サイレントエチュード   作:P-PEN

7 / 8
常世迎えの剣

 

 

 

 十三の胎児の胎動が頂点に達した。井戸全体が激しく収縮し、無数の口が哄笑を上げ続ける。空間は極限まで歪曲し、時間さえ溶け始めていた。

 

 ヒメの背中から流れる血が、粘つく床に赤い筋を描く。黒瀬のコートも大きく裂けていたが、滴っていた鮮血はいつの間にか止まっていたが、派手に出血したまま動き回ったせいか顔面が蒼白になっている。それでも、二人は背中を預け合ったまま立っていた。

 

 「……もう、時間がない」

 

 黒瀬が静かに呟いた。十三の胎児が腹部の十三の瘤をすべてこちらに向け、最大出力の瘴気霧を噴き出す。同時に井底ノ者たちが融合を加速させ、三体が一つの巨大な肉の壁となって二人に迫った。このままでは、永遠の落下に飲み込まれる。黒瀬は縄鏢を握る手に力を込めた。布石は既に打っていた。

 

 「……ここで、終わらせます」 

 

 彼女は一瞬で動き出した。袖口から、次々と予備の縄鏢を射出する。黄金の残光を帯びた高強度ワイヤーが、肉壁、天井、肉膜の隙間、露出した古い鉄筋——井戸のありとあらゆる構造物に楔となって突き刺さった。蜘蛛が巣を張るように。無数のワイヤーが交差し、瞬く間に複雑な網を形成していく。

 

 「黒瀬さん……!?」

 

 ヒメが驚愕の声を上げた。彼女は背中の痛みを堪え、バルムンクを構えて黒瀬の死角を守る。銀色の加護を最大限に展開し、十三の胎児の瘴気霧を押し返した。張り巡らされたワイヤーに井底ノ者たちが絡まり停止、その衝撃で引き抜かれた縄鏢が反作用で跳ね返り、界異たちにポーラのように巻き付いた。

 

 「――蜘蛛柩」

 

 その瞬間、井戸全体が彼女の支配下に置かれた。縄鏢の網が一斉に張力を増し、井戸の構造物を巨大な滑車システムへと変換する。物理法則と呪術が融合した、彼女だけが成し得る「投げ」の術式。十三の胎児が初めて、動揺したように胎動を乱した。“落とす”という行為は呪詛として彼らに対して最も有効な符合だった。

 

 「落ち……る……?」

 

 「底が……ある……?」

 

 黒瀬は自らの体を支点に、すべてのワイヤーに加護を流し込んだ。彼女の小さな身体が、井戸全体の力を一身に受け止める。ワイヤーを握る黒瀬の手から鮮血が滴っていた。

 

 「貴方たちを、解放して差し上げましょう。ただし――」

 

 縄鏢の網が収縮する。

 

 「――行先は現世ではありません。底の彼方まで、落としてあげましょう」

 

 ドゴォォォォォンッ!!

 

 井戸全体が激しく軋んだ。黒瀬の重心操作と縄鏢の滑車システムが、十三の胎児の巨体を強制的に「投げ落とす」。空間歪曲が逆転した。胎児が自ら作り出した永遠の落下の概念が、黒瀬の術式によって文字通り底へ叩き落とされる形に反転する。

 

 十三の胎児は苦痛と混乱の絶叫を上げながら、自身の歪曲フィールドに引きずられ、井戸の最深部へと落下していった。ヒメは即座に動いた。

 

 「私も……全力でいくわ!」

 

 バルムンクを高く掲げ、英雄再演を最大出力で展開。ジークフリートの加護の光が井戸を銀色に染め、十三の胎児の目を焼き、空間歪曲をさらに崩壊させる。彼女は黒瀬の背中を守りながら、落下する胎児に向かって銀色の斬撃の波を放ち続けた。互いの命を預け合う、完全な連携。

 

 黒瀬の蜘蛛の柩と、ヒメの英雄の光が一つになり、井戸の最深部を銀と黒の光で満たした。十三の胎児の巨体が、底知れぬ闇の底へと落ちていく。無数の顔が絶叫し、十三の瘤が次々と砕け散った。

 

 「……やったわ!黒瀬さん!!」

 

 ヒメが息を切らしながら笑った。黒瀬は縄鏢をゆっくり巻き戻し、静かに息を吐いた。紅紫の瞳には、わずかな疲労の色が浮かんでいたが、その表情は相変わらず冷たく、凛としていた。

