戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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第4話 泊まりは、駄目

 

 

「レナさん」

 

名前を呼ばれただけなのに、息が止まりそうになった。

 

イチカさんの部屋は、昨日と同じ匂いがした。

 

薄く残った出汁の匂い。

乾いた布の匂い。

私が何度か使った寝具の匂い。

 

机の端には、昨日の夜に使ったマグカップがあった。

棚の上には、予備のリボンが入った小さな箱。

壁際には、いつも私が座るクッション。

洗面台の方には、青い歯ブラシ。

 

全部、昨日と同じだった。

 

なのに、何も同じではなかった。

 

扉は閉まっている。

廊下の声はもう遠い。

紙袋の中のお菓子が、私の腕に当たって小さく鳴った。

 

イチカさんは、まだ私の手首を掴んでいた。

 

廊下からここまで、ずっと。

 

痛い、と思ったのは最初だけだった。

今は痛いことよりも、イチカさんがそれに気づいていないことの方が怖かった。

 

いつものイチカさんなら、絶対に気づく。

 

歩幅が合っていなかったら、少し笑って待ってくれる。

羽が壁に触れそうになったら、何も言わずに避けてくれる。

荷物が腕に当たっていたら、持つっすよ、と軽く言ってくれる。

 

今日は、何もなかった。

 

「歯ブラシ、置いておいてくださいって、何?」

 

声は荒くなかった。

怒鳴ってもいなかった。

 

それなのに、体の奥が冷えた。

 

「……冗談です」

 

言った瞬間、自分でも分かった。

 

薄い。

軽い。

今、その言い方をしてはいけない。

 

「向こうも、そう思ってます。私も、本気で泊まるつもりなんて」

 

「今、それで逃げないで」

 

言葉が止まった。

 

いつもの語尾が、落ちていた。

 

イチカさんは私を見ている。

笑っていない。

困ったようにも、呆れたようにもしていない。

 

ただ、見ている。

 

それが一番怖かった。

 

「分かってて言ったんすよね」

 

手首にかかった指が、少しだけ強くなる。

 

「自分が聞いてるって分かってて。昨日、ここで何を言ったか覚えてて。レナさんの歯ブラシがここにあるって分かってて」

 

「イチカさん」

 

「覚えてなかったんすか」

 

「……覚えてました」

 

「じゃあ、分かってて言ったんすよね」

 

もう一度、同じところに戻される。

 

逃げられない。

 

「座って」

 

短い言葉だった。

 

私は動けなかった。

 

「座って」

 

二度目は、低かった。

 

私が足を動かすより先に、肩を押された。

 

乱暴ではなかった。

けれど、優しくもなかった。

 

膝の裏が寝具の端に当たる。

そのまま、体が沈む。

 

昨日、私の場所だと言われた場所だった。

 

何度か使った枕。

少し厚めのブランケット。

端がきれいに整えられた布団。

 

そこに座っているのに、今は少しも私の場所ではなかった。

 

イチカさんは私の前に立ったまま、手首を離さない。

 

「痛いです」

 

言ってから、しまったと思った。

 

イチカさんの目が、ほんの少しだけ揺れる。

でも、指はすぐには緩まなかった。

 

「今さら?」

 

胸の奥が、きゅっと縮んだ。

 

「痛かったら、やめると思いました?」

 

「……」

 

「レナさんは、やめなかったっすよね」

 

声が戻った。

でも、いつもの軽さとは違った。

 

「自分が嫌がってるの、分かってたのに」

 

私は何も言えなかった。

 

紙袋が、また小さく鳴った。

 

イチカさんの視線がそちらに落ちる。

 

「それ、置いて」

 

「これは、関係ありません」

 

イチカさんが少しだけ笑った。

 

でも、全然救われなかった。

 

「使ったでしょ」

 

喉が詰まる。

 

「置いて」

 

私は紙袋を握ったまま、動けなかった。

 

イチカさんが近づく。

私の指に触れる。

 

熱いカップを渡す前に温度を確かめる指。

濡れたリボンを整える指。

羽に引っかかりそうなものをそっと払ってくれる指。

 

その指が、私の指を一本ずつ外していく。

 

痛くはない。

でも、拒めなかった。

 

紙袋が机に置かれる。

中のお菓子が、かさ、と鳴った。

 

その音が、ひどく恥ずかしかった。

 

私はそれを使った。

 

