元字塾道場にて
時刻は夜、蝋燭の火が揺らめく室内は仄暗く、ただ一人黙々と刀を降り続ける影を映し出していた。
上衣を脱ぎ、声一つ出さずに木剣を構える藤木。
何百回、何千回と振り下ろしたのか。滴る汗は水溜まりと作る程であった。
そんな中、突然道場の戸が開かれた。
「精が出ますね」
室内に広がる熱気には似合わぬ、穏やかな表情の女性が、音も立てぬ足取りで歩み寄っていた。
「……卯ノ花殿」
卯ノ花烈。かつては「八千流」の名を冠し、
しかし、かつての姿は何処か鳴りを潜め、優しげな笑みにて源之助へと語りかけていた。
「総隊長より聞きましたよ。近いうちに死神となるらしいですね。おめでとうございます」
「……」
「少し大きくなりましたね。ふふっ、ほんの少しですが……」
「……何用か」
しん……と静寂が訪れる。卯ノ花の笑みはいつの間にか消え去っていた。遠く、虫のさざめきを耳に残しつつも、彼女は源之助の腰元へ目をやり、口を開いた。
「刀……賜ったのですね」
「……」
「出会った日、あなたは抜こうともしなかったくせに」
数十年前、まだ源之助が山本と出会う前。卯ノ花が八千流であった頃……
戌吊にて変わらぬ日々を過ごす源之助。目標も無く、死んだように歩き続ける源之助の前に、彼女は現れた。
長く、美しく艶めく黒髪をなびかせながら、何処か期待に膨らんだ瞳で、源之助へと口を開いた。
「あなたですね」
「……!!」
卯ノ花はそれだけを言い、突如として源之助へと斬りかかった。身を翻し、すんでのところで躱してみせるも、今のが余興の一撃であるのは目に見えて明らかであった。
距離を取り、卯ノ花を見据える源之助。彼女の姿と言葉におおよその察しがつく。身に纏う死覇装。隊長羽織こそ着こんでいるが、今まで伊達に帰した者たちと同じであることは簡単に理解できる。
「死んでもおらんというに、仇討ちにでも来たか」
「……仇討ち? 何ですか? それ」
溢れる霊圧を抑える素振りも見せず、刀の切っ先を向ける彼女は、本当に不思議そうに首を傾げてみせた。
「私が求めるは戦い。狂おしい程の戦いへの渇きが、私を動かす唯一の衝動」
狂っている。
源之助が彼女に抱いた感情は、その一言だった。その様子を知ってか知らずか、何処か湿り気を帯びる声色で卯ノ花は言葉を繋げていた。
「あなたの噂を聞いた時、少し期待したのです。私を満たす者かもと……ですが違いました」
自らの胸に手を置き、僅かに乳房を握る卯ノ花の姿は艶めかしく、甘美な香気に包まれていた。
「あなたは……私と満たし合える者」
「……」
「あなたのような子供に、こんな劣情を抱くのは可笑しいでしょうか。それでも、あなたを一目見ただけで分かりました……」
「……」
「あなたの中の狂気が……私も一緒。孕んでいるのです」
蕩ける瞳で源之助を見つめる卯ノ花。絶えず知ったかのように言葉を繋ぐ。
「私には分かります。あなたのその行き場の無い狂気が故、傷付け、斬り合う事でしか互いを分かり合う事が出来ないのでしょう?」
違う。だが、合っている。
源之助は生前、確かに宿敵「伊良子清玄」と果たし合った。虎眼流を亡きものにし、全ての元凶と言われようと差し支えない男である。卯ノ花の言うように、最後の最後まで互いを分かり合えず、斬って斬られた。
そして本当の最後、清玄の心臓を断ち割ったあの瞬間、言葉無くともようやく分かり合えたのだ。ようやく分かち合えたのだ。
「ようやく……見つけました」
懐から一本、脇差しを取り出す卯ノ花。源之助へと投げ渡された脇差しはほんのりと温かかった。
「あいにく、そのような物しか用意できぬ事をお許しください」
「……」
「さぁ、抜いて……戦いを……あなたを満たしてみせます。あなたも私を満たして……さぁ、その
源之助は内心、何処か彼女の言う事に納得していた。彼女の言葉に思い起こした過去の記憶。彼女の言う通り、斬り合う事でしか分かり合えなかった。
だが違う。明確に違う点が一つ。
それは狂気。源之助の狂気は卯ノ花のそれとは違う。ただ己を満たさんがする狂気ではない。
源之助の狂気とは、「強さへの果てなき道」
