金融会社の社長・亀山大蔵が、D.U.のオフィスビルにある自社オフィスで撲殺された。

 容疑者として浮上したのは、亀山と金銭的・個人的なトラブルを抱えていた三人の少女。

 公安局の人手不足にかこつけて捜査に駆り出されることになった生活安全局の合歓垣フブキと中務キリノは、三人の証言をもとに捜査を開始する。

 ICカードの履歴、駅の監視カメラ、店のレシート、バスの運行記録。日常の中に存在する無数の記録を辿りながら、二人は容疑者の行動を検証していく。

 だが調べを進めるほど、交通機関の複雑なシステムや曖昧な記録が捜査を翻弄していく。記録に残ることと、実際にそこにいたことは本当に同じなのか。

 少女たちの証言と電子記録が交錯する中、フブキたちは事件の裏に隠された盲点へ迫っていく。

 ブルアカの二次創作である理由があんまりない自称本格派ミステリーがここに始まる。

1 / 1
Q.ブルアカの二次創作である必要はありますか?
A.正直ありません。

Q.じゃあなんでブルアカの二次創作なんですか?
A.フブキとキリノがカッコよく事件を解決する話が書きたかったからです。


記録と証明の狭間

 その日は、金曜の夜にしては人通りが妙に多かった。

 

 雨上がりのD.U.の中心街は、濡れたアスファルトにネオンが反射し普段よりも明るい雰囲気を纏っている。飲食店の呼び込みが声を張り上げ、タクシーが絶え間なく客を吐き出し、生徒たちの笑い声がビルの谷間を漂っていた。

 

 パトロール中の合歓垣(ねむがき)フブキは、雑踏の中を縫うように歩きながら、制服の襟元をわずかに緩めた。六月とはいえ蒸し暑い。交番からここまで歩いただけで背中に汗が滲んでいた。

 

 同僚の中務(なかつかさ)キリノとは数分前に交差点で別れたばかり。どこかいいタイミングで脇道にでも逸れていつも通りサボりでもしてやろうか、と思いながら良い表通りからの離脱場所を物色しながら歩く。

 

 その時だった。

 

『本部からD.U.警邏(けいら)中の隊員へ一斉。大塩(おおしお)通三丁目の高砂(たかさご)ビルより男性一名死亡、事件性ありとの入電。付近の隊員は至急現場へ急行のこと』

 

 無線からは平和に一日を終わらせてくれない悪夢の通告が流れてきた。なにせ大塩通三丁目は目と鼻の先。頑張れば現場のビルも見通せる位置にフブキは居る。

 

 軽い内容なら他の隊員に任せてしれっと立ち去っても良いのだが、流石に殺人事件ではそうも言っていられない。気持ちを切り替えると現場に向かって走り出した。

 

 

 〇

 

 

 ものの数分もしないうちに現場のビルにたどり着く。どうやら一番乗りはフブキのようだった。ビルに入ると通報者であろう男性がフブキに気付いて駆け寄ってくる。

 

「警察の方ですか?」

 

「うん。それで、現場は?」

 

「こちらです。ご案内しますね」

 

 男性は平静を装ってはいるが、声はところどころ震えており、歩く足取りも少し覚束ない。フブキは、男性が倒れてしまわないか心配になりながらも、その後ろを黙ってついていった。

 

 二階へ階段を上がり目の前のドア、その横には亀山金融と書かれた小さなプレートが掛かっている。男性はドアを開けて中に入るようにフブキへ促す。

 

 促されるままに部屋の中に入ると、まず感じたのはこじんまりしているな、という間取りへの感想。金融会社と言うのだから大きなオフィスを想像していた。しかし、部屋には応対用のスペースと社長が座るであろう豪勢な椅子、それから事務用のパソコンの乗ったデスクがあるのみ。

 

 そして、そのデスクの横で恰幅のいいオートマタの男性が倒れていた。頭部の機械がぐちゃぐちゃとなり、生命活動は既に停止している。こういったオートマタの人物の場合は血液が出ないため、捜査の際には障害となる。

 

 返り血の着いた服や凶器の処分を考えなくて良いのは犯人にとってはこれ以上ない好都合である。このため捜査が難航しがちで公安局の人手不足に一役買っている。

 

 視線を遺体から横に向けると、それなりの大きさの金属製のハンマーが落ちていた。恐らくこれで被害者の頭部を叩き壊したのだろう。

 

 こうして凶器を現場になんら細工せずに置いていけるのがオートマタ殺人事件の厄介なところだ。フブキは頭を掻いて厄介なことになったな、と思った。

 

 というのも、公安局の人手不足が原因で今は現場に最初に駆け付けた生活安全局などの他の部局の隊員も捜査に加えられるのが常になっている。

 

 そして現状。最初に駆け付けたのはフブキなので捜査に加えられるのは火を見るよりも明らかである。そして事件はよりにもよって捜査の難航するオートマタ殺人事件。

 

 次にゆっくりドーナツにありつけることができる時間はいつになるのか、と天井を仰ぎ見ながらフブキは思った。

 

「現場はここですか!?」

 

 そんなフブキの耳に聞き慣れた声が入ってくる。振り返って入口に目をやると、そこには少し前に行動を別にした中務キリノの姿があった。

 

 肩で息をしながら現場に入ってくるキリノを見たフブキは、彼女を事件の捜査に巻き込むことを心の中で決めた。

 

 

 〇

 

 

 キリノの到着からまた幾分か経った頃、ようやく公安局の生徒が数名到着し本格的に現場保全と捜査が始まった。

 

 公安局の生徒たちは到着するなり慣れた様子で規制線を張り、ビルの出入口に立哨を配置し始めた。狭い事務所の中にも数人が入り込み、手袋を嵌めながら遺体や周辺の確認を進めていく。

 

 その様子を横目に見ながら、フブキはデスク脇にしゃがみ込んだ。

 

「被害者の身元、分かる?」

 

 近くでタブレットを操作していた公安局の生徒が顔を上げる。

 

「はい。ここの代表取締役、亀山大蔵(かめやま たいぞう)。オートマタ登録情報とも一致しています」

 

「死亡推定時刻は?」

 

「頭部損傷が激しいので正確にはこれからですが、恐らく十九時以降の可能性が高いかと」

 

「ふぅん」

 

 フブキは気のない返事をしながら狭い室内を改めて見回した。

 

 荒らされた形跡は薄い。棚は整っているし、金庫らしきものも閉じられたまま。デスクの上には飲みかけのコーヒーが置かれているがほとんど減っていない。

 

「強盗って感じじゃなさそうですね!」

 

 キリノがメモ帳を片手に言う。

 

「そうだねぇ」

 

 フブキは気の抜けた声で返しつつ、デスク上のパソコンに視線を向けた。

 

 画面はスリープ状態になっていたが、まだ電源は入っている。フブキがマウスを少し動かすと、モニターは銀行の送金画面らしきウィンドウを映し出した。

 

 複数の入力欄が並び、そのうちいくつかは既に記入されている。しかし最後の認証操作だけが行われていない状態で止まっていた。

 

「送金途中、ですか?」

 

 キリノが首を傾げる。

 

「みたいだねぇ」

 

 フブキは椅子へ目を向けた。デスクチェアは後ろへ半端に引かれている。完全に立ち上がったというより、慌てて席を離れたような位置だった。そして遺体はそこから数歩離れた応接スペース寄りで倒れている。

 

 フブキは腕を組んだ。

 

「仕事中に誰か来たのかな」

 

「応対しようとして立ち上がった、ってことですか!?」

 

「たぶんね」

 

 応接机へ視線を向ける。特に資料などもなく綺麗な状態。最初から来客を迎えるつもりだったわけではなさそうだった。

 

 突然の訪問者。だが被害者は逃げてもいないし、通報しようとした形跡もない。つまり相手は、少なくともすぐ命の危険を感じる相手ではなかった、と考えるのが普通だ。普段から付き合いのあった取引相手か、あるいは貸し付けている融資先の人物か。

 

「第一発見者さん」

 

 フブキは入口付近で待機していた男性へ振り返った。

 

「は、はいっ」

 

 公安局の生徒から事情聴取を受けていた別の男性が軽く会釈した。

 

 濃紺のスーツに細い眼鏡。年齢は三十代後半ほどだろうか。

 

手柄(てがら)銀行、法人営業部の別府(べふ)です」

 

「で、その別府さんはどうしてここに?」

 

「本日中に実行される予定だった振込がありまして」

 

「振込?」

 

「はい。かなり大口です。本来なら二十時までには着金確認が取れる予定だったんですが、処理が行われていなかったので……」

 

 そこで別府は遺体へ視線を向け、小さく息を呑む。

 

「まさか、こんなことになっているとは」

 

「その送金って、この画面のやつ?」

 

 フブキがモニターを示すと、別府は頷いた。

 

「恐らく。口座番号が一致していますので」

 

「へぇ」

 

 フブキは改めて画面を見る。送金先口座と金額などの主要な事項は全て入力済み。あと一操作で送金が完了する状態。

 

「つまり社長さんは仕事中だった」

 

「ええ」

 

「そこへ誰か来た」

 

「その可能性が高いかと」

 

 フブキは遺体とデスクの位置関係を見比べた。デスクから入口までは数メートル。

 

 被害者は途中まで歩き、応接スペースの手前で襲われている。頭部の損傷は一撃目から致命傷級。争った形跡もほとんどない。

 

「顔見知りかなぁ」

 

 フブキがぼそりと呟く。

 

「え?」

 

「知らない相手なら、普通もっと警戒するでしょ」

 

 特に金融業ならなおさらだ。恨みを買うことも多い。夜、突然来訪した相手へ無防備に近づくとは考えにくい。

 

「知ってる相手だから、席を立って応対した」

 

 キリノが小さく言う。

 

「たぶんね」

 

 フブキは軽く頷いた。その時、別の公安局の生徒が入口から顔を出した。

 

「周辺聞き込みです。正確な時刻までは分かりませんが、十九時十五分前後に、このビルへ入るフード姿の怪しい人物を見たという証言がありました」

 

「性別は?」

 

「不明です。背格好だけなら女性にも見えたと」

 

「便利な証言だねぇ」

 

 フブキはため息を吐きながら頭を掻く。

 

 金曜夜の繁華街。人通りは多く監視カメラも死角だらけ。おまけに被害者はオートマタ。そして顔の見えないフード姿の怪しい人物。

 

「ほんと、長引きそう」

 

 フブキは窓の外にぼやける繁華街の明かりを遠くに眺めながらそう零した。

 

 

 〇

 

 

 高砂ビルでの初動捜査が一段落した頃には、日付は既に変わっていた。

 

 ヴァルキューレ警察学校の一角に設置された捜査本部は、深夜にもかかわらず慌ただしい空気に包まれている。ホワイトボードには被害者の氏名と現場見取り図、時系列のメモが次々と書き込まれ、机の上では端末が絶え間なく通知音を鳴らしていた。

 

 そんな喧騒の中、フブキは紙コップのぬるいコーヒーを片手に大きく欠伸をする。

 

「帰りたい……」

 

「まだ始まったばかりですよ!」

 

 隣でキリノが勢いよく言った。

 

「普通こういうの、これからが山場です! とかじゃない?」

 

「全然やる気ないですね」

 

「だってもう二時だよぉ」

 

 机に突っ伏しかけたところで、前方の大型モニターに資料が表示された。

 

 部屋の空気が少しだけ引き締まる。壇上代わりの位置に立った公安局の主任捜査官が咳払いをした。

 

「現時点で被害者・亀山大蔵との間に金銭的、あるいは個人的トラブルが確認されている人物を共有する。いずれも参考人段階だ。まだ被疑者認定ではない」

 

 モニターに最初の顔写真が映る。

 

 ミレニアムサイエンススクールの制服を着た少女だった。肩までの銀髪に、どこか神経質そうな目つき。

 

「一人目。美山(みやま)ツキ。ミレニアムサイエンススクール所属」

 

 画面が切り替わり、研究資料や設計図らしき画像が表示される。

 

「個人開発者として複数の試作機を制作。亀山金融から研究資金の融資を受けていた記録あり」

 

「研究者タイプかぁ」

 

 フブキがぼそりと漏らす。

 

「追加融資を巡って被害者と揉めていた可能性が高い。関係者証言では、最近かなり精神的に追い詰められていたとのこと」

 

「追い詰められていた、ですか」

 

 キリノが小さく呟く。

 

「開発競争で後れを取ったらしくてな。資金繰りも悪化していたらしい」

 

 主任が淡々と続ける。画面には、閉鎖された研究室の写真が映し出された。

 

 次に二人目の資料へ切り替わる。砂色の短髪に、どこか鋭い目をした少女。

 

宮乃浜(みやのはま)シロ。元アビドス高等学校所属」

 

「元?」

 

 キリノが反応する。

 

「アビドス自治区の債務問題悪化時に転校している。その後結局中退したらしい」

 

 モニターには荒廃したアビドス地区の写真と、古い新聞記事が並ぶ。

 

「転校後も、被害者に対しアビドス関連の債務の減免を何度か直訴していたことが確認されている」

 

「直訴って……」

 

「かなり激しく言い争っていた、という証言もある」

 

 室内が少しざわつく。フブキはコーヒーを飲みながらモニターを眺めた。感情的な動機としては今のところ一番分かりやすい。

 

「最後、三人目」

 

 画面が切り替わる。今度はトリニティ総合学園の制服を着た少女だった。長い黒髪に上品な身なり。しかし写真の表情はどこか硬い。

 

林崎(はやしさき)エマ。トリニティ総合学園所属」

 

 表示されるのは高級茶器店や洋菓子店の購入履歴。

 

「被害者から複数の借入あり。返済状況は悪化傾向」

 

「トリニティっぽい買い物ですね!」

 

 キリノが小声で言う。

 

「悪い意味でねぇ」

 

 フブキが返す。

 

「周囲には裕福な家庭出身として振る舞っていたらしい。実際にはかなり無理をしていた可能性がある」

 

 主任はそこで一度言葉を切った。

 

「以上三名。共通点は全員、被害者との間に金銭トラブルを抱えていたこと。そして事件当日、所在確認が完全には取れていないことだ」

 

 モニターが一度消えると、今度はやや不鮮明な映像が映し出される。

 

「これは現場近くのコンビニエンスストアの店先の監視カメラの映像だ。時刻は十九時ニ十分十八秒。ここで現場のビル方向から八木(やぎ)駅方向へ走るフード姿の人物の姿が映っている」

 

 主任はレーザーポインターで映像の中央付近に不鮮明に映る人影を指し示す。確かにフードを被り、顔を見えなくした人物が焦ったように走っているのが見て取れた。

 

「現場付近での聞き込みで十五分頃にビルに入った人物を見たと証言した人物に確認したところ、不鮮明で確かなことは言えないが、この映像と同じような服装だったとのことだ」