あの子の好意も。

イチカさんが見ていることも。

昨日の青い歯ブラシも。

 

全部、分かっていて使った。

 

「こっち見て」

 

顎に指が添えられた。

 

顔を上げさせられる。

目を逸らそうとしたら、止められた。

 

「逸らさないで」

 

低い声だった。

 

涙が出そうになった。

 

いつもなら、困ったらイチカさんが少し軽くしてくれた。

私が少し踏み込んでも、悪い子っすね、と笑って、最後には柔らかい場所に戻してくれた。

 

今日は、戻してくれない。

 

「ごめんなさい」

 

声が震えた。

 

イチカさんは返事をしなかった。

 

「ごめんなさい、イチカさん」

 

「何が」

 

短かった。

 

私は唇を噛む。

でも、顎を持たれているから下を向けない。

 

涙が落ちた。

 

「調子に、乗りました」

 

一度言ったら、止まらなかった。

 

「イチカさんが見てるって、分かってました。昨日の歯ブラシのことも、覚えてました。私だけが気にしているみたいで、悔しくて」

 

「それで?」

 

「……困らせたかったんです」

 

言った瞬間、胸の中が崩れた。

 

最低だと思った。

 

あの子が悪いわけじゃない。

お菓子も、好意も、泊まりの誘いも、たぶん全部きれいなものだった。

 

汚したのは私だ。

 

「でも、こんなふうにしたかったわけじゃ」

 

「じゃあ、どうしたかったんすか」

 

答えられなかった。

 

涙だけが落ちる。

 

イチカさんの指が、私の顎から離れた。

 

一瞬だけ、許されたのかと思った。

 

違った。

 

イチカさんは洗面台へ歩いていく。

 

白いコップ。

二本の歯ブラシ。

 

一つは、イチカさんのもの。

もう一つは、私が使うようになったもの。

 

青い歯ブラシ。

 

最初は借りた。

次は出された。

その次からは、何も言われずそこにあった。

 

昨日、帰らない理由になったもの。

 

私の分。

 

イチカさんが、青い方を抜いた。

 

「待ってください」

 

思わず立ち上がろうとした。

 

「座って」

 

足が止まる。

 

声だけで止められた。

 

イチカさんが戻ってくる。

手には、青い歯ブラシがある。

 

それが私の前に差し出された。

 

「持って帰って」

 

息ができなかった。

 

「嫌です」

 

すぐに出た。

 

「嫌です、イチカさん」

 

「そんなに簡単に置けるなら、これも簡単に持って帰れるでしょ」

 

「違います」

 

「何が」

 

「違うんです」

 

「何が違うんすか」

 

言えない。

 

私が軽くした。

私が外に持ち出した。

私が、冗談みたいに言った。

 

だから今、イチカさんはこれを返してくる。

 

ちゃんと、私に分からせるために。

 

「手、出して」

 

私は首を振った。

 

「嫌です」

 

「出して」

 

「嫌です」

 

「レナさん」

 

名前を呼ばれただけで、体が固まる。

 

イチカさんが私の手を取った。

抵抗したつもりだった。

でも、全然足りなかった。

 

青い歯ブラシが、手のひらに押し込まれる。

 

「ちゃんと持って」

 

「嫌です……」

 

「自分で軽くしたんでしょ」

 

涙が、また落ちた。

 

「ごめんなさい」

 

「謝れば戻ると思ってるんすか」

 

「違います」

 

「じゃあ持って」

 

「嫌です」

 

「嫌なら、なんで言ったんすか」

 

言葉が出なかった。

 

青い歯ブラシは軽い。

本当なら、軽いはずだった。

 

なのに、手の中で重かった。

 

昨日、帰らない理由になったもの。

何でもないみたいに置かれていたもの。

何でもないはずがないのに、何でもないみたいにしてくれていたもの。

 

私が、それを軽くした。

 

「ごめんなさい」

 

声が崩れる。

 

「ごめんなさい、イチカさん。調子に乗りました。困らせたかったんです。イチカさんが笑ったままだったから、もっと見てほしくて」

 

涙で視界が滲む。

 

「でも、持って帰りたくないです」

 

イチカさんは黙っていた。

 

私は青い歯ブラシを握ったまま、首を振る。

 

「ここに置いていてほしいです。私の分、なくさないでください」

 

言った瞬間、自分でもひどいと思った。

 

