蒼の向こうで君を待つ   作:ハマジロウ

15 / 19
第15章 あの鐘の音 後編

 

 

俺は高校を卒業した。

 

卒業式に、竜司の姿はなかった。

 

 

三月の終わり。

 

 

春もすっかり暖かくなって、

 

今日は文句なしのお出かけ日和だった。

 

今日は俺と蒼司で、海に行く。

 

二人を乗せた電車は、**鎌倉駅**に到着する。

 

 

「……あー、結構遠かったなぁ」

 

 

ホームに降り立った瞬間、俺は思わず声を漏らした。

 

「もう昼過ぎだぜ」

 

蒼司は小さく笑って、

 

「うん、そうだね」

 

とだけ答える。

 

 

今日、蒼司と出かけることは――

 

竜司には話していない。

 

竜司は、もう福岡に引っ越していった後だった。

 

今さら伝える理由も、勇気も、俺にはなかった。

 

一方で、蒼司は両親に

 

「今日は友だちと海に行く」

 

とだけ話してきたらしい。

 

それを聞いたとき、

 

俺はそれ以上、何も言えなかった。

 

言葉を重ねれば、

 

この関係に名前を与えてしまいそうで――

 

それが、少し怖かった。

 

 

「じゃあさ、とりあえず――」

 

 

俺は改札を抜けながら言う。

 

「この**江ノ電**ってやつ、乗ろうぜ」

 

蒼司が目を丸くする。

 

「江ノ電?」

 

「そうそう。ほら、あれ」

 

ホームの先を指さす。

 

「結構、海が見えるらしいぜ」

 

蒼司は少しだけ迷ってから、

 

「……うん、いいね」

 

と頷いた。

 

俺たちは並んで車両に乗り込む。

 

窓際の席はすでに埋まっていたけれど、

 

走り出した途端、視界の端にきらっと光る青が差し込んだ。

 

「……海だ」

 

蒼司が、思わず呟く。

 

 

建物の隙間から、

 

一瞬だけ姿を見せる水平線。

 

そのたびに、胸の奥が、少しざわついた。

 

電車が揺れながら進む先――

 

目的地は、由比ヶ浜駅。

 

 

まだ名前のない時間。

 

まだ、答えのない関係。

 

それでも、この春の海だけは、

 

俺たちを拒まない気がしていた

 

**由比ヶ浜駅**から少し歩くと、

 

視界が一気に開けた。

 

 

目の前には、

 

どこまでも続く海岸と、静かにうねる海。

 

今日は日差しもやわらかくて、

 

海は澄んだ青に、きらきらと光を散らしている。

 

「うわぁ……すげぇ……」

 

思わず、声が漏れた。

 

「綺麗だなぁ、海なんて。中学生以来だぜ」

 

蒼司が隣で頷く。

 

「うん。俺も……そうかも」

 

蒼司はスマホを取り出して、何枚か写真を撮る。

 

画面を覗き込みながら、小さく呟いた。

 

「うん……やっぱり、この色、いいな」

 

その横顔を見ながら、

 

俺は、ふと考えてしまう。

 

 

――そういえば。

 

 

俺は、竜司と付き合ってたけど、

 

こうして一緒に遠出して、

 

どこかに出かけることって、

 

ほとんどなかったな。

 

 

学校帰り。

 

駅のホーム。

 

電車を待つ時間。

 

それが、俺たちの“全部”だった。

 

胸の奥が、少しだけ、きゅっと締まる。

 

 

……いやいや。

 

 

俺は、頭を振る。

 

今日は、デートじゃねえ。

 

今日は――付き添いだ。

 

そう言い聞かせるように、

 

俺はもう一度、

 

青くきらめく海へ視線を戻した。

 

 

その後、俺たちは再び**江ノ電**に乗り、

 

**江ノ島駅**で降りた。

 

 

改札を抜けると、

 

潮の匂いと、人の気配が一気に濃くなる。

 

徒歩で、**江の島**へ向かう。

 

島へ続く道の両脇には、ずらっと並ぶ出店。

 

 

甘い匂い。

 