 

 手元の資料を確認しながら主任は続ける。

 

「また、検死の結果から死亡推定時刻は十九時から十九時三十分までの間と確認された。よって、以上から犯行時刻は十九時から十九時ニ十分までの間と断定する」

 

 主任が話し終えると画面が暗転する。部屋に一瞬だけ静寂が落ちた。容疑者の三人とも動機はある。だが、まだ誰が犯人とも言えない。

 

 フブキは紙コップの底に残った冷めたコーヒーを飲み干し、小さく息を吐いた。

 

「うわぁ。絶対面倒なやつだ、これ」

 

 

 〇

 

 

 翌朝。

 

 公安局庁舎の窓から差し込む朝日は、徹夜明けの捜査員たちにはあまりにも眩しすぎた。

 

 捜査本部の空気は、深夜の慌ただしさとは別種の重さに包まれている。眠気と疲労、それでも進めなければならない事務処理の山。机の上では栄養ドリンクの空き瓶が転がり、端末画面には報告書の未送信通知が並んでいた。

 

 フブキはそんな中、ソファへ半分沈み込むような姿勢でぼんやり天井を見上げている。

 

「帰りたい……」

 

「フブキ、それ昨日からずっと言ってません?」

 

 向かいの席で資料を整理していたキリノが呆れ顔を向ける。

 

「だって帰れてないし」

 

「私はちょっと楽しくなってきました!」

 

「若いねぇ」

 

「同い年でしょう!?」

 

 フブキが力なく返したところで、捜査本部のドアが開いた。

 

「参考人一人目、連れてきました」

 

 公安局の生徒に促され、少女が室内へ入ってくる。

 

 ミレニアムサイエンススクールの制服。整えられてはいるが、ところどころ寝不足を隠しきれていない。美山ツキだった。

 

 彼女は室内を一瞥すると、どこか警戒した様子のまま椅子へ腰掛ける。

 

「参考人って聞きましたけど」

 

「うん、まだそう」

 

 フブキが軽く手を振る。

 

「そんな怖い顔しなくて大丈夫。別に今すぐ逮捕とかじゃないから」

 

「ヴァルキューレがそれ言っても説得力ないです」

 

「辛辣だなぁ」

 

 キリノが慌てて間に入る。

 

「え、えっと! 本日は事件当日の行動確認が中心ですので!」

 

「……」

 

 ツキは小さく息を吐き、観念したように視線を落とした。

 

 机の上には既に資料が並べられている。

 

 融資契約書。研究計画書。追加融資却下通知。そして、亀山大蔵の名前。

 

 フブキはその一枚を指先で軽く叩いた。

 

「まず確認なんだけど、亀山社長とは面識あるよね?」

 

「あります」

 

「最後に会ったのは?」

 

「一週間くらい前です」

 

「内容は?」

 

「追加融資の相談」

 

「で、断られた」

 

「はい」

 

 短い返答。だが、その声にはわずかに棘が混じっていた。

 

「研究、かなり進んでたんだ?」

 

「完成直前でした」

 

 ツキの返事は即答だった。

 

「あと少しだったんです。本当に、あと少しで」

 

 その声音だけは、先ほどまでの警戒よりもずっと感情が強かった。

 

「でも資金が尽きた」

 

「試作機の維持費が予想以上で」

 

 彼女はそこで言葉を切る。しばらく黙った後、ぽつりと続けた。

 

「その間に、別チームが類似技術を先に発表しました」

 

 キリノが小さく顔を曇らせる。

 

「特許も、全部向こうに取られました。結局手元に残ったのは借金だけです」

 

「そっか」

 

 フブキはそれ以上軽口を挟かなかった。研究者にとって、先を越されるというのがどれほど致命的かくらいは分かる。

 

「じゃあ次。事件当日の十九時頃だけど」

 

 フブキは資料を一枚めくる。

 

「どこで何してた?」

 

 ツキは数秒だけ黙った。だが視線は逸らさない。

 

「地下鉄です」

 

「地下鉄?」

 

「はい。移動してました」

 

「どこからどこへ?」

 

「それ、細かく必要ですか?」

 

「必要だから聞いてるんだよぉ」

 

 フブキは気の抜けた声で返す。だが、その目だけは少しも緩んでいなかった。

 

 ツキはフブキの視線を受け止めたまま、小さく息を吐いた。

 

西宿(にしじゅく)駅から乗りました」

 

「何時くらい?」

 

「十九時十一分です」

 

 フブキはメモを取る手を止めて顔を上げる。

 

「やけに具体的に覚えてるんだね」

 

「十九時十三分発の電車に乗ろうとしたんですが、改札口で時間を確認したらあと二分で間に合わないなと思って次の十九分発に乗ったので覚えているんです」

 

 一応納得したフブキは、手元のメモに適当に書き込みながら続きを促す。

 

「で、十九分発に乗ってどこまで?」

 

霞ヶ丘(かすみがおか)駅へ向かいました」

 

「途中下車とかは?」

 

「してません」

 

「誰かと一緒だった?」

 

「いいえ。一人です」

 

 一通りの質問が終わり、一瞬会話が途切れる。次は何を聞こうかとフブキが考えていると、ツキの方が先に口を開いた。

 

「途中でICカードを落としました」

 

 その言葉で、フブキの手が止まる。

 

「落とした?」

 

「はい」

 

「どこで?」

 

「車内です。気付いたのは降りる時でした」

 

「その時どうしたの?」

 

「霞ヶ丘駅で駅員に申し出ました」

 

 フブキは何気ない顔で続きを待つ。

 

「で?」

 

「その後、車内で見つかったと連絡が来たので」

 

「取りに行った?」

 

「はい」

 

「どこまで?」

 

新町(しんまち)駅です」

 

 キリノが感心したように呟く。

 

「ちゃんと戻ってきたんですね」

 

 しかし、フブキは問答の途中でほんの僅かに引っかかりを覚えていた。まだ言語化できない程度の違和感。けれど、どこか妙に整理されすぎている。

 

「受け取った後は?」

 

「霞ヶ丘駅に戻って改札を通って帰りました」

 

 フブキは「ふぅん」とだけ返し、メモを閉じた。現時点では、証言自体に決定的な破綻はない。むしろかなり具体的だ。

 

 地下鉄に乗りICカードを紛失。そして発見され受け取る。確認しようと思えば裏も簡単に取れるだろう。だが逆に言えば、確認されることを前提に話しているようにも聞こえた。

 

「亀山社長を殺したいと思ったことはある?」

 

 不意にフブキが言った。

 

 キリノが「フ、フブキ!?」と慌てる。

 

 ツキは一瞬だけ目を見開いた。

 

「思ってません」

 

「恨んではいたよね?」

 

「それは」

 

 彼女は数秒黙り込む。

 

 そして静かに答えた。

 

「ありました」

 

「どれくらい?」

 

「人生を壊されたと思うくらいには」

 

 部屋の空気が少しだけ重くなる。キリノが言葉に詰まる横で、フブキはただ頷いた。

 

「なるほどねぇ」

 

 それ以上は追及しない。少なくとも今は。

 

「じゃ、とりあえず今日はここまで」

 

「帰っていいんですか?」

 

「まだ参考人だからね」

 

 フブキは椅子にもたれながら答える。

 

「ただし、しばらく連絡つくようにはしといて」

 

「分かりました」

 

 ツキは立ち上がる。だが退室する直前、一瞬だけ立ち止まった。

 

「あの」

 

「ん?」

 

「地下鉄の記録、ちゃんと残ってると思います」

 

 フブキは軽く片眉を上げた。

 

「だから、私はやってません。確認したいならこのICカード、証拠品として預けます」

 

「分かった。それじゃあ預からせてもらうね」

 

 ICカードをフブキに渡すと、ツキは静かに部屋を出ていった。

 

 ドアが閉まる。しばらく沈黙。先に口を開いたのはキリノだった。

 

「どう思います?」

 

「うーん」

 

 フブキは椅子を軋ませながら天井を見上げる。

 

「まだ分かんない」

 

「でも、地下鉄の記録まで自分から言うってことは、自信あるんじゃ」

 

「かもねぇ」

 

 フブキは気のない返事をした。

 

 

 〇

 

 

 ツキと入れ替わるようにして取調室へ入ってきた少女を見て、フブキは「おぉ」と小さく声を漏らした。

 

「なんかすごいアビドスっぽい」

 

「どういう意味ですか、それ」

 

 その少女、宮乃浜シロは、呆れたように言いながら椅子へ腰掛ける。

 

 砂色の髪に日に焼けた肌。制服こそ別の学校のものだったが、どこか乾いた荒野の空気を纏っているような印象があった。

 

「いやぁ、偏見」

 

「最低ですね」

 

「否定できない」

 

 フブキが即答すると、横のキリノが慌てて咳払いする。

 

「え、えっと! 本日は事件当日の行動確認を中心にお話を」

 

「分かってます」

 

 シロは淡々と答えた。ツキと違って、警戒心を剥き出しにはしていない。だがその代わり、どこか諦めたような空気がある。

 

 フブキは資料をめくった。

 

「じゃ、まず確認。亀山大蔵社長とは面識あるよね?」

 

「あります」

 

「何回くらい会ってる?」

 

「数えきれないくらい」

 

「へぇ」

 

「アビドスの借金の件で、何度も話しに行ってたので」

 

 シロの声色は平坦だった。だが、借金という単語だけ、ほんの少し硬くなる。

 

「減免のお願い、だっけ?」

 

「はい」

 

「断られた?」

 

「毎回」

 

 即答だった。キリノが小さく眉を下げる。

 

「まぁ、向こうは仕事だったんでしょうけど」

 

 シロは肩を竦める。フブキは何も言わず、数秒だけ相手を観察した。怒りはある。だが、それを長い時間かけて飲み込んできた人間の顔だった。

 

「でも、もう転校したあなたには関係ないことだよね。どうしてそんなに熱く?」

 

「それは……。今もアビドスに残っている子たちへの贖罪でしょうか」

 

 シロは少し悩んでからぽつりと言葉を零した。

 

「贖罪?」

 

「私は途中で耐え切れずにアビドスを出てきました。アビドスへの愛着は人一倍強いと自負していたにも拘らずです」

 

「それで、自分が減免を訴えかけて負担を減らしてあげよう、と」

 

「そういうことです」

 

 おおよその事情は掴めた。つまり、アビドスを愛していた自分と、それでいて転校という形でアビドスから逃げ出した自分との二律背反に苦しんでいたのだろう。

 

 シロの瞳が揺らぎ、多少の動揺が感じられるのを見たフブキは、少しだけ落ち着くのを待ってから質問を続けた。

 

「事件当日の十九時頃はどこに居た?」

 

「バスに乗ってました」

 

「どこからどこまで?」

 

「八木駅前の停留所から乗って、中央営業所方面へ」

 

「具体的には何時頃?」

 

「十九時十分発のバスです」

 

 即答だった。少しは考える素振りを見せても良いところだったので、フブキは突っ込んだ質問をした。

 

「ちゃんと覚えてるんだね」

 

「三十分間隔の路線ですからそりゃ覚えてますよ」

 

 シロは疑われたことが気に食わなかったのか、不機嫌そうにそう返す。フブキはそれに動じずメモを書きながら続きを促す。

 

「で、その後は?」

 

「途中の停留所で降りました」

 

「どこ?」

 

桝寺(ますでら)です」

 

 フブキは頭の中でバスの路線図を引く。詳しくは後で確認するとして、確か八木駅からニ十分程の場所だったはずだと思い至り、話の続きを促す。

 

「何しに?」

 

「買い物です」

 

「夜に?」

 

「ええ」

 

 シロは声色だけでなく、表情も不機嫌そうなものになった。

 

「そんなに変ですか?」

 

「いやぁ、八木駅の辺りでも店多いし」

 

 フブキは気のない調子で返す。

 

「ちなみに、バスは誰かに見られてたりする?」

 

「さぁ」

 

「監視カメラとか」

 

「あるんじゃないですか」

 

「随分適当だねぇ」

 

「普段そんなの気にしてませんから。犯罪者ならともかく」

 

 シロは即答した。ツキと違い、記録が残っているはずという話を自分から全くしない。そこが逆に自然にも見える。

 

「乗る時にICカードを使ったりは?」

 

「現金で精算しています」

 

 フブキの方から記録の話を引き出そうとしたが、それも失敗に終わった。そう思ったその時。

 

「あぁ、そういえば乗車する時にタッチしました。でも残金が足りなくて、車内でチャージが出来ないので、降りる時はタッチせずに現金で支払ったんです」

 

 シロは思い出したかのようにそう発言した。確かにバスに飛び乗ってICカードをタッチしたら残金不足というのはよくある話だ。

 

「なるほどね。それじゃあ一応証拠品としてカードを預かっても良い? 記録を確認したくて」

 

「はい。大丈夫です」

 

 シロは持っていた財布を開いてICカードを取り出す。それを受け取ると、フブキは質問を続けた。 

 

「亀山社長を殺したいと思ったことは?」

 

 シロは少しだけ黙り、視線を逸らして静かに答えた。

 

「恨んではいました」

 

「どれくらい?」

 

「アビドスを壊した人間の一人だと思うくらいには」

 

 静かな声だった。怒鳴りもしない。泣きもしない。その代わり、乾いた砂のように感情が擦り切れている。

 

「でも」

 

 シロはそこで一度言葉を切る。

 

「だからって、殺して解決するとは思ってません」

 

 フブキは小さく頷いた。

 

「なるほどねぇ」

 

 そして椅子にもたれかかる。

 

「じゃ、とりあえず今日はここまで」

 

「もういいんですか?」

 

「まだ参考人だからね」

 

 その返答に、シロはほんの少しだけ苦笑した。

 

「さっきの子にも同じこと言ったんですか?」

 

「まぁねぇ」

 

「雑ですね」

 

「よく言われる」

 

 シロは小さく息を吐き、立ち上がる。

 

 そして退室直前、不意に振り返った。

 

「一つだけ」

 

「ん?」

 

「もし亀山大蔵が昨日死んでなくても、誰かがそのうち刺してたと思いますよ」

 

 キリノが息を呑む。

 

 だがシロはそれ以上何も言わず、そのまま静かに部屋を出ていった。

 

 部屋に残った沈黙を、キリノがそっと破る。

 

「今の発言、普通に怖いんですけど」

 

「まぁ、色々と正直な人だったねぇ」

 

 フブキはあてもなく紙コップを揺らして、波打つコーヒーの波紋を見つめていた。

 

 

 〇

 

 

 しばらくしてから扉がノックされる。

 

「三人目、入ります」

 

 公安局の生徒の声とともに、少女が取調室へと入ってくる。

 

 トリニティ総合学園の制服。丁寧に整えられた髪。身なりは完璧に良いところの子のそれだった。

 

