蒼の向こうで君を待つ   作:ハマジロウ

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第11章 分岐点

 

 

八月の終わり。

 

岩槻城址公園の広場で、

 

俺と竜司は軽くキャッチボールをしていた。

 

強くもなく、弱くもなく。

 

ただ、グラブに収まる音だけが、一定のリズムで続く。

 

少し離れたベンチでは、

 

蒼司がスケッチブックを広げ、黙って絵を描いていた。

 

 

――俺たちは、もう野球部じゃない。

 

 

引退して、これからはそれぞれ、

 

自分の進路と向き合わなきゃいけない。

 

ボールを投げ返しながら、竜司が口を開く。

 

「カイト。お前は進路どうする?」

 

俺が答える前に、今度は俺が聞いた。

 

「竜司は……やっぱり、プロ志望届、出すのか?」

 

「ああ」

 

即答だった。

 

「もしドラフトにかからなかったら、大学に行く」

 

「……お前なら、まず間違いなく指名は来るだろ。来るかどうかじゃねぇよ。どこから来るか、だろ」

 

その言葉に、竜司は何も返さない。

 

竜司が、真っ直ぐ俺を見る。

 

「で、カイト。お前は?」

 

「……俺は」

 

言葉が、途中で止まる。

 

「……プロ志望届は、出せない。

 

大学も……どうするか、まだ分からない」

 

ボールを投げ返しながら、続ける。

 

「大学で野球を続けるか、

 

それとも、違うことをするか。

 

普通の大学生活を送るのか……」

 

自分で言っていて、情けなくなるほど、

 

全部が曖昧だった。

 

竜司は何も言わず、ただボールを受け取った。

 

竜司は、ボールをグラブに収めたまま、

 

しばらく何も言わなかった。

 

それから、低い声で言う。

 

「なあ、カイト。お前さ……野球、やめんなよ」

 

胸の奥が、少しだけざわつく。

 

「プロが無理なら、大学でもいい。

 

大学が無理だったら、草野球でもいい」

 

言葉を選ぶみたいに、間が入る。

 

「形なんて、どうでもいいんだよ」

 

竜司は、真っ直ぐ俺を見た。

 

「だから。野球だけは、やめんな」

 

俺は何も返せなかった。

 

俺の中では、答えは、もう分かっている。

 

 

竜司は、プロへ。

 

俺は、大学へ。

 

 

進む道は、はっきりと分かれている。

 

その時、俺たちは、どうなるんだろう。

 

――俺は、竜司が好きだ。

 

できることなら、ずっとそばにいたい。

 

同じ場所で、同じ景色を見ていたい。

 

 

でも、それは現実じゃない。

 

どうしようもない。

 

だから、俺は口に出せない。

 

怖くて、言えない。

 

あの時、胸の奥で感じた予感が、

 

ゆっくりと現実に近づいていく。

 

 

 

認めたくは、なかった。

 

* * *

 

 

9月

 

俺は、監督に呼び出された。

 

職員室の一角。

 

少し古いソファに腰を下ろすと、

 

監督は資料を机に置いた。

 

「佐々木。お前に、いくつか大学から推薦の話が来ている」

 

「……え?」

 

思わず、声が裏返る。

 

推薦なんて、一校たりとも来ないと思っていた。

 

「……本当ですか」

 

監督は、静かに頷いた。

 

「お前はな、甲子園で二年連続、マウンドに立った」

 

紙を一枚、指で押さえる。

 

「しかも、三年目はエースとして投げ切っている。

 

それが、ちゃんと評価されたってことだ」

 

胸の奥が、じんと熱くなる。

 

「俺のおすすめは――N大学だ」

 

俺は顔を上げた。

 

「理由はな……」

 

監督は、少し言葉を選ぶようにしてから続けた。

 

「野球だけで学生を使い潰さない。

 

故障歴や将来も含めて、選手を“育てる”大学だ」

 

「プロを目指す道も、指導者や一般就職に

 

進む道も、どちらも用意されている」

 

「何より――」

 

監督は、はっきり言った。

 

「お前みたいに、

 

“野球は好きだが、進路に迷っている選手”を

 

ちゃんと受け止めてくれる」

 

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で、

何かがほどけた。

 

――俺は、救われた気がした。

 

この三年間、高校野球にすべてを注いできたこと。

 

その時間が、無駄じゃなかったと、初めて思えた。

 

 

もう、野球は辞めよう。

 

そう、心のどこかで決めかけていた。

 

 

でも。

 

――まだ、続けてもいい。

 

――続けろって、背中を押されている。

 

そんな気が、していた。

 

「……ありがとうございます。

 

親とも相談して、考えて決めます」

 

そう言って、俺は椅子を引き、部屋を出ようとした。

 

その時――

 

「佐々木」

 

背中越しに、監督の声が飛んできた。

 

俺は、足を止める。

 

「お前は、まだまだ伸びる」

 

振り返ると、監督は真っ直ぐ俺を見ていた。

 

「球速だって、制球力だって。

 

正直に言えば……まだ、伸びしろだらけだ」

 

「それに――」

 

 

一拍、間が入る。

 

 

「お前が大学に推薦された理由は、

 

野球の能力だけじゃない」

 

胸が、静かに鳴った。

 

「お前は、自分じゃ気づいてないかもしれないが……人柄だ。いつも真面目に、野球に真剣に向き合ってきた」

 

「野球に対する姿勢。チームへの向き合い方。

 

それが、ちゃんと見られていた」

 

「お前には、人をまとめる力がある。

 