 

 「……まだ、終わっていません」

 

 彼女は十三の胎児が落ちた先を静かに見つめた。井戸の胎動は弱まりつつも、まだ完全に止まってはいなかった。最後の抵抗が、底の闇から這い上がろうとしていた。井戸の底から無数の腕のような肉の触手が這い上がり、空間を掻き毟る。十三の瘤が赤黒く脈打ち、絶叫が井戸全体を震わせた。永遠の落下から強制的に引きずり出された怨念は、徐々に再びそこから這い上がろうとしていた。

 

 ヒメは背中の傷から血を流しながら、それでもバルムンクを構えていた。顔は蒼白で息も荒い。以下に才覚が有ろうと、此処までの高位界異との連続戦闘は新人祓魔師のキャパシティを明らかに超えていた。

 

 「まだ……終わってないの!?」

 

 黒瀬澄は血に濡れた縄鏢を巻き戻し、ゆっくりと一歩を踏み出した。

 

 「……ここで、終わらせます」

 

 黒瀬は血に濡れた右手を、ゆっくりと自らの影へと差し入れた。その瞬間、周囲の空気が変わった。井戸の底で脈打っていた胎動が、一瞬だけ——凍りついたように止まる。

 

 影が裂けた。

 

 裂け目から、翠玉の輝きが零れ落ちる。深く、神秘的で、決してこの世のものとは思えない青緑の光。影の奥にから姿を現したのは偉業の鴉神剣、その機関部にはエメラルドタブレット(オリジン)、禁断の秘密を封じ込めた、悍ましくも美しい翡翠の石板だった。

 

 その石板を中心に、シアン色の刃が形を成していく。鴉神剣。刃身は夜よりも深い黒に、複雑極まりない幾何学模様が青く浮かび上がる。機関部に埋め込まれた翡翠の大僧正(オリジン)が、慈悲の表情を見せ脈動し、凍てつく青い炎のようなエネルギーが刀身全体を包み込んだ。

 

 その光景は、幻想的ですらあった。井戸の暗黒の中で、ただ一点——翡翠の輝きだけが神々しく瞬いている。黒瀬の小さな手が剣を握った瞬間、彼女の長い黒髪が風もないのにゆっくりと浮き上がり、紅紫の瞳が、まるで別の存在になったかのように輝いた。

 

 背後に、黒と金の巨大な門が静かに顕現する。無数の勾玉が蠢き、冥府の蒼い光が零れ落ちる。黒瀬――九鬼儚は、鴉神剣をゆっくりと構えた。刃がわずかに傾くだけで、井戸の空間そのものが歪み、常世の冷気が流れ込んでくる。

 

 「常世国に神留り坐す——大親鴉大神、八咫鴉の神力以て……」

 

 その声は、井戸の底に響き渡る鈴の音のようだった。エメラルドタブレットが強く輝き、青い光が彼女の全身を包む。黒いコートの裾が風もないのに翻り、血の匂いと瘴気の臭いの中で、彼女は冥府の門番そのものとしてそこに立っていた。壮烈な界異である十三の胎児が這い上がるのを停止し、息を凝らしていた。

 

 「……お前は……何だ……?」

 

 黒瀬は静かに微笑んだ。それは、彼女が今まで見せたことのない、冷たくも美しい笑みだった。

 

 「鴉」

 

 彼女は鴉神剣を高く掲げた。エメラルドタブレットが最大限に輝き、青い光が井戸の底を幻想的な蒼の世界に染め上げる。黒と金の装飾を施された巨大な門。門の隙間からは、星のように煌く蒼の光が流れ出す。しかしその光は、温かいものではなかった。

 

 ――冥府の光。

 

 常世の国から、死せるものたちを呼び戻す光。

 

 「熊野鴉神流大祓奥義(おおはらえおうぎ)――」

 

 門が開いた。否、井戸の底が開いた。黒い羽が嵐のように吹き荒れ、地の底に乱舞する。風の音が“羽ばたき”へと変わり、井戸の全域に深く落ちる影が広がった。

 

 「――常世迎えの剣」

 

 鴉神剣が閃光を帯びた。刃が黒と金の光を交錯させ、空間そのものを斬り裂く。井戸の底、十三の胎児が這い上がろうとした遥か奥深くから、蠢く影が流れ込んできた。それは死ではなく――“帰還”だった。