 林崎エマ。彼女は一礼すると、静かに椅子へ腰を下ろした。

 

「よろしくお願いします」

 

 声は落ち着いている。だが、どこか硬さが残っていた。

 

「うん、よろしくぅ」

 

 フブキは軽く手を振る。

 

「そんな緊張しなくて大丈夫だから」

 

「は、はい」

 

 エマは小さく頷くが、手元の指は落ち着かないまま組み替えられている。キリノが資料をめくる。

 

「えっと、本日は事件当日の行動についてお伺いしますね」

 

「はい」

 

「亀山大蔵社長とは面識ありますか?」

 

「あります」

 

 即答だった。フブキが僅かに片眉を上げる。

 

「どういう関係?」

 

「個人的な借入の相談です」

 

「借入?」

 

「はい」

 

 エマは一瞬だけ言葉を探すように視線を落とした。

 

「学校生活のために必要な費用があって……。その、足りなくて」

 

「へぇ」

 

 フブキは軽く頷く。

 

「それで社長さんに?」

 

「何度かお願いに行きました。でも、あまり良い返事はいただけませんでした」

 

 声は丁寧だが、内容ははっきりしている。断られ続けた側。

 

「怒ったりは?」

 

 フブキの問いに、エマは少しだけ間を置いた。

 

「怒るというより」

 

 小さく息を吸う。

 

「怖かったです」

 

「怖い?」

 

「トリニティだと貧困というだけでいじめのターゲットになったりするんです」

 

 フブキは思わずメモを取る手を止めてエマの方を見た。

 

「私の家も決して裕福とは言えなかったので、なんとか取り繕おうと必死でした」

 

「それで?」

 

「融資が貰えなくなって怖くなりました。これからどうしようか、と」

 

 じわり、とエマの目尻に涙が浮かぶ。

 

「友達に正直に打ち明けたら軽蔑されるんじゃないか、でもこれ以上はどう頑張っても取り繕えない、そんな葛藤に毎日悩まされて」

 

 エマの声は震え、目尻に溜まった涙が重力に引かれて頬を伝う。

 

「で、でも! 亀山社長を殺そうとは思っていないです! ほ、本当です! 信じてください!」

 

 そう言うと、エマは遂に大粒の涙を零して泣き出してしまった。慌ててキリノが落ち着かせようと背中をさすって優しい言葉を掛ける。

 

 そうして二、三分ほど経った頃、ようやくエマは落ち着きを取り戻した。

 

「大丈夫?」

 

「は、はい。お騒がせしました」

 

 赤くなった目元を擦りながらエマが言う。

 

「それじゃあ質問を続けるね。事件当日の十九時頃は何をしてた?」

 

「外出していました」

 

「どこへ?」

 

「買い物です」

 

「どこで?」

 

西駒井(にしこまい)駅前の商店街です」

 

 フブキはメモをとるふりをしながら視線を上げる。

 

「一人で?」

 

「はい」

 

「証拠とかはある?」

 

 その瞬間、エマの指がわずかに止まった。

 

「えっと、一応その時のレシートが」

 

 エマは財布を取り出すと、いくつか収められているレシートを全て取り出し、一つ一つ確認しながら財布に仕舞っていく。

 

「こ、これです」

 

 そうして手元に残った一枚をエマは差し出してくる。見れば確かに西駒井駅前の商店街の店で買い物をした時のレシートのようだった。

 

「確かに。でもこの時間なら犯行後に八木駅から電車で西駒井駅まで向かったとしてもおかしくはない時間だなぁ」

 

「そ、そんな!」

 

 キリノが慌てて口を挟む。

 

「えっと! まだ確認段階なので! 犯人と決めつけているわけではないですよ!」

 

 キリノはフブキの横腹を肘でつつく。

 

「ご、ごめんね。でもこれだけじゃ確固たる証拠とは言えないんだ。それは事実」

 

 フブキはエマに謝るが、それでいて事実は淡々と述べる。

 

 動揺したエマは所在なく財布を開いたり閉じたりを繰り返す。しかし、そのうちにパッと顔を上げて言った。

 

「あの、西駒井駅には鹿島(かしま)駅から電車で向かったんです」

 

「電車で?」

 

「は、はい、この定期券を使って」

 

 エマは財布からICカードを取り出してフブキに見せる。見れば、鹿島駅から西宿駅までの定期券のようだった。

 

「だからこれに記録が残っていると思います。預けるのでこれで確認してください」

 

 手に持ったICカードをフブキの方に差し出しながらエマは言った。フブキは紙コップを机に置いてカードを受け取る。

 

「じゃ、とりあえず今日はここまで」

 

「え、と。もう、終わりですか?」

 

 少しだけ意外そうな声。

 

「まだ参考人だからねぇ」

 

 フブキは肩をすくめる。

 

「ただし、連絡つくようにはしといて」

 

「分かりました」

 

 エマは立ち上がる。

 

 退室直前、ほんの一瞬だけ足を止めた。

 

「あの」

 

「ん?」

 

「亀山社長は、本当に殺されたんですか?」

 

 キリノが息を呑む。フブキは少しだけ目を細めた。

 

「うん。そこは事実」

 

「そう、ですか」

 

 エマはそれだけ言うと、小さく一礼して部屋を出ていった。

 

 扉が閉まり、流れる沈黙。やがてキリノがぽつりと呟く。

 

「三人とも全然違うタイプですね」

 

「だねぇ」

 

 フブキは天井を見上げる。

 

「でもさ」

 

「はい?」

 

「みんな、ちゃんと殺す理由があるんだよねぇ」

 

 紙コップを机に置く。底に残ったコーヒーの表面が、ゆらりと揺れた。

 

 

 〇

 

 

 最後の取調べが終わった頃には、フブキの集中力は完全に限界を迎えていた。取調室を出た瞬間、張り詰めていた気力の糸が切れたように肩が落ちる。

 

「むり」

 

「フブキ?」

 

「もうむりぃ……」

 

 廊下の白い照明がやけに眩しい。徹夜明け特有の、頭の芯だけが妙に熱い感覚がする。フブキは返事もそこそこに、ふらふらとした足取りで捜査本部へ戻った。

 

 本部内は昼前にもかかわらず、どこか夜勤明けの仮眠室めいた空気が漂っている。机には資料が積み上がり、壁のホワイトボードには被害者・亀山大蔵の名前と時系列が雑多に書き込まれたままだ。

 

 しかし、そんな喧騒すら今のフブキには遠い。部屋の隅に積まれていたパイプ椅子へ近づくと、無言で二脚、三脚と引っ張り出す。

 

「フ、フブキ? 何してるんですか?」

 

「見れば分かるでしょぉ……。ベッド作りぃ……」

 

「ここ捜査本部ですよ!?」

 

「仮眠室が少なすぎるのが悪いのぉ……」

 

 半目のままぼやきながら、フブキは器用に椅子を横一列へ並べていく。そして完成した即席ベッドを見て満足げに頷いた。

 

「よし」

 

「よし、じゃないです!」

 

 キリノの抗議を完全に無視し、フブキはそのままジャケット代わりの上着を丸めて枕にし、ごろんと横になる。パイプ椅子の硬さが背中に食い込むが、もはや気にしていられない。

 

「三十分」

 

「え?」

 

「三十分だけ寝る」

 

「絶対嘘ですよね?」

 

「起こして……」

 

「聞いてください!」

 

 だが返事はもうなかった。数秒後には、フブキは本当に寝息を立て始めている。

 

「早っ!?」

 

 キリノは思わず声を上げた。周囲の捜査員はその様子を見て苦笑している。

 

「もう……」

 

 キリノは呆れたように息を吐き、自分も近くの椅子へ腰掛けた。

 

 流石に横になる勇気はないようだったが、襲い掛かってくる睡魔は誤魔化せなかったようだ。目の前の机へ突っ伏したかと思うと、すぅすぅと小さな寝息を立てて仮眠を取り始めた。

 

 

 〇

 

 

 フブキが目を覚ました時、最初に視界へ飛び込んできたのは、天井の白い蛍光灯だった。

 

 眩しい。それだけをぼんやり思いながら瞬きを繰り返す。背中の痛みが徐々に意識をまどろみの中から現実に引き戻してくる。

 

「んぁ」

 

 掠れた声を漏らしながら身を起こす。丸めていた上着が床へ落ちた。

 

 周囲ではまだ捜査員たちが忙しなく動いている。電話の声。キーボードを叩く音。ホワイトボードへ書き込むペンの音。壁の時計を見ると、時刻は十一時四十七分。

 

「三十分どころじゃないですね」

 

 すぐ近くから呆れた声が聞こえた。見れば、キリノが机へ突っ伏した姿勢のままこちらを見ている。髪が少し乱れていて、頬にはうっすら机の跡まで付いていた。どうやら彼女も相当寝ていたらしい。

 

「キリノも寝てたんじゃん」

 

「わ、私は少しだけです!」

 

「はいはい」

 

 フブキは欠伸を噛み殺しながら立ち上がる。骨が軋むような感覚がした。

 

「で、今どんな感じ?」

 

「公安局の方で引き続き現場周辺の聞き込みと監視カメラの洗い出しをしてるみたいです。あと、私たちには三人のアリバイ確認を任せるって」

 

「うへぇ」

 

 フブキは露骨に嫌そうな声を出した。

 

「でも、やるしかないですよ」

 

 キリノはそう言いながら机の上のメモをフブキに渡す。そこには三人分の名前と証言の内容、それに地下鉄の路線図などが書かれていた。

 

「フブキが寝ている間に纏めたメモです。確認しておいてください」

 

 

【挿絵表示】

 

 

 フブキはメモに目を通す。情報が過不足なく配置されたそれは、まさに優等生のキリノを体現したかのようなメモだった。

 

「まずどこから行きます?」

 

「んー」

 

 フブキは眠たげな目でメモを眺める。

 

「とりあえず、一番確認しやすそうなツキからかなぁ」

 

「西宿駅ですね」

 

「うん。ICカードも忘れずにね」

 

 そう言ってフブキはICカードの入った証拠品封筒を三つ手に取る。この中に入った銀色の簡素なカード。これ一枚に、三人の昨夜の行動記録が残されている。

 

 

 〇

 

 

 昼前の西宿駅は、平日にもかかわらずかなり混雑していた。

 

 改札前では絶え間なく人が行き交い、自動改札の電子音がひっきりなしに鳴っている。スーツ姿の会社員に買い物帰りらしい女性、制服姿の学生と人の流れは途切れることを知らない。

 

「うわぁ、人多……」

 

 フブキはげんなりした顔で呟いた。

 

「ラッシュじゃなくてもこれですか」

 

「D.U.の中心部だしねぇ」

 

 二人は駅事務室のカウンターへ向かい、警察手帳を提示する。対応に出た駅員は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。

 

「監視カメラ映像ですね。少々お待ちください」

 

 案内されたのは事務室奥の小さなモニター室だった。壁一面に複数の映像が映し出されている。改札、ホーム、階段、売店前。様々な場所を監視するカメラ映像だ。

 

「確認したいのは昨日の十九時十一分前後です」

 

 キリノがメモを見ながら伝える。

 

「このICカードの持ち主が改札を通ったか確認したくて」

 

 駅員は端末を操作し、該当時刻の映像を呼び出した。そうして映し出された画面の中には、夕方の帰宅ラッシュで混雑した駅の風景が広がっていた。

 

「うわぁ……」

 

 キリノが思わず声を漏らす。画面を埋めつくさんばかりの人、人、人。改札を通る乗客が波のように流れている。映像は決して低画質ではない。だが、それでも人数が多すぎた。

 

「十九時十一分って、ちょうど帰宅ラッシュですからね」

 

 駅員が苦笑する。フブキはモニターへ顔を近づけた。

 

「止めて」

 

 映像が静止する。

 

「もうちょい拡大」

 

 駅員が操作して改札付近の映像がズームされる。だが、拡大したことで今度は画質の粗さが目立ち始めた。特に奥側を通る人物は輪郭がぼやけていて、顔の判別が難しい。

 

「これ、分かる?」

 

 フブキが横を見る。キリノは困った顔で首を横に振った。

 

「ミレニアムの制服っぽい人はいますけど、ツキさんかどうかまでは」

 

「だよねぇ」

 

 フブキは頭を掻いた。駅員に頼んで映像の時刻を何度か前後させてもらう。だが、結果は変わらなかった。

 

 銀髪らしき人物は映っている。ミレニアムの制服らしい人影もある。だが、ツキと断定することができない。

 

「ホーム側は?」

 

「確認できますが、同じくらい混雑しています」

 

 実際に映像を切り替えてもやはり状況は変わらなかった。ホームへ流れ込む大量の人波。到着した電車に雪崩れ込む乗客を尻目に流れる発車ベル。そうして電車が発車したあとも次の電車を待つ乗客で溢れ返ったホーム。誰が誰なのか、判別するには情報量が多すぎる。

 

「んー」

 

 フブキは腕を組んだ。

 

「少なくとも、乗ってない証明は無理そうだねぇ」

 

「はい」

 

 キリノも小さく頷く。駅員が申し訳なさそうに言った。

 

「すみません。もう少し空いている時間帯なら確認しやすかったんですが」

 

「いやいや、仕方ないですよぉ」

 

 フブキはひらひら手を振った。

 

「で、次なんだけど」

 

 彼女は証拠品袋からツキのICカードを取り出す。

 

「この子、霞ヶ丘駅でカード落としたって言ってたよねぇ」

 

「はい。駅員へ申告したって」

 

「なら、そっち確認した方が早そう」

 

 フブキはカードを指先でくるりと回した。

 

「行こっか。霞ヶ丘駅」

 

「はい!」

 

 二人は駅事務室を後にする。

 

 だが、その時点ではまだ、フブキもキリノもICカードの履歴というものを完全には理解していなかった。

 

 

 〇

 

 

 西宿駅から数駅。

 

 霞ヶ丘駅は、中心街から少し離れていることもあってか、西宿駅ほどの喧騒はなかった。もっとも、それでも利用客は多い。ホームには次の列車を待つ学生や会社員が並び、自動改札の電子音が規則正しく響いている。

 

 二人は改札脇の駅事務室へ向かった。

 

「ヴァルキューレです」

 

 キリノが警察手帳を提示する。

 

「昨日の十九時頃、ICカードの紛失届があった件について確認したいんですが」

 

 対応に出た中年の駅員は少し考えるような顔をした後、「あぁ」と頷き駅員は事務室の奥を振り返った。

 

「おーい、確か君、昨日も当務だったよな?」

 

 呼ばれて出てきたのは、まだ若い駅員だった。二十代前半くらいだろうか。

 

「ああ、はい。昨日からぶっ通しで過勤ですからね。早く帰りたいですよ」

 

