蒼の向こうで君を待つ   作:ハマジロウ

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第10章 最後の一球

 

海斗 高校三年生 六月。

 

 

 

夏大会を目前に控えた頃。

 

野球部のグラウンドには、

 

見慣れない顔が増えていた。

 

フェンスの外。

 

バックネットの裏。

 

ノートを持って、黙って立っている大人たち。

 

中には、

 

監督と真剣な顔で話し込んでいる人もいる。

 

同期の一人が、ひそひそと声を落とした。

 

「なあ……あれ、スカウトだぜ」

 

「大学関係者じゃね?」

 

「いや、プロの人も混じってんじゃね?」

 

別の同期が、少し緊張した顔で言う。

 

「え、ヤバ……俺も見られてる?」

 

思わず笑いが起きる。

 

「バカ」

 

誰かが即座に突っ込んだ。

 

「目的は、青柳だろ」

 

視線が、一斉に竜司に集まる。

 

打撃ケージで、

 

いつも通りのスイングを繰り返す背中。

 

俺はそれを見て、

 

誇らしい気持ちになった。

 

 

 

――さすが、竜司だ。

 

 

 

そう思う一方で、

 

胸の奥に、言葉にならない不安も混じる。

 

その感情を、俺はまだ、うまく整理できなかった。

 

 

 

* * *

 

春日部実業高校。

 

今年のチームは、

 

「史上最強」と評されていた。

 

エースとして、

 

俺の実力も、ある程度は評価されている。

 

ストレートは、

 

全力で投げて、ようやく140キロ台に届くかどうか。

 

平均すれば、138キロ前後。

 

これが、今の俺の限界だった。

 

圧倒的な球速があるわけじゃない。

 

誰もが振り遅れるようなボールでもない。

 

ただ――

 

去年とは、決定的に違うところがあった。

 

変化球は、スライダー、チェンジアップ、カーブに加え

 

不安定ではあるが、俺はフォークを解禁した。

 

まだ完璧とは言えない。

 

暴れることも多いし、使いどころを間違えれば、試合を壊す。

 

それでも。

 

「ここぞ」という場面で使うための、切り札として。

 

俺は、その一球を、静かに握るようになっていた。

 

だが、投手陣の起用法は変わらない。

 

俺一人に背負わせることはしない。

 

俺を軸に、他の二人の投手と継投するスタンス。

 

それが、このチームの形だった。

 

そして――

 

竜司を中心とした、最強の打線。

 

去年から、その特性は何一つ変わっていない。

 

俺たちは、その形のまま勝ち続けた。

 

 

 

結果、二年連続の甲子園出場が決まった。

 

喜びと、歓声と、胴上げ。

 

その中心にいる竜司を、

 

俺は少し離れた場所から見ていた。

 

 

 

埼玉県大会を優勝して、甲子園の試合前夜。

 

宿舎の部屋は静かで、

 

消灯後の廊下の足音だけが、遠くで響いていた。

 

俺は布団の中で、目を閉じていた。

 

 

 

……眠れなかった。

 

 

 

頭の中に、何度も、同じ言葉が浮かんでくる。

 

――道、分かれちゃうね。

 

蒼司が、あのとき言った言葉。

 

『兄貴がプロに行ったら、道は分かれる。

 

それでも、兄貴のために甲子園を目指すんでしょ。

 

自分は身を引いて、甲子園を目指すんでしょ』

 

その言葉が、ずっと、胸のどこかに引っかかっていた。

 

 

 

(……違う)

 

俺は、心の中で首を振る。

 

違う。

 

俺は、誰かのためだけに投げてきたわけじゃない。

 

自分のために、チームのために、甲子園で投げる。

 

仲間のために、この夏を勝ちにいく。

 

竜司の夢のためじゃない。

 

俺自身の野球を、この場所で、出し切るためだ。

 

 

 

そうだろ、と。

 

まるで自分に言い聞かせるみたいに、

 

何度も、心の中で繰り返す。

 

 

 

それでも。

 

 

 

蒼司のあの言葉は、完全には消えてくれなかった。

 

胸の奥で、小さな棘みたいに残ったまま。

 

俺は、その違和感ごと抱えて、甲子園へ向かう覚悟を決めた。

 

 

 

自分のために。

 

チームのために。

 

――最高のプレーをするために。

 

 

 

たとえその先で、道が分かれるとしても。

 

* * *

 

二度目の甲子園。

 

そして、最後の甲子園。

 

試合が始まった。

 

俺たちのチームは、

 

甲子園を順調に勝ち進んでいった。

 

 

 

去年とは、違う。

 

 

 

そう感じていたのは、たぶん俺だけじゃなかった。

 

