夜明け前の池袋西口は、いつもより静かだった。地下街の封鎖エリアから這い上がってきた二人は、薄暗い路地裏でようやく足を止めた。街灯の淡い光が、血と瘴気にまみれた二人の姿を優しく照らしている。御伽ヒメは壁に背を預け、ゆっくりとその場に座り込んだ。背中の傷がまだ疼いている。それでも彼女は、いつものように明るく笑おうとした。
「……やったわね。私たち」
黒瀬澄は無言でその隣に立ち、夜明けの空を見上げていた。黒いコートは大きく裂けていたが、掌や左腕と腹部の傷は既に出血が止まっている。鴉神剣を収めて以来、彼女はほとんど言葉を発していなかった。やがて、ヒメが小さく息を吐く。
「黒瀬さん……あなた、本当にすごかった。最後、あの剣と門……まるで神話に出てくるみたいだったよ。私、ジークフリートを再演してるつもりだったのに、結局あなたの背中ばっかり見ていたわ」
黒瀬はゆっくりとヒメの方を向いた。紅紫の瞳に疲労と、ほんのわずかな柔らかさが浮かんでいる。
「……貴方のご協力、感謝しています」
シンプルで飾り気のない言葉だった。ヒメは目を丸くした後、くすくすと笑い出した。笑いながらも目元が少し潤んでいる。
「ふふ……珍しく褒められた。落とし屋さん、意外と素直ね」
ゆっくりと立ち上がり黒瀬に向かって右手を差し伸べる。
「今日は本当にありがとう。一人じゃ絶対に生きて帰れなかった……また、一緒に戦おうね?」
黒瀬は差し出された小さな手を、じっと見つめた。乾いた血に濡れた自分の右手をそっと重ね、静かに握り返す。
「……次はもっと楽な仕事で遭いましょう」
二人は手をしっかりと握り合った。やがて黒瀬は手を離し、いつものように静かに背を向けた。黒いコートの裾が、朝の風に軽く揺れる。
「では、私はここで」
「ちょっと待ってよ!連絡先は交換してるんだから、絶対に逃げないでよね!」
ヒメの明るい声が路地に響く。黒瀬は振り返らず片手を軽く上げて答えた。その背中は朝の光の中で影のように静かで、どこか儚げだった。やがて彼女の姿は、路地の奥に溶けるように消えていった。ヒメは一人残され、背中の痛みを堪えながら空を見上げた。朝焼けが、ゆっくりと池袋の街を染め始めている。
(何だか少しだけ貴方の事が分かった気がする)
ヒメは小さく微笑み、痛む体を引きずりながら一歩を踏み出した。
「――ヒメ」
穏やかな声が路地の入り口から響いた。振り返ると、そこに黄金の瞳の大柄な男が立っていた。特葬班班長、咎討。常に落ち着いた物腰で、戦場でも敬語を崩さない彼は、今も優しい眼差しをヒメに向けていた。重厚な狩衣を纏った巨躯が、朝の光の中で静かに佇んでいる。
「無事で何よりだ……しかし、また随分と無茶をしたみたいだね」
彼はゆっくりと近づき、ヒメを優しく見下ろした。大きな手が、ヒメの肩にそっと触れる。その動作は、まるでガラス細工を扱うかのように慎重だった。ヒメは照れくさそうに笑う。
「ド……咎討。迎えに来てくれたの?」
「当然だよ。匿名で君の事に関する通報があった時、大切な娘がどれだけ傷ついているかと思うと、気が気じゃなかった位だ」
咎討は穏やかに微笑みヒメの背中の傷を確認すると、すぐに自分の外套を脱いで彼女の肩にかけた。
「まずは治療を。無理は禁物。ヒメは天才である前に、大事な家族だからね」
ヒメは少し頰を赤らめながらも、素直に外套に包まった。
「……過保護なんだから」
「はい、過保護で結構。ヒメが無事であること以上に大切なことは、今のところ俺達にはないからね」
咎討は優しくヒメを抱きかかえるように支え、ゆっくりと歩き始めた。朝焼けが、二人の背中を温かく照らしている。銀色の英雄の物語は、まだ始まったばかりだった。