臨海学校初日に点数を付けるとしたら40点にも満たない。臨海学校そのものは端から期待していなかった。海を前にしても心は躍らない。海を楽しむことが理解できない。水着姿で海を満喫する生徒たちの笑顔の理由が全く分からなかった。
それでもセシリアが居れば楽しめたかもしれない。眼前に海を置いたラウラが無表情で溜息をつく。海には似つかわしくない純白の制服をきっちりと着こなし、額に汗を浮かべることなく直立を維持していた。海で遊んでいる少女たちへ無言の抗議活動を行っているように見えるが、実際は海で遊ぶ用事がないために制服を着ているだけだ。季節に合った服を着ればいいのだが、ラウラは制服以外の服というものを持ち合わせてはいない。よって、学生らしい姿を常に晒していた。
ラウラはセシリアを嫌ってはいない。むしろ好いている。好意を抱いているのだ。
転入当初は不愉快ばかりを感じていたのは事実だ。負けたくない、コイツだけは打ち負かす、という意識に囚われていた。
しかし、タッグトーナメントや備品室での一幕が意識を変えていった。
もっとも影響を与えたのは備品室でのことだ。セシリアに連れられ、役に立たない教師の指示を受けて記憶のすり合わせを行った後に、ラウラは一つの真実を見つけ出した。それは彼女の中で忘れてはいけないものだった。どうして今まで忘れていたのか、と悔やんだ。
セシリアとの縁は前世より来ている。
恐いから一緒は嫌だ、と転入二日目に同居人が消滅した部屋はラウラに静寂を与えた。熟考するにちょうどいい空間で、彼女は前世の全てを思い出した。セシリアとの関係を思い出したのだ。
前世のラウラには母親が居た。それはもう優しい母親だったらしい。らしい、というのはラウラが人伝に聞いた情報だからだ。
長いこと病に伏して、記憶の混濁の見られたラウラの近くには既に母親はいなかった。居たのは白衣を着た老齢の男だけだった。
男は母親の親友であることを告げてきた。そして、ラウラがどうして眠っていたか、その間に母親がどこへ行ったのかを詳しく教えてくれた。
最強と言われた母親は、幹部に強姦され妊娠したショックで敵対組織から抜け出して、この組織にやってきたこと。そこでラウラを生み落したこと。憎い相手の子供だったが、生まれてきた命に罪はないと慈しんで育てていたこと。その子供であるラウラは幼少期に重い病にかかり、ほとんどを眠って過ごしてきたこと。それを見た母親は古巣に襲撃をかけ、どんな病も治すと言われる薬を命がけで奪取したこと。その時に負った傷が原因で母親は亡くなってしまったが、薬は無事に届けられ投薬されたのだが、副作用で脳にダメージを受けて長い間意識を失っていたのだと。
男の話を聞いたラウラは、母親の仇を討つ為に敵対する組織に攻撃を仕掛け、多くを道連れにして死んだ。
そうだ、私の母親はセシリアだ。
備品室での互いの記憶が時期的に合致しなかったのは、その時ラウラは生まれていなかったからだ。セシリアを不愉快と思っていたのは、正体の分からない感情に振り回され心乱されていたからだ。今のラウラは最強の娘として父に作り上げられ生きてきた。最強であるために様々な訓練を課せられ、心の揺れを最小限に抑える特訓までも行ってきた。だからセシリアと出会った時の心を抑えられなかったことが、最強になることを妨げる不愉快な奴となったのだ。
自分の大切な母親を前にして、ラウラは敵だと思ってしまったことを恥じた。
そして、全てを理解した後。セシリアが自分のことを娘だと気がつかないことにラウラは悲しくなった。最強になるためには不要な感情であると分かっていても。
「ラウラ。泳がなくていいのか?」
珍しいだけの存在が膝まで海水に付けて手を振ってくる。ラウラは何も応えずに、ただただ地平線の向こう側を見つめていた。
今更になって思い出すとは。母親には……ママには悪いことをしたな。パパと結婚してくれれば戸籍上もママになるから、頑張ってパパを説得してみるか。
地平線の向こうに広がる幸せな未来をジッと見つめ続けていた。
「らうらう。暑くないの~?」
視線の先を塞ぐように両腕を天へと向けた本音がのんびりと問いかけてくる。水着というにはあまりにも見た目にこだわり過ぎた着ぐるみ型の水着が、ラウラの制服姿とは違った異質さを演出していた。
「この程度は暑くない」
太陽光と、それに熱せられた砂浜を相手取っても、汗一つ見せないラウラは臆することなく灼熱の空気を吸い込む。喉を湿気と熱気混じりの酸素が通過していくを感じ取り、ラウラは病欠しているセシリアを心配した。海よりは暑くないにせよ、今は夏だ。より一層体調を崩していないだろうか。以前までのラウラなら考えられなかったことだ。
「せっしーも来ればよかったのにね。私ね、せっしーとビーチバレーする約束してたんだよ~。指切りはしていなけど、帰ったら変わりに何かしてもらおうかな?」
