二人の間に、沈黙が流れる。
公園は、まだ明るい時間だった。
子供たちの遊ぶ声。
行き交う人々の話し声。
周囲に溢れる、明るい笑い声。
それらすべてが、
まるで何事もないかのように、
俺たちの無言の空気を包み込んでいく。
世界は、何も変わらず動いている。
けれど、俺と竜司の時間だけが、
その場で、静かに立ち止まっていた。
重い空気の中で、竜司が、ゆっくりと口を開いた。
「……カイト」
俺の名前を呼んでから、少しだけ間を置く。
「俺さ、一月になったら、福岡に行くんだよ」
その言葉は、もう決まっている事実として、静かだった。
「球団との打ち合わせとか、施設の見学とか、今後の生活のこととか……
いろいろ話しに行く」
俺は黙ったまま、ただ耳を傾けていた。
「なあ」
竜司は、俺の方を見て言う。
「お前さ、一緒についてこいよ」
胸が、少しだけ強く脈を打つ。
「高校だって、来年は自由登校だろ……、
時間、あるじゃん」
それは、決断を迫る言い方じゃなくて、
選択肢を差し出すみたいな声だった。
・
・
・
俺はまだ、うつむいたまま何も答えられずにいた。
しばらくして、
竜司は、震えた声で俺に語りかけた。
「……なあ、カイト。顔、上げろよ……」
俺は、何も言えないまま、ゆっくりと顔を上げる。
目の前の竜司は、ひどく、悲しそうな顔をしていた。
今にも泣き出しそうで、必死にそれを堪えている表情。
――竜司が、
人前で泣くところなんて、
俺はほとんど見たことがない。
試合中でも決して見られなかったその顔が、
今、俺に向けられている。
「……なんでさ」
竜司の声が、少し掠れる。
「……なんで、何も言ってくれねえんだよ……」
胸の奥が、きしむ。
「俺さ……」
一度、息を吸って。
「お前と、離れたくねえよ……」
視線を逸らさず、真っ直ぐ俺を見る。
「なあ、カイト……
何か……
何か、言ってくれよ……」
俺は、静かに口を開いた。
「……竜司」
一度、息を吸う。
「俺もさ。俺も、お前のそばにいたい……」
でも――
気づけば、声は強くなっていた。
「……でも、俺とお前じゃ、進む道が違う……」
竜司が、黙って聞いている。
「……お前は、プロ野球選手になるんだろ……」
言葉を選ぶ余裕なんて、なかった。
「……プロになったお前に、そんな気軽に俺に会いに行く時間なんてないだろ……」
「練習もある。試合もある」
「どんなに時間を見つけようったって、
そんなの、簡単じゃない」
胸の奥に溜め込んでいた不安が、一気に溢れ出す。
「プロに入ればさ、新しい人たちも増える。
チームの人間も変わるし、
お前に関わってくる人間だって、
全部変わってくる」
俺は、拳を握りしめた。
「俺だって、時間があれば福岡に行きたい……」
「……でも、福岡は遠い。
飛行機だって、新幹線だって、
時間もかかるし、金だって、かかる……」
声が、少しだけ震える。
「俺だって、大学に入ったら……
そんなに、バイトする時間もない」
「時間だって、きっと、今みたいにはない……」
言い終えたあと、胸の奥が、ひどく痛んだ。
「……」
竜司は、感情を抑えきれないまま言葉を重ねた。
「……なんだよ、それ……」
「何、言ってんだよ……」
声が荒れる。
「意味、わかんねーよ」
一歩、俺に近づく。
「それじゃあさ……」
唇を噛んでから、吐き出すように。
「もう、諦めるってことか?」
「……もう無理だって、そう言いたいのかよ」
声が震える。
「なんでだよ……」
「……なんで、そんな簡単に諦めるんだよ」
目が潤んでいる。
「最初からさ、もう無理だみたいな言い方して……そんなふうに、突き放すなよ……」
最後の言葉は、怒りよりも、
はっきりとした悲しさを含んでいた。
竜司は、震えた声で言った。
目は赤く、今にも涙が溢れそうになっている。
「……そんなの」
声が、思わず大きくなる。
「そんなの、分かんねえだろ……」
