戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
※ キリノ視点です。
帽子のつばを直すのは、これで四度目だった。
今日のヴァルキューレ警察学校の玄関にあるガラスは、鏡よりも容赦がない。普段なら気にならない程度の傾きまで、今日に限ってはこちらの緊張を告発する証拠品のように見えてしまう。
本日から三日間、シャーレから参加する講習受講者の案内を任されている。
内容は、緊急時の通報や応急処置、避難誘導など。戦闘ではなく、事件や事故に巻き込まれた際の自衛と、周囲にいる負傷者の保護を目的とした講習だ。
その案内役に、どうして私が選ばれたのか。
人員配置表を三度見ても名前は変わらなかったので、きっと何かしらの理由はあるのだと思う。
午前九時ちょうど、玄関の自動扉が開いた。
黒いショルダーバッグを肩に掛けたレナさんは、受付へ向かうより先に周囲を見渡し、私を見つけると迷いなく歩いてきた。
「中務キリノさん、ですか?」
「はい! 本日から三日間、レナさんの案内を担当する中務キリノです! よろしくお願いします!」
声が大きすぎた。
玄関にいた何人かがこちらを見る。私は反射的に背筋を伸ばし、レナさんは一度だけ目を丸くした。
それから、私の帽子へ視線を上げる。
「よかった。帽子が少し曲がっている人を探せと言われたので、すぐ分かりました」
「えっ」
慌ててつばに触れる。
さっき四度も確認したはずなのに、今度はどちらへ直せばいいのか分からなくなった。
レナさんは堪えきれなくなったように口元を緩めた。
「冗談です。名札を見ました」
「そ、そうですよね。来訪者にそのような情報を伝える職員がいるはずが……」
「そのくらいなら、むしろ覚えやすくて助かります」
フォローされているのか、まだからかわれているのか判断できなかった。
けれど、レナさんの笑い方には人を馬鹿にするようなところがなくて、強張っていた肩から少しだけ力が抜けた。
「今日はよろしくお願いします、キリノさん」
「はい。本官にお任せください!」
第一印象を取り戻すように敬礼し、私は講習室へ向かって歩き始めた。
玄関を出て、渡り廊下を進み、突き当たりを左へ。
防音扉を開けた瞬間、乾いた銃声が耳を打った。
規則正しく並んだ射撃レーン。その向こうで、訓練中のヴァルキューレ生徒たちが一斉にこちらを振り返る。
私は扉の番号を見た。
第三射撃訓練場。
講習室は、反対側の棟だった。
「……申し訳ありません。道を間違えました」
背後から返事がない。
恐る恐る振り返ると、レナさんは開いた扉の隙間から射撃場を覗いていた。次の銃声が鳴った瞬間に肩が跳ね、すぐ何事もなかったようにこちらを向く。
「護身講習って、まず怪我人を作るところから始まるんですか?」
「始まりません!」
「よかったです。私、まだ遺書を書いていないので」
「そういう危険な訓練ではありませんから!」
「今の音は、ちょっと怖かったですけどね」
今度は冗談ではないらしい。
レナさんは胸元に手を置いて、小さく息を吐いた。
射撃場を面白そうに覗いたくせに、驚いたことは隠しきれていない。その少し不格好な強がりを見つけて、私の緊張がまたわずかに解けた。
「次は間違えません。必ず講習室までご案内します」
「はい。じゃあ、私は後ろで道を覚えておきます」
「本官一人で大丈夫です!」
「二人とも迷ったら困るので、念のためです」
レナさんは笑いながら廊下へ戻った。
私は射撃場に何度も頭を下げてから、今度こそ正しい方向へ歩き出した。
最初の実習は、包帯を使った応急処置だった。
二人一組になり、腕の負傷を想定して包帯を巻く。私の相手は、そのままレナさんが務めることになった。
レナさんは椅子へ座ると、左腕をこちらへ差し出した。
「利き腕はどちらですか?」
「右です。だから左なら、多少失敗しても許します」
「失敗する前提で話さないでください! 完璧に処置してみせます!」
「ふふ。優しくしてくださいね、キリノさん」
手順は覚えている。
訓練用のガーゼを当て、ずれないよう押さえながら包帯を巻く。緩すぎれば意味がない。だが、血流を妨げるほど強く締めてもいけない。
分かっていた。
分かっていたはずなのに、レナさんに見られていると思うと、指先へ余計な力が入った。
一周、二周、三周。
巻き終えた包帯を留め、私は自信を持って顔を上げる。
「いかがですか?」
「そうですね……」
レナさんは包帯を巻かれた腕を持ち上げ、指を開こうとした。