能天気に笑う本音に、ラウラは不愉快な気持ちが込み上げてきた。セシリアは私のママだ。お前如きが気安く約束を取り付けるなんて、と首を絞めて警告してやりたくなった。だけど、セシリアが良くしている存在に手を上げることで、嫌われしまうのではないか、と不安が過ぎった。
いいや。それよりも早くセシリアに記憶を取り戻してもらわなければ。まずはそこからだ。セシリアの母親のした救いの意味を知り、それを破壊しなければいけない。
「ビーチバレーなら私が変わりに相手をしてやる。行くぞ」
娘として母親の代わりに厄介事を潰しておくべきだ。おかしな約束事を取り付けられるまえに。目の前の能天気を徹底的に叩くために、本音の首根っこを引っ掴んで人気のある場所へと引き摺って行った。背中に緊張感のない悲鳴がぶつけられるが知ったことではなかった。
確か、ビーチバレーは二対二で戦うものだな。逃げなさそうな本音を海に放り込んだラウラは、手始めに一夏を襲撃することにした。多くの生徒たちがラウラから一定の距離を保つために、警戒心を見せない一夏を襲うにが一番楽だった。
「ビーチバレーをするぞ」
鈴と泳ぎで競争していた一夏の足を掴んで引き寄せると、ラウラはそのまま浜へと引っ張っていく。
「おい!? 溺れるから、溺れるから!」
悲鳴がうるさくて一夏を浜へと放り投げると、「アンタ、何してんのよ」と抗議をしに来た鈴を捕えて一夏のそばに投げる。
「ビーチバレーをするだけだ」
二人に用件を告げたラウラは、さきほど海に投げた本音を回収してメンバーを強引に確保した。そして、地獄のビーチバレーは幕を開けた。
晩食は海の幸をふんだんに使った料理が並び、普段から学食で良いモノを食べている生徒たちをそこそこ喜ばせた。通常の学校であれば大はしゃぎのメニューも、IS学園の充実したメニューの前では中はしゃぎが精々だった。
食事の後は消灯までの自由時間。入浴時間を過ぎ、後は寝るのを待つだけになったラウラは、同室になった憐れなクラスメイトを置き去りにして外へ出た。
臨海学校の決まり事、と書かれた小冊子には夜間の外出は禁止されていたが、ラウラは建物内の気配を読み取って誰とも合わずに外へと抜け出した。教師の仕事ぶりに杜撰さを感じたが、ラウラにはどうでもよかった。
旅館から離れて、さざ波の音が聞こえる砂浜へと足を運ぶ。夜の砂浜はいつかのドラマで見た光景と違い、静かで心落ち着く柔らかさはなかった。どこまで暗い地平線がぼんやりと浮かび上がり、ゆっくりと忍び寄る気持ち悪い闇が見えるだけだ。見ているとさざ波を足音にして這い寄って来る気がした。
だからどうしたというのだ。感じ取ったことを切り捨てたラウラは砂浜に腰を下ろす。
物思いにふけるにはちょうどいいかもしれない。部屋越しに聞こえるどんちゃん騒ぎはない。部屋以上の静寂な空間は熟考の機会を与えてくれる。
母親の記憶を取り戻すにはどうすればいいのか。
未だにセシリアでしかない相手に、ラウラはどう接すればいいのか分からない。いいや、そもそも母親との想い出を持っていない彼女には母親との接し方も分からない。ただ、優しいのならどんな行動にも寛容に対応してくれるのでは、と暴言を吐いてみたが結果は足を踏まれ続けるという仕打ち。
未だに母性を取り戻していないということか。ラウラは溜息を吐き出して空を見上げた。星のない暗い空だ。
パパは最強の娘の誕生に歓喜して多くを教えてくれた。戦い方を中心に様々な手解きを受け、いつしか並の大人たちも太刀打ちできない力を得た。パパが闇組織の情報を手土産に故郷ドイツに戻り、軍上層部となった昔馴染みの友人に頼み込んで、ラウラに更なる練習場を与えた。軍属になり、さらに強い敵を倒してきた。だけど、そこにはママはいなかった。
ラウラの前世の姿は母親そっくりだった。敵対する組織の人間が驚ろいて母親の名前を口にしてしまうほど瓜二つな姿だった。自分の顔を鏡で見る度に、ラウラは目の前にママがいるような気がしていた。実際には自分の顔があるだけで、全く温もりは感じられなかったが。
母親が友人だという男は、ラウラによくしてくれた。時折起きる偏頭痛を訴えれば親身になって対処してくれた。薬やヒーリングミュージック、心を落ち着かせる飲み物など、色々と気を使ってくれたのだ。
母親が死ぬ間際に頼むと言ったから、私もできるかぎり尽くそうと思っているだけだよ。男は穏やかに笑って言ってきた。
母親が必死になってくれたのに、結局死んでしまうとは。それも復讐の念に囚われてだ。しかし、しょうがない。奴らを見る度に怒りが込み上げてきたのだ。止めようにも止められなかった。
しかし、今はそれも存在しない。いるのは純粋な私と、残念ながら記憶を封じられてしまったママだけだ。余計な横槍を入れてくる敵はどこにもいない。居るのは石ころと変わらない有象無象の存在だけだ。
「……明日には帰っても構わないだろう」
課外授業など関係ない。
ラウラは砂浜に寝そべって、暗闇しかない空を見上げた。