中層を抜けた先、井戸はさらに深く、暗く、歪んでいった。 灯の光が届く範囲は狭くなり、壁面は古い煉瓦から黒く変色した岩肌へと変わっていた。空気は重く粘つくように肺に絡みつき、呼吸をするたびに胸の奥がざわつく。耳の奥で響く落ち続ける音は、もはや幻聴ではなく、井戸そのものが発する脈動のように感じられた。
ヒメは額に浮かぶ汗を拭いながら、前を行く黒瀬の背中を見つめていた。
「……ねえ、黒瀬さん。この井戸、どこまで続いてるの?」
黒瀬は答えず、縄鏢を軽く振りながら周囲を警戒し続ける。周囲に電磁波のように微細な霊気を放出し、闇の奥の気配を捉え続けていた。やがて、井戸の通路がやや広がった場所で二人は足を止めた。
そこには、十三の影があった。旧帝国陸軍の軍服を着た、半透明の人間の姿。十三体すべてが同じ顔を持ち、同じ虚ろな目でこちらを見ている。体はところどころ欠け、脚の先は闇に溶け込んでいる。彼らはゆっくりと宙に浮かび、井戸の壁に張り付くようにして佇んでいた。
「蓋を……開けろ……」
古い軍服を纏ったそれらは、半透明の体をゆらめかせながら、虚ろな目で二人を見つめていた。声は井戸の壁全体に反響し、まるで十三の口が同時に語っているかのようだった。
「開けろ……開けろ……開けろ……」
ヒメの背筋に冷たいものが走った。好奇心が一瞬で恐怖に塗り替えられる。次の瞬間、井戸全体の重力が逆転した――逆さまの落下。 ヒメの体が突然、天井に向かって引き寄せられた。足が浮き、視界が一瞬で反転する。バルムンクが手から離れかける。
「きゃあっ!?」
彼女は必死に剣の柄を握りしめたが、体が急速に上へと落ちていく。底の見えない闇が、彼女を貪欲に飲み込もうとしていた。その刹那――黒瀬澄の縄鏢が、鞭のように高速で伸びた。 縄は正確にヒメの腰に絡みつき、強引に引き戻す。澄は壁に足を突き刺すように固定し、自らの体重と重心操作を駆使してヒメの体を支えた。縄が軋む音が響き、ヒメの体が地面に叩きつけられるように戻される。 ヒメが地面に着地した瞬間、黒瀬の声が初めて感情を露わにした。嫌悪。
「……特殊個体十三残響を確認」
低く、冷たく、しかし明らかに抑えきれない怒りを孕んだ声だった。十三の残響たちが同時に笑った。歪んだ、裂けるような笑い声が井戸に木霊する。
「落ちろ……落ちろ……共に、永遠に……」
重力歪曲がさらに激しくなり、井戸全体が回転するような錯覚に襲われる。十三残響が一斉に動き出し、腐敗した腕を伸ばして二人に襲いかかってきた。
迎撃態勢を取っていた黒瀬が即座に反応。界異が飛び掛かってくる際の強大なエネルギーを、指先の微かな回転だけで前方へと逃がす。支えを失った体は、自身の怪力によって前方へつんのめり、黒瀬のすぐ横を無様に通り過ぎる。すれ違いざま、つんのめった敵の襟首を掴み、その倒れる勢いを殺さずに、後方から迫る二体目へと誘導した。
一体目の躯が二体目の足元に激突する。二体目は不意を突かれ、バランスを崩してよろめく。倒れゆく二体目の肩に手をかけ、その沈み込む力を利用して自身は軽やかに跳躍。空中で三体目の顔面に呪符を縫い込んだブーツを叩き込む。
三体目の頭部が跳ね上がり、重心が後ろへ大きく傾く。黒瀬は着地と同時に、着地の姿勢のまま片足を延ばし回転、三体目の足首を刈り取った。仰向けに倒れる三体目の背中が、四体目、五体目の進路を物理的に塞ぐ障壁へと変わる。半透明の体がぶつかり合う不気味な音が響く中、黒瀬は孤立した個体に逆襲。
臆せず界異の懐に潜り込むと、右手で相手の奥襟を、左手で袖口を掴む。掴んだ瞬間、彼女の指先は敵の関節の遊びを完全に殺し、相手の体幹と自分の骨格を、鋼の支柱で繋いだかのように直結させた。
黒瀬は自身の体重を、後方へわずかに預ける。それだけで、界異の重心は、黒瀬のつま先一点を支点にして、前方へ激しく投げ出される。足が地を離れ、界異の身体が浮いた――その刹那。
彼女の右足が、跳ね上がる馬の脚のごとき鋭さで、敵の軸足を内側から刈り上げた。
空中で完全にバランスを失い、上下が逆転。そこへ、黒瀬は自身の全身の回転エネルギーを、一点の淀みもなく注ぎ込む。
「墜ちなさい」
彼女は自身の背中を支点に、円を描くように敵を振り回した。遠心力、重力、そして界異自身のエネルギー。そのすべてが、黒瀬の小さな背中で増幅され、一本の嵐となって爆発する。異形の体は、まるで紙細工のように頭部からコンクリートの床へと叩きつけられた。
――ドォォォォンッ!