五本の指が、途中で頼りなく止まる。
「腕とお別れする準備としては、かなり完璧です」
「きつすぎましたか!?」
「ちょっとだけ指先が痺れてきました。たぶん今なら、何を触っても他人の手みたいです」
「すぐ外します!」
包帯を解こうとして、留め具に爪が引っかかった。焦れば焦るほど取れなくなり、実習を担当するヴァルキューレ生徒がこちらへ近づいてくる。
代わってもらうしかない。
「申し訳ありません、レナさん。次は別の者に――」
「待ってください」
短い言葉と一緒に、レナさんの右手が私の手首を捕まえた。
強くはない。
それでも、私の動きを止めるには十分だった。
「もう一回、キリノさんが巻いてください」
「ですが、本官ではまたご迷惑を……」
「最初から上手にできる人なんて少ないですよ」
レナさんは、痺れの残る左手を軽く振った。
「それに、ここで交代されたら私の左腕がただ犠牲になっただけです」
「犠牲にはしません!」
「はい。では、もう一回お願いします」
包帯をすべて外す。
赤く残った跡を見て胸が痛んだ。けれど、レナさんは責めるでも急かすでもなく、先ほどと同じように左腕を差し出している。
今度は指一本分の余裕を確かめながら、慎重に巻いた。
一周ごとに表情を確認する。
「痛くありませんか?」
「大丈夫です」
「きつくありませんか?」
「まだ平気です」
「本当に?」
「心配してくれるキリノさんを見るのは少し面白いですけど、本当に平気です」
「面白がっていたんですか!?」
思わず顔を上げると、レナさんが笑った。
そのせいでまた手元が狂いそうになり、慌てて包帯へ視線を戻す。
最後の留め具を固定してから、指先の色と温度を確認する。今度は問題ない。
「できました。指を動かしてみてください」
レナさんはゆっくりと五本の指を握り、開いた。
もう一度握ってから、その指先を私の手のひらへ押し当てる。
「ほら。五本とも、ちゃんと帰ってきました」
柔らかい指先の温度が、手袋越しに伝わってくる。
「……よかったです」
「さっきより、ずっと上手でした」
「当然です。本官は一度の失敗を次へ活かせる警察官ですから!」
そう答えると、レナさんは私の顔を見たまま、目を細めた。
「何ですか?」
「いえ。褒めた甲斐のある顔をするなと思って」
「顔には出していません!」
「そういうことにしておきますね」
レナさんはそれ以上何も言わず、包帯を巻かれた腕を眺めていた。
口元には、まだ笑みが残っている。
何を考えているのか気になったが、聞けばまたからかわれそうで、私は次の器具を取りに行くふりをした。
午前の講習を終えて廊下へ出たところで、レナさんの足が止まった。
先ほどまで笑っていた顔から、すっと表情が消える。
「キリノさん。あの人」
視線の先には、他校の制服を着た一人の女性生徒がいた。
壁際に座り込み、片足を押さえている。首からは見学者用の入館証が下がっていたが、周囲に同じ制服の生徒はいない。
私はすぐに駆け寄った。
「ヴァルキューレ生活安全局です。どうしましたか?」
「見学班とはぐれてしまって……探している途中で、階段を踏み外しました」
足首に腫れがある。膝にも擦過傷があった。
無理に立とうとする肩を支え、もう一度座ってもらう。
「そのままで大丈夫です。足の指は動かせますか? 痺れはありませんか?」
状態を確認してから、無線で受付へ連絡する。
入館証の端には、青い三角形のシールが貼られていた。午前中に別棟を見学している第三班のものだ。
返答を待つ間、レナさんが近くの給水機から紙コップを持ってきた。
女性生徒は受け取ったものの、俯いたまま顔を上げない。
「皆さんに迷惑をかけてしまって……」
「迷ったくらいなら、大丈夫ですよ」
レナさんがその場にしゃがみ、相手と視線の高さを合わせる。
「私たちなんて、朝から射撃場へ迷い込んで、危うく護身講習の前に実戦を始めるところでしたから」
「レナさん!?」
女性生徒が顔を上げる。
レナさんは私を指さした。
「案内役のキリノさんが、自信満々に扉を開けました」
「そこまで自信満々ではありません!」
「そうでしたっけ?」
女性生徒の口元から、かすかな笑いがこぼれた。
身体に入っていた力も、少し抜けたように見える。
レナさんはそれ以上余計なことを言わず、私が処置しやすいように場所を空けた。
冷却材を当て、足首を固定する。
包帯を巻く指は、先ほどよりもずっと落ち着いていた。
「上手ですね」
