戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
個人的にも違和感がすごかったので書き直してよかったです。
午前九時になる三分前、私は公安局長室の扉の前に立っていた。
遅刻はしていない。昨日、カンナさんから時間を指定された時も寝坊しないよう念を押された。ここへ来る途中で道に迷ったのもまだ遅刻には含まれないはずだ。
腕時計をもう一度確認してから扉を叩く。
「シャーレ所属のレナです」
「入ってくれ」
返事はすぐにあった。
扉を開けるとカンナさんは机に向かったまま書類へ目を通していた。昨日と同じ公安局の制服に同じ鋭い目つき。机の左右には高さの違う書類の山が三つあり、手前には飲みかけらしいコーヒーが置かれている。
湯気は、もう出ていなかった。
「時間どおりだな」
「昨日、遅れるなと言われましたから」
「そうだったな。そこへ座ってくれ」
勧められた椅子へ腰を下ろす。
カンナさんは最後まで書類を読み終えてから、右上へ日付を書き込み机の端へ置いた。急いでいる様子はなかったが動作の一つ一つに無駄がない。
そのせいか正面に座って待っているだけなのに、こちらまで姿勢を正さなければいけないような気がしてくる。
「昨日は急に呼び止めて悪かった」
「いえ。ただ、キリノさんがずいぶん心配していました」
「分かっている。先ほどから三度同席を申し出てきた」
「三度も」
「もちろんすべて断ったが」
カンナさんはそう言って、机の引き出しから薄いファイルを取り出した。
「今回の用件にキリノは直接関係していない。それにあなたを取り調べるつもりもない。昨日は余計な不安を与えたようだが、確認したいのは一昨日保護された見学者についてだ」
「足を怪我していた方ですか?」
「ああ」
差し出されたファイルを受け取る。最初のページにはあの時の女性生徒の顔写真と所属、入館時刻が記載されていた。
「本人は、見学班とはぐれたあと階段を踏み外したと説明している」
「私たちにもそう話していました」
「その点についてあなたが覚えていることを聞きたい。言葉だけでなく、様子や持ち物など気になったことがあれば何でも構わない」
声音は厳しいままだったがこちらを疑っているというより、できるだけ先入観を与えないように話しているように聞こえた。
私はファイルの写真を見ながら当時の様子を思い返す。
「最初はかなり怯えていました。迷惑をかけたと言ってなかなか顔を上げなくて。でも、キリノさんが処置を始めてからは、少し落ち着いたと思います」
「誰かから逃げているようには見えたか」
「そこまでは。ただ……」
紙コップを受け取った時の手。
膝の上へ置かれた鞄。
キリノさんが無線を使った瞬間、彼女が一度だけ廊下の奥を見たことを思い出した。
「無線の音を気にしていました。受付へ連絡すると聞いた時も、少しだけ嫌そうな顔をした気がします」
「なるほど...ほかには」
「鞄をずっと抱えていました。痛いはずなのに、私が持とうとすると離さなかったです」
カンナさんの指が机を一度だけ叩いた。
「やはり、何か持っていた可能性があるか」
「何かあったんですか?」
「彼女の入館証が使われた時刻と、発見された時刻が合わない」
カンナさんがファイルを一枚めくる。
「あなたたちが彼女を保護する約十分前、立入制限区域へ入る扉で彼女の入館証が読み取られている。そしてその区域から出た記録がその三十分後。」
「誰かに貸した可能性は」
「それも否定している」
カンナさんはそこで言葉を切り、私の反応を確かめるように目を細めた。
「今朝改めて事情を聞く予定だった。だが指定した時間になっても本人が現れなかった」
「連絡は?」
「繋がらない。現在、生活安全局の者が寮へ向かっている」
怪我をしたばかりなのだから単に動けなかった可能性もある。それでもカンナさんが私を呼んだ時点でなにも起きていないとは考えにくかった。
「私からお話しできるのはそのくらいです」
「十分だ。手間を取らせた」
「もう帰っても?」
