蒼の向こうで君を待つ   作:ハマジロウ

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第19章 名前のない関係 後編

 

講義が終わり、

 

俺はそのまま蒼司の家へ向かった。

 

インターホンを押すと、ほどなくしてドアが開く。

 

 

「いらっしゃい」

 

「おう。急で悪いな。

 

これ、プリン。これ昔から好きだろ」

 

「ありがとう。よく覚えてたね」

 

「あっ……まぁな」

 

蒼司は少しだけ目を細めて、優しく笑った。

 

その笑顔を見た瞬間、

 

胸の奥が、どくん、と鳴る。

 

 

「……」

 

 

俺は思わず視線を逸らした。

 

 

――なんでだ、俺。

 

 

妙に落ち着かない。

 

蒼司なんて昔から知ってる。

 

顔だって見慣れてるはずなのに。

 

なのに今の笑顔は、なぜか目を離せなかった。

 

 

少し照れたように受け取って、蒼司は言った。

 

「今、課題が大詰めでさ。散らかっててごめん」

 

「気にすんな」と答えながら、

 

俺は奥の部屋へ足をすすめる。

 

 

そこには、

 

いつもの――

 

あの、青い、蒼い世界があった。

 

 

けれど、今日は少し違う。

 

深い海の上。

 

水面に浮かぶ、淡い月。

 

 

その光に照らされて、

 

名も分からない生き物が、

 

まるで喜んでいるみたいに揺れている。

 

静かで、やさしくて、

 

どこか胸の奥をくすぐる絵だった。

 

「……きれいだな」

 

思わず、声が漏れる。

 

「……今までで、一番いい」

 

「……ほんと?」

 

「ああ。やっぱり、好きだな。蒼司の絵」

 

 

蒼司は少しだけ微笑んで、キャンバスに向き直った。

 

 

「もうちょっとで終わるから。

 

終わったら、プリン食べよ」

 

「ああ」

 

蒼司は再びキャンバスへ向き直る。

 

 

筆を走らせる横顔は真剣で、

 

窓から差し込む柔らかな光が、その輪郭を静かに照らしていた。

 

俺は何となく、その姿を見つめる。

 

青い海。

 

月の光。

 

そして、それを描く蒼司。

 

不意に思う。

 

 

――綺麗だ。

 

 

絵が、じゃない。

 

目の前にいる蒼司が。

 

 

そう思った瞬間、

 

 

胸の奥が小さく揺れた。

 

なんでだ、俺。

 

 

その答えを考えるより先に、体が動いていた。

 

気がつけば俺は立ち上がり、

 

そっと蒼司の背中に腕を回していた。

 

キャンバスに向かうその体を、後ろから、そっと抱きしめる。

 

「……どうしたの、カイト……」

 

振り向いた蒼司の顔が、近い。

 

言葉は、出なかった。

 

代わりに、俺は蒼司の唇に、静かに口づけていた。

 

 

しばらくして、はっと我に返る。

 

「……ご、ごめん。

 

こんなことするつもりじゃ……」

 

「ううん」

 

蒼司は、首を振る。

 

 

「大丈夫」

 

 

少し間を置いて、静かな声で続けた。

 

「……嫌じゃない」

 

その一言に、張りつめていた何かがほどける

 

 

俺はもう一度、確かめるようにキスをした。

 

 

月に照らされた青い海の中で、

 

俺は――

 

蒼司という、静かな海に、抱かれていた。

 

 

* * *

 

俺は、朝早く目を覚ました。

 

カーテンの隙間から、まだ淡い光が差し込んでいる。

 

時計を見ると、時刻は――朝五時。

 

 

……俺、

 

昨日、あのまま寝ちゃったのか。

 

俺は、蒼司のベッドで横になっていた。

 

ぼんやりした頭で息を吸う。

 

 

部屋の中には、かすかに絵の具の匂いが残っていた。

 

油絵具とキャンバスが混ざったような、

 

蒼司の部屋特有の匂い。

 

不思議と嫌じゃない。

 

むしろ、その匂いを感じると、胸の奥が少し落ち着いた。

 

 

まるで、

 

「ここにいていい」

 

と言われているみたいだった。

 

 

隣を見る。

 

蒼司が、すぐ隣で眠っている。

 

穏やかな寝息。

 

気持ちよさそうな、無防備な顔。

 

 

その光景を見て、胸が少しだけ、きゅっとなる。

 

 

――あ。

 

 

思い出す。

 

今日、朝練がある。

 

「やば……」

 

思わず小さく声が出る。

 

 

考える暇もなく、俺は静かにベッドを抜け出し、急いで身支度を始めた。

 

音を立てないように、それでも手早く。

 