女性生徒の言葉に、私は胸を張る。
「訓練していますから」
「ついさっき、私の腕で練習したんですよ」
「レナさんは黙っていてください!」
「でも、本当に上手です。今度はちゃんと優しい手です」
その声だけは、からかっていなかった。
間もなく、同じ制服を着た女性生徒が二人、息を切らしてやってきた。はぐれた仲間を見つけて安堵する姿を確認し、受付のヴァルキューレ生徒へ引き継ぐ。
立ち去る前に、三人は何度も頭を下げてくれた。
警察官として当然のことをしただけだ。
そう思いながら振り返ると、レナさんがこちらを見て笑っている。
「な、何ですか」
「キリノさん、かっこよかったです」
「当然の職務を果たしただけです」
「そういうところです」
「何がですか?」
「何でもありません」
尋ねても、レナさんは教えてくれなかった。
ただ、私の腕に巻かれた腕章を一度見てから、どこか満足そうに頷く。
「あ、お昼はどちらですか? 今度こそ食堂に着きます?」
「着きます! 今度は絶対に間違えません!」
追いかける私の声を聞いて、レナさんの肩が楽しそうに揺れていた。
二日目。
玄関へ急いでいた私は、受付前で交わされる会話を耳にした。
「レナさん、案内役がまだ来ていないのでしたら、私が講習室までご案内します」
声を掛けたのは、受付担当のヴァルキューレ生徒だった。
「ありがとうございます。でも、待っている人がいるので」
「中務キリノなら、もうすぐ来ると思いますが」
「はい。だから、ここで待っています」
足が止まった。
別の案内役でも講習は受けられる。昨日一日迷惑をかけた私より、そちらの方が確実だったはずだ。
それでもレナさんは、受付近くの長椅子に座っていた。
「レナさん!」
名前を呼ぶと、こちらを見たレナさんが、わざとらしく頬を膨らませた。
「遅いです、キリノさん。三分も待ちました。
あと一分遅かったら、私から探しに行くところでした」
レナさんは立ち上がった。
「私が探しに行くと迷うので、もう少しで捜索願いが必要になるところでしたね」
「それは本官が困ります!」
「私がいなくなることより、書類の方が困ります?」
「そういう意味ではありません!」
レナさんが私の前まで来る。
何か言おうとすると、彼女の指が帽子のつばへ伸びた。
「触りますね」
「えっ、はい」
返事をする頃には、つばを軽く押されていた。
「今日は右に傾いています」
「玄関へ来る前に確認したはずなのですが……」
「今は真っ直ぐです」
顔が近い。
ほんの少し背伸びをしたレナさんの睫毛まで、はっきり見える。
帽子から指を離した彼女が、私の顔を窺った。
「勝手に触ってしまいましたけど、嫌ではなかったですか?」
「嫌ではありません!」
また声が大きくなった。
レナさんは目を瞬かせてから、何事もなかったように歩き出す。
「よかったです。明日から気まずくなるところでした」
「先に行かないでください! 本官が案内役です!」
「では、お願いします。今日はどこへ連れていかれるのか楽しみです」
「正しい講習室です!」
昨日とは反対の曲がり角を選び、正しい講習室へ到着する。
扉の表示を二度確認してから開けると、レナさんが小さく拍手した。
「着きましたね。偉いです」
「子ども扱いしないでください!」
「では、ご褒美はなしですね」
「ご褒美があったんですか?」
「欲しかったんですか?」
「今のは確認です!」
先に教室へ入るレナさんを追いながら、言い返す。
昨日までなら、失敗を思い出すだけで落ち込んでいたはずなのに。
レナさんに笑われると、不思議と次は成功させたくなった。
その日の実習は、緊急通報を想定したものだった。
事件や事故に遭遇した際、現在地、周囲の目印、負傷者の人数を簡潔に伝える。二人一組となり、一方が通報者、もう一方が受信担当を演じる。
最初はレナさんが通報者役だった。
訓練用の端末を耳へ当て、真剣な顔で私を見る。
「はい、事件です」
「まず落ち着いて、現在地を教えてください」
「現在地は、ヴァルキューレ警察学校。キリノさんの隣です」
「より正確な場所をお願いします」
「目印は、帽子を真っ直ぐに直された、真面目で、褒めるとすぐ赤くなる警察官です」
「人物評は必要ありません!」
「でも、一番見つけやすい目印ですよ?」
周囲で実習をしていた生徒たちが、笑いを堪えている。
「レナさん、真面目にやってください!」
「真面目ですよ。ちゃんと見たままを伝えています」
「そういう問題ではありません!」
抗議しながらも、頬が熱い。
