海斗 大学一年生。
俺は大学の寮に入った。
寮生活は、思っていたより快適だった。
ちゃんと個室があって、
プライベートも確保されている。
朝食と夕食は寮で用意されていて、
食事に困ることもない。
料理どころか、
家事もまったくできない俺にとっては、
かなりありがたい環境だった。
大学生活は、思っていたより忙しい。
野球部の朝練。
授業。
そして夕方からの練習。
毎日があっという間に過ぎていく。
ほとんど寮と大学、
そしてグラウンドを行き来する生活だった。
最初は慣れないことばかりだったが、
気づけば少しずつ新しい生活にも馴染んでいた。
野球部の仲間たちとも打ち解け、
練習後に一緒に食堂で飯を食ったり、
寮の談話室でくだらない話をして笑ったりすることも増えた。
それでも――
夜、一人で部屋にいるときだけは、
竜司のことを思い出した。
竜司とは、LINEや電話で連絡を取り合っていた。
『元気か?』
『大学は慣れたか?』
『練習どうだ?』
竜司から届くメッセージは、いつもそんな感じだった。
俺も返す。
『練習きつくないか?』
『怪我しないよう気をつけろよ』
『ちゃんと飯食えよ』
当たり障りのない言葉ばかり。
本当に送りたい言葉は、別にあった。
――会いたい。
――今すぐ会いたい。
スマホの画面に何度も文字を打ち込んでは、消した。
送信ボタンを押すことはできなかった。
竜司は今、夢だったプロ野球の世界で戦っている。
一年目が一番大事な時期だ。
そんな時に、自分の寂しさをぶつけてはいけない気がした。
だから俺は、
『無理すんなよ』
そんな言葉だけを送った。
一年目のオフ。
竜司は帰ってこなかった。
プロの世界は、それだけ厳しいのだろう。
分かっていた。
頭では分かっていたはずなのに。
年末が近づくたび、
スマホが鳴るたび、
俺は少しだけ期待してしまう。
もしかしたら帰ってくるんじゃないか。
もしかしたら会えるんじゃないか。
そんな期待は、結局、一度も叶わなかった。
* * *
海斗 大学二年生。
俺は大学生活にもすっかり慣れていた。
野球部の仲間。
大学の友達。
授業に練習。
毎日忙しくて、充実していた。
もちろん、野球も順調だった。
少しずつ試合に出る機会も増え、自分の成長を感じられるようになっていた。
一方で――
竜司の成長は、それ以上だった。
一年目から一軍で登板するようになり、
テレビで竜司の姿を見る機会も増えていった。
スポーツニュース。
プロ野球中継。
雑誌の特集。
画面の中で活躍する竜司を見るたび、
俺は嬉しかった。
誇らしかった。
高校時代、一緒に汗を流したあいつが、
夢だった舞台で戦っている。
それが自分のことのように嬉しかった。
だけど――
同時に、少しだけ切なかった。
竜司はどんどん遠くへ行っている。
俺の知らない世界で、俺の知らない人たちと戦い、成長している。
手の届かない存在になりつつあるような気がしていた。
そして、シーズンオフ。
竜司は初めて帰ってきた。
俺は空港のロビーで、一人待っていた。
到着口の扉が開く。
人の波の向こうから、聞き慣れた声が響いた。
「カイト!」
胸が跳ねる。
顔を上げると、そこには竜司がいた。
高校の頃よりも体は一回り大きくなり、
肩幅も広くなっている。
テレビで見ていたはずなのに、
実際に会うと、その変化に圧倒された。
「竜司!」
気づけば俺は駆け出していた。
そのまま竜司の胸へ飛び込む。
「お、おい!」
竜司が戸惑った声を上げる。
我に返った俺は慌てて離れた。
「ご、ごめん……」
すると竜司は少し困ったように笑った。
「いや……ごめんな」
「え?」
「なかなか帰ってこれなくて」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が締め付けられる。
本当は言いたいことなんて山ほどあった。
会いたかった。
