれ、裂けたような大きな口だけが薄く開いている。指は異様に長く、獲物の体温を求めてひくひくと蠢いていた。境界対策課が仮として「白ヒル」と呼称している這うタイプの界異だ。
「ヒメ、右翼を頼む!下がりすぎるな!」
即席討伐班の指示が飛ぶ中、ヒメは嬉々として突進した。
「ふふん、任せて!」
バルムンクが輝く斬線を描く。一閃で三体の白ヒルが真っ二つに裂け、白い体液と瘴気が噴き出した。加護の効いた祭具の斬撃は再生を遅らせるようで、切断された個体は痙攣しながら崩れ落ちていく。しかし——―
「わわっ!?また出力暴走!?」
バルムンクの刃が一瞬跳ね上がり、地下通路の壁を大きく抉った。破片が降り注ぎ、ヒメは自らの攻撃の余波でバランスを崩す。その隙を突き、一体の白ヒルが長い指をヒメの足首に絡めようとした瞬間
――ずんっ!低く沈んだ影が横から滑り込み、白ヒルを地面に叩きつけた。黒いコートを纏った小柄な少女——
ヒメは顔を輝かせた。
「やっぱり来たわね、落とし屋さん!W山の時以来じゃない。相変わらず地味に強いわよ、あなた」
民間祓魔師との共同作戦という事で、遭遇を予期していたヒメに、一瞥だけをむけるた黒瀬は軽く息を吐き、振り返りもせずに次の白ヒルへ滑り込んだ。
「……貴方が無茶をしてるだけです。天才美少女は控えめに戦えと言ったはずですが?」
「初耳ですけどっ??」
じゃれ合うその声には、呆れとわずかな親しみが混じっていた。W山周辺の血染めの幻想区で共に戦った時と同じ、阿吽の呼吸。黒瀬の動きは無駄がなく静かで容赦ない。投げ、締め、零距離での精密干渉。ヒメの派手な攻撃を補うように、的確に数を減らしていく。二人を中心とした討伐班の連携により、再生力に長けたはずの残る白ヒルは十五分ほどの短期で殲滅された。
任務完了後、簡単な報告を終えたヒメは、すぐに単独で現場に戻っていた。
「ふう……祭具の制御、まだ完璧じゃないわね。でもまあ、私の活躍があればこそ!」
満足げに鼻を鳴らしながら封鎖ラインをくぐり抜ける。白ヒルを祓ったはずの地下通路の奥、古いマンホールのあたりから、底知れぬ重く冷たい気配が漏れ出している。戦闘中から感度の高いヒメの感覚に微かに引っかかっていたそれに好奇心が強く疼いた。
「これは……ただの残滓じゃないわ。もっと、ずっと深い何か……」
探知機を片手に薄暗い通路を進むと、錆びついた古びたマンホールの前に黒瀬の姿があった。黒瀬は膝をつき、分厚い特殊鍵を蓋の鎖に慎重にかけ直そうとしていた。―——明らかに通常の境界対策課規格とは異なる、しかし強力な封印具だ。ヒメは明るく声をかけた。
「ちょっと黒瀬さん!そこで何してるの?まさかまた一人で全部片付けようとしてるんじゃないでしょうね?」
黒瀬の肩がわずかに動いた。ゆっくりと振り返る。その瞳は冷たく、しかしヒメを見てわずかにため息をついた。
「……貴方ですか。任務が終ったら身体を休めるのも祓魔師の仕事ですよ」
「貴方に言われたくないわ。撤収した時には姿をくらませてたのって、それを調べる為なんでしょう?。ねえ、そのマンホール……絶対に何かあるでしょ?二人で調べましょうよ!」
ヒメが一歩近づいた瞬間——―マンホールの蓋が、内側からわずかに持ち上がった。
「っ……!」
黒瀬の表情が一瞬で鋭く引き締まる。彼女は即座に未完成な封印を諦め、鍵を破壊されないように取り外し収納し、即座に距離を取って構え直す。ヒメも素早くバルムンクを抜き放った。蓋の隙間から、真っ白な指が何本もにゅるりと伸びてくる。まだ生き残っていた白ヒルの残党が、ヒメの祭具の強い加護残香に引き寄せられて這い上がろうとしていた。
「来るわよ!」
「……致し方ありません」
狭い地下通路で、二人はW山以来の共同戦闘を再開した。白ヒルの断末魔、祭具の輝き、そして重心を崩す投げ技の音が、夜の池袋の地下に響き渡るだろう。その遥か奥底では――
最初に動いたのは黒瀬だった。黒いコートの裾を翻し、低い姿勢で瞬時に間合いを詰める。縄鏢が蛇のようにしなり、伸びた白ヒルの腕を絡め取った。次の瞬間――黒瀬は相手の体重を微妙にずらし、絡めった縄鏢のワイヤーを利用し投げ落とす。白ヒルの細長い体躯がコンクリートの壁に叩きつけられ、骨が軋む嫌な音が響く。ほとんど同時に彼女の掌が敵の胸に吸い付き、零距離で瘴気流し込む。内側から穢れを直接注入し、再生力を根元から腐らせる黒い瘴気が、白い肉体を内側から黒く染め上げ崩壊させた。