重い衝撃音が坑道に木霊し、床にクモの巣状の亀裂が走る。頭蓋が砕け、首が異常な方向に曲がった怪物は、痙攣することさえ許されず、即座に泥のような沈黙へと変わった。黒瀬は乱れた髪を払うこともせず、ただ静かに手を離す。通常の打撃は界異には通用しないが、結界内であれば話は別だった。
残響たちは怯まず重力の歪曲を利用して天井や壁を這い回り、死角から二人を狙う。
「後ろよ!」
ヒメが叫びながらバルムンクを振り回す。加護の銀光が弧を描き、二体の残響を薙ぎ払うが、界異達の放つ重力の乱れで剣の威力が分散してしまう。
その隙を突いて、三体の残響が同時にヒメに殺到した。腐った指が彼女の喉元を掻き切ろうとするが、再演術式により龍殺しの英雄、ジークフリートの相を帯びているヒメには、背後からの攻撃以外は全て弾かれる。そのまま組み伏せようとする残響たちだが、黒瀬が横から滑り込み、縄鏢を高速回転させながら敵の攻撃を絡め取り、投げ飛ばす。彼女の動きは冷徹で容赦なく、完全な乱戦中にも関わらず用意に敵の包囲攻撃を阻止していた。
「もう十分でしょう」
黒瀬の声が低く響く中、戦闘の趨勢が祓魔師に傾く。その隙を見逃さず積極的攻勢に転進。手当たり次第に投げ、払い、打ち崩した。半透明の残響たちが次々と絡め取られ、内部から黒い瘴気で崩されていく。
ヒメもすぐに攻勢に転進、加護を集中させた強力な一撃を放つ。バルムンクの刃が銀色の光を爆発させ、重力歪曲の中で軌道を補正しながら残響の群れを切り裂いた。余裕が産まれ、加護障壁を隆起させ、相手の位置を調整しながら黒瀬をサポートする。
二人の連携は、刻一刻と深まっていった。黒瀬の精密で冷徹な援護と、ヒメの豪快で強力な加護攻撃と器用な結界の応用が、歪んだ空間の中で完璧に噛み合う。互いの呼吸が重なり、言葉は少なくとも、動きだけで意志が通じ合っていく。最後の残響が黒瀬の縄鏢に絡め取られ、ヒメの銀光の一撃によって頭部から真っ二つに斬り裂かれた瞬間――井戸の中層に再び重い静寂が訪れた。
ヒメは息を弾ませながら剣を下ろし、黒瀬を振り返った。彼女の瞳には、感謝と、ますます強まる好奇心、そしてわずかな畏怖が宿っていた。
「……本当に、ただの民間祓魔師じゃないよね、あなた」
黒瀬澄はコートの埃を払い、無表情のまま短く答える。
「……只の祓魔師などというものは居ません」
その声はいつも通り冷たく淡々としていたが、ヒメは見逃さなかった。紅紫の瞳の奥に、ほんのわずかながら、ヒメを認める光が宿っていることに。ヒメにとって初めて背中を預けられる相手に、精神が高揚するのを感じていた。
しかし、十三の残響が消えた後も、井戸の深部からは依然として重苦しい気配が這い上がってくる。より濃密な瘴気と、底知れぬ落ちていくの感覚が二人の足元を掴もうとしていた。黒瀬は縄鏢を巻き戻し、静かに前を向いた。
「……まだ、この境界異常は序の口です。深層に行けば、さらに酷くなるでしょう」
ヒメは剣を肩に担ぎ直し、強がるように笑った。
「ふふん、楽しみね。底の闇がどんな顔をしてるか……この天才美少女が、しっかり見てきてあげるわ」
深層へと続く闇は、まだ二人の行く手を阻もうと、静かに、貪欲に胎動を続けていた。