すると、背後で気配が動く。

 

「……カイト、もう出かけるの?」

 

眠そうな声。

 

「あ、ごめん。今日、朝練あるの、忘れててさ」

 

蒼司は目をこすりながら、ゆっくり体を起こす。

 

 

「……あのさ」

 

 

一瞬、言葉を探す。

 

 

「今日も、ここ来ていい?」

 

 

蒼司は少しだけ間を置いて、でも迷いなく、微笑った。

 

 

「うん。待ってる」

 

 

その一言で、胸の奥が、静かに落ち着いた。

 

俺はそれ以上、何も言えず、

 

靴を履いて、ドアに向かう。

 

昨日のことを、ゆっくり考える暇もないまま。

 

俺は足早に、蒼司の家を後にした。

 

 

* * *

 

大学のグラウンド。

 

 

俺が駆け込んだときには、すでに朝練は始まっていた。

 

時計を見る。

 

……十分、遅刻。

 

……やっちまった。

 

俺はそのまま、監督のもとへ向かう。

 

「佐々木」

 

「はい……」

 

監督は、俺の顔を一瞬だけ見て、言った。

 

「腹の調子、大丈夫か?」

 

「え?」

 

 

一拍遅れて、慌てて頷く。

 

 

「あ、はい。大丈夫です」

 

「そうか。あまり無理するなよ」

 

「……はい」

 

それだけ言うと、監督はそれ以上何も言わなかった。

 

ほっと息をついた、そのとき。

 

背後から、聞き慣れた声が飛んでくる。

 

「おい、佐々木」

 

振り返ると、仲のいい同期がニヤついて立っていた。

 

「朝帰りで朝練遅刻とか、お前もやるようになったな」

 

「……なんだよ」

 

「監督にはさ、俺からうまく話しといたから」

 

「え?」

 

「腹痛ってことにしといた。

 

顔色も悪かったし、説得力あったぞ」

 

「……あ、わり」

 

同期は肩をすくめて笑う。

 

「ま、無理すんなよ。今日は軽めにしとけ」

 

そう言って、グラウンドへ戻っていった。

 

俺は一人、その背中を見送りながら、

 

ボールを握り直した。

 

 

——現実は、もうちゃんと動いている。

 

 

* * *

 

夕方、野球の自主練は軽めに切り上げて、

 

俺は蒼司の家に向かった。

 

 

気持ちが、どうにも落ち着かない。

 

足だけが先に進んでいくみたいで、

 

無意識に歩くスピードも早くなっていた。

 

 

インターホンを押す前に、ひとつ深呼吸。

 

 

ドアが開く。

 

「おかえり」

 

「あ、……ただいま」

 

言葉が一拍、遅れた。

 

家に“帰ってきた”って言われたのが、

 

なんだか妙にくすぐったい。

 

 

照れる俺に、つられたみたいに蒼司も少し目を伏せる。

 

「朝、出かけていったばっかりだったから……つい」

 

「……あぁ、そっか」

 

 

少しだけ沈黙が落ちる。

 

 

その空気を埋めるように、蒼司が口を開いた。

 

「カイト、今日朝練間に合った?」

 

「あぁ、ちょっと遅れたけど、なんとか大丈夫だった」

 

「そっか。よかった」

 

心から安心したような声だった。

 

「蒼司は? 今日ずっと部屋にいたのか?」

 

「ううん。午前は講義があってさ。昼には帰ってきて、絵の続きしてた」

 

「そっか」

 

 

それきり、会話が途切れる。

 

 

妙な沈黙だった。

 

嫌なわけじゃない。

 

でも、どうしていいか分からない。

 

 

俺は無意識に視線を逸らした。

 

昨日のことが頭から離れない。

 

キスをしたこと。

 

そして、そのまま蒼司を抱きしめたまま眠ったこと。

 

思い出すだけで胸の奥がざわつく。

 

 

なのに蒼司は、

 

昨日と何も変わらないみたいな顔をしていた。

 

 

いつも通り穏やかで、

 

いつも通り優しい。

 

それが少しだけありがたくて、

 

少しだけ調子を狂わせる。

 

 

俺だけが昨日を意識しているみたいで、

 

なんだか落ち着かなかった。

 

 

それ以上、言葉が続かない。

 

胸の奥が、ぎゅっと詰まる。

 

息が、少し苦しい。

 

 

(なんでだ、俺?)

