サイレントエチュード   作:P-PEN

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五章 天才と鴉

 

 

 

 深層へ降りるにつれ、井戸を吹き抜ける風は脈動へと変わっていた。壁は黒く湿った岩肌を剥き出しにし、ところどころで白い肉のような粘膜が蠢いている。空気は粘つく羊水めいた感触で、吸うたびに肺の奥が重くなる。非常灯の赤い残光すら届かなくなり、二人が頼るのは小型タクティカルライトと、ヒメのバルムンクが放つ微かな加護の輝きだけだった。

 

 「……ここ、生きてるみたい」

 

 ヒメが小さく呟いた。声は湿った闇に吸い込まれ、すぐに歪んだ反響となって返ってくる。黒瀬は無言で前を進む。常と変わらぬ様子で、紅紫の瞳が闇の奥を穿つ。ただ、彼女の背中はいつもよりわずかに緊張を帯びているようにヒメには見えた。

 

 突然、井戸全体が低く震えた。ゴ……ゴゴ……ゴゴゴ……それは胎動だった。底の見えない闇の奥で、何かが目覚めようとしていた。

 

 「っ……!」

 

 ヒメの瞳が大きく見開かれた。次の瞬間、彼女の足元から白い粘液が噴き上がり、壁面全体が波打った。無数の白い蠕虫が結合し、融合し、巨大な肉の塊を形成していく——多重白蠕の胎動融合体。白ヒルの群れが溶け合い、数十の人間の断片……顔、腕、指が表面に浮き沈みする、巨大な白い肉塊。眼窩のない顔がいくつも浮かび上がり、すべてが同じ言葉を繰り返す。

 

「生きたい……」

 

「生きていたい……」

 

「もう、落ちたくない……」

 

 今まで遭遇した事の無い程の極大の精神汚染の波が、直接脳髄を掻き毟るように襲ってきた。ヒメの呼吸が乱れた。天才的な頭脳が一瞬で反転する。皮肉な事に、彼女の自己肯定が、汚染によって極限まで増幅された。

 

 ――私は生きていたい。

 ――私を愛してくれた人たちのために、私は生き続けなければならない。

 ――邪魔する者は、すべて排除しなければ。

 

 「ふ……ふふ……」

 

 ヒメの唇が歪んだ。いつもの明るい笑みとは違う、狂気じみた微笑み。

 

 「……私、生きていたい……!」

 

 彼女はバルムンクを構え直した。銀色の刃が加護の光を爆発的に放つ。重装狩衣の裾が翻り、小柄な体躯が低く沈む。

 

 「邪魔よ、黒瀬さん……私が生きるために、貴方は死んで」

 

 その言葉とともに、ヒメは突進した。銀色の閃光が狭い通路を切り裂く。バルムンクの次元刃が、容赦なく黒瀬の首を狙って振り下ろされる。英雄再演の出力は最大。ジークフリートの加護が、彼女の小さな身体に神話級の力を与えていた。

 

 黒瀬澄は動かなかった。猶予は無い、今回避に時間を費やすればヒメは完全に融合体に呑み込まれる可能性があった。自我を失い、白蠕の一部となって永遠に落ち続ける。

 

 「……まだ、貴方を失うわけにはいかない」

 

 刹那の時間で紅紫の瞳から迷いが消えた。彼女は自らの影に右手を差し入れる。影が裂け、無から――あるいは彼女の内なる深淵から――悍ましくも美しい巨大な剣が具現化した。

 

 鴉神剣。青い光を宿した刃身に複雑な幾何学模様が浮かび上がり、内部で青いオーブが脈動する。凍てつく青い炎のようなエネルギーが刃全体を包んでいた。

 

 澄んだ音を立てて。鴉神剣がバルムンクを受け止めた。火花と加護と瘴気が激しく爆ぜ、井戸の壁を震わせる。二人の小柄な少女が、巨大な二振りの剣を交えて激突した。

 

 ヒメの攻撃は狂暴だった。汚染された生存本能が、彼女の天才的な戦闘センスを純粋な殺意へと変換している。黒瀬は鍔迫り合いの状態から上手く力を逃がし、剣を交えたままヒメの体を抱き寄せるような体勢に移行した。ヒメは力を想わぬ方向に逃された事でバランスが崩れ、黒瀬の首を浅く切り裂きながら胸に飛び込む形となっていく。