 若い駅員は眠そうな目を擦りながらそう答える。フブキは、自分みたいな人も案外居るもんなんだな、と思いながら彼を見る。

 

「はっはっはっ、そのうち慣れるさ。いやあんまり慣れたくはないがな。それで、こちらの警察の方が昨日の十九時頃のICカードの遺留品について聞きたいらしい」

 

「十九時頃……。あぁ、確かミレニアムの子が来た覚えがありますね」

 

 若い駅員は腕を組んで思い出すかのように少し考え込み、すぐに心当たりがあったのか返答を返してきた。

 

「どういう流れだったか、詳しく聞いてもいい?」

 

 フブキが気の抜けた調子で尋ねる。

 

「はい」

 

 駅員は記憶を辿るように話し始めた。

 

「昨日の十九時四十分前のことです。女の子が改札へ来て、ICカードを車内で落としたかもしれない、と」

 

「その子が美山ツキ?」

 

「名前まではその時確認してませんが、恐らく」

 

 駅員は頷く。

 

「列車は三十八分に当駅を発車した列車だと分かったんですが、どの車両に乗っていたかは分からないと言ってたんです」

 

「ふぅん」

 

「ただ、途中駅で車内捜索を頼むなら、車両を絞らないと遅延が発生するので確認のしようがなく」

 

 乗車位置の分からない列車の忘れ物捜索は終点駅で行うことが多い。普通に考えれば当然だ。車内の捜索に割ける駅員の数は一人か、せいぜい二人程度だろう。その人数で先頭から最後尾まで一編成まるごと捜索など、途中駅の一分に満たない僅かな停車時間ではとてもではないが不可能だ。

 

「それで、乗車駅で階段とかエスカレーター降りてすぐの車両に乗りませんでしたか? って聞いたんです」

 

「へぇ」

 

 フブキが少し感心したように声を漏らす。

 

「帰宅ラッシュの時間帯って、乗客は改札に近い車両へ集まりやすいので。特に急いでる人ほどそうですから」

 

「なるほどねぇ」

 

「そしたら、西宿駅で改札に一番近い階段を降りてすぐの車両、つまり三号車ですね、そこに乗ったと」

 

 駅員は各駅の階段やエスカレーターと列車の号車の対応表を取り出し、フブキとキリノに見せながら続ける。

 

「なので、その時列車はちょうど二つ先の広前川駅に到着するところだったので、そのもう一つ先の新町駅へ連絡して、駅員に三号車を探してもらいました」

 

「それで見つかった?」

 

「はい。座席の下のスペースに落ちていたそうです」

 

 キリノが小さく頷く。

 

「じゃあ、少なくともツキさんが実際に電車へ乗っていた可能性は高いですね」

 

「えぇ。それからすぐに取りに行くと言われたので、当駅から新町駅の往復運賃は取らないから、戻ってきたらそのまま改札にタッチして降りるよう伝えて対応を終えました」

 

 駅員の話が一通り終わった。フブキは腕を組みながら考える。

 

 話の流れ自体は自然だ。駅員の対応も具体的で、作り話をしているようには見えない。そして何より新町駅で実際にカードが発見された、という点は大きい。

 

「で、もう一つ」

 

 フブキは証拠品袋からICカードを取り出した。

 

「このカードの履歴、確認したいんだけど」

 

「はい、大丈夫ですよ」

 

 駅員はカードを受け取ると、窓口の小型端末へ通した。数秒後、画面へ履歴が表示される。フブキとキリノは当然のようにそこへ大量の時刻情報が並ぶものだと思っていた。

 

 だが。

 

「あれ?」

 

 キリノが首を傾げた。時刻が表示されていたのは、一件だけだった。

 

『霞ヶ丘駅 二十時十八分 出場』

 

「時間が出るのはこれだけ?」

 

 フブキが思わず聞き返す。

 

「はい」

 

 駅員はあっさり頷いた。

 

「え、でも入場記録とかは?」

 

「履歴で時刻が確認できるのは直近の一履歴だけなんです」

 

「一個だけ?」

 

「はい。それ以前の履歴はどの駅で出入りしたか、とかどこでチャージをしたか、とかは分かるんですが時刻までは分からないんです」

 

 キリノが困惑した顔をする。

 

「全部残ってるわけじゃないんですか?」

 

「そうなりますね」

 

 フブキは端末画面を見つめた。霞ヶ丘駅、二十時十八分出場。つまり分かるのは、ツキがその時刻に霞ヶ丘駅を出たということだけ。肝心の西宿駅の入場時刻は、この履歴からは確認できない。

 

「うわぁ」

 

 フブキは露骨に嫌そうな顔をした。

 

「めんどくさ」

 

「フブキ」

 

 キリノが小声で窘める。だが、その時だった。

 

「あ、でも」

 

 若い駅員が思い出したように口を開いた。

 

「拾得物なら、別です」

 

「ん?」

 

「新町駅でカードを拾得した時、向こうの駅員が拾得物目録を作ってるんです」

 

 フブキが顔を上げる。

 

「目録?」

 

「はい。無記名のICカードの場合は履歴で照会する必要があるので、直近の履歴を書き写す規定になってるんです」

 

「……!」

 

 キリノの目が少し見開かれる。

 

「つまり、カードを拾った時点の直近履歴が残ってる?」

 

「そのはずです」

 

 駅員は頷いた。

 

「拾得時点なら、まだ霞ヶ丘駅で出場する前ですから」

 

 フブキの眠たげだった目が、ほんの少しだけ鋭くなった。

 

「それってつまり」

 

「新町駅へ行けば、西宿駅の入場時刻が確認できる可能性がある、ということですね!」

 

 キリノが即座に言う。

 

「なるほどねぇ」

 

 フブキは小さく笑った。

 

「やっと犯罪捜査っぽくなってきたじゃん」

 

「今まで何だと思ってたんですか」

 

「駅の社会科見学」

 

「真面目にやってください!」

 

 怒るキリノを横目に、フブキはICカードを証拠袋へ戻した。

 

「じゃ、次は新町駅だねぇ」

 

 

 〇

 

 

 新町駅に到着した頃には、時刻は既に十三時を回っていた。

 

 中心から離れた駅ということもあり、構内は先の二駅に比べれば比較的落ち着いていた。

 

「平和って感じですね」

 

 キリノが周囲を見回しながら呟く。

 

「確かに、西宿駅はまさに戦場って感じだったしねぇ」

 

 フブキは欠伸を噛み殺しながら駅事務室へ向かった。

 

 事情を説明すると、対応に出た駅員は「あぁ、昨日のICカードの件ですね」とすぐに頷いた。どうやら霞ヶ丘駅の駅員が警察が向かうことを共有していたらしい。

 

「拾得物目録、確認できますか?」

 

 キリノが尋ねる。

 

「少々お待ちください」

 

 駅員は奥の棚から分厚いバインダーを持ってきた。ぱらぱらとページを捲っていく。

 

 日付、届出時刻、拾得場所、物品名、物品の特徴。几帳面な文字が並ぶ中、駅員の指が一箇所で止まった。

 

「こちらですね」

 

 机へ置かれた目録を、フブキとキリノが覗き込む。記載は簡潔だった。

 

『十九時三十七分 車内 無記名ICカード』

 

 そして、その下。

 

『西宿駅 十九時十一分 入場』

 

「……あ」

 

 キリノが小さく声を漏らした。フブキも無言でその文字列を見る。

 

 西宿駅、十九時十一分入場。まさしく、ツキが取調べで証言した時刻そのままだった。

 

「つまり」

 

 キリノが整理するように口を開く。

 

「少なくとも、ツキさんのICカードが十九時十一分に西宿駅で改札を通ったのは事実……」

 

「ってことになるねぇ」

 

 フブキが続けた。

 

 もちろん、カードを別人へ渡した可能性までは否定できない。だが、それを言い始めれば何でもありだ。少なくとも現時点では、証言と一致する客観記録が存在するという事実は大きい。

 

 しかも、これはツキ本人が自分から提示した情報でもある。

 

「嘘は吐いてなかった、か」

 

 フブキがぼそりと呟く。キリノは少しだけ安堵したような顔をした。

 

「これでツキさんのアリバイ、かなり強くなりましたね」

 

「まぁねぇ」

 

 フブキは気の抜けた返事をする。

 

「今のところは、かなり白寄りかなって」

 

「ですよね!」

 

 キリノは素直に頷く。

 

「西宿駅の映像では確認できませんでしたけど、カード記録と拾得物が一致してるなら、少なくとも地下鉄へ乗ったのはほぼ間違いないですし」

 

「そうだねぇ」

 

 フブキは軽く伸びをした。

 

「となると、次はエマかな」

 

「鹿島駅ですね」

 

「定期券の履歴確認」

 

 フブキは証拠袋の中の別のICカードへ目を向ける。林崎エマの定期券。もしこれでも明確なアリバイが取れれば、残るのは自然と一人になる。

 

 フブキはまだぬるい缶コーヒーを一口飲み、ゆっくり息を吐いた。

 

「ほんと、簡単には終わらせてくれないねぇ」

 

 

 〇

 

 

 鹿島駅へ到着した頃には、空はすっかり午後の色になっていた。

 

 西宿駅ほどではないが、ここも利用客は多い。改札前では学生たちが待ち合わせをし、ホームからは自動放送のアナウンスが絶え間なく聞こえてくる。

 

「ここからエマさんが乗った、と」

 

 キリノがメモを確認する。

 

「十九時頃だねぇ」

 

 フブキは欠伸混じりに答えた。二人は駅事務室で事情を説明し、昨日十九時前後の監視カメラ映像を確認させてもらうことになった。案内されたモニター室で映像が再生される。

 

 だが。

 

「あー」

 

 フブキが早々に嫌そうな声を漏らした。モニターに映された映像は西宿駅とほとんど同じだった。改札を流れる大量の乗客。帰宅途中の学生。会社員。買い物帰りの客。

 

 映像を止め、拡大し、前後へ動かす。しかし、やはり決定打にはならない。

 

「これ、エマさんっぽい人は居ますけど」

 

 キリノが画面を指差す。確かにトリニティの制服らしき人物は映っている。だが、顔がはっきり見えない。

 

「断定は無理だねぇ」

 

 フブキは椅子へ深くもたれた。

 

「またこれかぁ」

 

 駅員も申し訳なさそうに頭を下げる。

 

「ラッシュ時間帯ですので……」

 

「いや、仕方ないですよぉ」

 

 フブキは手を振る。そして気を取り直すように証拠袋からICカードを取り出した。

 

「じゃ、こっち確認したいんだけど」

 

「はい」

 

 駅員はカードを受け取り端末へ通す。数秒後、画面に履歴が表示された。最新の記録は買い物終わりに帰宅した際に使用したのだろう、他の記録で上書きをされていたが、確認したかったのは鹿島駅から乗った記録。

 

 しかし、フブキとキリノの目に映った記録は、ツキの時とはまた違った驚きをもたらした。

 

『西宿 定期入場』

『西駒井 出場』

 

「……ん?」

 

 フブキが小さく声を漏らした。

 

「定期入場?」

 

 キリノも首を傾げる。

 

「さっき、ツキさんの時は入場だけでしたよね。これは?」

 

「こちらは定期券ですので」

 

 駅員が答える。

 

「いや、それは分かるけど」

 

 フブキは画面を指差した。

 

「なんで鹿島定期入場じゃなくて、西宿定期入場なの?」

 

 駅員は慣れた様子で説明する。

 

「定期券の場合、定期区間内の履歴は残らないんです」

 

「……は?」

 

 フブキが露骨に嫌そうな顔をした。駅員は続ける。

 

「なので、今回の場合、鹿島から西宿までの定期で乗車されているので、定期区間外になる西宿から西駒井間の履歴しか残らないんです」

 

「つまり?」

 

 キリノが整理するように聞き返す。

 

「鹿島駅から乗っても、履歴では西宿定期入場になる、ということです」

 

「じゃあ」

 

 フブキが腕を組みゆっくりと口を開く。

 

「仮に八木駅から乗ったとしても?」

 

「同じ履歴になります」

 

 即答だった。

 

「八木駅も定期区間内ですので、西宿定期入場、西駒井出場と表示されます」

 

 数秒の沈黙。キリノが困った顔でフブキを見る。

 

「つまりこれ」

 

「鹿島駅から乗った証明にはならない、ってことだねぇ」

 

 フブキが代わりに言った。

 

 エマの証言はこうだった。十九時頃、鹿島駅から電車へ乗車。その後、西駒井駅の改札を出て目と鼻の先にある商店街で買い物をした。その時のレシートに印字された時刻は十九時四十六分。

 

 確かに西駒井へ行った記録自体は残っている。だが、どこから乗ったかは履歴からでは証明できない。

 

「レシートはありますけど……」

 

 キリノが小さく言う。

 

「でも、犯行後に八木駅から向かっても時間的には間に合うんですよね」

 

「まぁねぇ」

 

 八木駅から西駒井駅までは十三分。十九時二十分前後に現場を離脱したとしても、十九時四十六分までに西駒井駅に到着する列車に乗れてしまう。

 

 つまり、レシートは犯行時刻のアリバイにはならない。

 

「うわぁ……」

 

 フブキは天井を仰いだ。

 

「急に怪しくなってきた」

 

「まだ疑いが強くなっただけです!」

 

 キリノが慌てて訂正する。

 

「はいはい」

 

 フブキは気のない返事をしながらICカードを受け取った。

 

 ツキは、少なくとも西宿駅へ十九時十一分に入場したという具体的な記録が残っていた。一方エマは西駒井駅へ行ったことしか証明できない。そして残るシロは、まだほとんど何も確認できていない。

 

「次、バスだっけ」

 

「はい。中央営業所です」

 

 キリノがメモを見ながら頷く。フブキは重たい身体を起こし、深く息を吐いた。

 

「ほんと、交通機関って嫌い」

 

 

 〇

 

 

 鹿島駅を後にした二人は八木駅までやってきた。時刻は十五時前。朝から各駅を回り続けているせいで、フブキの疲労は再び限界へ近づきつつある。

 

「足痛い」

 

「まだ全然終わってませんよ」

 

「知ってるぅ」

 

 魂の抜けた返事をしながら、フブキは八木駅前のバスターミナルを見回した。いくつものバスが整然と発車を待っている。その中の一台、中央営業所方面行き。シロが乗ったと証言している路線のバスが、ちょうど停車していた。

 

「これかな」

 

「みたいですね」

 

 二人は乗車列へ並び、順番が来ると車内へ足を踏み入れた。入口脇にはICカードの読取機が設置されている。キリノが先にカードを取り出し、軽くタッチした。ぴっ、と電子音。そのまま通路を進む。

 

 続いてフブキも財布からICカードを引っ張り出し、読取機へ当てた。だが、ぼんやりしていたせいでタッチが甘かったらしい。ぶっ、と低いエラー音が鳴った。

 