自分で踏んでおいて。

自分で軽くしておいて。

それでも、なくさないでほしいなんて。

 

「ごめんなさい」

 

歯ブラシを握ったまま、私は泣いた。

 

「ごめんなさい、イチカさん。...何でもしますから」

 

その瞬間。

 

空気が、変わった。

 

イチカさんの手が、私の手首を掴んだ。

さっきより強い。

 

「何でも?」

 

低い声だった。

 

今までで、一番低かった。

 

「い、イチカさん」

 

「何でもって、何すか」

 

手首を引かれる。

 

体が前に傾いた。

次の瞬間、肩を押される。

 

背中が壁に当たった。

羽の端が、壁に押される。

 

「今の言葉」

 

イチカさんが近づく。

 

「もう一回言ってみてください」

 

「……」

 

「言えないんすか」

 

私は首を振った。

 

怖い。

怖かった。

 

でも、イチカさんが怒っている理由が、少し遅れて分かってしまった。

 

「謝ってるんじゃないっすよ、それ」

 

イチカさんの指が、私の顎を持ち上げる。

 

「自分を差し出して、話を終わらせようとしてるだけじゃないっすか」

 

「違」

 

「違わない」

 

遮られた。

 

「何でもしますって、何されてもいいって意味で言ったんすか」

 

息が止まる。

 

「自分が今、何をしても、レナさんはそれで許されるならいいって言うんすか」

 

「違います……」

 

「じゃあ言わないでください」

 

声が震えていない。

だから余計に怖かった。

 

「そんな言葉で、自分を雑に渡さないでください」

 

涙がまた落ちる。

 

「ごめんなさい」

 

「それも今は軽い」

 

胸が痛かった。

 

イチカさんの目が、近い。

 

「レナさん、さっきから戻してほしいものばっかり言ってるっす。歯ブラシも、泊まりも、この部屋も」

 

「……」

 

「そして、自分を投げる言葉だけは簡単に出した」

 

顎を持つ指に、少しだけ力が入る。

 

「それが一番腹立つ」

 

私は何も言えなかった。

 

イチカさんが怒っている。

私が踏んだことにも。

私が泣いていることにも。

私が謝っていることにも。

 

そして、私が自分を安くしたことに。

 

今までのどれよりも、そこに怒っている。

 

「ごめんなさい」

 

今度は、声にならなかった。

 

「泣けば終わると思ってないすか?」

 

私は首を振った。

 

「何でもするって言えば、許されると思ってない?」

 

首を振る。

 

「じゃあ、ちゃんと言って」

 

「……何を」

 

「何でもします、じゃなくて」

 

イチカさんは、少しだけ息を吐いた。

 

「自分が何をしたか」

 

胸の奥が詰まる。

 

私は泣きながら、歯ブラシを握った手に力を入れた。

 

「イチカさんが、大事に置いてくれてたものを」

 

言葉が震える。

 

「私の分にしてくれてたものを、外で、軽く使いました」

 

イチカさんは黙っている。

 

「イチカさんが我慢してくれてるのも、分かってました」

 

「はい」

 

「それなのに、もっと見てほしくて、困らせたくて、わざと踏みました」

 

喉が痛い。

 

「ごめんなさい」

 

イチカさんは、すぐには答えなかった。

 

顎から指が離れる。

 

壁に押されていた羽が、少しだけ楽になった。

 

でも、イチカさんは離れない。

 

「泊まりは、駄目」

 

胸が痛くなった。

 

「他の人の部屋も」

 

少し間が空く。

 

「今日の、この部屋も」

 

頭の中が、真っ白になった。

 

「……嫌です」

 

「駄目」

 

「もう言いません。あんなことしません。何でも、じゃなくて、ちゃんと謝ります。だから」

 

「駄目」

 

三度目で、完全に折れた。

 

泣き声が漏れる。

止めようとしても、うまくいかなかった。

 

青い歯ブラシを握った手が震える。

落としたくない。

でも、持っているのも苦しい。

 

「ごめんなさい」

 

それしか言えなかった。

 

「ごめんなさい、イチカさん」

 

イチカさんの目が、少しだけ揺れる。

 

でも、まだ許してくれない。

 

それでよかった。

よくないけれど、たぶん、それでよかった。

 

今すぐ許されたら、私はまた軽くしてしまうかもしれない。

泣いたから戻ったのだと、どこかで思ってしまうかもしれない。

 

