俺は高校を卒業した。
卒業式に、竜司の姿はなかった。
三月の終わり。
春もすっかり暖かくなって、
今日は文句なしのお出かけ日和だった。
今日は俺と蒼司で、海に行く。
二人を乗せた電車は、**鎌倉駅**に到着する。
「……あー、結構遠かったなぁ」
ホームに降り立った瞬間、俺は思わず声を漏らした。
「もう昼過ぎだぜ」
蒼司は小さく笑って、
「うん、そうだね」
とだけ答える。
今日、蒼司と出かけることは――
竜司には話していない。
竜司は、もう福岡に引っ越していった後だった。
今さら伝える理由も、勇気も、俺にはなかった。
一方で、蒼司は両親に
「今日は友だちと海に行く」
とだけ話してきたらしい。
それを聞いたとき、
俺はそれ以上、何も言えなかった。
言葉を重ねれば、
この関係に名前を与えてしまいそうで――
それが、少し怖かった。
「じゃあさ、とりあえず――」
俺は改札を抜けながら言う。
「この**江ノ電**ってやつ、乗ろうぜ」
蒼司が目を丸くする。
「江ノ電?」
「そうそう。ほら、あれ」
ホームの先を指さす。
「結構、海が見えるらしいぜ」
蒼司は少しだけ迷ってから、
「……うん、いいね」
と頷いた。
俺たちは並んで車両に乗り込む。
窓際の席はすでに埋まっていたけれど、
走り出した途端、視界の端にきらっと光る青が差し込んだ。
「……海だ」
蒼司が、思わず呟く。
建物の隙間から、
一瞬だけ姿を見せる水平線。
そのたびに、胸の奥が、少しざわついた。
電車が揺れながら進む先――
目的地は、由比ヶ浜駅。
まだ名前のない時間。
まだ、答えのない関係。
それでも、この春の海だけは、
俺たちを拒まない気がしていた
**由比ヶ浜駅**から少し歩くと、
視界が一気に開けた。
目の前には、
どこまでも続く海岸と、静かにうねる海。
今日は日差しもやわらかくて、
海は澄んだ青に、きらきらと光を散らしている。
「うわぁ……すげぇ……」
思わず、声が漏れた。
「綺麗だなぁ、海なんて。中学生以来だぜ」
蒼司が隣で頷く。
「うん。俺も……そうかも」
蒼司はスマホを取り出して、何枚か写真を撮る。
画面を覗き込みながら、小さく呟いた。
「うん……やっぱり、この色、いいな」
その横顔を見ながら、
俺は、ふと考えてしまう。
――そういえば。
俺は、竜司と付き合ってたけど、
こうして一緒に遠出して、
どこかに出かけることって、
ほとんどなかったな。
学校帰り。
駅のホーム。
電車を待つ時間。
それが、俺たちの“全部”だった。
胸の奥が、少しだけ、きゅっと締まる。
……いやいや。
俺は、頭を振る。
今日は、デートじゃねえ。
今日は――付き添いだ。
そう言い聞かせるように、
俺はもう一度、
青くきらめく海へ視線を戻した。
その後、俺たちは再び**江ノ電**に乗り、
**江ノ島駅**で降りた。
改札を抜けると、
潮の匂いと、人の気配が一気に濃くなる。
徒歩で、**江の島**へ向かう。
島へ続く道の両脇には、ずらっと並ぶ出店。
甘い匂い。
揚げ油の音。
観光地特有の、少し浮ついた空気。
「うお……すげえな、これ」
俺は足を止めた。
「このタコせん。顔よりでかいじゃねえか」
鉄板の上で、
ぺちゃん、と音を立てて押し潰されるタコ。
蒼司は少し驚いた顔をしてから、
「……ほんとだ」
と小さく笑う。
「うん、おいしい」
二人で、
大きなタコせんを割って、頬張る。
パリッ、という音。
口いっぱいに広がる、香ばしさ。
「観光地の食べ物って、
当たり外れあるけどさ」
俺が言うと、蒼司はうなずきながら、
「これは、当たりだね」
と、どこか安心したように言った。
それから俺たちは、
人の流れに乗って、
江の島を、どんどん上へ上へと登っていく。
その後も、俺たちは出店を見つけるたびに足を止めた。
しらすコロッケを半分こしたり。
冷たいソフトクリームを食べたり。
蒼司は気になったものを写真に撮って、
俺はそんな蒼司を見ながら、適当な感想を言って笑った。
他愛もない話ばかりだった。
大学のこと。
高校のこと。
好きな映画のこと。
子供の頃の話。
絵のこと。
野球のこと。
気がつけば、俺たちは思ったよりたくさん話していた。