「あ」

 

「フブキ」

 

「今のなし」

 

 慌ててもう一度タッチ。今度は正常な電子音が鳴る。

 

「ちゃんと降車時もタッチしてくださいねー」

 

 運転士が慣れた口調で声を掛けてくる。

 

「この路線、距離制なんで」

 

「はーい」

 

 フブキは力なく返事をした。二人は後方の席へ腰を下ろす。

 

 バスはほどなくして発車した。窓の外を流れていく街並みを眺めながら、キリノがメモを確認する。

 

「シロさんの証言だと、十九時十分発に乗車して、桝寺停留所で降車」

 

「うん」

 

「でも、ICカードは残高不足で降車時は現金精算した、でしたよね」

 

「そう」

 

 フブキは窓へ頭を預けたまま答える。

 

「だから、乗車時のタッチの履歴が残ってる可能性はあるかなぁって思うんだけど」

 

「確認してみないとですね」

 

 バスは幾つもの停留所を経由しながら進んでいく。夕方前ということもあり車内はそこまで混んでいない。学生と高齢客がちらほら居る程度だ。三十分ほど揺られた頃、終点の中央営業所停留所へ到着する。

 

 降車客が順番に前扉へ向かう。キリノは再びICカードをタッチした。ぴっ、と音が鳴る。

 

 続いてフブキもタッチする。またミスタッチをすればキリノから何を言われるか分からない。いつも以上にしっかりとタッチをして、電子音が鳴ったのを確認するとバスを降りる。

 

「まさに郊外、って感じですね」

 

「そうだねぇ」

 

 周囲を見渡したキリノがそう感想を零す。似たような外観の住宅が並ぶ長閑な住宅街のはずれ、そしてその中で一際目立つ広大な敷地を持つバスの営業所。

 

 構内には待機中のバスが何台も並び、整備員や運転士が忙しなく行き交っていた。ディーゼルの匂いが微かに漂っている。

 

 二人は事務所へ入り、警察手帳を提示する。

 

「昨日の十九時十分八木駅前発の便について確認したいんですが」

 

 対応した営業所員は少し考えた後、運行日報を確認した。

 

「あー、この便ですね」

 

 指で辿る。

 

「担当はーっと、あぁ、二見(ふたみ)か」

 

「今いらっしゃいます?」

 

「ちょうど戻ってきたところですね」

 

 タイミングよく、奥の扉から制服姿の運転士が入ってきた。営業所員が事情を説明すると、運転士は「昨日の?」と眉を寄せる。

 

「ええ、十九時十分八木駅前発の便です」

 

 キリノが言う。

 

「この子、覚えてませんか?」

 

 シロの写真を見せる。運転士は腕を組み、しばらく唸った。

 

「うーん……」

 

 そのまま運転士は数秒考えこむ。

 

「悪いけど、分からないなぁ」

 

「乗客多かったですか?」

 

「そこそこ。帰宅時間帯だしね」

 

 運転士は申し訳なさそうに頭を掻く。

 

「毎日何十人も乗せるから、よっぽど特徴ある子じゃないと覚えてられないよ」

 

「ですよねぇ」

 

 フブキも特に責める様子はない。

 

「監視カメラとかは?」

 

「この時の車両には付いてないなぁ」

 

「えっ」

 

 キリノが目を丸くする。

 

「最近のバスって全部付いてるわけじゃないんですか?」

 

「新型車は付いてるけど、古い車両はまだまだだよ」

 

 運転士は窓の外に停まっているバスを指差した。

 

「昨日のその便、あの古いやつだったから」

 

 フブキとキリノは同時にそちらを見る。確かに年季の入った車体だった。

 

「うわぁ……」

 

 フブキが露骨に嫌そうな顔をする。

 

「どんどん証拠なくなるじゃん」

 

「フブキ」

 

 キリノが小声で窘める。だが、まだ完全に終わったわけではない。

 

「ICカードの履歴って確認できます?」

 

 キリノが続けて尋ねる。

 

「シロさん、乗車時はタッチしたって言ってたので」

 

 すると営業所員は困ったような顔をした。

 

「うちじゃ無理ですね」

 

「え?」

 

「営業所に確認できる端末は置いてないんですよ」

 

「置いてないの!?」

 

 フブキが思わず聞き返す。

 

「そうですね。履歴の確認はお客様にも鉄道駅で確認するよう案内しています」

 

「つまり?」

 

「あなた方も駅で確認してください」

 

 営業所員は申し訳なさそうに頭を下げた。

 

 流れる沈黙。そしてフブキは、両手でゆっくりと顔を覆った。

 

「……もう帰りたい」

 

「まだです」

 

 キリノは即答した。

 

 

 〇

 

 

 中央営業所から戻ってきた二人は、八木駅の改札前に立っていた。時刻は夕方を過ぎ、通勤客の波が駅構内を埋めつくしている。自動改札の電子音が絶え間なく鳴り続け、蛍光灯の白い光が床に反射していた。

 

「結局、営業所じゃ履歴は見られなかったですね」

 

 キリノが肩を落とす。

 

「今更だけど、最初から西宿駅で全部の履歴を確認しとけば良かったね」

 

「徹夜明けでちょっと仮眠しただけだったからまともな判断が出来てなかったですね。休息はやっぱり大事です」

 

 フブキとキリノは悔やむようにそう言ってから、改札脇の窓口へ向かった。

 

「すみません。ICカードの利用履歴を確認したいんですが」

 

 事情を説明すると、駅員は慣れた様子で頷いた。

 

「カードをお預かりします」

 

 シロから提出されていたICカードを端末へかざす。小さな液晶に文字列が表示され、駅員は画面を見ながら読み上げた。

 

「最後の履歴は……昨日の十八時五十三分、八木駅出場ですね」

 

「え?」

 

 キリノが顔を上げる。

 

「バスの記録は?」

 

「ありません」

 

 駅員は首を横に振った。

 

「十九時十分発の中央営業所行きに乗ったはずなんです」

 

 フブキが言う。

 

「乗車時にタッチしたなら履歴が残るんじゃ?」

 

「路線によります」

 

 駅員は淡々と説明した。

 

「この辺りの整理券方式のバスは、乗車時と降車時、二回タッチが必要なんです」

 

「二回……」

 

 フブキは先程バスに乗車した時のことを思い出す。確かにあの路線は二回タッチが必要だった。

 

「はい。乗る時に乗車停留所を記録して、降りる時に運賃計算をして精算する仕組みですね。なので」

 

 駅員は端末を指差した。

 

「乗車時だけタッチして、降車時の処理が行われなかった場合、正式な利用履歴としては残りません」

 

 キリノが目を見開く。

 

「じゃあ、シロさんが本当にそのバスに乗っていたとしても」

 

「降車時にタッチをしていなければ、履歴上は何も残らない、ということです」

 

 駅員は事務的に答える。フブキは無言で端末の表示を見つめた。

 

 十八時五十三分、八木駅出場。その次が存在しない。つまり、シロの行動はそこから完全に空白になる。

 

「監視カメラはなくて、運転士の記憶にも残っていない。その上ICカードの履歴もなし、ですか」

 

 キリノが呟く。

 

「証明できるものが、一つもない」

 

 フブキは静かに息を吐いた。

 

 ツキには西宿駅へ十九時十一分に入場した記録がある。エマには少なくとも西駒井駅まで移動した履歴と、買い物をした時のレシートがある。

 

 だがシロだけは違う。犯行時刻前後の移動を裏付ける証拠が、何一つ存在しない。キリノが不安そうに言った。

 

「一番、怪しくなっちゃいましたね」

 

 フブキはすぐには答えなかった。改札を通り抜けていく人々を眺めながら、静かに考え込む。

 

 証拠がない。それは、無実の証明ができないということだ。

 

 そして同時に、本当に犯人だった場合にも都合が良すぎる状況だった。

 

 

 〇

 

 

 八木駅を出た二人は、シロが降りたと証言している桝寺停留所へ向かった。

 

 既に日も傾き、住宅街の道路には長い影が伸びている。停留所のベンチには誰もおらず、時折車が通り過ぎるだけだった。

 

「ここで降りたんですよね」

 

 キリノが停留所の標識を見上げる。フブキは周囲を見回した。古い商店に細い路地。乱立する低層マンション。

 

「まずは聞き込みだねぇ」

 

 二人は周辺の店や通行人に声を掛けて回った。だが成果は芳しくない。

 

「十九時半くらい? さあねぇ、その時間はもう店閉めてたから」

 

「ここで買い物した子? いやぁ流石に常連でもなけりゃ覚えてないよ」

 

「ここでバスを降りた学生? 毎日たくさんいるからねぇ」

 

 返ってくるのは曖昧な答えばかりだった。一時間近く歩き回った頃には、キリノの表情にも疲労が滲み始めていた。

 

「ダメですね。決定打になりそうな証言が全然ないです」

 

「仕方ない。元々、人通りの多い場所でもないから」

 

 そこでフブキが言葉を止めた。交差点の向こう側に、数人の制服姿が見えたからだ。黄色いコーンが置かれ、道路脇ではメジャーのようなものを伸ばしている。

 

「あれ、公安局?」

 

 キリノが目を細める。腕章を付けた生徒たちは、何かの現場検証をしているようだった。

 

 フブキは軽く会釈しながら近づいた。

 

「捜査中ごめんね。何か事件でもあった?」

 

 声を掛けられた生徒は、少し驚いた顔をした後で答えた。

 

「今日じゃなくて、昨日の事件の捜査です。十九時三十分頃、この交差点でひき逃げがあって」

 

「ひき逃げ?」

 

「はい、被害者は軽傷だったんですけど車が逃走しちゃって。ドラレコの映像を集めたり、遺留物の検証をしたりで大忙しですよ」

 

 その言葉に、フブキとキリノは顔を見合わせた。十九時三十分。シロが桝寺に着いていたなら、ちょうどあり得る時間帯だ。

 

 もしかしたらシロの姿が映りこんでいる可能性もある。監視カメラのない閑静な住宅街に降って湧いた貴重な映像証拠だ。空振りに終わる可能性が高くとも、確認をする価値はある。

 

「ドラレコって、見せてもらうことってできますか?」

 

 キリノが尋ねる。公安局の生徒は少し迷った後、

 

「捜査資料だから本来は駄目なんだけど……まぁ良いよ」

 

 と言って、タブレット端末を操作した。

 

 映像が再生される。夜の交差点。赤信号の先頭で停車している車の視点だった。

 

 目の前の信号が青に変わり車が少し前進したところで急停止する。その瞬間に右から一台の車が赤信号を無視して交差点を左へ突っ切っていく。

 

「これが逃走車です」

 

 次の瞬間、鈍い音と悲鳴。画角的に横断歩道は映っていなかったが、今の車両と歩行者が衝突した音なのは火を見るよりも明らかだった。

 

「うわ」

 

 キリノが顔を顰めた。だが、フブキはその事故そのものでなく、もっと別のものを見ていた。

 

「ちょっと戻してくれる?」

 

「え?」

 

「信号が青に変わるちょっと前」

 

 映像が巻き戻される。正面の信号が赤から青に変わり車が発進するその瞬間。交差点の左から現れ、こちらへ向かって曲がってくる人影が歩道に映っていた。

 

 白いカンガルーポケットのついた服を着て肩掛けの鞄を持った人物。車のすぐ脇を通った瞬間、街灯の光で顔が一瞬だけ照らされる。そこに映し出された顔を見たキリノが息を呑んだ。

 

「……シロさん?」

 

 発進した瞬間の上、あまり性能の良いドラレコではないようで映像は不鮮明だ。だが、真正面に近い角度だったため、顔立ちはかなり見える。少なくとも別人とは思えない。公安局の生徒が首を傾げる。

 

「知り合いですか?」

 

「うん、ちょっとね」

 

 フブキは静かに答えた。

 

「この映像、写真撮らせてもらえるかな?」

 

「モザイク処理してない部分は駄目ですけど、まぁこのくらいなら大丈夫だと思います」

 

 許可を得て、フブキは端末の画面を撮影する。キリノが呟いた。

 

「服装も確認しないとですね」

 

「うん。後で本人に聞こうか」

 

 フブキは再び交差点を見渡した。ここは桝寺停留所から徒歩数分。そして、事件現場からここまで歩こうとすると、どう考えても犯行時刻からは間に合わない。

 

 八木駅前発のバスは十九時十分。その次は十九時四十分。もしシロが十九時三十分にここにいたのなら、十九時十分発の便に乗っていた可能性が極めて高い。

 

 つまり、ICカードの履歴こそ残っていないが、それでも。

 

「不完全ですけど」

 

 キリノが言う。

 

「ほぼ、証明されましたね」

 

「うん」

 

 フブキは頷いた。

 

「少なくとも、シロがどこにいたか分からない状態ではなくなったね」

 

 

 〇

 

 

 桝寺停留所での捜査を終えて捜査本部へ戻った頃には、既に窓の外は暗くなっていた。

 

 蛍光灯の白い光だけが室内を照らしている。昼間以上に資料が散乱した机、飲みかけの缶コーヒー、仮眠を取る捜査員。壁のホワイトボードには被害者・亀山大蔵の名前を中心に、関係者や時系列が蜘蛛の巣のように書き込まれていた。

 

 フブキは自席へ辿り着くなり、椅子へ力なく沈み込む。

 

「もう歩きたくない……」

 

「お疲れ様です」

 

 キリノも同じく疲れた顔で隣へ腰を下ろした。二人は今日一日の捜査結果をホワイトボードに整理し始める。

 

 美山ツキ。西宿駅に十九時十一分入場の記録を新町駅の拾得物目録で確認。霞ヶ丘駅での紛失申告も確認済み。地下鉄へ乗車していた可能性は極めて高い。

 

 宮乃浜シロ。ICカードのバス乗車履歴は確認できず。バス車内カメラなし。運転士の証言も取れず。しかし、十九時三十分頃桝寺付近で発生したひき逃げ事件のドライブレコーダー映像に本人らしき人物の映りこみあり。

 

 林崎エマ。西駒井駅へ行った記録と駅前商店街での買い物のレシートは確認。しかし、鹿島駅から乗車した証明はなし。

 

「綺麗に一人だけ残りましたね」

 

 キリノが小さく呟いた。フブキは書き終えてホワイトボードから少し離れた位置に立つ。

 

 書き込まれた十九時前後の時系列。各交通機関の移動時間。そして犯行推定時刻。

 

「うーん」

 

 眠たげな目を細めながら、エマの欄を眺める。

 

「決め手がないんだよねぇ」

 

「でも、一番疑わしいのは」

 

「まぁ、そう見える」

 

 フブキは明言を避けつつ頷いた。

 

「でも、証明できないのと犯人であることは違うから」

 