レナさんは端末で口元を隠し、楽しそうに目を細めていた。
実習が終わったあと、彼女は私の隣へ並んだ。
「怒りました?」
「怒ってはいません。ただ、実習は正確に行ってください」
「すみません。でも、一番分かりやすい目印だったのは本当です」
「ほかにも消火器や非常口があったでしょう!」
「そちらは、昨日から私の帽子を直してくれませんから」
「それは当然です!」
「はい。だからキリノさんにしました」
それだけ言って、レナさんは次の実習で使う資料を取りに行った。
私は反論を考えたが、結局うまくまとまらなかった。
三日目の講習終了後。
修了証を渡し終えた私は、生活安全局の備品箱から一つの反射材を取り出した。
黄色い小さな札型で、暗い場所で光を受けると白く反射する。交通安全活動で配布しているものだ。
箱の中を探したのは、汚れていないものを渡したかったからであって、別に一番きれいなものを選んだわけではない。
「レナさん。こちらをお持ちください」
差し出すと、レナさんは反射材を指先でつまみ、表と裏を眺めた。
「これ、一番きれいなのを選びました?」
「たまたまです!」
「そういうことにしておきますね」
「本当にたまたまです!」
「はいはい」
絶対に信じていない。
レナさんは自分の黒いショルダーバッグを持ち上げた。
すぐに取りつけるのかと思ったが、反射材と鞄をまとめてこちらへ差し出してくる。
「キリノさんがつけてください」
「本官がですか?」
「三日間の最後まで、案内役をお願いしようと思って」
「これは案内ではありませんが……」
「細かいことはいいんです」
レナさんは鞄の金具をこちらへ向けた。
自分でつけられないはずがない。それでも差し出されたものを、突き返す気にはなれなかった。
「分かりました。落ちないよう、しっかり固定します」
「お願いします」
留め具を金具の奥まで差し込む。
緊張で指先が震えそうになるのを、何とか押さえた。
レナさんは急かさず、私が作業しやすいよう鞄を両手で支えている。
「できました」
黄色い反射材が、黒い鞄の横で揺れる。
レナさんは肩へ掛けてから、それを指先で一度弾いた。
「どうですか?」
「よく目立っています。これなら暗い場所でも見つけやすいです」
「では、迷っても安心ですね」
「迷わないでください!」
「見つけてくれないんですか?」
「見つけます! 必ず見つけますが、まず迷わない努力をしてください!」
「はい。頼りにしています」
また望んだ返事をさせられた気がする。
レナさんは反射材をしばらく眺めてから、鞄を抱え直した。
「またヴァルキューレへ来たら、キリノさんを指名してもいいですか?」
「もちろんです。本官が責任を持ってご案内します!」
「今度は最初から講習室へお願いしますね」
「次は間違えません!」
「では、覚えておいてください」
レナさんはそれ以上理由を話さなかった。
けれど、別の案内役ではなく、また私を選ぶと言ってくれた。
それだけで十分なはずなのに、その先まで聞きたくなった自分に気づき、私は慌てて口を閉じた。
そのとき、廊下の奥から揃った足音が聞こえた。
公安局の制服を身につけた生徒たちが、こちらへ歩いてくる。
中央にいる人を見間違えるはずがない。
「カンナ局長!」
私の声に、カンナ局長が足を止めた。
鋭い視線が私からレナさんへ移り、最後に、黒い鞄で揺れている黄色い反射材へ落ちる。
「キリノ。そこで何をしている」
「三日間の講習が終了しましたので、修了者へ交通安全用の反射材をお渡ししていました!」
「そうか」
カンナ局長がレナさんを見る。
「シャーレのレナさんだな」
「はい。初めまして、カンナさん」
「名前は聞いている」
「光栄です。……喜んでいい覚えられ方なら、ですが」
「それは用件を聞いてから判断しろ」
「では、今は保留にしておきます」
レナさんの返し方は普段よりも少しだけ大人しかった。
カンナ局長の視線から逃げるわけではない。けれど、いつものように相手の懐へ踏み込もうともしていない。
その距離の取り方を見て、私まで無意識に背筋を伸ばしていた。
「三日間で、随分と打ち解けたようだな」
「はい。キリノさんには、ずいぶん助けてもらいました」
そう答えたレナさんが、なぜか私の方を見る。
射撃場へ案内してしまったことを思い出しているのかもしれない。口元がわずかに笑っている。
「その反射材は、講習修了者への支給品か」
「はい! 夜間の事故防止用として、本官がお渡ししました!」