落ち着いていて、試合全体をよく見ている。

 

派手じゃないが、試合を“壊さない”、まとめる投手だ」

 

言葉一つ一つが、胸に沈んでいく。

 

監督は、少し視線を落としてから、続けた。

 

「それに、お前は――人の弱さを知っている」

 

その言葉に、胸がきゅっと縮む。

 

「だから、弱い人の話を聞ける。

 

相手の気持ちに、ちゃんと寄り添える。

 

そして、そっと背中を押すことができる」

 

監督は、穏やかな声で、はっきりと言った。

 

「お前は、そういう奴だよ」

 

しばらく、何も言えなかった。

 

監督は、少しだけ表情を緩めた。

 

「……本当に、三年間ありがとう。

 

これからも、頑張れよ」

 

俺は、深く頭を下げた。

 

声が、出なかった。

 

* * *

 

家に帰ると、俺はすぐパソコンを開いた。

 

N大学。

 

画面に表示された公式サイトを、

 

上から順に確認していく。

 

 

まずは――場所。

 

世田谷区。

 

正直、ここからの通学は現実的じゃない。

 

次に、野球部。

 

練習環境、指導体制、リーグ戦の実績。

 

どれも、思っていた以上に整っていた。

 

 

寮生活。

 

私立大学だが、寮に入れば、一人暮らしをするより

 

家賃や光熱費はかなり抑えられる。

 

 

授業料。

 

「私立は厳しいか……」

 

そう思いながら読み進める。

 

奨学金制度。

 

スポーツ推薦者向けの減免。

 

――使えば、なんとかなる。

 

頭の中で、自然と計算していた。

 

次に、卒業生の進路。

 

プロ野球選手。

 

社会人野球。

 

一般企業。

 

そして、その中に――

 

気になる言葉があった。

 

「教職員」

 

「保健体育科教員免許 取得可能」

 

画面を見つめたまま、動けなくなる。

 

 

 

――そうだ。

 

さっきの、監督の言葉が、胸に蘇る。

 

「人の弱さを知っている」

 

「寄り添って、背中を押せる」

 

俺は、野球しか知らない。

 

社会人になって、スーツを着て、

 

普通に会社勤めをしている自分が、

 

どうしても想像できなかった。

 

 

 

でも――

 

野球を教えること。

 

誰かの話を聞くこと。

 

迷っている選手の、そばにいること。

 

 

 

それなら、想像できる。

 

自然と、頷いていた。

 

「……そうだ」

 

教師になろう。

 

野球を続けながら、学びながら、

 

人のそばにいられる道。

 

俺は、もう一度画面を見た。

 

 

 

決めた。

 

 

 

* * *

 

十月中旬。

 

俺は、N大学への推薦入試を受けた。

 

 

両親と、監督が動いてくれたおかげで、

 

手続きは驚くほどスムーズに進んだ。

 

試験は、面接のみ。

 

堅苦しいものではなく、確認のような内容だった。

 

聞かれたのは、主に――

 

大学でも野球を続けるつもりか。

 

寮に入る予定か。

 

高校野球での経験。

 

そして、将来、何を目指しているのか。

 

特別なことは、聞かれなかった。

 

俺は、ひとつひとつ、落ち着いて答えた。

 

大学でも、野球は続けたいこと。

 

寮に入り、環境を整えたいこと。

 

高校では、エースとしてチームをまとめてきたこと。

 

そして――

 

将来は、野球に関わりながら、

 

誰かを支える仕事に就きたいということ。

 

言葉にしてみると、不思議と、迷いはなかった。

 

三年間、真剣に野球に向き合ってきた。

 

それだけで、胸を張って話せた。

 

面接室を出た時、

 

俺は初めて、少しだけ未来を思い描いていた。

 

 

結果は早かった。

 

俺は、N大学への推薦合格が決まった。

 

* * *

 

十月下旬。

 

――運命の日。

 

 

 

竜司の、プロ野球ドラフトの日だった。

 

この日のことは、いまでも、はっきり覚えている。

 

テレビでも、ニュースでも、

 

大きく取り上げられていた。

 

それだけ、注目されていたということだ。

 

 

 

結果は――

 

竜司は、複数の球団から指名を受けた。

 

名前が呼ばれるたびに、周囲がどよめく。

 

 

 

そして――

 

最終的に、交渉権を獲得した球団は。

 

 

 

『福岡フェニックス』

 

 

 

その瞬間、部屋は一気に祝福の空気に包まれた。

 

「すげぇな!」

 

「おめでとう!」

 

「さすがだ!」

 

拍手と笑顔。

 

竜司は、

 

これ以上ないくらいの満面の笑みを浮かべていた。

 

 

 

その姿を見て、俺も、嬉しくないはずがなかった。

 

 

 

――でも。

 

 

 

俺は、ただ、呆然としていた。

 

頭の中で、

 

ひとつの事実だけが、何度も繰り返される。

 

来年から、

 

竜司は――福岡へ行く。

 

 

 

埼玉と、福岡。

 

地図を思い浮かべる。

 

……気軽に、行き来できる距離なのか?

 

 

 

仕事。

 

練習。

 

試合。

 

 

 

プロの世界は、会いたい時に会える場所じゃない。

 

胸の奥で、ずっと抱えてきた不安が、

 

静かに、形を持ち始めていた。

 

 

 

 

――ああ。

 

やっぱり、そうなるんだ。

 

 

 

あの時感じた、あの予感。

 

認めたくなかった現実が、ゆっくりと、

 

でも確実に、俺たちの前に現れていった。

 

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