講義が終わり、
俺はそのまま蒼司の家へ向かった。
インターホンを押すと、ほどなくしてドアが開く。
「いらっしゃい」
「おう。急で悪いな。
これ、プリン。これ昔から好きだろ」
「ありがとう。よく覚えてたね」
「あっ……まぁな」
蒼司は少しだけ目を細めて、優しく笑った。
その笑顔を見た瞬間、
胸の奥が、どくん、と鳴る。
「……」
俺は思わず視線を逸らした。
――なんでだ、俺。
妙に落ち着かない。
蒼司なんて昔から知ってる。
顔だって見慣れてるはずなのに。
なのに今の笑顔は、なぜか目を離せなかった。
少し照れたように受け取って、蒼司は言った。
「今、課題が大詰めでさ。散らかっててごめん」
「気にすんな」と答えながら、
俺は奥の部屋へ足をすすめる。
そこには、
いつもの――
あの、青い、蒼い世界があった。
けれど、今日は少し違う。
深い海の上。
水面に浮かぶ、淡い月。
その光に照らされて、
名も分からない生き物が、
まるで喜んでいるみたいに揺れている。
静かで、やさしくて、
どこか胸の奥をくすぐる絵だった。
「……きれいだな」
思わず、声が漏れる。
「……今までで、一番いい」
「……ほんと?」
「ああ。やっぱり、好きだな。蒼司の絵」
蒼司は少しだけ微笑んで、キャンバスに向き直った。
「もうちょっとで終わるから。
終わったら、プリン食べよ」
「ああ」
蒼司は再びキャンバスへ向き直る。
筆を走らせる横顔は真剣で、
窓から差し込む柔らかな光が、その輪郭を静かに照らしていた。
俺は何となく、その姿を見つめる。
青い海。
月の光。
そして、それを描く蒼司。
不意に思う。
――綺麗だ。
絵が、じゃない。
目の前にいる蒼司が。
そう思った瞬間、
胸の奥が小さく揺れた。
なんでだ、俺。
その答えを考えるより先に、体が動いていた。
気がつけば俺は立ち上がり、
そっと蒼司の背中に腕を回していた。
キャンバスに向かうその体を、後ろから、そっと抱きしめる。
「……どうしたの、カイト……」
振り向いた蒼司の顔が、近い。
言葉は、出なかった。
代わりに、俺は蒼司の唇に、静かに口づけていた。
しばらくして、はっと我に返る。
「……ご、ごめん。
こんなことするつもりじゃ……」
「ううん」
蒼司は、首を振る。
「大丈夫」
少し間を置いて、静かな声で続けた。
「……嫌じゃない」
その一言に、張りつめていた何かがほどける
俺はもう一度、確かめるようにキスをした。
月に照らされた青い海の中で、
俺は――
蒼司という、静かな海に、抱かれていた。
* * *
俺は、朝早く目を覚ました。
カーテンの隙間から、まだ淡い光が差し込んでいる。
時計を見ると、時刻は――朝五時。
……俺、
昨日、あのまま寝ちゃったのか。
俺は、蒼司のベッドで横になっていた。
ぼんやりした頭で息を吸う。
部屋の中には、かすかに絵の具の匂いが残っていた。
油絵具とキャンバスが混ざったような、
蒼司の部屋特有の匂い。
不思議と嫌じゃない。
むしろ、その匂いを感じると、胸の奥が少し落ち着いた。
まるで、
「ここにいていい」
と言われているみたいだった。
隣を見る。
蒼司が、すぐ隣で眠っている。
穏やかな寝息。
気持ちよさそうな、無防備な顔。
その光景を見て、胸が少しだけ、きゅっとなる。
――あ。
思い出す。
今日、朝練がある。
「やば……」
思わず小さく声が出る。
考える暇もなく、俺は静かにベッドを抜け出し、急いで身支度を始めた。