肩が、わずかに揺れていた。
「時間だって、金だって、俺がなんとかする。福岡に来れねえなら、俺がそっちに行く」
必死に、言葉を繋ぐように。
「もう……今から無理だって、そんなふうに決めつけるなよ」
「簡単に、諦めんなよ……」
最後の声は、ほとんど、叫びに近かった。
俺は、はっきりと口を開いた。
不思議なほど、自分でも驚くくらい、冷静だった。
「……俺はさ」
一度、間を置いて。
「お前のことが、好きだ」
その言葉だけは、迷いなく言えた。
「でも――」
声は低く、揺れない。
「……好きなだけじゃ、どうにもならないことだってあるだろ」
竜司が、息を詰める。
「お前は、プロになる」
「プロになっても、そこで終わりじゃない。
……お前の道は、まだ先に続いてるんだよ」
言葉を重ねるたび、胸が締めつけられる。
「お前ならさ……」
「一軍だって、レギュラーだって」
「人気選手にだって……、なれる」
それが本音だった。
「入ってから一年目は、一番大事な年だろ。
俺に会いに来る時間なんて、あるはずない」
その瞬間だった。
竜司の表情が、一気に変わる。
「……なんだよ、それ!」
突然、胸ぐらを掴まれた。
「さっきから!」
「お前、勝手に一人で決めつけて!」
公園の空気が、一瞬で張りつめる。
「俺の気持ちも知らねぇで……」
声が荒れる。
「お前が、勝手に決めてんじゃねえよ!」
周囲が、ざわつき始める。
「なんだ、喧嘩か?」
「高校生同士か?」
そんな声が、耳に入る。
そのとき――
「やめて!!」
蒼司が、必死に声を張り上げた。
「兄貴、やめて!」
「今、騒ぎ起こしたら……
今、一番大事な時期だろ!」
その言葉に、竜司は、はっとする。
しばらく、固まったまま――
やがて、ゆっくりと手を離した。
俺は、涙を流しながら、竜司に言った。
「……俺さ」
声が震えるのを、止められなかった。
「お前のこと、本気で……本気で、好きだよ……」
一度、言葉を切る。
「たぶんさ……これから先、お前以上に好きなやつなんて、きっと、もうできねえと思う」
竜司を、真っ直ぐ見る。
「ガキの頃からだ」
「ガキの頃から、高校の今まで……
ずっと、お前と同じ道を歩いてこれた」
涙が、頬を伝う。
「……それだけで、俺は幸せだった……」
「高校野球もさ、お前と一緒に、全力でやれて。
学校生活も、ずっと一緒にいられて……」
声が、掠れる。
「……本当に、幸せだった」
そして、逃げずに言い切る。
「この気持ちは……」
「一生、変わらない……」
竜司は、一歩、後ろに下がった。
しばらく、
何かを言おうとしているようだったが――
やがて、短く息を吐いて、ひと言だけ告げた。
「……俺は、諦めねぇから」
それだけ言って、背を向ける。
「先、帰る」
竜司は、そのまま公園を後にした。
俺は、動けなかった。
公園から去ってゆく竜司の背中を、
黙ってみることしか出来なかった。
* * *
一月。
竜司は、福岡に行った。
あれから、俺と竜司が先の話をすることはなかった。
ただ――
「行ってくる」
それだけだった。
俺は学校に、必要な書類を届けに行く。
用事は、午前中で終わった。
春日部駅。
いつものホーム。
朝のラッシュが過ぎ、ひとときの平穏な時間。
空は雲一つない青い空
俺は、ホームのベンチに腰を下ろす。
アナウンスが流れる。
『まもなく、六番線に、各駅停車、岩槻方面、大宮行きが、参ります』
電車が、ホームに滑り込む。
俺は、それを見送った。
十分おきに、規則正しくやって来る電車。
――その光景を眺めながら、
俺は、思い出していた。
練習終わり。竜司と、二人きりで電車を待つ時間。
俺は、この時間が、一番好きだった。
竜司を、独り占めできる時間。
でも――
もう、竜司はいない。
もう、竜司と並んで、
このホームで電車を待つことは、ない。
俺は、ベンチに座ったまま、
声を押し殺して、静かに泣いていた。