3度目の春を迎えた高度育成高等学校――国が主導する、馬鹿みたいにデカい敷地を持つ全寮制高校だ。進学率、就職率ほぼ100%。その謳い文句は嘘であり、本当でもある。
正確にはこうだ。AクラスからDクラスまで、ポイントによってクラス配置が決まる。上に行くほど優秀、下に行くほど劣等生。特別試験ではクラスのポイントが平気で賭けられ、授業態度一つで加点も減点もされる。赤点を取れば即退場。進路を本当の意味で保証されるのは、Aクラスの人間だけだ。ふざけんな、と入学当初は思った。
そして俺――
そこから色々あった。本当に色々と。仲間同士でぶつかり合って、他クラスと腹を探り合って、精神を削るような特別試験を何度も乗り越えて。時には怒鳴り合いになったし、信じていた奴に裏切られた気分になったこともある。それでも積み重ねて、積み重ねて――。
俺たちは、ついにAクラスへ昇格した……したんだが。
「綾小路が、Cクラスへ編入した」
担任の茶柱先生からそんな爆弾が投下された瞬間、教室の空気が固まった。意味がわからない。2000万プライベートポイントだそ?貯めるのも苦労するってレベルじゃねえよ。けどアイツが何か隠してるとは薄々感じていた。あの底の読めない目。
表面だけ見ると平凡に見えて、何を考えてるのか全く分からない奴だった。クラスメイトの俺でさえそう感じていたんだから相当だ。それにしたって、まさかクラス移籍という形で動いてくるとは思わなかった。しかも、軽井沢とも別れたらしい。
噂では軽井沢の方から切り出したとか。……あの二人の事情なんて、外から見ても何一つ分からない。分からないが、今の俺にはそこまで考える余裕がなかった。
何故なら現在進行形で、人生で一番気まずい空間に立っているからだ。
「あれ、和泉くん。どうしたのかな?」
「あー……」
声をかけてきたのは一之瀬帆波。柔らかい笑顔に穏やかな声音。ぱっと見ればいつもの一之瀬だ。
だが、違う。
何が違うと聞かれても、うまく説明できない。ただ、空気が違うし、纏っているものが違う。以前の一之瀬は”聖母”という表現が似合っていた。
誰にでも分け隔てなく優しくて、包み込むような柔らかさがあって、一緒にいるだけでなんとなく安心できる、そういう人間だった。でも今の一之瀬は、その優しさの奥に別のナニカが混ざっている。
湿度が高い。
距離が近い。
笑顔なのに逃がしてくれない感じがある。そして妙に色っぽい。
いや、マジで何なんだこの学校の女子共。普通に会話してるだけで寿命が削られるんだが?高度育成高等学校って、もしかして男子の精神鍛錬施設か何かか?入学案内にそんなこと一言も書いてなかったぞ。
まず櫛田桔梗
Dクラスの天使、クラスの太陽、コミュ力モンスターと散々言われていたが、入学当初の俺も普通に「すげぇ良い奴なんだな」って思ってた。
だって誰にでも笑顔で接するし、男女問わず距離感近いし、困ってる奴がいたらすぐ助けるし、教室の空気が微妙になったら自然に会話回し始めるし、なんかもう“青春の理想像”みたいな奴だったんだよ。
しかも顔も良いし愛想も良い。話しやすい。男子人気高いのもそりゃそうだろって感じだった。むしろ警戒しろって方が無理だ。あんな完璧に“感じの良い女子”をやられたら、普通の男子高校生は簡単に信用する。
だから本性知った時の衝撃がヤバかった。
本当にヤバかった。
脳が理解拒否したぞ。
「は?」って声出た。だって、今まで人懐っこい小型犬だと思ってた存在が、急にナイフ持って笑いながら近づいてくるレベルの落差だったんだぞ?怖ぇよ。
しかも厄介なのが、櫛田って“演技してる感”がほとんど無いところなんだよな。あれを自然体みたいな顔でやるから怖い。文化祭で演劇やったら主演取れるだろアイツ。下手な俳優より演技力あるぞ。
あの件以来、俺の中で“愛想の良い女子”への警戒レベルが爆上がりしている。笑顔を見ると「裏あるんじゃねぇか?」って考えるし、優しくされると逆に怖い。 なんなら「おはよう」だけで罠なんじゃないかと思う瞬間すらある。人間不信製造学校かここ?
