ようこそ実力至上主義の教室へ〜完全無欠の君が送る高校生活〜 作:必殺仕事人Black
昼休みの図書室は静かだった。
ただ静かなだけではない。
空気そのものが薄い布みたいに柔らかく、人の声や足音を包み込んでいる。
ページをめくる音。
遠くで椅子が引かれる音。
窓から差し込む春の光。
その全部が混ざり合って、独特の時間を作っていた。
天道真希は、窓際の席で本を読んでいた。
向かいには椎名ひより。
二人の間には小さな沈黙がある。
けれど、その沈黙は気まずくない。
むしろ心地いい。
互いに読書へ集中しながら、時折ふと視線を上げ、また本へ戻る。
そんな時間だった。
ひよりが読んでいるのは海外文学の翻訳本だった。
真希は現代ミステリ。
時折、付箋を挟む。
その横顔を、ひよりは静かに見ていた。
真希が本を読む時、少しだけ目が優しくなる。
内容を追っているだけではなく、“作者の感情”を探っている顔。
ひよりは、その表情が好きだった。
すると。
図書室の入口近くで、小さく硬質な音が響いた。
——コツ。
杖の音。
一定のリズム。
静かな図書室だからこそ、その音はよく通る。
真希が自然に顔を上げる。
ひよりも視線を向けた。
そこにいたのは、小柄な少女だった。
白い肌。
整った顔立ち。
そして、年齢不相応なほど完成された微笑。
片手に杖を持ち、ゆっくりと歩いてくる。
一年Aクラス。
坂柳有栖。
噂だけなら、既に何度も耳にしていた。
Aクラスの中心人物の一人。
天才。
観察者。
そんな言葉が似合う少女。
その坂柳が、まっすぐこちらへ向かってきている。
真希は本を閉じた。
「こんにちは」
先に声をかけてきたのは坂柳だった。
柔らかい声音。
けれど、その奥に鋭さがある。
「お隣、よろしいですか?」
「もちろん」
真希が自然に椅子を引く。
坂柳は小さく会釈し、杖を使いながら静かに腰掛けた。
その動作には慣れがあった。
日常。
つまり彼女は、この不自由さとずっと付き合ってきたのだろう。
ひよりは静かに本を閉じた。
邪魔にならないように。
けれど、会話から完全に離れないように。
そんな絶妙な距離感。
坂柳はそれを見て、ほんの少しだけ目を細めた。
「なるほど」
「?」
「いえ。とても自然なお二人だと思いまして」
ひよりが少しだけ頬を赤くする。
真希は苦笑した。
「最近、やたら言われるなそれ」
「事実ですから」
坂柳はさらりと言った。
その言葉には嫌味がない。
観察結果を述べているだけ。
そんな響きだった。
「それで」
真希が問い返す。
「Aクラスの有名人が俺たちに何の用だ?」
坂柳は小さく笑った。
「興味を持っただけですよ」
その言い方は、一之瀬や神崎とは少し違う。
もっと純粋で。
もっと危うい。
“人を観察する楽しみ”に近い響き。
「天道真希」
坂柳はその名をゆっくり口にした。
「元Dクラスを立て直し、一ヶ月で昇級させた中心人物。さらに恋人を自クラスへ編入させた」
「だいぶ話盛られてないか?」
「多少は」
坂柳は即答した。
「ですが、中心人物なのは事実でしょう?」
真希は少し考えた。
否定するか。
誤魔化すか。
だが、坂柳有栖相手に中途半端な嘘は逆効果だと直感する。
「中心にいたのは認めるよ」
真希は笑った。
「でも、俺一人じゃない」
「そういうところです」
坂柳は楽しそうだった。
「普通の人間は、まず自分を誇示したがる。ですが貴方は違う」
「そう見える?」
「ええ」
坂柳は頷く。
「しかも、それが演技ではない」
そこで。
真希と坂柳の視線が、一瞬だけ真正面からぶつかった。
探っている。
互いに。
真希は感じる。
この少女は危険だ。
ただ頭がいいだけではない。
人の本質を見ようとする。
しかも、それを楽しんでいる。
だが不思議と、不快ではなかった。
「坂柳さんは、人を見るのが好きなんだな」
「ええ。特に“普通ではない人”を」
さらりと返す。
ひよりは静かに二人を見ていた。
会話の温度が独特だった。
柔らかい。
けれど、水面下ではかなり深く探り合っている。
読書家同士の会話に少し似ている、とひよりは思った。
本を読む人間は、言葉の裏を読む。
坂柳有栖という少女も、恐らくそういう人種だ。
「ですが」
坂柳が続ける。
「少し意外でした」
「何が?」
「もっと支配的な人物かと思っていました」
真希は笑った。
「そんな風に見えるか?」
「噂だけなら」
坂柳は素直に答える。
「クラスを掌握し、環境を変え、ポイントを動かし、編入まで実行した人物。普通なら、もっと独裁的でもおかしくありません」
「……なるほど」
「ですが実際の貴方は違う」
坂柳は静かに言う。
「周囲へ敬意を払っている。恋人への接し方も含めて」
ひよりが少しだけ視線を落とした。
恥ずかしい。
けれど、嫌ではない。
真希は困ったように頭を掻く。
「観察されすぎじゃないか?」
「観察は得意なので」
坂柳は微笑む。
その笑顔は綺麗だった。
だが同時に、どこか底知れない。
真希は少しだけ笑みを深くした。
「じゃあ、俺からも一つ聞いていいか?」
「どうぞ」
「坂柳さんは、なんでそんなに楽しそうなんだ?」
坂柳の瞳が、ほんの少しだけ揺れた。
予想外だったのだろう。
真希は続ける。
「普通、Aクラスってもっと張り詰めてそうなのに。坂柳さんは、強い相手を探してるみたいに見える」
沈黙。
数秒。
そして坂柳は、小さく笑った。
「……面白いですね」
その声には、初めて少しだけ本音が混じっていた。
「私、そんな風に見えますか?」
「見える」
真希は即答した。
「退屈してる人の目じゃない。楽しみを探してる人の目だ」
坂柳は杖へそっと指を添えた。
その仕草は、ほんの僅かに繊細だった。
「かもしれませんね」
否定しない。
ひよりはその瞬間、少しだけ安心した。
坂柳有栖。
危険な人だ。
けれど少なくとも今、この少女は真希へ悪意を向けていない。
むしろ。
純粋に、高く評価している。
それが分かったから。
「それにしても」
坂柳がひよりを見る。
「椎名さん」
「……はい」
「貴方、とても幸せそうですね」
ひよりは一瞬だけ目を瞬かせた。
そして。
真希を見た。
真希もこちらを見る。
視線が合う。
それだけで、胸が少し温かくなる。
ひよりは静かに微笑んだ。
「はい」
その返答は、小さかった。
でも。
迷いは、なかった。