 キリノは静かに口を閉じる。捜査で最も危険なのは、結論を急ぐことだ。疑わしい、怪しい、辻褄が合わない。だが、それだけで犯人と決めつければ、捜査は簡単に間違った道に入り込む。

 

「今日はここまでかなぁ……」

 

 フブキは欠伸を噛み殺した。

 

「明日、もう一回整理しよ」

 

「はい」

 

 時計は既に日付を跨ごうとしていた。

 

 

 〇

 

 

 翌朝。

 

 捜査本部には昨夜より幾分落ち着いた空気が流れていた。もっとも、フブキの顔色は相変わらず死んでいる。

 

「ねむ……」

 

「だからちゃんと寝てくださいって言ったじゃないですか」

 

「寝たよぉ。四時間も」

 

「少なすぎます」

 

 キリノに呆れられながら、フブキは机上のメモを手に取った。

 

「じゃ、順番に連絡していこっか」

 

 最初に電話を掛けたのはツキだった。数コールの後、通話が繋がる。

 

『はい』

 

 少し緊張した声だった。

 

「おはよぉ、ヴァルキューレのフブキだよ」

 

『あっ』

 

「昨日、ICカードの記録、確認してきたんだ」

 

 フブキは淡々と告げる。

 

「霞ヶ丘駅での紛失申告、新町駅でのICカード拾得記録、それと西宿駅での十九時十一分入場の記録。全部確認できた」

 

 電話の向こうが静かになる。

 

「少なくとも、あなたがその時間に地下鉄へ乗っていた裏付けは取れたよ」

 

『じゃあ』

 

「うん。現時点では、アリバイは成立してるって判断でいいと思う」

 

 小さく息を呑む音が聞こえた。安堵したのだろう。

 

『ありがとうございます』

 

「まだ捜査は続くから、また何か聞くかもしれないけどねぇ」

 

『はい、分かりました』

 

 通話を終える。キリノが少し嬉しそうに言った。

 

「ツキさん、安心したみたいですね」

 

「まぁ、実際かなり白かったしねぇ」

 

 フブキはメモに目を落として次の番号を押す。今度はシロだった。

 

『もしもし』

 

「おはよぉ。昨日、バスの件確認してきたよ」

 

『はい』

 

「先に言うと、ICカードの履歴は残ってなかった」

 

 電話の向こうが一瞬静かになる。

 

『そう、ですか』

 

「整理券方式のバスだったから、降車時の処理がないと履歴にならないみたい」

 

『なるほど』

 

 シロの声が沈む。フブキは続けた。

 

「で、確認したいんだけど」

 

『はい?』

 

「事件当日、どんな服着てた?」

 

『えっと、白いパーカーです。前に大きいポケットが付いてるやつ。あと、肩掛け鞄を』

 

 声を聞いたキリノとフブキが目を合わせる。その情報は昨日見たドラレコの映像に映った人物のそれと一致していた。フブキは静かに頷く。

 

「やっぱりねぇ」

 

『?』

 

「偶然なんだけど、十九時三十分頃に桝寺付近でひき逃げ事件があってさ」

 

『えっ』

 

「その時のドライブレコーダー映像に、あなたらしき人物が映ってた」

 

 電話越しに息を呑む気配。

 

「顔も服装も一致してる。だから、少なくとも十九時三十分頃には桝寺付近に居た可能性が高い」

 

『じゃあ』

 

「うん。映像が不鮮明だから完全ではないけど、アリバイとしてはかなり強い」

 

『よかった』

 

 本当に安堵したような声だった。

 

「また必要なら連絡するねぇ」

 

『はい。ありがとうございます』

 

 通話が切れる。キリノはメモへ線を書き込みながら小さく息を吐いた。

 

「これで二人ですね」

 

「うん」

 

 フブキは最後の番号へ視線を落とした。

 

「問題は、この子だね」

 

 数回の呼び出し音の後、エマが出た。

 

『はい』

 

 どこか硬い声だった。

 

「ヴァルキューレのフブキだよ。昨日、定期券と監視カメラの確認をしてきたんだけど」

 

『はい!』

 

「結論から言うと、鹿島駅から乗車した確認は取れてないんだ」

 

 返ってきたのは沈黙。フブキは気にせずに続ける。

 

「定期券は、定期区間内の履歴が残らない仕様だったんだ。だから履歴上は西宿駅から西駒井駅まで乗車したことしか確認できなかった」

 

『そんな……』

 

「監視カメラも確認したけど、ラッシュ時間帯で人が多すぎて断定できなかった」

 

『でも、レシートがあります!』

 

 エマの声が強くなる。

 

『十九時四十六分のレシートです! ちゃんと西駒井で買い物してました!』

 

「うん、それは確認してる」

 

 フブキは静かに答えた。

 

「でも、昨日も言ったけど、その時間だと犯行後でも間に合う」

 

『え』

 

「八木駅から西駒井駅までは十三分」

 

 キリノが時刻表を開く。フブキはそれを見ながら続けた。

 

「あなたは十九時頃に電車に乗ったって言ってる。だから、恐らく鹿島駅十八時五十五分発か十九時一分発の電車」

 

『あ、一分発の電車です……』

 

 エマは小さく震えた声で言う。

 

「なるほど。それで、その電車は八木駅を十九時二十八分発、西駒井駅に十九時四十一分着」

 

 電話の向こうが静まり返る。

 

「つまり、仮に犯行後に八木駅から乗車しても、十九時四十六分の買い物には間に合う」

 

『そんな』

 

 掠れた声だった。

 

『じゃあ、私は』

 

「まだ決めつけてないよ」

 

 フブキは少しだけ柔らかい声で言った。

 

「だから、もう一回だけ鹿島駅を確認しに行く」

 

『……!』

 

「監視カメラも、別角度がないかもう一度見る。駅員にも追加で話を聞く」

 

 エマはしばらく黙っていた。そして、小さく。

 

『お願いします……!』

 

 とだけ言って通話は終わった。部屋に静寂が落ちる。やがて、ゆっくりとキリノが口を開いた。

 

「行きますか」

 

「うん」

 

 フブキは机上のICカードを手に取る。

 

「今度こそ、ちゃんと白黒つけないとねぇ」

 

 手の中でのICカードは、やけに重く感じられた。

 

 

 〇

 

 

 鹿島駅は、朝の空気に完全に飲み込まれていた。

 

 改札前にはスーツ姿の社会人が列をなし、学生たちがホームへ急ぐ。絶え間ない電子音とアナウンスが重なり、駅全体が一つの機械のように動いている。

 

「またここかぁ」

 

 フブキは眠たげな目で天井を見上げた。

 

「昨日も来ましたよね」

 

 キリノがため息混じりに言う。

 

「できればこんな時間には来たくないんだけどねぇ」

 

 二人は苦笑しながら駅事務室へ向かった。事情を説明すると、駅員は少しだけ面倒そうな顔をした後、それでも丁寧に頷いた。

 

「昨日の件ですね。もう一度確認されると」

 

「はい。念のため」

 

 キリノが頭を下げる。

 

 案内されたモニター室は、相変わらず狭く、壁一面に監視映像が並んでいた。改札、ホーム、階段、売店前。どれも人の流れで埋まっている。

 

「問題の時刻は十九時一分発の電車のあたりです」

 

 キリノがメモを見ながら告げると、駅員が慣れた手つきで映像を呼び出す。映るのは当然ながら昨日見たものと同じ、帰宅ラッシュの人波。改札はひっきりなしに開閉し、ホームには電車が滑り込むたびに人が雪崩れ込む。

 

「やっぱり多いですねぇ」

 

 フブキが椅子に深くもたれた。

 

「この中から探せって、やっぱり無理があるでしょ」

 

 キリノは画面に目を凝らしている。

 

「トリニティの制服は見えますけど、やっぱり特定できないですね」

 

 映像を一時停止し、拡大する。違うと分かればまた再生して、それっぽい人影を見つけたら巻き戻し。何度繰り返しても結果は同じだった。

 

 それらしい人物は映る。だが、決定打がない。

 

「もう少し粘りますか?」

 

 駅員が気を遣うように聞く。

 

「お願いします」

 

 キリノが即答した。フブキは黙ったまま画面を見ていたが、やがて小さく首を振る。

 

「いやぁ、これ以上はどれだけやっても変わらない気がするねぇ」

 

 その言葉に、キリノも少しだけ肩を落とす。

 

「そうですね」

 

 それからも粘りに粘って数十分後。映像を何度見直しても、エマと断定できる人物は見つからなかった。

 

「これ以上は、もう無理そうですね」

 

「だねぇ。忙しい中ありがとね」

 

 フブキは対応してくれた駅員に軽く手を振った。

 

「ありがとうございました」

 

 キリノが丁寧に礼をする。

 

 事務室を出た瞬間、外の喧騒が一気に押し寄せてきた。駅は朝ラッシュのピークを迎え、先程映像で見たのと同じくらいに人で溢れ返っていた。

 

 改札は人の流れで詰まりかけ、駅員が誘導している。ホームには次々と電車が到着し、ドアが開くたびに人が吸い込まれていく。

 

「朝は朝で地獄ですね」

 

 キリノが眉を顰め、フブキはぼんやりと人の流れを眺めていた。同じように見えて、どの顔もすぐに流れて消えていく。

 

 証拠は、そこにあるようで掴めない。キリノが小さく息を吐く。

 

「結局、分からずじまいでしたね」

 

「まぁねぇ」

 

 フブキは改札を見ながら歩き出した。

 

「でも、分からないって分かっただけでも進歩じゃない?」

 

「それ、慰めになってます?」

 

「なってるなってる」

 

 適当な返事をしながら、二人は改札口を通り抜けた。

 

 

 〇

 

 

 鹿島駅からの帰り道。二人が乗った電車はラッシュの波に飲みこまれ、手を動かすスペースすらないほどの満員となっていた。

 

 車内は人でぎっしり埋まり、吊り革はほとんど空いていない。乗車列の最後尾に並んで乗り込んだフブキとキリノは、ドア横の僅かな隙間に身体を押し込むように立っていた。

 

「もうちょっとゆっくり出ればよかったですね」

 

 キリノが小声で言う。

 

「そうだよね。なんで流れでラッシュど真ん中の電車に乗っちゃったのかなぁ数分前の私は」

 

 フブキはドアにもたれながら、半分死んだ目で答えた。

 

 電車は規則正しく揺れながら進む。車内放送が次の停車駅を告げた。

 

『次は芦江(あしえ)、芦江です』

 

 やがて緩やかに減速し停車。反対側のドアが開き、乗客が少しだけ降り、それ以上の乗客が乗り込んでくる。

 

 乗り込むのに難儀しているのだろう。車掌と駅員が中まで詰めるように、そして次の電車を待つようにアナウンスを流し、発車メロディが急かす様に鳴り続けている。

 

 やがてメロディが止まってようやくドアが閉まる。そして発車。車内にアナウンスが響いた。

 

『次は深屋(ふかや)、深屋です』

 

 その瞬間だった。車内の人の流れが僅かに動く。ドア付近の乗客が降車の準備を始めた。

 

「こっち開きますね」

 

 キリノがドアを指差した。電車が深屋駅に滑り込むと、二人の立っていた側のドアの窓に乗客で溢れ返ったホームが映る。やがて電車が止まりドアが開いた。押し寄せるように乗客が降りようとする。

 

「あ、すみません」

 

 フブキは軽く身体を横にずらすが、それでは追い付かないと分かったので大人しく一旦電車を降りてドアの脇に立つ。キリノも続いてホームへ一歩降りる。降車客を先に通すため、一時的にホーム上で待つ形になった。

 

「こういうの地味に疲れるんですよね」

 

「うん、わかるぅ」

 

 フブキはぼんやりとホームの天井を見上げる。その時だった。

 

「あれ」

 

 フブキの視線が止まる。ホームの屋根の端。線路と並行する方向へレンズが向けられた、細長い機材。

 

「キリノ、あれ」

 

「あれ?」

 

 キリノが視線を追う。そこには、カメラのようなものが取り付けられていた。だが、通常の監視カメラとは違いホームの端を前後に見通せる場所に設置されている。

 

「監視カメラ、ですかね。妙な位置ですけど」

 

 キリノが呟く。フブキはじっとそれを見つめたまま、ぽつりと言った。

 

「これ、もしかしてさ」

 

「はい?」

 

「今の私たちと同じことしてたんじゃない?」

 

 キリノが眉をひそめる。

 

「同じこと、というと」

 

「エマもさ、夕方のラッシュで電車乗ってたんだよね」

 

「はい」

 

「だったらさ」

 

 フブキはホームを見回す。乗客は開いたドアに吸い込まれるようにホームから捌け、電車はドアを閉めて再び動き出していく。

 

「今の私たちみたいに、一回ホームに降りて、降車客通して、また乗り直してる可能性あるでしょ」

 

「あ!」

 

 キリノの表情が変わる。

 

「その時、このカメラに映ってたかもしれない」

 

 フブキはカメラを指差しながら言った。

 

「確認しに行きましょう!」

 

 キリノは即座に改札へつながる階段に向かって動き始めた。

 

 

 〇

 

 

 深屋駅の駅事務室は、他の駅よりも少し落ち着いた雰囲気だった。フブキが警察手帳を見せると、駅員はすぐに事情を理解したように頷いた。

 

「あのホームのカメラですね」

 

「はい。あれ、監視カメラですか?」

 

 フブキが尋ねる。駅員は少し困ったように笑った。

 

「いえ、それは監視用じゃなくて、車掌の安全確認用モニターですね」

 

「安全確認?」

 

「はい。発車時にドアの挟み込みとか、乗客の残留確認をするための物です」

 

 キリノが顔を上げる。

 

「じゃあ、記録は残ってるんですか?」

 

 駅員は首を横に振った。

 

「リアルタイム表示専用なので、映像は保存していません」

 

「保存してない?」

 

 フブキの声が一段低くなる。

 

「はい。データは本局の運行管理システムに送られるので、駅側ではリアルタイムの映像は見れますが履歴の保持はしていないんです」

 

 数秒の沈黙。キリノが小さく息を吐いた。

 

「じゃあ、今ここで見ても……」

 

「ええ、今現在のホームの映像しか見ることはできないです」

 

 駅員は申し訳なさそうに続ける。

 

「もし映像の確認が必要なら、本局の運行管理部に問い合わせていただく形になります」

 

 フブキは天井を見上げた。

 

「本局かぁ」

 

「はい」

 

 駅員は頷く。

 

「運行管理部ですね」

 

 キリノがメモを取る。

 

「そこなら、映像が残ってるんですね?」

 

「一定期間は保存されているので、少なくとも一昨日の分なら残っていると思います」

 

 フブキはゆっくり息を吐いた。

 

「なるほどねぇ」

 

 そして小さく肩を落とす。

 

「また移動かぁ」

 

 キリノは即座に言った。

 