「いいわ、落とし屋さん!」
ヒメが笑いながら続く。狭い通路では大型剣のフルスイングは危険だったが、彼女は構わず*バルムンクを振り上げた。刃が加護の光を纏い、銀色の軌跡を描く。壁と天井に火花を散らしながらの斜め袈裟斬り。一体の白ヒルを肩口から腰まで真っ二つに両断し、白い体液が壁を汚した。しかし、反動で剣の軌道がわずかにブレる。その隙を突いて別の白ヒルが天井を這い、ヒメの背後に回り込もうとした。
「後ろです」
黒瀬の声が鋭く飛ぶ。彼女は即座に縄鏢を投げ、ヒメの肩を掠めるようにして白ヒルの首を捉えた。自分の体重を支点に敵を引きずり落とし、地面に叩きつける。ヒメは振り返ることなく、黒瀬の合図だけで理解し、即座に剣を翻して追撃。加護を集中させた刃が、白ヒルの胴体を串刺しにした。
息が重なる。黒瀬の動きは静かで無駄がなく、止めどない疾風のように流れる。投げ、締め、瘴気や加護の精密干渉。相手の動きを先読みし、肌の追想で微かな気配を捉えては容赦なく急所を突く。一方、ヒメは派手で豪快。大型剣が放つ光と衝撃波が通路を照らし、狭い空間を震わせる。二人のスタイルは正反対だったが、それが奇妙なまでに噛み合っていた。
白ヒルが集団で波状攻撃を仕掛けてきても、黒瀬が前衛で受け止め、投げ技で敵の陣形を崩し、ヒメがその隙に広範囲の加護斬撃を叩き込む。薙ぎ払った領域に加護結界を展開し行動を阻害すると、既に飛び込んでいた黒瀬が次の犠牲者を投げ落としていた。瘴気と加護の光が交錯し、白い怪物たちの断末魔が地下通路に木霊した。最後の一体が、黒瀬の縄鏢に絡め取られ、ヒメのバルムンクによって頭部から真っ二つに斬り裂かれた瞬間。
――通路に再び静寂が戻った。ヒメは息を弾ませながら剣を肩に担ぎ、満足げに笑った。
「ふふん、相性抜群じゃない!やっぱり私とあんたはいいコンビだわ!」
黒瀬はコートの袖の埃を払いながら、紅紫の瞳でヒメを一瞥した。わずかに息が上がっているものの、表情はほとんど変わらない。
「……貴方の無茶がなければ、もっと静かに終わらせられたのですが」
戦闘が終わると、黒瀬静かにマンホールへ視線を戻し、完成寸前だった封印を起動させた。ヒメが息を弾ませながら近づく。
「ねえ、黒瀬さん。一緒に潜入しましょうよ。この奥、絶対にヤバい何かがあるわ」
「これは貴方の仕事ではありません。私からも報告を上げておきますので、後は境界対策課としての判断に委ねましょう」
声音は穏やかだが、明確な拒絶の色が含まれていた。ヒメはむっと唇を尖らせる。
「えー、またそれ?あなた一人で危ない橋を渡ろうとしてるんでしょ?天才美少女を置いてけぼりにするのは反則よ!一緒にやった方が効率いいってば!」
ヒメがさらに一歩踏み出して説得を続けようとした瞬間、黒瀬は封印具の最終調整を終えた。カチリ、という小さな金属音が響く。マンホールの蓋に施された「鍵」が、再び強固に封鎖された。黒瀬はゆっくりと立ち上がり、黒いコートの襟を直す。その仕草は静かで特に代わり映えの無い行動のはずが、ヒメには何故か洗練されて見えた。物理的な理由以外でも最適化されている、そんな気配。
「……会話はここまでです。貴方は自分の班に戻りなさい」
短く、冷ややかに告げると、黒瀬はヒメに背を向けた。
「ちょっと、待ってよ!黒瀬さ——―」
ヒメが手を伸ばしたその刹那。黒瀬澄の姿が、ふっと闇に溶けた。 足音も、気配も、気配すら残さず。縄鏢を軽く振るわずかな風圧と、黒いコートの裾が一瞬だけ翻った残像だけが、ヒメの指先をかすめた。
「……また逃げた!」
ヒメは悔しそうに地面を軽く蹴った。地下通路の奥に残るのは、わずかな瘴気の残滓と、封印されたマンホールの冷たい金属の感触だけだった。彼女はしばらくその場に立ち尽くし、腕を組んで唸る。
「ふん……絶対に調べさせてみせるんだから。落とし屋さん、逃げても無駄よ?」
紅紫の瞳の残像が、ヒメの脳裏に焼き付いていた。冷徹、それでいてどこか底知れない深さを持つあの視線。その視線が貫いていた遥か奥底では
――第百二十六号井戸は、まだ誰にも真の名を知られぬまま、静かに、胎動を続けていた。