強さを求め、腕失おうとも、終生の敵からの餞別であろうとも、啜り喰らい、道が無くとも歩き続ける愚直なまでの強さへの貪歩。
狂気のベクトルが、卯ノ花とは違うのだ。彼女はそれを見誤っていたのだ。
「こんな物に、何の意味がある」
「……は?」
「己を満たせればそれでいいのか?」
「違う! 私はあなたと……」
「そんなもの、卑しく股を開く夜鷹と何が違う」
脇差しを見つめる目は卯ノ花へと切り替わるが、心底くだらなそうに源之助は言葉を繋ぐ。
「終生、道に立つ者悉くを斬った。心も、同胞も、残された筈の誇りすらも斬り捨てた」
「なら何故抜かぬ! 何故私を斬らぬ!」
「斬ったところで、何も変わらぬ」
誇り……それは伊良子清玄。時代に逆らうが如く、己を貫き通した源之助の誇り。自分に無いものを持つ姿は、輝かしく見えていたのだ。
それでも結局、傀儡であった。
忠長の命により、死した誇りの首を落とした。まだ右手に、あの感触が残っている。
どれだけ斬っても変われぬ傀儡のまま。果てには全てを失った。この時の源之助はもう、斬る事に疲れていたのである。
「……っ!」
瞬間、卯ノ花が消える。瞬きが終る間もなく、源之助の目の前に飛びかかる卯ノ花。
勢いに任せ源之助を押し倒し、その首元へ刀を突き立てていた。
「抜けぇっ!! 私を斬れっ!!」
「……」
「はぁっ……はぁ……」
荒ぶる呼吸に見開かれる瞳孔。彼女の長い髪が、はらりと源之助の顔にかかる。
「夜鷹、俺は貴様とは違う」
「……!」
突き付けられた言葉に、僅かに肩を震わせる卯ノ花。握る刀に力が入れば、血が垂れる首。
抑えきれぬ震えは声にも伝わる。卯ノ花は絞り出すように言い放った。
「戦いとは……斬り合うとは……何なのですか……」
懇願、渇望するような瞳が目と鼻の先にあった。
「つまらぬ稚戯に……同じかと」
「…………ふふっ……えぇ、そうですね……ほんと……そう」
「本当に……つまらない
途端、卯ノ花の瞳は色を失った。見つめれば飲み込まれそうな程の黒。深淵のような瞳で語る言葉は落胆の一言。
戦いこそが全て。斬り合うが己の全て。それを源之助は、つまらない、子供のままごとだと吐き捨てたのだ。ただ己を満たす為ではなく、この者と斬り合い、分かり合えると信じた者からの悪辣。
目と鼻の先に居る少年はもう、卯ノ花の目には穢らわしい汚物に見えていた。
音も無く立ち上がる様は、出会い頭からは想像もつかぬ程に覇気が無い。よたよたと歩き、胸を抑える卯ノ花は次第に、その背が見えなくなるまで歩き続けていた。
これが藤木源之助と卯ノ花烈、二名の狂人の出会いであった。
「あんな事を言いながら、よくおめおめと手に取れましたね」
「……」
「私が四番隊へと配属されたのは知っていますよね」
「……はい」
「ふふっ、何故だと思います?」
皮肉げに笑む卯ノ花。しかし何処か嬉しそうにも見える。その意図が源之助に分かる訳もなく、ただ黙りこくるしかなかった。
「あの日から宛もなくさ迷い続けました。有象無象を斬る日々はいつもと変わらないのに、いつも以上に虚しかった……でも」
髪で結われた胸元を抑え、慈母のような微笑みで語り続ける卯ノ花。
「この胸の痛みを抉るように、また新たな傷が付けられた」
「……」
「あの子を思い返す度に疼きます。それが嬉しい。でもあなたを見る度に、彼に付けられた傷よりも疼くんです……この胸の奥底の傷が」
「彼とは……」
「秘密です」
ふと、風が吹いた。
稽古場に灯されていた蝋燭の火は消え、外からの月明かりだけを頼りに照らし出される卯ノ花と源之助。
「今宵は月が綺麗ですね」
窓から覗かれた月を見上げる彼女の色めかしさは、出会った頃よりも何処か美しく見えた。
「もう日を跨ぐ頃ですね。長々と失礼しました」
背を向け、ゆっくりと歩き出す卯ノ花。戸に手を当て、ふと立ち止まった。
「藤木さん」
「……」
「私を傷物にした責任、取ってくださいね」
その言葉が、どの感情から出てきたのかは分からない。源之助は出会った時のように、その背を見送るだけであった。
ぼくもこんな謎狂人美熟女に迫られたい……