揚げ油の音。

 

観光地特有の、少し浮ついた空気。

 

 

「うお……すげえな、これ」

 

俺は足を止めた。

 

「このタコせん。顔よりでかいじゃねえか」

 

鉄板の上で、

 

ぺちゃん、と音を立てて押し潰されるタコ。

 

蒼司は少し驚いた顔をしてから、

 

「……ほんとだ」

 

と小さく笑う。

 

「うん、おいしい」

 

二人で、

 

大きなタコせんを割って、頬張る。

 

パリッ、という音。

 

口いっぱいに広がる、香ばしさ。

 

 

「観光地の食べ物って、

 

当たり外れあるけどさ」

 

 

俺が言うと、蒼司はうなずきながら、

 

「これは、当たりだね」

 

と、どこか安心したように言った。

 

 

それから俺たちは、

 

人の流れに乗って、

 

江の島を、どんどん上へ上へと登っていく。

 

その後も、俺たちは出店を見つけるたびに足を止めた。

 

しらすコロッケを半分こしたり。

 

冷たいソフトクリームを食べたり。

 

蒼司は気になったものを写真に撮って、

 

俺はそんな蒼司を見ながら、適当な感想を言って笑った。

 

他愛もない話ばかりだった。

 

大学のこと。

 

高校のこと。

 

好きな映画のこと。

 

子供の頃の話。

 

絵のこと。

 

野球のこと。

 

気がつけば、俺たちは思ったよりたくさん話していた。

 

蒼司は普段から口数が多い方じゃない。

 

でも不思議と、一緒にいると会話が途切れなかった。

 

沈黙になっても気まずくないし、

 

また自然に次の話が始まる。

 

そんな時間だった。

 

俺は、ただ蒼司と過ごすこの時間を、

 

楽しいと感じていた。

 

その気持ちに、深い意味なんてなかった。

 

少なくとも、この時の俺は、そう思っていた。

 

 

長い階段。

 

息が少しずつ上がる。

 

背中越しに、さっきまでいた海が、

 

少しずつ遠ざかっていくのが見えた。

 

江の島をさらに上の方へ登っていくと、

 

ふっと視界が開ける場所に出た。

 

 

「……すげー」

 

 

思わず、声が漏れる。

 

 

海だ。

 

海しかねえ。

 

遥か彼方まで、水平線がくっきりと伸びている。

 

さっき見た**由比ヶ浜**の海とは、

 

まるで別物だった。

 

 

深い。

 

青い。

 

どこまでも、青い海。

 

 

「……なんだか、吸い込まれそうだな」

 

俺が少し身を乗り出すと、

 

すぐ後ろから声が飛ぶ。

 

「海兄、あんまり乗り出しちゃ危ないよ」

 

「おっと……そうだな」

 

俺は苦笑して、一歩下がった。

 

それでも、胸の奥がふわっと軽い。

 

 

「……なんかさ……楽しい」

 

ぽろっと、本音が出た。

 

俺は横に立つ蒼司を見て言う。

 

「今日、来てよかったわ。

 

なんか久しぶりかもしんねえ。

 

こんなふうに、楽しいの」

 

 

蒼司は、少し間を置いてから、

 

俺の隣に並ぶ。

 

「……そっか」

 

それから、静かに続けた。

 

「……最近、元気なかったもんね」

 

 

図星だった。

 

 

潮風が吹き抜ける。

 

しばらく、二人とも海を見つめたまま。

 

やがて、蒼司がぽつりと聞く。

 

「ねえ……兄貴と、連絡とってるの?」

 

「いや……あんまり」

 

「……そっか」

 

「一回、電話はあったよ。

 

引っ越しの作業が落ち着いたって」

 

「なんか、話した?」

 

「いや。特に」

 

 

俺は肩をすくめる。

 

「LINEでやり取りもしてるけど、

 

大した話じゃねえよ」

 

そう言いながら、俺はまた海に視線を戻した。

 

 

深い青。

 

 

飲み込まれそうなのに、

 

不思議と、怖くはなかった。

 

俺は、ほとんど独り言みたいに、つぶやいた。

 