そんな中で、一之瀬帆波だけは違うと思ってた。
一年の頃に少し話した時から、この人は本当に善人なんだなって感じてたし、実際今でもそうなんだと思う。誰に対しても公平で変に見下したりもしないし、困ってる人間を放っておけないタイプなのも見てれば分かる。
ただ――最近ちょっと違う。
特に綾小路関連になると空気が変わる。なんというか、圧があるのだ。前みたいな“聖母感”だけじゃない。距離が近いし、妙に湿度が高いし、笑顔なのに逃げ道がない。しかも妙に色っぽい。いや本当に何なんだアレ。男子高校生特攻兵器か?
綾小路のことになると急に“女”としての雰囲気が強くなるというか、普段の柔らかさの中に別のナニカが混ざる。優しいのに怖いんだよ。しかも本人に全く悪気が無さそうなのが余計に怖い。
自クラスで実質的な“綾小路大好き宣言”をかましたっていう噂を聞いた時は、正直かなり驚いた。一之瀬帆波ってそういうタイプだったのか?って二度見どころか三度見した。
あと、あのクラス全体的に空気が強い。
なんか陽キャ空間として完成されてるんだよな。近づくだけで「俺ここにいて大丈夫?」って気分になる時あるし、たまに教室覗くと青春のCMみたいな空気流れてる。あれ絶対クラス補正かかってるだろ。
その中で唯一、他クラス女子で比較的話せるのが姫野だ。一年生の干支試験の時から話すようになったんだが……アイツはアイツで別方向に怖い。
なんか毎日機嫌悪そうなんだよな。常に「だるい」みたいな顔してるし、目つき鋭いし、話しかける時ちょっと勇気いる。
実際そこまで怖い奴じゃないんだろうけど、第一印象がずっと“機嫌の悪い猫”。下手に近づくと引っかかれそうな雰囲気ある。しかも会話のテンポが独特で、こっちが頑張って話振っても「ふーん」とか「別に」で終わることがある。
いや会話広げる気ゼロか。でもたまに普通に返してくるから余計距離感が分からん。結局何が言いたいかっていうと、この学校の女子、全員クセが強い。普通の女子はいないのか?もっとこう、平和に会話できる相手とかいないのか?言っておくが男も癖の塊みたいな奴が多いからな?ドラゴンボーイとかヤベーだろ。
もう誰信じればいいんだよ......
誰も彼もキャラが濃すぎるんだよ。RPGなら絶対パーティ会話うるさいタイプだ。そして今、そんな女子勢の中でもトップクラスに厄介そうな二人。一之瀬と軽井沢の間に、何故か俺が挟まっている。
ナンデ.....?
整理しよう。
綾小路の元カノで恐らく未練タラタラな軽井沢と、あからさまに綾小路に好意を持ちそれを一切隠さない一之瀬が鉢合わせしている。そこに何一つ関係のない俺が混ざっている。
つまり.....軽井沢VS一之瀬VS俺。
……なんだこれ。完全な巻き込まれ事故じゃねぇかよ。ダークライってこんな気持ちだったんだなと納得した。いや俺、何もしてないぞ。本当に。
発端は数分前に遡る。今日聞いた爆弾発言をなんとなく頭の中で反芻しながら、俺は寮へ向かって歩いていた。
その少し前に、軽井沢の背中があった。関わる気はゼロだった。今の軽井沢が繊細な状態にあるのは傍目にも分かる。綾小路との件があったばかりだ。下手に話しかけて地雷を踏む未来しか見えない。
俺はそういう、人の心の機微に上手く対応できるタイプじゃない。だから距離を保ったまま、ただ帰ろうとしていた。
その時だった。
まるでタイミングを見計らったように、一之瀬が現れた。
「あ、軽井沢さん」
「……一之瀬さん」
二人は自然に並んで歩き始めた。その瞬間、俺の脳内で警報が鳴った……嫌な予感しかしない。俺は視線を逸らした。見なかったことにして帰ろう。それが一番だ。そう決意した、その時。
ぽとりと、軽井沢の鞄からハンカチが落ちた。
「…………」
見なかったことにしようと本気で思った。だが俺の中の泣けなしの最後の良心がうるさく囁いてきた。
拾え、と。
クソが。こういう時だけ真面目さを発揮するなよ俺。
もっと別の場面で頑張れよ。試験前とかさ...
それでも結局、俺はハンカチを拾ってしまった。もうこうなったら、さっさと渡して即離脱するしかない。だがタイミングが悪かった。その頃には二人の会話が方向へ進んでいた。
「…綾小路くんと別れたらしいね?」
おい待てや。
なんでそこから入る。一之瀬に人の心とかねぇのかよ.....?綾小路が持っていったのか?それとも捧げたのか?