「ああ。ただし、彼女から連絡があった場合は――」
扉を叩く音がした。
返事を待たずに開く。
「失礼します!」
聞き覚えのある大きな声に振り返ると、キリノさんが両手で黒いケースを抱えて立っていた。
「キリノさん」
「キリノ、同席は却下したはずだが」
「違います局長!今回はこれを届けにきました」
キリノさんは黒いケースを持ち上げた。思ったより重いのか、腕が少し震えている。
「装備開発課から試験運用予定の拘束装置が届きました! 受領の確認をお願いします!」
「今でなければならないのか」
「受領時刻は本日午前九時までと書いてあります!」
壁の時計は九時を二分ほど過ぎていた。
カンナさんの眉間に皺が寄る。
「そこへ置け。確認はあとでする」
「はい!」
キリノさんが机の脇にある小さな台へケースを置こうとする。
その途中で肩から下げていた無線機のコードがケースの留め具へ引っかかった。
「あっ」
ケースが傾く。
キリノさんが慌てて抱え直した瞬間、蓋の隙間から赤い光が漏れた。
短い警告音。
何かが弾けるような音。
「ひゃっ――!」
私の右手首へ冷たいものが巻きついた。そして同時にカンナさんの左手首にも巻き付く。
考えるより先に腕を引く。
「なっ、待て!」
「えっ、ちょ、カンナさ――きゃあっ!」
椅子の脚に踵を引っかける。
視界が傾き背中から床へ落ちそうになった瞬間、カンナさんの右腕が伸びてきた。
「危ない!」
身体を支えられる。
倒れることだけは避けられた。
ただしカンナさんも机へ腰をぶつけ、私もほとんど抱きつくような格好でその胸元へ倒れ込んでいた。
もう一つ。
私の胸に手のひらの感触がある。
「……」
「……」
私はゆっくり下を見る。
カンナさんの右手だった。
カンナさんも自分の手を見る。
その顔から、公安局長らしい険しさが消えた。
「……カンナさん」
「違う」
「私まだ何も言ってませんけど...」
「今のは事故だ」
「ですからっ――早く離してください!」
「あ、ああ。すまない!」
カンナさんが弾かれたように手を離す。
その勢いで身体まで離れようとしたため、今度は繋がった腕が強く引かれた。
「痛っ!」
「すまないっ」
「そっちもですけど、今は……もう、どこを見ればいいんですか!」
「私に聞くな! こちらだって困っている!」
とにかく距離を取ろうと後ろへ下がる。
同時にカンナさんも反対方向へ離れた。
手首を繋ぐ短いワイヤーが張り、二人とも引き戻される。今度は肩と肩がぶつかった。
「ひゃっ!」
「だから急に動くな!」
「カンナさんも動いたでしょう!」
「私はあなたが下がったから――」
「お、お二人とも! 落ち着いてください!」
その声で、私たちは同時に入口を見た。
キリノさんが黒いケースを抱えたまま固まっている。
カンナさんは何も言わなかった。
繋がれた左手を一度見る。
私を見る。
自分がさっき触れた場所を思い出したのかすぐに目を逸らす。
それから、キリノさんへ向き直った。
「……キリノ」
怒鳴ってはいない。しかしその方が怖かったのかキリノさんの背筋が一瞬で伸びる。
「は、はいっ!」
「今すぐ外せ」
「はい!」
「今すぐだ!」
「はいっ!」
キリノさんがケースを台へ置き留め具を外す。中には先ほどの発射装置らしいものと予備のワイヤー、説明書が収められていた。
右側を探し、左側を探し、説明書を持ち上げその下まで覗き込む。
手の動きが少しずつ遅くなる。
「……ありません!」
「何?」
「解除端末が、入っていません!」
カンナさんの声が一段低くなった。
「解除できない装置をなぜ持ってきた」
「装備開発課から届いたものをそのまま運んできました!」
「確認しなかったのか!」
「未開封のまま局長へ届けるよう指示がありましたので!」
「ではなぜ開いた」
「コードが引っかかってしまいまして!」
「なぜ安全装置が外れていた」
「それは、本官にも……」
「分からないで済むと思うか!」
「済まないと思います!」
「返事だけはするな!」
「はい! あっ」
キリノさんが両手で口を押さえた。