蒼司は普段から口数が多い方じゃない。
でも不思議と、一緒にいると会話が途切れなかった。
沈黙になっても気まずくないし、
また自然に次の話が始まる。
そんな時間だった。
俺は、ただ蒼司と過ごすこの時間を、
楽しいと感じていた。
その気持ちに、深い意味なんてなかった。
少なくとも、この時の俺は、そう思っていた。
長い階段。
息が少しずつ上がる。
背中越しに、さっきまでいた海が、
少しずつ遠ざかっていくのが見えた。
江の島をさらに上の方へ登っていくと、
ふっと視界が開ける場所に出た。
「……すげー」
思わず、声が漏れる。
海だ。
海しかねえ。
遥か彼方まで、水平線がくっきりと伸びている。
さっき見た**由比ヶ浜**の海とは、
まるで別物だった。
深い。
青い。
どこまでも、青い海。
「……なんだか、吸い込まれそうだな」
俺が少し身を乗り出すと、
すぐ後ろから声が飛ぶ。
「海兄、あんまり乗り出しちゃ危ないよ」
「おっと……そうだな」
俺は苦笑して、一歩下がった。
それでも、胸の奥がふわっと軽い。
「……なんかさ……楽しい」
ぽろっと、本音が出た。
俺は横に立つ蒼司を見て言う。
「今日、来てよかったわ。
なんか久しぶりかもしんねえ。
こんなふうに、楽しいの」
蒼司は、少し間を置いてから、
俺の隣に並ぶ。
「……そっか」
それから、静かに続けた。
「……最近、元気なかったもんね」
図星だった。
潮風が吹き抜ける。
しばらく、二人とも海を見つめたまま。
やがて、蒼司がぽつりと聞く。
「ねえ……兄貴と、連絡とってるの?」
「いや……あんまり」
「……そっか」
「一回、電話はあったよ。
引っ越しの作業が落ち着いたって」
「なんか、話した?」
「いや。特に」
俺は肩をすくめる。
「LINEでやり取りもしてるけど、
大した話じゃねえよ」
そう言いながら、俺はまた海に視線を戻した。
深い青。
飲み込まれそうなのに、
不思議と、怖くはなかった。
俺は、ほとんど独り言みたいに、つぶやいた。
「……今度さ、竜司と、いつ会えるのか分かんねぇ」
そのまま、言葉が止まらない。
「なんかさ、不思議なんだよ」
少しだけ、息を吸う。
「竜司が福岡行くときってさ、
もうこの世の終わりみたいな感じで」
胸の奥を探るように、続ける。
「悲しくて、悲しくて。正直、あのときは何も考えられなかった」
潮の音が、一定のリズムで耳に届く。
「今もさ……めっちゃ寂しいよ」
正直な気持ちだった。
「でもさ」
俺は、目の前の海から視線を離さずに言う。
「竜司がいなくなっても、
世界は、何も変わってねえんだよな」
空は青いままで。
波は、今日も同じように打ち寄せて。
「いつものように朝が来て、一日が始まって、
日常は普通に回ってる」
少し、自嘲気味に笑う。
「俺の生活だって、普通に回ってる」
「来月から大学入学だしさ。
大学野球も、めっちゃ忙しそうで」
忙しさを思い浮かべると、
ほんの少し、救われる気がした。
「忙しいからさ、余計なこと、考えなくても済むかもしれない」
俺は、言い聞かせるみたいに、最後を結ぶ。
「……大丈夫。何とか、やっていける」
その言葉が、
本当に自分に向けたものなのか、
それとも誰かに向けたものなのか、
自分でも分からなかった。
蒼司は、何も言わず、ただ黙って、俺の隣に立っていた。
否定もしない。
励ましもしない。
ただ、同じ海を見て、同じ風を受けて。
その沈黙が、不思議と、一番ありがたかった。
「何か、ごめんな。俺の話ばっか、しちゃって」
少し照れ隠しみたいに、言葉を重ねる。
「蒼司、美大受けるんだろ?頑張れよ」
潮の音に紛れるくらいの、軽い口調で。
「美大って、都内だよな。もし合格したらさ――俺、お祝いしてやるよ」
ちゃんと前を向いてるつもりで。
これ以上、重たい空気にならないように。
そのときだった。
蒼司は、俺の横で、静かに立ち止まったまま、そっと口を開く。
「……海兄……俺、海兄のこと、好きだよ」
「ああ」
俺は、ほっとしたように笑ってしまう。
「俺もだよ」
友だちとして。
大事な存在として。
自然と、そう返していた。
でも――
「違う!」
蒼司の声が、はっきりと、空気を切った。