 

 「——っ!」

 

 抱きしめる様に正面から拘束した黒瀬の腕の中で、鴉神剣の青い炎が、精密に制御された外科手術のようにヒメの体を走る。融合体とヒメを繋ぐ瘴気の糸を、一本一本、丁寧に焼き切り、断ち切っていく。ヒメの瞳が激しく揺れた。狂気の笑みが徐々に苦痛と混乱に変わる。

 

 「私は……生きなきゃ……!私は……??」

 

 急速に正気を取り戻し、力を失いつつあるヒメの身体の拘束を解き、黒瀬 澄(九鬼 儚)は鴉神剣を一閃。黒鴉の幻影が無数に舞い上がり、多重白蠕の肉塊を包み込んだ。シアン色の光が白い蠕体を浄化し、融合体の核を内側から焼き払う。

 

 「常世送りの剣」

 

 黒不浄に匹敵する超凝縮瘴気、常世の光が深く突き刺さり、融合体全体が痙攣した。無数の白い顔が同時に絶叫を上げ、肉塊が崩れ落ち、黒い瘴気となって蒸発していく。やがて、井戸に再び重い静寂が訪れた。

 

 ヒメは膝をつき、バルムンクを支えに荒い息を吐いていた。汚染が解け、彼女の瞳に理性が戻ってくる。額に汗が滴り、唇が震えていた。

 

 「……私が、弱かった……」

 

 彼女はゆっくりと顔を上げ黒瀬を見つめた。紅紫の瞳が、いつもの無表情で自分を見下ろしている。

 

 「本当の貴方、教えて。黒瀬さん……あなたは一体、何なの? ただの民間祓魔師なんかじゃないんでしょう?」

 

 必死の問いかけだった。朦朧とした意識ではあったがヒメはある程度状況理解していた。今遭遇した界異は初見殺しに等しい能力を持つ強大な界異であり、それに対応できなかった自分と、対応できた黒瀬。プライドを傷つけられただけではない、仲間である黒瀬の首に残る自らが記した傷。何もかもが納得できなかった。もし、心身が万全だったのなら恥も外聞もなく泣きわめいて駄々をこねていたかもしれない。

 

 黒瀬は鴉神剣を静かに影へと収めた。青い光が消え、彼女の姿は再び黒いコートの影に溶け込む。包沈黙。長い、底知れぬ沈黙だけが返ってきた。その静寂は言葉以上に重かった。ヒメは唇を噛み、ゆっくりと立ち上がった。

 

 「……わかった。まだ、私には聞く資格が無いんだね」

 

 彼女は無理に笑顔を作ろうとしたが、うまくできなかった。黒瀬はただ短く息を吐き、バルムンクで出来た傷に包帯を巻いて止血を終わらせると、再び井戸の深層へと視線を向けた。

 

 「……少し先には緊急避難所があります。そこで少し休息をとりましょう」

 

 二人の影が、再び闇の奥へと進んでいった。銀と黒、英雄と鴉。対照的な光が、胎動を続ける井戸の底で静かに揺れ続けていた。

 

 

 

 多重融合体を祓滅した後、二人は井戸の中層に打ち捨てられた緊急退避所で休息を取る事にした。コンクリートの壁は冷たく湿り、天井からは絶え間なく地下水の雫が落ちては、微かな音を立てている。ヒメは壁に背を預け、膝を抱えるように座っていた。息はまだ少し乱れ、額には汗が浮かんでいる。彼女は珍しく、いつもの明るい笑顔を浮かべていなかった。長い沈黙の後、ヒメがぽつりと呟いた。

 

 「……ねえ、黒瀬さん。変なこと言ってもいい?」

 

 ヒメの声は、いつもの傲慢なまでの自信を剥ぎ取られたように、ひどく頼りなく響いた。

彼女は膝を抱え、闇の奥を見つめたまま続ける。

 

 「私ね……昔、疫病神って呼ばれたことがあるの。私が何かすればするほど、周囲の均衡が崩れて、誰かが不幸になる。私がいる場所に、安穏な日常なんて残らない……だから、みんな最後には私の前からいなくなる」