カンナさんは何か言いかけたが途中でやめた。大きく息を吸い、吐く。怒鳴り続けても手錠は外れないと判断したらしい。
「装備開発課へ連絡しろ。解除端末を持ってこさせるんだ」
「あっはい!」
キリノさんが慌てて端末を取り出す。
その間にカンナさんはようやく机から身体を離した。私たちは互いの手首を見ながら、今度は声を掛け合ってゆっくり立つ。
右手首を覆っているのは銀色の太い金属環だった。カンナさんの左手首にも同じものがあり、その間を三十センチほどの黒いワイヤーが繋いでいる。
金属環には赤いランプが点灯していた。
「少しだけ引いてみてもいいですか」
「ああ。ゆっくり頼む」
先ほどとは違い、互いに手首を見ながら距離を取る。
ワイヤーはすぐに伸び切った。指一本分も余裕が増える様子はない。
「かなり短いですね」
「逃走者同士の行動を制限する装備なのだろう。長ければ意味がない」
「それは分かりますけど……」
手を下ろすと、カンナさんの手の甲へ私の指が触れた。
同時に離す。
今度はどちらも大きな声を出さなかった。
「局長!」
キリノさんが端末を両手で持ったまま、こちらを見る。
「装備開発課へ繋がりました!」
「貸せ」
「はい!」
端末を受け取ろうとしてカンナさんが右手を伸ばそうとすry。私も少し前へ出なければ届かない。
ほんの数分前ならそれだけでまた手首を引っ張り合っていたかもしれない。けど今はカンナさんがこちらを一度見てから動き私も合わせて椅子の横を回った。
「尾刃カンナだ。状況は聞いているな」
通話口から、慌てた声が返ってくる。
カンナさんの表情がさらに険しくなった。
「原因の説明はあとでいい。解除方法を教えろ」
短い返答。
「専用端末が必要なのは聞いた。そちらから持ってこられる者はいないのか」
また返答。
「では、中央保安室の予備を使う。……何?」
カンナさんが金属環の赤いランプを見る。
「私の認証情報?」
今度の返答は長かった。
聞いている途中でカンナさんの耳が少しずつ後ろへ倒れていく。
「つまり、この装置は私の認証情報を読み取り通常の訓練モードから実戦用の最高警戒設定へ切り替わった。そのため中央保安室の端末でも解除できないと、そういうことか」
確認する声だけは妙に落ち着いていた。それがかえって嫌な予感を強くする。
「強制的に切断した場合は」
返事を聞いたカンナさんが、しばらく黙った。
「……分かった。担当者が戻り次第すぐこちらへ来させろ」
通話を切る。
端末を持ったまま動かない。
「カンナさん」
「切断はできない。ワイヤーに一定以上の圧力が加わると両方の金属環が手首を締めつける仕組みらしい」
「では、解除端末を待つしかないんですか?」
「ああ」
「どのくらいです?」
カンナさんが答えない。
横でキリノさんまで視線を逸らした。
「……どのくらいですか?」
「担当者は、自治区外で行われている合同研修へ参加している」
「戻るのは」
「明日の午前八時だ」
壁の時計を見る。
まだ九時半にもなっていない。
「明日?」
「..ああ」
「このまま?」
「……そうなる」
急に手首の重さが増した気がした。
今までは外すことしか考えていなかったのに翌朝までと言われた途端それまで考えずに済んでいたことが次々と頭へ浮かんでくる。
食事。
着替え。
洗面。
それから、夜。
「寝る時も……?」
カンナさんの肩がわずかに強張る。
「今、それを考えさせるな」
「カンナさんも考えたんですね」
「あなたが口にしたからだ!」
「す、すみません。でも、考えないわけにはいかないでしょう」
「分かっている。分かっているから、少し考えさせてくれ」
カンナさんは空いている手で眉間を押さえ、長い息を吐いた。
怒っているというより疲れているように見えた。
キリノさんが恐る恐る手を上げる。
「あの、本官にできることがあれば……」
「ある」
「何でしょう!」
「この装置をどうにかして外す方法を探せ。装備開発課、中央保安室、製造元、連絡できるところすべてに確認しろ」
「はい!」