 

「……今度さ、竜司と、いつ会えるのか分かんねぇ」

 

そのまま、言葉が止まらない。

 

「なんかさ、不思議なんだよ」

 

 

少しだけ、息を吸う。

 

「竜司が福岡行くときってさ、

 

もうこの世の終わりみたいな感じで」

 

 

胸の奥を探るように、続ける。

 

「悲しくて、悲しくて。正直、あのときは何も考えられなかった」

 

 

潮の音が、一定のリズムで耳に届く。

 

「今もさ……めっちゃ寂しいよ」

 

正直な気持ちだった。

 

「でもさ」

 

俺は、目の前の海から視線を離さずに言う。

 

 

「竜司がいなくなっても、

 

世界は、何も変わってねえんだよな」

 

 

空は青いままで。

 

波は、今日も同じように打ち寄せて。

 

 

「いつものように朝が来て、一日が始まって、

日常は普通に回ってる」

 

 

少し、自嘲気味に笑う。

 

 

「俺の生活だって、普通に回ってる」

 

「来月から大学入学だしさ。

 

大学野球も、めっちゃ忙しそうで」

 

忙しさを思い浮かべると、

 

ほんの少し、救われる気がした。

 

「忙しいからさ、余計なこと、考えなくても済むかもしれない」

 

俺は、言い聞かせるみたいに、最後を結ぶ。

 

 

「……大丈夫。何とか、やっていける」

 

 

その言葉が、

 

本当に自分に向けたものなのか、

 

それとも誰かに向けたものなのか、

 

自分でも分からなかった。

 

 

蒼司は、何も言わず、ただ黙って、俺の隣に立っていた。

 

 

否定もしない。

 

励ましもしない。

 

 

ただ、同じ海を見て、同じ風を受けて。

 

その沈黙が、不思議と、一番ありがたかった。

 

「何か、ごめんな。俺の話ばっか、しちゃって」

 

 

少し照れ隠しみたいに、言葉を重ねる。

 

 

「蒼司、美大受けるんだろ?頑張れよ」

 

 

潮の音に紛れるくらいの、軽い口調で。

 

 

「美大って、都内だよな。もし合格したらさ――俺、お祝いしてやるよ」

 

 

ちゃんと前を向いてるつもりで。

 

これ以上、重たい空気にならないように。

 

 

そのときだった。

 

 

蒼司は、俺の横で、静かに立ち止まったまま、そっと口を開く。

 

 

「……海兄……俺、海兄のこと、好きだよ」

 

「ああ」

 

俺は、ほっとしたように笑ってしまう。

 

「俺もだよ」

 

友だちとして。

 

大事な存在として。

 

自然と、そう返していた。

 

 

 

でも――

 

 

 

「違う!」

 

蒼司の声が、はっきりと、空気を切った。

 

「そうじゃない。そういう意味で言ったんじゃない‥‥」

 

 

俺は、言葉を失う。

 

 

蒼司は、一度、唇を噛んでから、

 

それでも視線を逸らさずに続けた。

 

 

「俺は……海兄のこと、

 

ずっと、ずっと前から好きだった」

 

 

逃げ道のない言葉。

 

 

「……え?」

 

 

間抜けな声が、俺の喉からこぼれ落ちた。

 

頭が、追いつかない。

 

 

 

「………」

 

 

 

俺は、言葉が出てこなかった。

 

 

 

喉の奥で、何かが引っかかって、声にならない。

 

蒼司は、そんな俺を見て、ふっと、静かに笑った。

 

責めるでもなく。

 

困らせるでもなく。

 

 

ただ、少しだけ、寂しそうに。

 

「……大丈夫だよ」

 

蒼司は、視線を海に戻しながら言う。

 

「返事は、いい……」

 

 

一拍、置いて。

 

 

 

「ただ……伝えたかっただけだから……」

 

胸が、ぎゅっと締めつけられる。

 

「……海兄、もうすぐ、いなくなっちゃうし」

 

 

進学。

 

新しい場所。

 

新しい世界。

 

 

ここに立っている時間が、もう長くは続かないこと。

 

