非常階段を降りた直後、ヒメは黒瀬の袖を掴んで離さなかった。
「もう逃がさないからね。今度こそ、あの井戸の底まで一緒に行くわよ!」
黒瀬澄は小さくため息をついたが、それ以上抵抗はしなかった。紅紫の瞳が一瞬、ヒメの顔をじっと見つめ、何かを諦めたように頷く。
「……好きにすればいい。ただし、命は自分で守りなさい」
二人は西口地下街を離れ、夜の池袋を北東へ移動した。十分ほど歩いたところで、黒瀬は無言で首都高速道路の高架下に入っていく。当然の様に高架に飛び乗り、すぐ傍の高速トンネルに、影のように侵入していくヒメは一瞬だけ足を止めた。
「……高速道路のトンネル? まさか、そこから?」
黒瀬は振り返らず、淡々と答える。
「表の封鎖エリアは囮です。本命はこちら。第百二十六号井戸は、公式記録には存在していません」
首都高速道路のトンネル内メンテナンスエリアへ続く、関係者以外立ち入り禁止の非常扉。黒瀬はポケットから特殊なカードキーを取り出し、ロックを解除した。警告灯が点滅する中、彼女は顔色一つ変えずに扉を押し開ける。ヒメは少しだけ目を丸くした後、すぐにニヤリと笑った。
「法律違反ね……まあ、バレなければ大丈夫でしょ!天才美少女祓魔師の特権ってことで」
黒瀬は無言。彼女にとって、これは日常的な違法行為の一つに過ぎなかった。ミワシ隊の偵察部隊長として、長年、表の法など超越した領域を歩んできた証だった。
トンネル内のメンテナンス通路は、湿気と排気ガスの臭いが濃く、非常灯の赤い光だけが足元を照らしていた。足音が壁に反響し、遠くで車の走行音が低く響く。二人はさらに奥へ進み、隠された分岐路を抜けた先で――ようやくそれを見つけた。
第百二十六号井戸。
首都高速のトンネル壁面に不自然に穿たれた、円形の古い竖穴。周辺のコンクリートは明らかに後から補修された痕跡があり、戦時中の遺物であることが一目でわかった。蓋は重厚な鉄製で、表面に古い呪符と軍の認識印が刻まれている。黒瀬は膝をつき、縄鏢を軽く構えながら蓋に手を当てた。
「……警戒。白ヒル――白蠕が七体、坑道這いが三体。空間の歪曲が弱く発生しています。蓋を開けた瞬間、こちらに気付くでしょう」
ヒメはバルムンクを構え、好奇心と微かな戦慄を胸に笑った。
「ふふ……なんだか本格的になってきたわね。底の闇が、こっちを見てる気がする」
恐怖は確かにあった。しかしその恐怖すら、彼女にとっては未知への興奮を掻き立てる最高のスパイスでしかなかった。
「……この井戸、どんな歴史があるの?」
黒瀬はしばらく沈黙した後、低い声で語り始めた。
「昭和十九年、旧帝国陸軍呪詛技術研究所が極秘に建造した実験施設……『ヨモツイクサ計画』の一つです。当時の軍部は、界異を兵器として利用するための方法を模索していました。その一つが『永遠の落下』。生きた人間を特殊な結界で包み、幽世と現世の狭間――底の見えない井戸に落とす。落ち続け、死ぬこともできず、狂い続ける……その苦痛と絶望を、界異のエネルギー源として利用しようとしたのです」
彼女の声は冷たく、感情を一切含まない。
「被験者は主に捕虜、思想犯、失敗した呪詛師。記録によると、この第百二十六号井戸だけで少なくとも四十七名が投げ込まれました。誰も上がってこなかった。軍は後に『実験失敗』として施設を封鎖し、トンネル建設と共にコンクリートで埋めましたが……完全に塞ぐことはできなかったようです」
ヒメは息を飲む。好背筋に冷たいものが這い上がるのを感じた。
「……生きたまま、永遠に落ち続けるの? それって、死ぬより酷いじゃない……」
黒瀬は静かに頷いた。