「行きましょう」

 

「即答やめてほしいんだけど」

 

「仕事ですから」

 

「知ってるぅ」

 

 フブキは力なく笑った。

 

 ホームに降りると目の前でちょうど到着していた電車の扉が閉まり、次の駅へ向けて走り去っていった。

 

 次の電車を待つことになり、手持ち無沙汰となったフブキは腰を捻りながら呟く。

 

「本社ねぇ」

 

 キリノが横からフブキの顔を覗き込んで言う。

 

「今度こそ、何か出るといいですね」

 

「出なかったらさすがに泣くよ」

 

「泣かないでください」

 

 二人の次の行き先は、本局の運行管理部だった。

 

 

 〇

 

 

 運行管理部に向かって案内された部屋の内部は、駅とはまったく違う空気をしていた。

 

 無数のモニターや機器が壁一面に並び、列車の位置や各駅のホームの状況、信号や分岐の切り替わりまでもがリアルタイムで全て伝わってくる。低い電子音と指令員の短い指示だけが、静かに室内を満たしていた。

 

「ここ、ちょっと未来感ありますね」

 

 キリノが小さく呟く。

 

「こういうの見ると、逆に現実味なくなるんだよねぇ」

 

 フブキは眠たげな目のまま周囲を見渡した。案内を引き継いだ担当者は、事情を聞くとすぐに手元にある端末を操作した。

 

「昨日の鹿島駅十九時一分発ですね。各駅の映像を順番に再生できます」

 

「お願いします」

 

 キリノが即座に答える。モニターに列車の映像が映し出された。

 

 まずは鹿島駅を出発する瞬間。混雑した車内に押し込まれる乗客たち。

 

「これですね」

 

 キリノがメモを握りしめ、フブキは画面を見つめた。しかし、その時点ではまだ決定的なものはない。

 

 映像は時間に沿って進んでいく。芦江駅、深屋駅、新町駅。各駅に二、三個あるカメラの映像を見続けるが、それでもはっきりとエマと言える人影は見えなかった。

 

 そして次の広前川駅に電車が到着し、ドアが開く。その瞬間だった。

 

「あ」

 

 キリノが息を呑む。モニターの映像に、降車客を待つために乗客が一度ホームへ降りる様子が映る。その中、カメラに一番近いドアの横に見覚えのある顔立ちの生徒が映っていた。

 

「エマさん?」

 

 キリノが小さく声を漏らした。フブキは無言で画面を見つめる。その人物は、確かにホームへ一度降りている。

 

 そして数秒後、降車客が途切れたタイミングで再び同じドアから車内へ戻っていく。その動きは満員電車に乗った時のごく自然なもので、特別なことではない。

 

 フブキは画面の中のエマらしき人影を指差した。

 

「つまりさ」

 

「はい?」

 

「エマって、八木駅より前から乗ってることになるよね」

 

 キリノがはっとする。

 

「確かに! 八木駅より鹿島駅寄りの駅ですもんね!」

 

 キリノが嬉しそうな声を上げる。シンとした部屋の中に声が響き、指令員からの視線に射抜かれたキリノは恥ずかしそうに縮こまった。

 

「あー、だから、鹿島駅十九時一分発の列車に少なくとも鹿島駅から新町駅までのいずれかの駅から乗ってる可能性が高い」

 

 モニターには、エマが再び車内に戻る姿が映っている。何の迷いもない動きで、まさに日常の一部のような振る舞い。それが逆に、疑いを消していく。

 

 キリノが小さく息を吐いた。

 

「これで、アリバイ成立ですね」

 

「うん」

 

 フブキは静かに頷いた。

 

「偶然、しかもカメラのすぐ近くで鮮明なんて幸運はあったとはいえ、かなり強いね」

 

 キリノがメモを閉じた。

 

「じゃあエマさんも白、ですね」

 

「そうなるねぇ」

 

 フブキは椅子に深くもたれた。しばらく、誰も何も言わなかった。ただモニターだけが、西駒井駅に向かって進んでいく列車を映し続けている。

 

 やがてフブキが小さく笑う。

 

「これさ」

 

「はい?」

 

「普通に全員、ちゃんと移動してるだけだったね」

 

 キリノは少しだけ困った顔をしてから、頷いた。

 

「そうですね」

 

「そろそろ本部に戻ろうか」

 

 一度伸びをして椅子から立ち上がったフブキが言う。背後でモニターの光が静かに揺れていた。

 

 

 〇

 

 

 本局最寄りの板代(ばんだい)駅は、ラッシュの終わりかけの人波でまだざわついていた。照明が構内全体を薄く照らし、電車の到着を知らせる電子音が遠くで鳴っている。

 

 フブキはその光景をぼんやりと見ながら、重たい溜息を一つ吐いた。

 

「終わったねぇ」

 

「まだ捜査は終わってませんよ」

 

 キリノはいつもの調子で返すが、その声にも疲労が滲んでいた。丸一日近くの聞き込みと移動で、二人とも完全に消耗している。

 

 そうして板代駅の改札口を通ろうとした時だった。目の前に改札が迫っているのに直前で気が付いたキリノは、慌ててICカードを取り出してカードリーダーにタッチする。

 

 そしてすぐに聞こえるピッという軽い電子音。だが、彼女はすぐに気づいた。

 

「あっ」

 

 手に持っていたのはバスの定期券だった。カードの中に残っていた残高で通過処理がなされたらしく、改札は緑のランプを点灯させてドアを開けたが、キリノは改札を通過しなかった。

 

「や、やってしまいました」

 

 キリノは顔を真っ赤にしながら後退りし、すぐに窓口へ駆け寄る。

 

「すみません、間違えて別のカードをタッチしてしまって……」

 

 駅員は慣れた様子で頷き、端末を操作した。

 

「では、このカードの入場記録を取り消しましたので、正しい方のカードで改札を入り直してください」

 

「はい、ありがとうございます」

 

 キリノは深く頭を下げる。何気ない駅員と乗客のやり取り。だが、それを聞いていたフブキの頭の中には、小さな違和感が芽吹いた。

 

「入ってなくても、取り消しできるんだ」

 

 ぽつりと呟く。

 

 キリノが振り返る。

 

「フブキ?」

 

「いやさ、今のさ」

 

 フブキは改札機を見たまま、ゆっくりと言葉を続ける。

 

「入場記録ってさ、名前の通り改札を入った証明だと思ってたけど」

 

「え?」

 

「でも今、入ってなくても付いてたよね」

 

 キリノの表情が変わる。

 

「もしかして」

 

 キリノが息を呑む。

 

「入場した事実の記録じゃなくて、処理された操作の記録なんじゃ」

 

 横で話を聞いていた窓口の駅員が軽く頷いて口を挟んだ。

 

「そうですね。あくまでシステム上の処理履歴ですので、物理的に改札を入場した証明ではありません」

 

 その瞬間、フブキの中で繋がっていた線が一本ほどけた。そして、別の形で結び直される。

 

「なるほどねぇ」

 

 彼女は小さく笑った。疲れ切った顔のまま、しかしその目だけは少しだけ冴えている。

 

「じゃあさ」

 

 フブキはゆっくりと振り返った。

 

「今まで見てたICカードの記録ってどれもこれもさ」

 

 キリノが息を呑む。

 

「その駅に実際にいた証明じゃなかったってこと、だよね」

 

 続けて、フブキは静かに言った。

 

「だったらさ」

 

 彼女の目が細くなる。

 

「逆に一番アリバイが弱いの、誰?」

 

 キリノの顔が固まる。頭の中で、三人の名前が順番に浮かんでは消える。

 

 ツキ。

 

 シロ。

 

 エマ。

 

 シロはドラレコで確認された。エマは広前川駅のモニターに映りこんでいた。どちらも不鮮明で確固たる証拠とまではいかないが、限りなくそれに近い映像証拠である。では、最後に残るのは。

 

「ツキさん、ですか?」

 

 キリノが呟いた瞬間、フブキは小さく頷いた。

 

「そうなるね」

 

 改めて改札を通過してホームへ向かいながら話を続ける。

 

「ツキには、カメラでの映像記録がない」

 

 フブキは指を一本立てる。

 

「あるのは、ICカードの処理履歴だけ」

 

 キリノの喉が鳴る。

 

「それって」

 

「うん。今の話で分かった」

 

 フブキは淡々と言った。

 

「その場にいた証明じゃなくて、そのカードがその処理をした記録にすぎない」

 

 静かに、だが確実に空気が変わる。今まで積み上げてきたアリバイのピラミッドの底が、音もなく揺れ始めていた。

 

「ツキさんが……」

 

 キリノが言いかけて止まる。その言葉の続きが、自分でも怖くなったのだろう。

 

 フブキは小さく息を吐いた。

 

「今となっては一番証拠が薄いのがツキ」

 

 そして視線を上げる。

 

「一番検証できない時間帯を持ってるのもツキ」

 

 ホームに電車が滑り込んできてドアが開く。フブキは軽い足取りで電車に乗り込んだ。

 

「やっと、解決の糸口が見えたかもね」

 

 キリノはフブキに続いて電車に乗り込み、その横顔を静かに見つめる。ドアが閉まる音が、妙に遠くに聞こえていた。

 

 

 〇

 

 

 電車は板代駅を出てしばらくすると、中心街の地下区間へ差し掛かった。車内はラッシュのピークを過ぎ、立っている乗客もまばらだった。

 

 フブキはドア横の手すりに背を預けたまま、ぼんやりと無機質なトンネルの壁面だけが映る窓の外を見ている。キリノはメモを開きながら、その横顔を窺った。

 

「フブキ、さっきの話を整理するとどうなるんですか?」

 

「あぁ、そこね」

 

 フブキは軽く首を回してから、言葉を選ぶように続ける。

 

「まず前提として、ツキは西宿駅十九時十一分の入場記録がある」

 

「はい」

 

「で、その後十九時十九分発の電車に乗ってる」

 

 キリノが小さく頷く。

 

「はい。それでICカードもその電車の中に落としてます」

 

「そう。だから普通に考えれば、その電車に西宿駅から乗ってたって考えになる」

 

 フブキは指を一本立てた。

 

「でも問題はそこじゃない。ツキが仮に犯人だった場合」

 

 空気が少しだけ変わる。

 

「十九時十一分に西宿駅にいたのは事実として扱おう。そこからビルまで移動して、社長を殺害」

 

 キリノのペンが止まる。

 

「そして問題の時間」

 

 フブキは少し間を置いた。

 

「十九時二十分頃。コンビニの監視カメラでフード姿の人物が確認された時間」

 

「はい」

 

「そこから八木駅まで走る」

 

 キリノは最初のメモに書き込んでいた地図を見る。フブキは淡々と続けた。

 

「ビルから八木駅まで、徒歩で約十分」

 

「走れば?」

 

「五分から六分」

 

 キリノの目がわずかに見開かれる。

 

「間に合いますね……」

 

「そう。だから理屈としては成立する」

 

 フブキはそこで一度息を吐いた。

 

「十九時二十分頃にあのコンビニの前で確認されたということは、ビルを出たのは十九時十八分頃。そこから走って八木駅へ向かう。到着した頃にはちょうど西宿駅を十九分に出た、八木駅二十五分発の電車がある」

 

 列車の揺れが少し強くなる。車内アナウンスが次の駅を告げた。

 

「その電車に乗れば、霞ヶ丘駅でICカードを落としたって申告した流れにも繋がる」

 

 キリノはメモに視線を落としたまま、ゆっくりと整理する。

 

「つまり」

 

「うん」

 

 フブキは窓の外を見たまま言った。

 

「ツキは途中駅から乗っても証言と同じ状況を作れる」

 

 一拍置いて続ける。

 

「逆に言えば、西宿駅から乗っていた証明がまだ完全には取れてない」

 

 キリノが静かに呟いた。

 

「つまり、ICカードの入場記録は」

 

「さっきの話だよね」

 

 フブキは軽く肩をすくめる。

 

「入場記録は、いた証明じゃなくて処理の記録」

 

「はい」

 

「だから、それだけじゃ決定打にはならない」

 

 電車が次の駅に近づき、減速を始める。フブキはようやくキリノの方を見た。

 

「つまり今の状態はね」

 

 少しだけ声が低くなる。

 

「ツキは動きが成立しすぎてる人間なんだよねぇ」

 

「成立しすぎてる……?」

 

「うん。全ての証拠の辻褄は合う。でも確定材料は薄い」

 

 キリノは無意識にペンを握り直した。車内に静かな緊張が戻る。フブキは最後に、軽く言った。

 

「だから次は、その五、六分で本当にそれが可能だったかを詰める必要がある」

 

 電車は八木駅へ向けて、ゆっくりと速度を落としていった。

 

 

 〇

 

 

 八木駅の事務室は、すでに夜勤帯の空気に切り替わりつつあった。利用客の波は少し落ち着き、代わりに駅員たちの事務作業の音が静かに響いている。

 

 モニター室に通されたフブキとキリノは、十九時二十分頃の映像を再生していた。

 

「この時間帯ですね」

 

 駅員がキーボードを操作する。画面には、改札前の広い空間と券売機が映し出される。帰宅ラッシュの名残で、人の流れはまだ途切れていない。時間を進めていくと、やがてその中に一人。

 

「あ」

 

 キリノが小さく声を漏らした。フードを深く被った人物が、駅に駆け込んできて券売機の前に立った。時刻は十九時二十三分。その姿は、コンビニの監視カメラに映っていたあの人物と重なる要素は多い。

 

「似てる」

 

 キリノが呟く。だが、フブキはすぐに首を振った。

 

「でもこれじゃ断定は無理だねぇ」

 

 監視カメラは上方からの俯瞰映像。フードを深く被られると、その下の顔は完全に隠れて確認することができない。キリノの肩が僅かに落ちる。

 

「ここまで来て、ですか」

 

「うん、普通ならこれで終わり」

 

 フブキは画面を見つめたまま静かに言った。そして、キリノが口を開こうとした時、ゆっくりとフブキは振り返りキリノの背後を指差した。

 

「これさ」

 

「え?」

 

 キリノは釣られて後ろを振り返る。そこにあったのは、映像の人物がきっぷを購入していた券売機だった。

 

「この券売機、カメラ付いてるよね」

 

 フブキの問いに駅員が頷く。

 

「はい。付いてますよ」

 

 キリノが目を瞬かせる。

 

「そんなのあるんですか?」

 

「それがあるんだよね」

 

 フブキは淡々と続ける。

 

「なんでもさ、本当はちゃんと出てるのにきっぷが出てこなかったー、とか、おつりが少なかったー、とか言われた時の確認用に、きっぷの放出口とか紙幣投入口、硬貨返却口を監視するカメラが付いてるんだって」

 

 駅員が少し驚いた顔をする。

 

「よくご存知ですね」

 