 

 

俺は思い出したように口を開いた。

 

「あっ、そうだ。蒼司、お腹すかねぇ?」

 

蒼司は少し考えてから頷く。

 

「そうだね。昼、食べてなかった」

 

「ちゃんと食べないと、本当に身体壊すぞ」

 

「そうだね」

 

蒼司は苦笑した。

 

「でも、どうしよう。何も買ってないよ」

 

「食べに行くか?」

 

「うーん……」

 

少し考えたあと、蒼司が顔を上げる。

 

「あ、そうだ。たまにはピザ頼もうか?」

 

「おっ、いいな」

 

ようやく自然に笑えた気がした。

 

 

蒼司も少しだけ嬉しそうに笑う。

 

さっきまでの気まずさが、少しだけほどけていく。

 

 

スマホを取り出す蒼司の横顔を見ながら、

 

俺はソファに腰を下ろす。

 

この距離。

 

この空気。

 

何かが始まりそうで、でも、まだ名前はついていない。

 

それが、少し怖くて、

 

でも――嫌じゃなかった。

 

 

ピンポーン、と軽い音。

 

 

蒼司が立ち上がってドアを開ける。

 

「来た」

 

箱を受け取って戻ってくると、

 

テーブルの上に置かれたピザは、

 

思っていたよりずっと大きかった。

 

「おお……デカいな」

 

「だね。頼みすぎたかも」

 

「いや、うまそう」

 

箱を開けた瞬間、チーズの匂いが部屋に広がる。

 

 

二人で向かい合って、

 

特別なことは何も言わずに食べ始める。

 

 

穏やかな空気。

 

ただ、噛む音と、時々グラスを置く音だけ。

 

しばらくして、蒼司がふと口を開いた。

 

「……昔さ」

 

俺は顔を上げる。

 

「兄貴と、三人で留守番したとき、覚えてる?」

 

「ああ」

 

すぐに思い出す。

 

「竜司が派手に失敗した料理な」

 

蒼司が小さく笑う。

 

「あれは酷かったね」

 

「酷すぎた」

 

一瞬、昔に戻ったみたいな笑いが落ちる。

 

 

でも、蒼司はそこで一呼吸おいた。

 

 

「……あれね」

 

 

箸を持つ手を止めて、

 

言葉を選ぶみたいに視線を落とす。

 

「あれは、兄貴が……

 

カイトのために、張り切ってたんだよ」

 

俺の手が、止まった。

 

「カイトの好きなハンバーグ、作りたかったみたい」

 

一瞬、頭が真っ白になる。

 

「……そうだったんだ」

 

蒼司は静かに頷く。

 

「あとさ、朝も……」

 

 

また、少し間。

 

 

「兄貴、玄関で……

 

カイトが家に来る十分前から、

 

ずっと待ってた」

 

「……マジか」

 

思わず、そう言ってしまう。

 

「‥‥知らなかった」

 

蒼司は小さく息を吐く。

 

「兄貴は、カイトのこと……

 

本当に好きだったんだと思う」

 

 

言葉が、出なかった。

 

 

胸の奥に、何かが触れたまま、

 

うまく形にならない。

 

不思議だった。

 

竜司のことを思い出すと、いつも胸が苦しくなった。

 

会えないことも。

 

連絡が来ないことも。

 

どうしても考えてしまっていた。

 

なのに今は――

 

ただ、「そうだったんだな」と思った。

 

まるで昔話を聞いているみたいに。

 

大切な思い出ではあるけれど、

 

もう手を伸ばして追いかけるものではないような。

 

そんな感覚だった。

 

よく分からない。

 

自分でも、うまく説明できない。

 

でも――

 

今、この時間は心地よかった。

 

向かいには蒼司がいて、

 

部屋には絵の具の匂いが残っていて、

 

他愛のない話をしながらピザを食べている。

 

ただ、それだけなのに。

 

胸の奥が、静かだった。

 

ピザは、最後まで美味しかった。

 

チーズは少し冷めていたけど、

 

それでも、ちゃんと味がした。

 

 

そして――

 

俺と蒼司は、同じベッドで眠った。

 

キスは、しなかった。

 

 

ただ、俺は蒼司を後ろから抱きしめたまま、

 

静かに目を閉じた。

 

腕の中の体温が、やけに落ち着く。

 

言葉にしなくてもいい距離。

 

確かめなくても、そこにあるもの。

 

蒼司は、何も言わなかった。

 

拒むこともなく、ただそのまま、受け入れてくれる。

 

そのぬくもりに触れていると、

 

胸の奥で、張りつめていたものが、

 

ゆっくりほどけていく。

 

 

それが――

 

どうしようもなく、心地よかった。

 

蒼司の、あの時の告白。

 

返事は、まだできていない。

 

 

でも――

 

 

離れたくないと思った。

 

理由は、まだ分からない。

 

 

名前も、まだない。

 

 

でも、この距離も、この時間も――

 

たしかに、ここにあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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