「装着までが標準業務だったか?」
「それは、私がお願いしました」
レナさんが鞄を持ち直す。黄色い反射材が、金具の下で小さく揺れた。
「自分でつけるより、キリノさんに任せた方が落とさなさそうだったので」
「……そうか」
「たぶんですけど」
「レナさん!?」
カンナ局長の目が、レナさんから私へ移る。
私は反射材をつけただけだ。それなのに、ひどく余計なことまで見抜かれている気がした。
「レナさん。明日の午前九時、公安局長室へ来てもらいたい。今回の講習とは別件で、確認したいことがある」
「事情聴取ですか?」
「今のところは面談だ」
「それなら、少しだけ安心しました」
「安心するのは、用件を聞いてからにしろ」
「では、それも明日まで保留にしておきます」
「都合は」
「大丈夫です。九時ですね」
「遅れるな」
「はい」
「レナさんは今回の講習にも真面目に参加していました! 道に迷った見学者の保護にも協力して――」
「私はまだ何も尋ねていない」
遮られた。
カンナ局長の視線が、真正面から私を捉える。
「庇うには早いぞ、キリノ」
喉の奥で言葉が詰まった。
隣から伸びてきた指が、私の制服の袖を軽く引く。
見ると、レナさんは何も言わず、ほんの少しだけ首を横に振った。
それからカンナ局長へ向き直る。
「明日の九時、遅れずに伺います」
「ああ」
カンナ局長はそれ以上何も言わず、公安局の生徒たちを連れて廊下の奥へ消えていった。
足音が聞こえなくなってから、私はようやく息を吐いた。
「申し訳ありません、レナさん。カンナ局長は、その……」
「私、まだ何もしていないんですけどね」
「分かっています!」
「はい。キリノさんは、そう言うと思っていました」
レナさんは私の袖から指を離した。
笑ってはいたが、その指先が先ほどまでより少し冷たくなっていたことに、私は気づいてしまった。
「明日は本官からも説明します。許可が出れば、面談にも同席しますので」
「それなら、少し安心です」
「カンナ局長は理由もなく人を呼び出したりしません。きちんと話せば、必ず理解してくださいます」
「今ので、少し不安が戻ってきました」
「なぜですか!?」
「理由があるんですよね」
「それは……そうですが……」
答えに詰まる私を見て、レナさんはやっといつものように笑った。
玄関前には、シャーレへ戻るための自動送迎車が停まっていた。
レナさんを見送るところまでが、三日間の案内役として最後の仕事になる。
「明日の面談については、朝一番にカンナ局長へ確認します。レナさん一人にはしませんから」
「ありがとうございます」
レナさんは鞄についた黄色い反射材を指で揺らした。
「では、明日もキリノさんに会えますね」
「公安局長との面談を、そのような理由で楽しみにしないでください」
「駄目ですか?」
「駄目ではありませんが……面談は面談です!」
「分かっています。少しくらい、楽しみがあってもいいでしょう?」
自動送迎車の扉が開く。
レナさんは乗り込む前に、もう一度こちらを振り返った。
「三日間、ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
「明日も遅れないでくださいね」
「それは本官の台詞です。レナさんこそ寝坊しないでください」
「気をつけます。たぶん」
「たぶんでは困ります!」
「そのときは、捜索をお願いします」
「必ず見つけますが、時間どおりに来てください!」
「はい。頼りにしています、キリノさん」
レナさんは自動送迎車へ乗り込んだ。
閉まりかけた扉へ向かって、私は小さく呟く。
「……本官も、明日お会いできるのは嬉しいです」
「何か言いました?」
「何でもありません!」
咄嗟に敬礼する。
レナさんは少しだけ目を細めた。
聞こえなかったのか。
それとも、聞こえた上で聞き返したのか。
結局分からないまま、彼女は座席へ腰を下ろす。
「この反射材、なくさないようにしますね」
「はい!」
「でも、もし私が迷ったら、ちゃんと見つけてください」
「必ず見つけます!」
「いい返事です。また明日、キリノさん」
扉が閉まる。
走り出した送迎車の窓越しに、レナさんが手を振っていた。
膝の上には、あの黒い鞄がある。
夕方の光を受けた黄色い反射材が、一度だけ強く輝いた。
私は姿が見えなくなるまで、その場を動かなかった。
帽子へ触れる。
朝、レナさんが直してくれたまま、今度こそ真っ直ぐだった。
明日の午前九時までが、ひどく長く感じられた。