最深部へと到達した瞬間、二人は底という概念がすでに崩壊していることを知った。
そこは空間が極限まで歪曲した境界異常領域。上下左右の区別が失われ、すべてが黒く脈打つ霧に覆われている。時間すらねじれ、息を吸うたびに永遠の落下感が脳髄を蝕む。落ち続けた者たちの絶望と苦痛が、濃密な瘴気となって空気そのものを淀ませていた。今踏みしめている足場すら、次の瞬間には消え失せているかもしれない頼りなさがあった。
「……ここが、本当の底なの……?」
Ⅳ号級との遭遇経験があるはずのヒメの声がかすかに掠れていた。バルムンクを握る小さな手が汗と緊張で滑りそうになる。黒瀬は縄鏢を低く構え、紅紫の瞳を細めた。黒いコートの裾が粘つく体液に濡れ、小柄な体躯が静かな殺気を纏っている。
ドクン……ドクン……ドクン……!
井戸全体が、巨大な子宮のように胎動した。
「……あれ……」
ヒメの声が、かすかに震えた。闇の中心に、何かが浮かび上がっていた。最初はただの白い影だった。だが影はゆっくりと膨張し、胎児のような輪郭を帯びていく。巨大な――全長十メートルは優に超える、歪んだ胎児の姿。
ヒメは知る由もないが、黒瀬が知るそれの名は十三の胎児。
その体表は生々しく脈打つ肉で覆われ、無数の人間の顔が、まるで水面下から浮かび上がるように現れては沈んでいった。すべてが苦痛に歪み、目を見開き、口を大きく開けて叫んでいる。無音の絶叫が瘴気となって周囲に広がる。腹部の中央には、特に大きな十三の瘤が浮き出ていた。それぞれの瘤に、異なる人間の顔が刻まれている。昭和十九年にこの井戸に投げ込まれた、十三名の被験者たちの顔だった。彼らは今も落ち続け、狂い続け、互いを貪り合いながら一つの存在へと溶け合っていた。頭部らしき部分は未だ胎児のように丸く、眼も鼻もはっきりしない。ただ、腹部の十三の瘤だけが、爛々と赤黒く輝いている。
その周囲を三体の井底ノ者が護るように出現した。体長二メートルを超える肥大化した白蠕。硬質化した皮膚と、コンクリートを抉る鉤爪。頭部の蜂の巣状の小穴からは常世の瘴気が白い霧となって噴出し続け、眼窩の薄い膜越しに落ち続けている目が無数に覗いている。
「まだ……落ちている……」
空間歪曲が発動した。ヒメの距離感が一瞬で狂う。黒瀬がすぐ傍にいるはずが、突然数十メートル離れた場所に引き伸ばされ、次の瞬間には井底ノ者の鉤爪が眼前に迫る。
「っ……!」
ヒメがバルムンクを横薙ぎに振り、英雄再演の銀光を爆発させた。加護の刃が井底ノ者の硬質皮膚を深く抉るが、再生が異常に速い。頭部小穴から噴き出す瘴気霧が、ヒメの精神を直接侵食していく。
――私は生きていたい。
――私を愛してくれた人たちのために、私は……。
「って、舐めるんじゃないわよ!二度も同じ手が天才美少女祓魔師に通用すると思ってるの?」
強力な霊的な精神汚染は英雄の再演を貫通するが、今のヒメはそれを十分な余裕をもって抵抗で来ていた。
それを横目に黒瀬は低く沈んだ姿勢から一瞬で間合いを詰め、先頭の井底ノ者へ滑り込む。縄鏢が蛇のように伸び、巨体の脚を絡め取り、タコ足で足首を完全ロック。山嵐の超高速版で重心を奪い、そのまま肉壁へと叩きつけた。
ドゴォォォンッ!!