一之瀬の声音は穏やかだった。なのに、何故か逃げ道がない。
一之瀬の言葉が軽井沢の心を静かに抉っていく。穏やかな声音で、優しい口調で、それでいて確実に核心へ触れていく。
軽井沢の肩がぴくりと揺れた。いつもの軽井沢なら、もっと強気に返す。たとえ傷ついていたとしても、気丈に見せることができる人間だ。俺は彼女と深く関わったわけじゃないが、それくらいは分かる。
だが今は違った。目に見えて傷ついている。その姿を見て、俺の中にふと疑問が浮かんだ。
……本当に、軽井沢から別れを切り出したのか?もしかして逆じゃないか? 綾小路の方から切ったんじゃ――。
そう考えが流れた瞬間に。
「私はね、ここで綾小路く――」
「あーちょっと、いいか?」
気づけば俺は割り込んでいた。後から思えば、もっとマシな入り方があったかもしれない。いや、絶対あったが無理だ。あの空気の中でスマートに立ち回れる人間がいるとしたら、もうそれは人類を卒業している。
一之瀬がぱちりと瞬きをした。
「あれ、和泉くん。どうしたのかな?」
柔らかい笑顔なのに怖い。
なんだこの矛盾。笑ってるのに逃がしてくれない気配がある。あと近くで見ると本当に顔が良い。危ない、色々な意味で持っていかれそうになる。
「……軽井沢に用があるんだが、いいか。すぐ済む」
「うん、いいよ」
即答だった。あっさりしすぎて逆に怖い。俺は曖昧な会釈をしてから、即座に軽井沢の方へ向かった。とにかく一之瀬から距離を取る。
それだけを考えて。
「な、なに?」
軽井沢が戸惑いを顔ににじませながら俺を見る。まぁ当然だ。同じクラスとはいえ、俺と軽井沢の接点は必要最低限以下どころか未満だ。突然こんな形で近づいてきたら困惑して当たり前だろう。
ただ――いつもの刺々しさがない。傷心中。その言葉が妙にしっくり来た。普段の軽井沢を思えば、今の状態がどれだけ消耗しているかが分かる。見てて気まずいを通り越して、なんとなく痛々しかった。
「あー……これ」
俺はハンカチを差し出した。
「落としてたぞ」
「あ……」
一瞬だけ目を丸くして、軽井沢はそれを受け取った。
「渡そうと思ったんだが、一之瀬と話してたからタイミング逃してな」
「……ありがと」
声が弱い。表面上の刺々しさも、強がりも、今の軽井沢にはない。それがかえって逆に、なんともいえない気まずさを生み出していた。俺は頭を掻きながら視線を逸らし小声で言った。
「あとな……今日は早めに帰った方がいいと思うぞ」
「え?」
「今の一之瀬は、なんか危険だ」
しばらく沈黙があった。それから軽井沢が、ぽかんとした顔をした。そして次の瞬間、吹き出した。小さく、短く、でも確かに。
「なにそれ……」
「いやマジで笑顔なのに圧があるだろ。逃がしてくれない感じもするし」
「……うん、ちょっと分かる」
さっきまでより少しだけ、声に力が戻っていた。表情も僅かに緩んでいる。なら十分だ。これ以上この場にいると、今度は俺が倒れる。
「じゃ、このまま帰るぞ。俺はこの状態で1人で帰るのは無理だ」
「……それ、フォローになってないんだけど」
「事実だから仕方ない」
「最低……」
そう言いながらも、軽井沢の口の端は僅かに上がっていた。さっきよりはマシな顔だ。それで十分だろう。俺はその様子を確認してから、一之瀬の方へ振り返った。
「一之瀬。なんか軽井沢、具合悪そうだから一緒に帰るわ。じゃあな」
「あ、そうなの?」
一之瀬は変わらず笑顔だった。
「お大事にね?」
優しい声音に気遣うような口調。どこからどう見ても善意の塊だ。なのに背筋が妙に寒かった。今背中を向けた瞬間に「へぇ、そうなんだ」と静かに微笑んでいる気配がある。
根拠はない。
偏見かもしれない。
でも怖いんだから仕方ない。俺はなるべく自然を装いながら、その場を後にした。
「綾小路…..」
お前が動いたせいで、俺まで色々と巻き込まれてるんだが。Cクラスの教室の方角を一瞬だけ睨んでから、俺は前を向いた。3度目の春は、どうやらまだ穏やかになりそうもない。