「ええ。だからこそ、今もこの井戸は生きている。落ち続けた者たちの怨念と瘴気が、底で渦を巻き続け、新たな界異を生み出している」
黒瀬は一切迷うことなく、封印を解除した。
――ゴゴゴゴ……
重く錆びついた音を立てて、鉄の蓋がゆっくりと持ち上がる。中から這い出してきたのは、冷たく湿った黒い霧と、腐敗した土と血と鉄の混じり合った、吐き気を催すような悪臭だった。穴の奥は底が見えず、非常灯の光を吸い込むように真っ暗で、時折、白い影がぬるりと蠢くのが垣間見えた。
空気そのものが重くねっとりと肺にまとわりつき、耳の奥で誰かが永遠に落ち続けているような、奇妙な風の音が聞こえてくる。ヒメは思わず息を飲んだ。
「……これ、相当ヤバいわね」
黒瀬は表情一つ変えず、縄鏢を手に先に降り立った。彼女の動きは冷徹で完璧、周囲のすべての気配を把握しながら、静かに井戸の奥へと進んでいく。ヒメは興奮を抑えきれずにその後に続く。第百二十六号井戸は、ゆっくりと、貪欲にその口を開け、二人の小さな影を飲み込んでいった。闇の底から、無数の白い指が、這い上がってくる気配がした。
井戸を降りてどれほど経っただろうか。時間感覚が徐々に狂い始めていた。非常灯の赤い光はすでに届かなくなり、二人が持つ小型のタクティカルライトだけが、狭い縦穴の壁を照らしている。壁面は湿ったコンクリートから古い煉瓦へと変わり、ところどころに昭和の軍章や呪符の残骸が埋め込まれていた。
空気は重く、ねっとりと肺にまとわりつく。耳の奥では、絶え間なく落ち続ける風の音が響いていた。 中層に差し掛かった頃、黒瀬が足を止めた。
「……ここです」
壁面に埋め込まれた古い金属製の収納扉。錆びついた鍵はすでに壊れ半開きになっていた。黒瀬が手で軽く扉を押し開けると、中から錆と黴の臭いが濃密に噴き出した。
ヒメが灯を近づける。そこには、旧帝国陸軍の残留記録が無造作に放置されていた。黄ばんだファイル、数本のフィルム巻き、錆びた映写機、そして手書きの報告書が何十枚も束ねられていた。 ヒメは一番上のファイルを手に取り、ページをめくり始めた。
実験 第百二十六号井戸記録 昭和十九年十月――彼女の表情が次第に強張っていった。
「これ……」
被験者たちは特殊な結界で包まれ、井戸に投げ落とされた。落下は永遠に続き、肉体は死なず、精神だけが磨り潰されていく。記録には被験者の叫びが克明に記されていた。
『三日目。まだ落ちている。助けてくれ。死にたい。死なせてくれ。』
『七日目。骨が折れても、肉が裂けても、意識が途切れない。底が見えない。底が、ない。』
『十四日目。俺はもう人間じゃない。神よ、許してくれ……』
さらに添付された呪われた映像記録を、ヒメは小型端末に接続して再生した。映し出されたのは、暗い井戸の底から見上げる視点だった。無数の人間が、ゆっくりと、しかし確実に落ち続けている。誰も叫び声を上げていない。ただ、虚ろな目で上方を見つめ、口だけが微かに開閉している。ある者は腕が千切れ落ちても、まだ落ち続けていた。ある者は目が潰れても、なお落ち続けていた。 ヒメは端末を握ったまま、口元を押さえた。天才的な頭脳が、実験の非道さを瞬時に理解し、想像し、拒絶した。
「……吐きそう……こんなの、本当に……?」
彼女の声はかすかに震えていた。未だ深みを知らない少女にとって、これは到底受け入れられるものではなかった。一方、黒瀬は古びたファイルの一枚を無表情で手に取り、素早く目を通した後、平然と床に放り投げた。
「よくある話です」