硬質皮膚が砕け、白い体液が噴き出す。黒瀬は即座に掌を皮膚の亀裂に押し当て、大量の穢れを叩き込んだ。内側から黒い瘴気が爆発し、井底ノ者の巨体が内破する。
残る二体が同時に瘴気霧を高濃度で噴射。空間歪曲がさらに強まり、ヒメの動きがわずかに遅れる。
「黒瀬さん、後ろ!」
ヒメの警告に、黒瀬は即座に反応。縄鏢を多方向へ展開して足場に楔を打ち込み、自身の位置を固定しながら後方へ跳躍。迫り来る井底ノ者の鉤爪を紙一重でかわし、一体をに捕らえ肉の盾とする。固定した井底ノ者をそのまま武器に、もう一体へ叩きつける。
激しい肉の衝突音が響く中、黒瀬は盾にした個体の脚をさらにロックしたまま回転――受け身を完全に封じた状態で肉壁へ叩き落とした。
「落ちろ」
全衝撃が井底ノ者の背骨と内臓に集中し、硬質皮膚の内側が肉を裂くような悲鳴を上げた。受け身を完全に封じられた巨体は、空中で無様に回転しながら肉壁へと叩きつけられる。激しい衝撃音と共に白い体液が噴水のように飛び散り、井底ノ者の硬質外殻に無数の亀裂が走った。
その開いた間隙を、ヒメが完全に読み切っていた。
「今よ——!」
小柄な体躯から放たれるとは思えない豪快な踏み込み。バルムンクが銀色の軌跡を描きながら全力で振り下ろされる。英雄再演の加護が爆発的に輝き、井底ノ者たちの頭部を狙って薙ぎ払った。加護の銀光が薄膜越しの無数の目を直撃し、空間歪曲を強引に乱す。眼を焼かれた井底ノ者たちが苦悶の叫びを上げ、歪曲フィールドが一瞬で揺らぎ、井戸内の重力が不安定に崩れた。
「界異大型から反撃がきます!」
黒瀬が短く、しかし力強く声を飛ばす。彼女は即座に縄鏢を多方向へ射出、肉壁と天井に何十本もの楔を打ち込んで足場を固定。蜘蛛の巣の如く空中に足場を作り疾走。残った二体の井底ノ者を同時に捉えにかかった。
井戸全体が子宮のように激しく収縮し、十三の瘤が赤黒く脈打つ。胎児の無数の口が同時に哄笑を上げ、莫大な瘴気が津波のように二人を襲った。空間歪曲が頂点に達し、時間すら引き伸ばされる。その瞬間ヒメの動きがわずかに遅れた。
井底ノ者の鉤爪が彼女の死角——背中の、加護が届かないほんの一部分を正確に捉える。ジークフリートの伝説と同じ、英雄の唯一の弱点。
「っ……あ……!」
鋭い痛みがヒメの背中を走る。重装狩衣の隙間から鮮血が噴き出し、彼女の小さな背中を赤く染めた。英雄再演の加護が、背中の一箇所だけを完全に守りきれなかったのだ。致命傷を肩代わりした証として、一枚の形代紙が焼け落ちていった。ほぼ同時に、別の井底ノ者が黒瀬の黒いコートを大きく引き裂き、胸から腹にかけて浅い裂傷を刻んだ。血の臭いが瘴気と混じり、井戸の胎動をさらに加速させる。
十三の胎児本体の胎動が激しくなり、残った井底ノ者たちをさらに融合・強化し始めた。空間歪曲と瘴気噴出が頂点に達し、井戸全体が二人を永遠の落下へと引きずり込もうとする。瀬は冷静に周囲の状況を確認しながら口を開いた。
「損傷は軽微。ヒメ、やれますか?」
形代紙が消費されているなら軽傷である、という顔だった。形代紙が肩代わりしてくれるのは致命傷だけだ。しかし、ヒメは傷ついた肩を押さえながらそれでも笑った。痛みに歪んだ顔で、それでも天才美少女らしい意地と輝きを瞳に宿して。
「ふふ……私もよ。落とし屋さん一人に、全部やらせたりしないわ……!」
銀色の英雄と黒い影は、最深部の激しい胎動の中で固く背中を預け合った。十三の胎児が、無数の口を開けて哄笑するように全身を歪ませた。腹部の十三の瘤が一斉にこちらを向き、井戸そのものが貪欲に脈打ち、二人の小さな存在を永遠の落下の底へと飲み込もうとしていた。
胎動はさらに激しく、狂おしくなり——井戸は今、まさに本当の「怪物」として目覚めようとしていた。