音を立てないように、それでも手早く。
すると、背後で気配が動く。
「……カイト、もう出かけるの?」
眠そうな声。
「あ、ごめん。今日、朝練あるの、忘れててさ」
蒼司は目をこすりながら、ゆっくり体を起こす。
「……あのさ」
一瞬、言葉を探す。
「今日も、ここ来ていい?」
蒼司は少しだけ間を置いて、でも迷いなく、微笑った。
「うん。待ってる」
その一言で、胸の奥が、静かに落ち着いた。
俺はそれ以上、何も言えず、
靴を履いて、ドアに向かう。
昨日のことを、ゆっくり考える暇もないまま。
俺は足早に、蒼司の家を後にした。
* * *
大学のグラウンド。
俺が駆け込んだときには、すでに朝練は始まっていた。
時計を見る。
……十分、遅刻。
……やっちまった。
俺はそのまま、監督のもとへ向かう。
「佐々木」
「はい……」
監督は、俺の顔を一瞬だけ見て、言った。
「腹の調子、大丈夫か?」
「え?」
一拍遅れて、慌てて頷く。
「あ、はい。大丈夫です」
「そうか。あまり無理するなよ」
「……はい」
それだけ言うと、監督はそれ以上何も言わなかった。
ほっと息をついた、そのとき。
背後から、聞き慣れた声が飛んでくる。
「おい、佐々木」
振り返ると、仲のいい同期がニヤついて立っていた。
「朝帰りで朝練遅刻とか、お前もやるようになったな」
「……なんだよ」
「監督にはさ、俺からうまく話しといたから」
「え?」
「腹痛ってことにしといた。
顔色も悪かったし、説得力あったぞ」
「……あ、わり」
同期は肩をすくめて笑う。
「ま、無理すんなよ。今日は軽めにしとけ」
そう言って、グラウンドへ戻っていった。
俺は一人、その背中を見送りながら、
ボールを握り直した。
——現実は、もうちゃんと動いている。
* * *
夕方、野球の自主練は軽めに切り上げて、
俺は蒼司の家に向かった。
気持ちが、どうにも落ち着かない。
足だけが先に進んでいくみたいで、
無意識に歩くスピードも早くなっていた。
インターホンを押す前に、ひとつ深呼吸。
ドアが開く。
「おかえり」
「あ、……ただいま」
言葉が一拍、遅れた。
家に“帰ってきた”って言われたのが、
なんだか妙にくすぐったい。
照れる俺に、つられたみたいに蒼司も少し目を伏せる。
「朝、出かけていったばっかりだったから……つい」
「……あぁ、そっか」
少しだけ沈黙が落ちる。
その空気を埋めるように、蒼司が口を開いた。
「カイト、今日朝練間に合った?」
「あぁ、ちょっと遅れたけど、なんとか大丈夫だった」
「そっか。よかった」
心から安心したような声だった。
「蒼司は? 今日ずっと部屋にいたのか?」
「ううん。午前は講義があってさ。昼には帰ってきて、絵の続きしてた」
「そっか」
それきり、会話が途切れる。
妙な沈黙だった。
嫌なわけじゃない。
でも、どうしていいか分からない。
俺は無意識に視線を逸らした。
昨日のことが頭から離れない。
キスをしたこと。
そして、そのまま蒼司を抱きしめたまま眠ったこと。
思い出すだけで胸の奥がざわつく。
なのに蒼司は、
昨日と何も変わらないみたいな顔をしていた。
いつも通り穏やかで、
いつも通り優しい。
それが少しだけありがたくて、
少しだけ調子を狂わせる。
俺だけが昨日を意識しているみたいで、
なんだか落ち着かなかった。
それ以上、言葉が続かない。
胸の奥が、ぎゅっと詰まる。
息が、少し苦しい。
(なんでだ、俺?)