その声は冷たく感情の欠片も感じられない。ただ事実を述べるだけだった。ヒメは思わず彼女の顔を見つめた。 紅紫の瞳は、映像に映る地獄を前にしても微動だにしない。そこには同情も怒りも、嫌悪すらもなかった。ただ、深い、底知れぬ闇だけがあった。ヒメは初めて、黒瀬澄の“異常”を骨の髄まで感じた。表面的な冷たさではない。もっと根源的な、何かが欠けた眼だった。
その瞬間――井戸の壁面が不自然に歪み、重力が局所的に乱れた。ズン、という低い振動と共に、白い影が四方から這い寄ってくる。ヒメは知る由もないが、それは坑道這いとかつて名付けられた界異。井戸中層の主たる界異だ。人間の上半身と、蜘蛛のような多節の脚を持つ異形が、壁や天井を高速で移動しながら襲いかかった。
「来るわよ!」
ヒメがバルムンクを構えるが、局所重力歪曲の影響で足元がふらつく。剣の軌道が乱れ、思うように振るえない。その隙を突いて、三体の坑道這いが同時にヒメ目がけて飛びかかった。鉤爪が空気を裂き、腐った息が顔面に吹きかかる。
刹那――既に黒瀬が動いていた。縄鏢が蛇のようにしなり、先頭の坑道這いの脚を絡め取る。重心操作と体捌き組み合わせ、敵の体重を微妙にずらしながら自らの軸で回転させ投げる。黒瀬は自らを支点に、捕らえた坑道這いを巨大な鞭のように振り回した。歪曲した重力を逆手に取り、もう一体の坑道這いを盾として叩きつける。激しい衝突音が井戸に響き、二体がもつれ合って動きを止めた。
その隙に、黒瀬は掌を密着させ、直接大量の瘴気を叩き込んだ。黒い瘴気が敵の体内に直接注入され、白い肉体が内側から腐敗・崩壊していく。断末魔の叫びが、井戸の壁に不気味に反響した。
「ヒメ、後ろです」
黒瀬の声が鋭く響く。彼女は自らを盾にし、ヒメの死角を完璧に埋めながら戦っていた。投げ、絡め、瘴気流し――塹壕格闘戦の技術が、狭い井戸の中で最大限に発揮される。ジークフリートの伝説になぞらえた絶対防御を持つヒメだが、その背の一部分のみは加護が及ばない。ヒメは一瞬息を飲み、すぐに笑顔を取り戻した。
「ありがと、落とし屋さん!」
彼女は重力の歪みを読みながら、加護を全力で集中させた。バルムンクが銀色の光を爆発的に放ち、斜め袈裟の一閃を繰り出す。歪曲した重力の中で軌道を補正し、二体の坑道這いを同時に薙ぎ払った。加護の輝きが腐敗した肉を蒸発させ、白い体液が壁に飛び散る。
しかし、重力歪曲はさらに激しくなり、井戸全体が上下逆さまになったかのような錯覚に襲われ、バランスを崩しかけると、その瞬間を伸ばさずに残りの坑道這いが天井から一斉に落下してきた。
それを読んでいた黒瀬が再び前に出る。彼女は縄鏢を多方向に展開し、敵の脚を次々と絡め取りながら、ヒメの背中を守る位置を絶対に崩さない。投げ飛ばした一体を盾に使い、もう一体の攻撃を受け流し、隙を見て直接打撃からの瘴気で内部を破壊する。
二人の連携は、刻一刻と深まっていった。黒瀬の冷徹で精密な索敵と援護、そしてヒメの豪快で強力な加護攻撃が、歪んだ重力の中で完璧に噛み合う。互いの呼吸が重なり、言葉は少なくとも、動きだけで意志が通じ合っていく。最後の坑道這いが、澄の縄鏢に絡め取られ、ヒメの銀光の一撃によって頭部から真っ二つに斬り裂かれた瞬間—— 井戸の中層に、再び重い静寂が訪れた。
ヒメは息を弾ませながら剣を下ろし、黒瀬を振り返った。彼女の瞳には、感謝と、ますます強まる好奇心が宿っていた。
「……本当に、ただの民間祓魔師じゃないよね、あなた」
黒瀬はコートの埃を払い、短く答える。
「強さこそ祓魔師が故ですから」
しかしその言葉の裏に、わずかながら、二人の間に芽生えた信頼の兆しがあった。 中層の闇は、まだ二人の行く手を阻もうと、静かに胎動を続けていた。