 

 八つ首の蛇に似た巨大な影。

 それぞれの首が異なる神を象徴し、

 鱗は失われた神々の祈祷符で覆われている。

 目は閉じられていたが、

 その一瞬の呼吸だけで世界が沈む。

 

 「来たれ、死せる神々よ!」

 

 儚の声が落ちた瞬間、影が目を開く。

 

 ――それは雄呂血(おろち)

 

 かつて天と地の狭間で斃れた古代の神々の残滓。

 八つ首の蛇の姿を借りて、今、罪業の井戸の底より帰還する。

 

 「■■■■■■――――!」

 

 声にならぬ咆哮が響いた。空気が震え瘴気が退く。

 十三の胎児が必死に井戸を這い上ろうとする。

 だが遅い。

 

 雄呂血の八つの眼が同時に輝いた。

 八本の首が絡み合い、凄まじい速度で天を貫くように伸び上がる。

 鱗がめくれ、その下から蒼光が溢れ出す。

 それは人が為せる祓いでも破壊でもなく――神格の裁きだった。

 

 「滅びよ」

 

 儚の呟きと共に、回避不能の神速をもって雄呂血が咬みついた。

 

 八つの顎が同時に十三の胎児を噛み砕く。井戸底のもの全てが悲鳴を上げ、瘴気が逆流する。膨れ上がった巨体が暴れ、井戸を抉るが、雄呂血は揺るぎもしない。

 

 雄呂血は容赦なく胎児を締め上げ、井戸の底の住人すべてを絡め取っていく。白蠕、井底ノ者、十三の残響——すべての怨念が、死せる神の残滓に飲み込まれていった。儚は鴉神剣を高く掲げ、最後の言葉を放った。

 

「我が魂を還す——常世の途へ」

 

 雄呂血が十三の胎児を完全に包み込み、抜けた井戸の底(冥府の門)へと引きずり込んでいく。胎児の断末魔が井戸を大きく震わせた後、すべてが静かになった。井戸の底(冥府の門)がゆっくりと閉じ、雄呂血の影が消える。残ったのは、ただの古い井戸の底だった。

 

 黒瀬澄は鴉神剣を静かに影へと収めた。エメラルドタブレットの輝きが消え、彼女は小さく息を吐いた。血に濡れた黒いコートが、わずかに揺れる。

 

 「……終わりました。念のため、封印を施しましょう」

 

 その声はいつも通り淡々としていたが、わずかに疲労の色が滲んでいた。ヒメは背中の傷を左手で強く押さえながら、壁に寄りかかって笑った。笑顔は弱々しく、額には汗と血が混じって流れている。

 

 「ふふ……本当に、終わったのね……」

 

 彼女は少し間を置いてから、紅紫の瞳をじっと見つめてきた黒瀬に、からかうような、しかしどこか真剣な声で尋ねた。

 

 「ねぇ、黒瀬さん。“本物”の祓魔師ってみんな、そんなにタフなの?」

 

 黒瀬は一瞬動きを止めた。ヒメは背中を壁に預けたまま息を整えながら続ける。

 

 「あなた……傷だらけなのに、ほとんど動きも表情変わらないし。脇腹の傷なんていつ止血してたの?さっきの剣も、門も……普通じゃないわよね。あんなの初めて見た。……ねぇ、本当に、ただの民間祓魔師なの?」

 

 黒瀬は静かに視線を逸らし歩き出した。彼女はヒメの質問に直接答えず、代わりに短く

 

 「……貴方はよく頑張りました。天才美少女の名に、恥じない働きでした」

 

 高位界異との少数での連戦を“よく頑張りました”で済ませられ、ヒメはくすっと小さく笑ったが、すぐに表情を緩めいたずらっぽく目を細めた。

 

 「ふふん、褒めても逃げられないわよ?いつか絶対に、本当のあなたを教えてよね、落とし屋さん」

 

 黒瀬は答えずに、縄鏢と注連鋼を手に取った。ヒメもよろよろと立ち上がり、バルムンクを支えにしながらその背中を追う。二人は最後に、井戸の蓋を物理的・呪術的に完全に封鎖した。古い鉄蓋に複雑な結界が刻まれ、黒瀬の加護とヒメの英雄再演の光が重なり合い、強固な封印が完成する。

 

 こうして――

 池袋を震撼させた消失事件は、人知れず終息を迎えた。

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。