俺は思い出したように口を開いた。
「あっ、そうだ。蒼司、お腹すかねぇ?」
蒼司は少し考えてから頷く。
「そうだね。昼、食べてなかった」
「ちゃんと食べないと、本当に身体壊すぞ」
「そうだね」
蒼司は苦笑した。
「でも、どうしよう。何も買ってないよ」
「食べに行くか?」
「うーん……」
少し考えたあと、蒼司が顔を上げる。
「あ、そうだ。たまにはピザ頼もうか?」
「おっ、いいな」
ようやく自然に笑えた気がした。
蒼司も少しだけ嬉しそうに笑う。
さっきまでの気まずさが、少しだけほどけていく。
スマホを取り出す蒼司の横顔を見ながら、
俺はソファに腰を下ろす。
この距離。
この空気。
何かが始まりそうで、でも、まだ名前はついていない。
それが、少し怖くて、
でも――嫌じゃなかった。
ピンポーン、と軽い音。
蒼司が立ち上がってドアを開ける。
「来た」
箱を受け取って戻ってくると、
テーブルの上に置かれたピザは、
思っていたよりずっと大きかった。
「おお……デカいな」
「だね。頼みすぎたかも」
「いや、うまそう」
箱を開けた瞬間、チーズの匂いが部屋に広がる。
二人で向かい合って、
特別なことは何も言わずに食べ始める。
穏やかな空気。
ただ、噛む音と、時々グラスを置く音だけ。
しばらくして、蒼司がふと口を開いた。
「……昔さ」
俺は顔を上げる。
「兄貴と、三人で留守番したとき、覚えてる?」
「ああ」
すぐに思い出す。
「竜司が派手に失敗した料理な」
蒼司が小さく笑う。
「あれは酷かったね」
「酷すぎた」
一瞬、昔に戻ったみたいな笑いが落ちる。
でも、蒼司はそこで一呼吸おいた。
「……あれね」
箸を持つ手を止めて、
言葉を選ぶみたいに視線を落とす。
「あれは、兄貴が……
カイトのために、張り切ってたんだよ」
俺の手が、止まった。
「カイトの好きなハンバーグ、作りたかったみたい」
一瞬、頭が真っ白になる。
「……そうだったんだ」
蒼司は静かに頷く。
「あとさ、朝も……」
また、少し間。
「兄貴、玄関で……
カイトが家に来る十分前から、
ずっと待ってた」
「……マジか」
思わず、そう言ってしまう。
「‥‥知らなかった」
蒼司は小さく息を吐く。
「兄貴は、カイトのこと……
本当に好きだったんだと思う」
言葉が、出なかった。
胸の奥に、何かが触れたまま、
うまく形にならない。
不思議だった。
竜司のことを思い出すと、いつも胸が苦しくなった。
会えないことも。
連絡が来ないことも。
どうしても考えてしまっていた。
なのに今は――
ただ、「そうだったんだな」と思った。
まるで昔話を聞いているみたいに。
大切な思い出ではあるけれど、
もう手を伸ばして追いかけるものではないような。
そんな感覚だった。
よく分からない。
自分でも、うまく説明できない。
でも――
今、この時間は心地よかった。
向かいには蒼司がいて、
部屋には絵の具の匂いが残っていて、
他愛のない話をしながらピザを食べている。
ただ、それだけなのに。
胸の奥が、静かだった。
ピザは、最後まで美味しかった。
チーズは少し冷めていたけど、
それでも、ちゃんと味がした。
そして――
俺と蒼司は、同じベッドで眠った。
キスは、しなかった。
ただ、俺は蒼司を後ろから抱きしめたまま、
静かに目を閉じた。
腕の中の体温が、やけに落ち着く。
言葉にしなくてもいい距離。
確かめなくても、そこにあるもの。
蒼司は、何も言わなかった。
拒むこともなく、ただそのまま、受け入れてくれる。
そのぬくもりに触れていると、
胸の奥で、張りつめていたものが、
ゆっくりほどけていく。
それが――
どうしようもなく、心地よかった。
蒼司の、あの時の告白。
返事は、まだできていない。
でも――
離れたくないと思った。
理由は、まだ分からない。
名前も、まだない。
でも、この距離も、この時間も――
たしかに、ここにあった。