竜司は、相変わらずだった。

 

長打。

 

ホームラン。

 

試合の流れを、一振りで変える打撃。

 

勝ち進むたびに、竜司の存在は、どんどん大きくなっていく。

 

 

 

テレビでも取り上げられるようになった。

 

「注目のスラッガー」

 

「プロ入りは確実」

 

そんな言葉が、当たり前のように並ぶ。

 

ニュースのほとんどは、竜司の話だった。

 

俺の名前も、一応、出てくる。

 

 

 

――二年連続、甲子園のマウンドに立つエース。

 

――今年も落ち着いた投球。

 

 

 

ただ、それだけ。

 

さらっと。本当に、さらっと流される。

 

俺は、そのテレビ番組を、何も言わずに、ただ見ていた。

 

悔しいわけじゃない。羨ましいとも、違う。

 

ただ、そういう役割なんだと、

 

静かに理解している自分がいた。

 

 

 

画面の向こうで、スポットライトを浴びる竜司と、

 

その光が届かない場所で、マウンドを見つめる俺。

 

 

 

二つの立ち位置が、はっきりと分かれ始めていることを、俺はもう、分かっていた。

 

 

 

甲子園決勝まで、勝ち上がった。

 

それでも、俺には最後まで、実感がなかった。

 

なぜ、ここまで来られたのか。

 

本当に、俺はここまで勝ち上がれるだけの投手だったのか。

 

 

 

その疑問は、ずっと心の奥に残ったままだった。

 

 

 

決勝戦。

 

俺の出番は、五回から。

 

ストレート。

 

変化球。

 

そして、ここぞという場面でフォーク。

 

調子はいい。フォークは落ちている。

 

指の感覚も、ある。落ち着いている。

 

 

 

――いける。

 

 

 

ベンチに戻ると、竜司が俺の肩を叩いた。

 

「お前なら、いける」

 

その言葉が、俺をマウンドに戻した。

 

 

 

九回。

 

試合は、同点になっていた。

 

スコアは、三対三。

 

流れは、少しずつ相手に傾いている。

 

それでも、まだ終わっていない。

 

 

 

ツーアウト。

 

二塁、三塁。

 

 

 

ここを抑えれば――次の回がある。

 

俺の頭に、はっきりと浮かんだ。

 

ここで抑えれば、延長戦、竜司に打順が回る。

 

きっと、あいつなら打ってくれる。

 

俺がここを抑えさえすれば、

 

最後は、竜司が決めてくれる。

 

 

 

キャッチャーが、サインを出す。

 

――フォーク。

 

ここで、か。

 

 

 

一瞬だけ、迷った。

 

でも、今の俺なら――

 

 

 

いける。

 

 

 

俺はボールを握りしめ、腕を振った。

 

その瞬間、指先に、わずかな違和感が走る。

 

まずい。

 

タイミングが、合わない。

 

そう思ったときには、もう、ボールは指を離れていた。

 

 

 

――低い。

 

 

 

ワンバウンド。

 

キャッチャーが、ミットを出す。

 

 

 

……取れない。

 

 

 

ボールが、後ろへ弾けた。

 

その瞬間、

 

三塁ランナーが、迷いなくホームへ突っ込んでくる。

 

俺は、全力で駆け寄った。

 

ホームベースへ。

 

 

 

――間に合わない。

 

 

 

セーフ。

 

逆転。

 

 

 

歓声が、一気に相手側へ流れ込んだ。

 

 

 

試合は、そこで終わった。

 

俺は、マウンドの上で、動けなかった。

 

 

 

あの一球。

 

 

 

竜司を信じて、投げたフォーク。

 

俺が抑えれば、次は、あいつが打つ――

 

そう信じた、その選択で。

 

 

 

俺たちの、最後の夏は終わった。

 

 

 

俺は、泣かなかった。

 

……いや、泣けなかった。

 

竜司は、笑っていた。

 

「最高のエースだ」

 

そう言って、何度も俺の背中を叩いた。

 

 

 

地元では、新聞やローカルニュースが、

 

俺たちの活躍を大きく取り上げていた。

 

 

 

「二年連続甲子園」

 

「堂々の準優勝」

 

 

 

両親は、テレビの前で泣いて喜んでいた。

 

誇らしそうで、

 

嬉しそうで。

 

その姿を見て、俺は何も言えなかった。

 

 

 

ただ――

 

 

 

俺の心の中には、最後まで、消えないものがあった。

 

 

 

『俺のせいで、優勝を逃した』

 

 

 

その一文だけが、何度も、何度も、

 

胸の奥で繰り返されていた。

 

誰にも言わずに。

 

誰にも、見せないまま。

 

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