「まぁ、他の駅で以前そういったトラブルで警察対応になった時に、駅員さんに教えて貰ったことの受け売りだけどね」

 

 フブキは軽く肩を竦めた。

 

「で、映像出せる?」

 

 駅員は手慣れた風に券売機を操作する。画面が切り替わり、過去の録画映像を流し始めた。

 

「こ、これは」

 

 下から見上げるような角度の映像を見たキリノが目を見開く。

 

「そう、このカメラは下方からやや上向きの画角になるように設置されてるんだ」

 

 券売機の前に立つ人物が、きっぷと釣銭を取るために顔をぐっと下げる。

 

「つまり、フードの下の顔も見えるってわけ」

 

 キリノが息を呑んだ。フードの下から僅かに覗いた顔。整った輪郭、特徴的な髪色、それはまさしく

 

「ツキさん……!」

 

 キリノの声が震える。画面の中の人物は、一瞬だけ確かにこちらを向いていた。そしてすぐに顔を隠すように立ち去る。

 

 フブキはしばらく無言で画面を見つめていた。やがて、小さく息を吐く。

 

「これで繋がったね」

 

 キリノは言葉を失ったまま画面を見ている。フブキは淡々と整理するように続けた。

 

「十九時二十三分、ツキはこの時間に八木駅にいた」

 

 証拠が一本の線となって繋がった瞬間だった。キリノが小さく呟く。

 

「じゃあ」

 

 フブキは画面を見たまま、静かに言った。

 

「西宿駅、霞ヶ丘駅、新町駅の三駅に渡って確認された証拠はツキのアリバイを一度は証明し、そして今、八木駅の証拠がそれを根底から覆した」

 

 ホームのアナウンスが遠くで響く。フブキとキリノは、この事件の幕切れを予感していた。

 

 

 〇

 

 

 翌日。取調室の空気は、昨日よりもさらに乾いていた。

 

 ツキは椅子に座り、腕を組んだまま、フブキを見ていた。

 

「どういうことですか」

 

 声にはまだ棘が残っている。

 

「昨日、私は白だと判断されたはずですけど」

 

 フブキは資料を机に置いた。

 

「うん。確かに確認は取れたよ」

 

 淡々とした声だった。

 

「霞ヶ丘駅での紛失申告、新町駅での拾得処理とICカードの履歴。西宿駅十九時十一分の入場記録も一致してる」

 

 キリノが補足する。

 

「あなたの証言したアリバイは成立しています」

 

 一瞬、ツキの表情がわずかに緩む。

 

「なら」

 

「ただし」

 

 フブキが言葉を切った。

 

「それは、改札を通った証明じゃない」

 

 空気が止まる。

 

「入場記録っていうのはね、改札を通った事実じゃなくて、ICカードが改札機にタッチされた事実だけを伝えてるんだよ」

 

 ツキの眉が動く。

 

「何が言いたいんですか」

 

 フブキは続けた。

 

「八木駅の券売機のカメラの映像があるんだ」

 

 資料の一枚が机に置かれる。八木駅、十九時二十三分。フードを被った人物がきっぷと釣銭を受け取る瞬間に思わず顔を伏せた、その一瞬を切り抜いた写真。

 

 そこに映っていたのは、他でもないツキの姿だった。

 

 ◇

 

 ツキの視線が、紙の上に落ちる。最初に出たのは抵抗だった。

 

「……違う」

 

 ほとんど反射だった。否定しなければならない、という義務感。意味はない。ただ、そうしないとここに立っていられないという反応。「違う」と言えば、まだ戻れる気がした。

 

 だが、その言葉は途中で止まる。言葉を続ける理由がどこにもなかった。

 

 頭の中に、別の声が蘇る。あれほど憎かった亀山の声。

 

「それは発明じゃない。ただの趣味だ」

 

「結果が出せないだけだ」

 

「お前には、最初から価値がない」

 

 更に否定しようとした瞬間、その記憶が重なる。そして気づく。今の「違う」は、根拠のある否定ではない。ただの反射だ。空っぽの抵抗だ。

 

「……」

 

 喉が詰まる。もう一度「違う」と言えばいいだけなのに、それを支えるものが何も浮かばない。代わりに浮かぶのは、先程と同じ亀山の言葉。

 

 そして、そのどれもが否定できない。ツキの指先が、僅かに震える。視線が一度だけ揺れて、落ちる。

 

 ああ、そうか。もう、「違う」と言うための場所が、どこにも残っていない。自分の中に残っているのは、正しさではなく、説明できない空白だけだ。

 

 沈黙が落ちる。怒りでもなく、抵抗でもなく、ただただ言葉が消える。

 

「……」

 

 ツキはゆっくりと息を吐いた。そして、ようやく口を開く。その声は、先程まで纏っていた棘を全て失っていた。

 

「私です」

 

 フブキは動かない。キリノも言葉を挟まない。ツキは視線を落としたまま続けた。

 

「やったのは、私、です」

 

 取調室の空気だけが、静かに重く沈んでいく。

 

 ツキはしばらく黙っていた。両手は机の上に置かれたまま、指先だけが微かに動いている。言葉を探しているというより、どこから自分が崩れたのかを辿っているかのようだった。

 

「……別に」

 

 やがて、ぽつりと声が落ちる。

 

「最初から、殺すつもりなんてなかったんです」

 

 フブキは口を挟まない。静かに続きを待っていた。

 

「あの人は」

 

 一度、息を吸う。

 

「亀山は、いつもそうでした」

 

 ツキの視線が机の資料の一点に固定される。亀山の写真の貼ってある資料。その相手はここには、いや、既にこの世に居ないのに、まだそこに居るかのように目を離せなかった。

 

「研究室に来て、いきなり金の話をするんです。返せ、とか。いつまで遊んでるつもりだ、とか」

 

 ツキはぐっと唇を噛む。

 

「私は遊んでなんていなかったのに」

 

 声が少しだけ揺れる。怒りというより、納得できなかった記憶がそのまま形を持って出てくる。

 

「でも……。まだ、我慢できたんです。あの人は、そういう人だからって。現実的に考えている人なんだって、自分に言い聞かせて」

 

 そこで一度、言葉が途切れる。

 

「でも」

 

 絞り出すように出た「でも」には、温度がなかった。

 

「最後に来た時、全部が壊れました」

 

 視線が僅かに上がる。しかし誰を見るわけでもない。

 

「あれは、試作機でした。まだ途中で、でも、やっと形になりかけてて」

 

 もう一度、唇を噛む。

 

「でも、融資が打ち切られて完成できないままだったそれ。私が立ち止まっている間に他の生徒に追い抜かれた特許技術を詰め込んだそれ」

 

 ツキの目尻に少し涙が浮かぶ。

 

「そんな、私にとって大事な機械を見て、亀山は笑ったんです」

 

 その笑いの記憶だけが、やけに鮮明に思い出された。

 

「まだそれをやってるのかって」

 

 両手をぎゅっと握る。

 

「もうそれは発明じゃなくて趣味の玩具だろうって」

 

 言葉をなぞるように繰り返す。感情的というよりは録音の再生に近い。

 

「追加の融資の話をしても聞いてくれませんでした。むしろ早く返せと言ってから」

 

 そこで、少しだけ声が低くなる。

 

「バラして素材を売れば返済の足しになるだろうって」

 

 握りこんだ手に力が入る。手の平に爪が食い込んだ。

 

「その方がまだ価値があるって」

 

 一度、呼吸が止まる。

 

「試作機を壊し始めたんです」

 

 握った手に入った力がより一層強くなる。爪の食い込んだ手の平からはじわりと血が滲んでいた。

 

「その時、思いました」

 

 ここで初めて、視線が少しだけフブキに向く。だが、焦点は合っていない。

 

「この人は私の未来じゃなくて、私の今を壊しに来てるんだって」

 

 静かに息を吐く。

 

「だから、壊れました」

 

 言い切ったあと、少し間が空く。

 

「殺すつもりなんて、本当はなかったんです。ただ、私にはもう、何も残っていなかったから」

 

 握った両手の力が抜ける。

 

「研究も、お金も、たぶん、自分のことも」

 

 再び視線が落ちる。

 

「全部、趣味って言われた時点で、終わってたのかもしれません」

 

 最後の言葉は怒りではなかった。自分が壊れたことを理解してしまった者の、軋んだ心の叫びだった。

 

 ◇

 

 取調室をしばらくの間静寂が支配する。調書を取るフブキのペンの先端が、紙の上を走る小さな音だけがただただ静かに続いていた。

 

しばらくしてからフブキが口を開く。

 

「どうしてもう一枚ICカードを持たなかったの? それを使えば券売機のカメラに捉えられることもなかったのに」

 

 ツキは静かに口を開く

 

「あれで完璧だと思ってたんです。だから、余計な電子記録が残るICカードを使いたくなかった、ただそれだけです」

 

 その声色には、後悔と自罰的な笑いが入り混じっていた。

 

 

 〇

 

 

 事件から一週間後。

 

 捜査本部として使われていた会議室は、ようやく本来の静けさを取り戻していた。

 

 壁一面を埋めていた資料は撤去され、ホワイトボードに残っていた時系列も消されている。雑然と積み上がっていた書類の山もなくなり、代わりに残っているのは、いつもの味気ない長机と蛍光灯の白い光だけだった。

 

 フブキは椅子へ深く腰掛けたまま、大きく伸びをした。

 

「終わったぁ……」

 

 本気で魂が抜けたみたいな声だった。隣で資料を纏めていたキリノが苦笑する。

 

「お疲れ様です」

 

「もう一週間くらい寝たい」

 

「絶対途中で飽きますよね?」

 

「まぁ、現実的には三日かなぁ」

 

 そんな気の抜けた会話をしながら、フブキは机の上の缶コーヒーへ手を伸ばした。長いこと常温で放置されたぬるいコーヒー。だが、それすら今は妙に美味しく感じる。

 

 美山ツキは、あの後正式に送検された。

 

 決め手となったのは、八木駅券売機のカメラ映像。そしてツキ本人の自白。

 

 西宿駅で改札へタッチしただけで構内へは入らず、そのまま引き返して犯行現場へ向かったこと。犯行後、八木駅まで走って十九時二十五分発の列車へ乗車したこと。意図的にICカードを車内へ落とし、アリバイ工作を行ったこと。

 

 全てが、供述と物証で一致した。

 

「でも」

 

 キリノが静かに言う。

 

「最初、本当に騙されましたね」

 

「うん」

 

 フブキも素直に頷いた。

 

「完全に入場記録って名前に騙された」

 

 入場記録。その名前だけを聞けば、誰だって改札を通って駅に入った記録だと思う。

 

 だが実際には違った。あれは、単に入場処理が行われた記録でしかない。その事実に気づけなければ、多分最後まで真相には辿り着けなかった。

 

「キリノのミスタッチのおかげだねぇ」

 

「うぅ」

 

 キリノが露骨に嫌そうな顔をする。

 

「あれ、めちゃくちゃ恥ずかしかったんですからね?」

 

「でも助かったじゃん」

 

「それはそうですけど……」

 

 少し頬を膨らませながら、キリノは資料を閉じた。

 

 そこでふと、彼女が言う。

 

「シロさんとエマさん、結局どうなるんでしょうね」

 

「んー」

 

 フブキは少し考えた。シロは、最初に最も疑われた。証拠が何もなかったからだ。

 

 だが実際には、偶然にもひき逃げ事件のドライブレコーダーの映像が彼女のアリバイを証明した。

 

 もし、あの事故が起きていなければ。もし、公安局が現場検証をしていなければ。もし、あの車がドラレコを積んでいなければ。

 

 そう考えると、少しだけ背筋が寒くなる。

 

「シロはまぁ……ちょっと悪いことしたよね」

 

「否定はできません」

 

 キリノが苦笑する。

 

「自分だけアリバイ証明できなくて、一番疑われてましたからね」

 

 ただ、最後にアリバイ成立を伝えた時。シロは電話の向こうで、しばらく黙ったあと、

 

『よかった』

 

 と本当に力の抜けた声で呟いていた。あの声だけは、妙に耳に残っている。

 

「エマさんは?」

 

 キリノが続ける。フブキは少し笑った。

 

「結構心に来てるかもしれないね」

 

「あー……」

 

 エマは最後まで必死だった。泣きそうな声になりながら、私じゃないと何度も訴えていた。

 

 そして実際に彼女は無実だった。ただ、それを証明できたのは本当に偶然だった。深屋駅のホームでフブキが車掌モニター用のカメラに気付かなければ。広前川駅で、エマがたまたまカメラの真正面へ降りていなければ。

 

「ほんと、紙一重だったねぇ」

 

 フブキがぼそりと呟く。キリノも小さく頷いた。

 

「でも彼女の場合、これからの方が大変かもしれませんね」

 

「そうだねぇ、優しい友達なら良いんだけど」

 

 最初の取り調べの時の彼女の涙ながらの訴えが思い起こされる。彼女が全てを打ち明けた時、友人は彼女の手を取ってくれるのか。それはフブキには分からなかった。

 

「証拠って、あるかないか、だけなんですね」

 

「そうだねぇ」

 

 フブキは天井を見上げる。

 

「無実でも、証明できなきゃ疑われる」

 

「逆に、ほんの小さい映像一つで全部ひっくり返る」

 

 それは、今回嫌というほど思い知らされたことだった。しばらく沈黙が落ちる。外ではカラスが日暮れを告げるかのように鳴いていた。

 

 やがてフブキは立ち上がる。

 

「さて」

 

「帰りますか?」

 

「うん」

 

 フブキは大きく欠伸をした。

 

「今度こそ、本当に寝る」

 

 二人は並んで部屋を出る。蛍光灯の明かりだけが残った捜査本部は、もう事件の熱をほとんど失っていた。

 

 ただ、それでも。あの日真相へと二人を導いてくれた、改札で鳴った小さな電子音だけは、まだ耳の奥に残っている気がした。




 初めて書いた本格中編のため至らぬ点も多いと思いますが、最後までお読みくださりありがとうございます。

 筆者は現役の駅員でICカードに触れる機会が多く、また警察からの問い合わせを受ける中で仕様が分かっていない警官も結構居たので、このアリバイトリックを思いつきました。皆さんもICカードでアリバイを作る時には注意してください。

 アリバイトリックを思いついてから事件を作ったので、動機としては至ってシンプルな借金による怨恨殺人となりましたし、凶器などの殺害方法に関するトリックは一切無いものとなりました。こういう時に血液とかの証拠を残さないオートマタ住民は便利ですね。

 急に天啓のようにアリバイトリックが降りてきて書き上げた作品なのでほぼほぼ続かないと思いますが、もしかしたらまたフブキとキリノが活躍するお話が出る……かもしれません。それは私の頭がトリックを捻りだせるかに懸かっています。

 あとがきまで長々とお付き合いいただきありがとうございました。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。