 

 その言葉は、地下の冷気に触れて、白く震えて消えた“天才”という光り輝く称号の裏側に隠された、たった一人の少女としての、癒えない傷。

 

 黒瀬は向かいの壁に寄りかかったまま、無言で耳を傾けていた。ヒメは自嘲するように小さく笑った。 

 

「境対に入ったばかりの頃ね、すごく頑張ってたの。天才だからって、周りから期待されて……でも、結果的に私が組んだ班はいつも被害が大きくなった。作戦中に突然界異の増幅が起きたり、加護の出力が暴走して仲間が負傷したり……」

 

 「でもね。そんな私を拾って、徹底的に甘やかした馬鹿な大人たちがいたのよ。『ヒメは息をしてるだけで天才!』『歩くだけで偉い!』なんて、何をやっても手放しで褒めちぎるの。あんなの、まともな教育じゃないわよね」

 

 くすくすと笑いながら、ヒメは自分の手を握りしめた。

 

 「でも、そのおかげで分かっちゃったの。世界が私をどう呼ぼうと、私は私を信じていいんだって……だから私、自分が大好きなのよ。誰に何を言われても、私の価値は私が決める。それが私を育ててくれた人たちへの、唯一の恩返しだから」

 

 暗闇の中で、ヒメの瞳は確かな光を宿していた。かつての孤独を塗りつぶすほどの、過剰なまでの肯定と称賛。それが彼女の『光(バルムンク)』を支える、底なしのエネルギー源なのだ。

 

 狭い井戸の中で、彼女の告白はひどく儚く響いた。静かに聞いていた黒瀬の紅紫の瞳が、灯の光に静かに揺れる。九鬼一族という祓魔師としての家系に育ち、称賛も甘やかしも知らずに、ただ役目のみを強いられてきた黒瀬にとって、それは異世界の物語のように聞こえた。長い沈黙の後、黒瀬ははっきりとした声で言った。

 

 「……貴方が何を背負い、誰に何を言われてきたとしても、どう立ち直ったとしても、私には関係のないこと」

 

 ヒメがゆっくりと顔を上げた。黒瀬は淡々といつもの様に続けた。

 

 「ただ、貴方が祓魔師として戦う時、私はいつもそこにいるわ」

 

 その言葉は飾り気もなく、ただ事実を述べるかのように静かだった。ヒメは一瞬、目を丸くした後、くすくすと笑い出した。笑いながらも、子供扱いせず真摯に真正面から自分を受け入れてくれたこと、その事実に目頭が熱くなるのを抑えきれなかった。

 

 「……何それ、プロポーズ?」

 

 彼女はいつもの調子で明るくはぐらかしたが、声の端がわずかに震えていた。黒瀬は表情を変えなかったが、唇の端がほんの少しだけ緩んだように見えた。

 

 「……プロポーズ。天才祓魔師さんは、非生産的な解釈がお好きですね」

 

 ヒメは直感的に察知した。黒瀬がわざわざ自分の冗談に乗ってみせ、その上で一歩踏み込んできたこと。それがどれほど、この無感情な祓魔師にとって異例の譲歩であるかを。

 

 「ああもう、可愛くない! ほんっとに可愛くないわね、黒瀬さんは!」

 

 ヒメは膝を抱えたまま、くすくすと笑い続けた。ある種異常な状況なのは理解している、交戦する界異の強さが上がるにつれ、黒瀬という民間祓魔師は明らかに手練れ過ぎた。黒瀬もヒメも同じ“怪物”故にこうして轡を並べて戦う事が出来ているだけだ。それでも狭い井戸の底で、お互いの間に静かな、しかし確かに温かなものが生まれているのを感じていた。

 

 黒瀬は立ち上がり、注連鋼を回収し結界を解除。

 

 「……いくのね」

 

 ヒメも立ち上がりバルムンクを握り直した。瞳には再び、闘志と決意の光が宿っていた。黒瀬がそれを確認しながら頷いた。

 

 「ええ、行きましょう。底の闇がどんな顔してるか……二人で見届けてあげましょう」

 

 

 

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