だから、イチカさんは戻してくれない。

 

「今日は帰るっす」

 

その言葉で、体が冷えた。

 

「嫌です」

 

「駄目」

 

「帰ったら」

 

声が詰まる。

 

帰ったら、本当に戻れなくなりそうだった。

この部屋から私の分だけが消えて、青い歯ブラシを持ったまま、自分の部屋に帰る。

 

そんなのは嫌だった。

 

「帰ったら、もう」

 

「そこまで言わせる前に止まってください」

 

イチカさんが遮った。

 

「それ言われたら、自分が悪者になる」

 

「……」

 

「今日はもう、十分悪者なんで」

 

初めて、イチカさんの声に少しだけ疲れが混ざった。

 

でも、優しさではなかった。

少なくとも、私をすぐ救うためのものではなかった。

 

イチカさんは机の方を見た。

紙袋が置かれている。

少し潰れている。

 

「それは置いていくっす」

 

私は頷いた。

 

「歯ブラシは」

 

私は手の中を見る。

 

青い歯ブラシ。

 

「持って帰りたくないです」

 

「分かってるっす」

 

「じゃあ」

 

「でも、戻さない」

 

胸が痛む。

 

「今日は、戻さない」

 

イチカさんはそう言って、私の手から青い歯ブラシを取った。

 

戻してくれるのかと思った。

 

違った。

 

机の上。

紙袋の横。

 

そこに、青い歯ブラシが置かれる。

 

白いコップには戻らない。

洗面台にも戻らない。

私の手にもない。

 

私の場所にも、まだ戻っていない。

 

「明日」

 

イチカさんが言った。

 

「自分で戻してください」

 

「……戻しても、いいんですか」

 

声が掠れた。

 

イチカさんはすぐに答えなかった。

 

沈黙が、長かった。

 

「明日、ちゃんと謝れたら」

 

「今、謝りました」

 

「泣いてるからじゃなくて」

 

また、喉が詰まる。

 

「自分を雑にしないで、ちゃんと謝れたら」

 

私は頷いた。

 

それ以上、何も言えなかった。

 

イチカさんは私の手首を見た。

 

そこで初めて、少しだけ表情が変わる。

 

掴まれていたところが赤くなっていた。

大したことはない。

たぶん、少しすれば消える。

 

でも、イチカさんはそれを見て、息を止めた。

 

「……痛かったっすよね」

 

私は反射的に首を振ろうとした。

 

でも、できなかった。

 

今日、それをしてはいけない気がした。

 

「痛かったです」

 

言うと、イチカさんの眉がほんの少し寄った。

 

「そうっすよね」

 

それだけだった。

 

謝らなかった。

すぐに手当てもしなかった。

大丈夫っすか、とも聞かなかった。

 

でも、目が少しだけ戻っていた。

 

いつものイチカさんに、ほんの少しだけ近づいた目だった。

 

それが嬉しくて、また涙が出た。

 

「泣かないでください」

 

「無理です」

 

イチカさんは何か言いかけて、やめた。

 

それから、小さく息を吐く。

 

「送るっす」

 

「一人で帰れます」

 

「帰せると思います?」

 

言い方は軽くなりかけていた。

でも、まだ戻りきらない。

 

私は頷けなかった。

 

イチカさんが扉の方へ歩く。

今度は、少しだけ歩幅が遅かった。

 

私は机の上を見る。

 

紙袋。

青い歯ブラシ。

 

どちらも、ここに置いていく。

 

「レナさん」

 

扉の前で、イチカさんが振り返る。

 

「明日、来るなら」

 

私は息を止めた。

 

「手ぶらで来てください」

 

「……歯ブラシは」

 

「ここにあるっす」

 

青い歯ブラシは、白いコップには戻っていない。

 

でも、捨てられてもいない。

持って帰れとも、もう言われなかった。

 

机の上にある。

紙袋の隣に。

私が軽くしたものの重さを、そのまま置いて。

 

「はい」

 

私は泣きながら頷いた。

 

「明日、来ます」

 

イチカさんは何も言わなかった。

 

扉が開く。

 

廊下の空気が入ってくる。

 

私は部屋を出る前に、もう一度だけ机を見た。

 

青い歯ブラシは、まだ戻っていない。

 

昨日と同じ場所にはない。

私の場所には、まだ戻っていない。

 

それでも、ここに残っている。

 

それが今夜の罰で、今夜の救いだった。

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