「それから、レナさんが一晩ここに残ることになった場合に備えて、必要なものを――」
机の端末が鳴った。
カンナさんが目を向ける。表示された発信者を見た瞬間、先ほどまでの困り果てた表情が消えた。
「生活安全局からだ」
通話を取る。
「カンナだ。……寮には?」
短い返事のあと、カンナさんの目つきが変わる。
「部屋の状態は。争った形跡はあるか。……分かった。現場には触れるな。周辺の監視映像を確保しろ。私も向かう」
通話を切ると同時に立ち上がる。
「わっ」
腕を引かれ、私も椅子から立ちかけた。
カンナさんがすぐに動きを止める。
「すまない。急に立ってしまって」
「いえ。何かあったんですか?」
「彼女が寮からいなくなった。机の上に端末を残したままだ。部屋の扉も開いていたらしい」
カンナさんは机の横から拳銃を取りホルスターへ収める。続けて右手で上着を整えたところで私たちの手首を繋ぐワイヤーが目に入った。
その動きが止まる。
「……レナさんを置いて現場へ急行したいのだが」
「どうやってですか?」
「――」
カンナさんが自分の左手を見る。
私も右手を少し持ち上げた。
「右手だけ置いていけるなら、そうしますけど」
「ふざけている場合ではない」
「ふざけていません。私だって困ってます」
言い返した声が思っていたより大きくなった。
さっきまでは恥ずかしさと驚きばかりだった。けれど、あの子がいなくなったと聞けば笑ってはいられない。一昨日、廊下で見た怯えた顔が頭から離れなかった。
「私も連れていってください」
「捜査へ一般人を同行させるわけにはいかない」
「けれど、このままではカンナさんも行けません」
カンナさんはすぐには答えなかった。
反対する言葉を探しているようにも、私が強がっていないか見ているようにも見えた。
やがて、諦めたように息を吐く。
「分かった。ただし現場では私の指示に従ってもらう。勝手に動かない。危険を感じたら私の後ろに隠れること」
「はい」
「返事が軽い」
「ちゃんと聞いています」
「ならもう一度言う。絶対に――」
「カンナさん!」
キリノさんの声が割って入る。
「今度は何だ!」
「移動するのでしたら、本官も同行します! この装置を誤作動させた責任がありますので!」
「お前には、解除方法を探せと言ったはずだ」
「ですが...」
「これ以上、誤作動を増やされてたまるか!」
「もう起こしません!」
「一度目も起こすつもりはなかっただろう!」
キリノさんが口を閉じる。
カンナさんは疲れたように目を閉じたものの、今度は怒鳴らなかった。
「解除できる者を見つけ次第、すぐに連絡しろ。それが今のお前の仕事だ」
「……はい」
「それと今回の件が外へ漏れないようにしろ」
「手錠の件でしょうか?」
「ほかに何がある」
「すでに廊下にいた公安局の方が何人か見ていました」
カンナさんの目がゆっくり開く。
扉の方を見る。
閉じ切っていなかった。
数センチほど開いた隙間の向こうに誰かの帽子が見えた気がしたが、すぐに消えた。
「……あとで全員呼べ」
「口止めですか?」
「事情聴取だ」
低い声だった。
私は笑いそうになったが今笑えば確実に怒られる。唇を噛んで堪えていると、カンナさんがこちらを見た。
「何がおかしい」
「何でもありません」
「笑っているだろう」
「笑っていません」
「こちらを見て言え」
「今はちょっと無理です」
カンナさんが先に目を逸らした。
「……もういい。行くぞ」
今度は急に歩き出さず私が立つのを待つ。
並んで扉へ向かうと一歩目だけは歩幅が合わなかった。手首を軽く引かれ私が足を速める。二歩目もまだ少しずれた。
三歩目でようやく同じ速さになった。
局長室を出る直前カンナさんが小さな声で尋ねる。
「走れるか」
「たぶん」
「たぶんはやめろ」
「カンナさんが転ばない速さなら」
「それはこちらの台詞だ」
顔を見合わせる。
今度はどちらも言い返さなかった。
廊下の先で公安局の生徒たちが慌てて視線を逸らす。私たちの手首の間では、黒いワイヤーが隠しようもなく揺れていた。