寂しかった。
もっと連絡してほしかった。
でも――
そんな言葉は出てこなかった。
「……いや、いいんだ」
俺は小さく首を振る。
「大丈夫だから」
それだけ言うのが精一杯だった。
竜司は俺の肩に置いていた手を、そっと離した。
「……ごめん」
「え?」
「人目につくから」
そう言って、周囲を見回す。
俺はその言葉に、はっとした。
高校の頃の竜司なら、そんなこと気にしなかった。
人前でも肩を組んできたし、
俺と付き合っていることを隠そうともしなかった。
でも、今は違う。
プロ野球選手になった竜司は、
もう高校球児だった頃の竜司じゃない。
俺は小さく頷いた。
「……うん」
仕方ない。
分かっている。
竜司が悪いわけじゃない。
立場が変われば、気を付けなければいけないことも増える。
それだけのことだ。
それだけのことなのに、胸の奥が少しだけ痛かった。
(変わっていくんだな……)
俺は自分にそう言い聞かせた。
* * *
その後、俺たちは都内の飲食店へ向かった。
店の前に立った瞬間、思わず足を止める。
どう見ても高級そうな店だった。
「ここ……?」
「球団の先輩に教えてもらったんだ」
竜司が少し得意げに笑う。
「今日は俺が奢るから」
「いや、悪いって」
「いいから」
そう言って背中を押された。
店に入ると、竜司は帽子を深く被ったまま席についた。
俺は向かい側に座る。
料理が運ばれてくると、竜司は楽しそうに話し始めた。
球団のこと。
チームメイトのこと。
初めて一軍のマウンドに立った日のこと。
テレビの取材を受けたこと。
サインを求められたこと。
「この前なんてさ――」
話している竜司は、本当に楽しそうだった。
目を輝かせて、夢中になって話している。
俺は相槌を打ちながら耳を傾ける。
時々、自分の大学生活や野球部の話もする。
竜司もちゃんと聞いてくれた。
笑ってくれた。
会話は弾んでいた。
楽しかった。
本当に楽しかった。
だけど――
ふとした瞬間、俺は気づいてしまう。
竜司の話の中には、俺の知らない人たちがたくさん出てくる。
俺の知らない場所。
俺の知らない日常。
そしてきっと、俺の話の中にも、竜司の知らない時間が増えている。
同じ時間を過ごしているはずなのに、
少しずつ、
別々の人生を歩いている。
そんな気がした。
食事が終わった。
店を出る。
夜の街に出た瞬間、俺の胸は少しだけ高鳴っていた。
久しぶりに会えたんだ。
この後は――
二人きりで過ごせると思っていた。
昔みたいに。たくさん話をして。
同じ時間を過ごして。
そんなことを勝手に考えていた。
だけど。
「俺、この後用事あるから」
竜司はあっさりと言った。
「……えっ」
思わず声が漏れる。
竜司は申し訳なさそうに頭を掻いた。
「いろいろ用事あってさ。悪い」
「あ……そうなんだ」
俺は無理やり笑った。
「気にすんな」
本当は聞きたかった。
どんな用事なのか。
誰と会うのか。
そんなに大事な用事なのか。
でも聞けなかった。
聞く資格が、自分にあるのか分からなかった。
「また会おうぜ」
竜司が言う。
「今度福岡来いよ」
「ああ」
俺は頷く。
「行くよ。福岡」
「よし」
竜司は笑った。
「じゃあな」
そう言って背を向ける。
俺はその後ろ姿を見つめていた。
人混みの中へ消えていく背中。
追いかけようと思えば、
追いかけられたのかもしれない。
でも足は動かなかった。
竜司にとって、いま俺はどんな存在なんだろう。
恋人なのか。
それとも。
もう幼なじみなのか。
ただの友達なのか。
俺たち――まだ付き合ってるんだよな。
聞けばいい。
たった一言。
でも聞けなかった。
聞いた瞬間、全部終わってしまう気がした。
だから俺は、何も聞かなかった。
何も言わなかった。
ただ竜司の背中が見えなくなるまで、
その場に立ち尽くしていた。
そしてその後、俺は福岡へ行くことはなかった。