「……じゃあ」

 

蒼司は、少しだけ明るい声を作って言った。

 

「……帰ろうか」

 

「ああ……」

 

 

俺は返事はした。でも、それだけだった。

 

本当は、何か言わなきゃいけなかった気がする。

 

引き止める言葉か。

 

謝る言葉か。

 

それとも――

 

正直な気持ちか。

 

 

でも俺は、なぜか、何一つ、返すことができなかった。

 

 

蒼司は、何かを思い出したみたいに、

 

ふいに視線を逸らした。

 

 

それから、いつもの調子を装うみたいに言う。

 

「あ、そうだ。……ちょっと、いい?」

 

「ん?」

 

蒼司は、少し先を指さす。

 

「これ、これ」

 

近づくと、そこには一つの鐘があった。

 

 

「ここさ、有名な鐘なんだって。恋人の鐘、らしい」

 

胸が、一瞬だけ、ざわつく。

 

 

「この鐘さ……一緒に鳴らそうよ」

 

「え……?」

 

思わず、言葉に詰まる。

 

「でも……」

 

「いいでしょ」

 

蒼司は、穏やかに、でもはっきり言った。

 

「鳴らすだけなんだから。

 

せっかく、ここまで来たんだし」

 

考える時間なんて、与えられなかった。

 

俺は、引っ張られるみたいに、その場に立たされていた。

 

 

「……あ、じゃあ……鳴らそうか」

 

自分の声なのに、どこか他人事みたいだった。

 

二人並んで、同時に、鐘に手をかける。

 

 

 

――カン。

 

 

 

――カァン。

 

 

 

澄んだ音が、空に溶けていく。

 

ここは、

 

恋人の丘。

 

恋人の鐘。

 

 

 

なのに。

 

 

 

願いも。

 

約束も。

 

何一つ残さないまま。

 

ただ、音だけが、海へ落ちていった。

 

蒼司は、鐘から手を離して、小さく息をつく。

 

 

「……ありがとう」

 

 

それだけ言って、何も振り返らなかった。

 

俺も、何も言えなかった。

 

鐘の余韻が消える頃、夕方の光が、海を少しだけ、優しい色に染めていた。

 

それが、今日という一日の、終わりの合図みたいだった。

 

 

――

 

恋人の丘で鳴らした鐘は、

 

きっと、誰の願いも叶えなかった。

 

それでも、確かに、俺たちがここにいた証だけは、

 

静かに、残っていた。

 

 

* * *

 

藤沢駅から、東海道線に乗り大宮方面に帰る。

 

 

俺と蒼司は、

 

帰りの道中、ほとんど会話をしなかった。

 

でも、不思議と気まずくはなかった。

 

車窓の向こうでは、夕暮れの街並みがゆっくりと流れていく。

 

今日一日を思い返す。

 

海を見たこと。

 

江の島を歩いたこと。

 

食べ歩きをしたこと。

 

他愛もない話をたくさんしたこと。

 

俺は素直に思っていた。

 

――楽しかったな。

 

久しぶりだった。

 

何も考えずに、ただ一日を楽しめたのは。

 

 

隣を見る。

 

 

蒼司は窓の外を眺めていた。

 

流れていく景色を見つめる横顔は、

 

どこか穏やかで、少しだけ寂しそうにも見えた。

 

俺はそんな横顔を、静かな気持ちで見つめる。

 

会話はない。

 

でも、その沈黙が苦になることはなかった。

 

むしろ心地よかった。

 

電車の揺れに身を任せながら、

 

俺は今日の最後の出来事を思い出す。

 

蒼司の告白。

 

 

突然だった。

 

 

驚いたし、正直、今もどう答えればいいのか分からない。

 

だけど――

 

蒼司は言った。

 

返事は、すぐにしなくていい、と。

 

俺は、その言葉を、そっと胸の奥にしまった。

 

窓の外では、夕日がゆっくりと沈んでいく。

 

今日聞いた鐘の音も、海の匂いも、蒼司の声も。

 

まだ胸のどこかに残ったまま、

 

静かに夜へ溶けていった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。