「そうじゃない。そういう意味で言ったんじゃない‥‥」
俺は、言葉を失う。
蒼司は、一度、唇を噛んでから、
それでも視線を逸らさずに続けた。
「俺は……海兄のこと、
ずっと、ずっと前から好きだった」
逃げ道のない言葉。
「……え?」
間抜けな声が、俺の喉からこぼれ落ちた。
頭が、追いつかない。
「………」
俺は、言葉が出てこなかった。
喉の奥で、何かが引っかかって、声にならない。
蒼司は、そんな俺を見て、ふっと、静かに笑った。
責めるでもなく。
困らせるでもなく。
ただ、少しだけ、寂しそうに。
「……大丈夫だよ」
蒼司は、視線を海に戻しながら言う。
「返事は、いい……」
一拍、置いて。
「ただ……伝えたかっただけだから……」
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「……海兄、もうすぐ、いなくなっちゃうし」
進学。
新しい場所。
新しい世界。
ここに立っている時間が、もう長くは続かないこと。
「……じゃあ」
蒼司は、少しだけ明るい声を作って言った。
「……帰ろうか」
「ああ……」
俺は返事はした。でも、それだけだった。
本当は、何か言わなきゃいけなかった気がする。
引き止める言葉か。
謝る言葉か。
それとも――
正直な気持ちか。
でも俺は、なぜか、何一つ、返すことができなかった。
蒼司は、何かを思い出したみたいに、
ふいに視線を逸らした。
それから、いつもの調子を装うみたいに言う。
「あ、そうだ。……ちょっと、いい?」
「ん?」
蒼司は、少し先を指さす。
「これ、これ」
近づくと、そこには一つの鐘があった。
「ここさ、有名な鐘なんだって。恋人の鐘、らしい」
胸が、一瞬だけ、ざわつく。
「この鐘さ……一緒に鳴らそうよ」
「え……?」
思わず、言葉に詰まる。
「でも……」
「いいでしょ」
蒼司は、穏やかに、でもはっきり言った。
「鳴らすだけなんだから。
せっかく、ここまで来たんだし」
考える時間なんて、与えられなかった。
俺は、引っ張られるみたいに、その場に立たされていた。
「……あ、じゃあ……鳴らそうか」
自分の声なのに、どこか他人事みたいだった。
二人並んで、同時に、鐘に手をかける。
――カン。
――カァン。
澄んだ音が、空に溶けていく。
ここは、
恋人の丘。
恋人の鐘。
なのに。
願いも。
約束も。
何一つ残さないまま。
ただ、音だけが、海へ落ちていった。
蒼司は、鐘から手を離して、小さく息をつく。
「……ありがとう」
それだけ言って、何も振り返らなかった。
俺も、何も言えなかった。
鐘の余韻が消える頃、夕方の光が、海を少しだけ、優しい色に染めていた。
それが、今日という一日の、終わりの合図みたいだった。
――
恋人の丘で鳴らした鐘は、
きっと、誰の願いも叶えなかった。
それでも、確かに、俺たちがここにいた証だけは、
静かに、残っていた。
* * *
藤沢駅から、東海道線に乗り大宮方面に帰る。
俺と蒼司は、
帰りの道中、ほとんど会話をしなかった。
でも、不思議と気まずくはなかった。
車窓の向こうでは、夕暮れの街並みがゆっくりと流れていく。
今日一日を思い返す。
海を見たこと。
江の島を歩いたこと。
食べ歩きをしたこと。
他愛もない話をたくさんしたこと。
俺は素直に思っていた。
――楽しかったな。
久しぶりだった。
何も考えずに、ただ一日を楽しめたのは。
隣を見る。
蒼司は窓の外を眺めていた。
流れていく景色を見つめる横顔は、
どこか穏やかで、少しだけ寂しそうにも見えた。
俺はそんな横顔を、静かな気持ちで見つめる。
会話はない。
でも、その沈黙が苦になることはなかった。
むしろ心地よかった。
電車の揺れに身を任せながら、
俺は今日の最後の出来事を思い出す。
蒼司の告白。
突然だった。
驚いたし、正直、今もどう答えればいいのか分からない。
だけど――
蒼司は言った。
返事は、すぐにしなくていい、と。
俺は、その言葉を、そっと胸の奥にしまった。
窓の外では、夕日がゆっくりと沈んでいく。
今日聞いた鐘の音も、海の匂いも、蒼司の声も。
まだ胸のどこかに残ったまま、
静かに夜へ溶けていった。