海斗。大学四年生。
蒼司との名前のない関係は、
あれからも――変わらないまま、続いていた。
一方で、俺が蒼司の家に泊まる回数は、
日に日に増えていった。
それだけじゃない。
休みの日には一緒に出かけたり、
何気なく食事に行ったり。
そんな時間も、いつの間にか増えていた。
蒼司といるとき、
俺は無理をしなくてよかった。
気を張る必要もなく、
格好をつける必要もない。
ただ、素の自分でいられた。
それが、すごく心地よかった。
竜司は――
去年のゴシップ報道以来、
一度も帰ってこなかった。
シーズンオフに帰らなかったのは、
初めてのことだった。
大学四年生になった俺は、
教育実習と教員採用試験の準備に追われ、
毎日が目まぐるしく過ぎていった。
そして、実習が始まると。
想像していた以上に、現実は忙しかった。
朝から晩まで気を張り続け、
家に帰れば、倒れ込むように眠る。
気がつけば――
蒼司と会う時間さえ、
ほとんど取れなくなっていた。
教育実習と教員採用試験に追われ、
季節は、あっという間に過ぎていった。
気づけば、夏。
八月。
教員採用試験の一次試験を、無事に終えた。
一次試験合格の知らせを受け取った瞬間、
胸の奥に張りつめていたものが、ようやく少し緩んだ。
二次試験までは、ほんのわずかな空白。
久しぶりの、何も予定のない夜だった。
俺は、蒼司の家に向かった。
ドアを開けた瞬間、
変わらない空気が、そこにあった。
「……久しぶり」
蒼司は、少しだけ照れたように笑った。
その夜、
俺は久しぶりに、蒼司の家で一晩を過ごした。
特別なことは、何もなかった。
遅い夕飯を一緒に食べて、
並んでテレビを眺めて、
眠くなったら、そのまま布団に入った。
でも――
それだけで、十分だった。
実習と試験で張り詰めていた神経が、
ゆっくりほどけていくのが分かった。
ここにいると、
やっぱり、呼吸が楽になる。
蒼司は、何も聞かなかった。
俺も、何も話さなかった。
名前のない関係のまま、
それでも確かに、同じ夜を過ごしていた。
蒼司の家を後にして、俺は寮へ向かった。
夜風が、少しだけ涼しい。
頭の中は静かで、
さっきまでの温度が、まだ体に残っていた。
* * *
寮に着く。
入口の前に、ひときわ目立つ影があった。
……誰だ?
街灯の下に立つ、大柄な男。
キャップを深くかぶって、腕を組んでいる。
近づくにつれて、
胸の奥が、じわっと嫌な音を立てた。
見覚えが、ありすぎた。
「……竜司?」
声に出した瞬間、男が顔を上げる。
間違いない。
竜司だった。
「なんで……お前、ここにいるんだよ」
自分でも驚くくらい、声は冷静だった。
竜司は、少し気まずそうに視線を逸らしてから、短く言った。
「今、関東遠征中でな」
それから、まるで言い訳みたいに付け足す。
「移動日で、時間があったから」
……時間が、あった。
その言葉が、胸の奥に、静かに沈んでいく。
俺は何も言わなかった。
会えなかった理由も、
連絡がなかった理由も、
ここでは聞かなかった。
ただ、
目の前に立っているという事実だけが、
やけに重かった。
竜司は、俺の顔をじっと見て、少しだけ眉を寄せる。
「……元気そうだな」
「まあな」
それだけ答えた。
沈黙。
寮の自動ドアが、後ろで機械音を立てて閉まる。
逃げ場は、なかった。
俺と竜司は、近くの公園まで歩いた。
竜司が、前を歩く。
昔みたいに、肩を並べて歩くことはなかった。
少し離れた距離。
俺は、その背中を見つめながら歩く。
大きな背中だな、と思う。
それと同時に、胸の奥で、何かが静かに落ちていくのを感じていた。
――ああ。
俺の好きだった竜司は、
もう、ここにはいないんだ。
公園に着くと、
夜の空気は思ったより冷えていた。
ベンチのそばで立ち止まり、竜司が振り返る。
「悪かったな。急に来て」
「……いや」
短く、それだけ答えた。
少しの沈黙。
竜司は視線を逸らし、地面を見たまま言う。
「話したいことがあってさ」
「……何?」
竜司は、ほんの一瞬だけ迷ったように息を吸い、それから、淡々と続けた。
「もうすぐ、テレビとかでも
報道が出るかもしれないから」
その言い方が、やけに現実的で、胸に引っかかる。
「先に、言っとこうと思って」
嫌な予感が、遅れて広がる。
「俺さ――」
一拍。
「結婚するんだ」
「……え?結婚……?」
声が、うまく出なかった。
頭の中が、真っ白になる。
音が、遠くなる。
風の音も、公園の街灯の明かりも、
全部、現実味を失っていく。
「……そう、か」
自分の声なのに、どこか他人事みたいだった。
竜司は、俺の表情を一瞬だけ見て、
すぐに目を伏せた。
「驚くよな」
俺は、何も言えなかった。
怒りも、悲しみも、
はっきりした形にならない。
ただ、「そうなんだ」という事実だけが、
胸の奥に、重く残った。
――ああ。
だから、連絡がなかったのか。
だから、帰ってこなかったのか。
全部、今になって、静かにつながっていく。
俺は心の中で、
(……落ち着け)
(落ち着け、俺……)
(……大丈夫だ)
(落ち着くんだ……)
そう、何度も念じながら、竜司の話を聞いていた。
「……結婚な」
竜司は、少し間を置いて続ける。
「去年、ワイドショーで出ただろ。あれ」
ああ、と小さく頷く。
「相手、六歳年上でさ。女子アナやってる」
淡々とした口調。
まるで、試合の結果でも話すみたいに。
「式とかは、シーズン終わって、
落ち着いてからにしようと思ってる」
一呼吸。
「だから……先に言っとこうかと思って」
その言葉が、
胸の奥に、静かに落ちてくる。
(……そっか)
頭では、理解しているはずなのに、
心が、少しだけ追いつかない。
それでも。
「……そっか」
次の瞬間、口が勝手に動いていた。
「おめでとう」
自分でも、驚くくらい自然な声だった。
言った瞬間、
竜司が、はっとした顔でこちらを見る。
「……え?」
その反応が、少しだけ、胸に引っかかる。
「……ああ」
俺は、視線を逸らして、曖昧に頷いた。
「いや……そういうもんだろ」
言葉を探しながら、ゆっくりと続ける。
「……幸せになるなら……いいんじゃないか」
竜司は、しばらく何も言わなかった。
夜の公園に、遠くの電車だけが響く。
俺は、自分の胸の奥を確かめる。
痛くないわけじゃない。
でも、壊れるほどでもない。
ただ、一つの青春が、
確かに終わったんだという感覚だけが、
そこにあった。
――ああ。
俺はもう、竜司の隣に立つ人間じゃない。
それだけのことだ。
「その人と一緒になってさ」
俺は、夜の空気に向かって言うみたいに、
ゆっくりと言葉を続けた。
「それで……お前が幸せになるなら、俺は嬉しいよ」
竜司は、何も言わずに聞いている。
俺は一度、息を吸ってから、
自分でも少し驚く言葉を口にした。
「正直さ……俺じゃ、お前を幸せになんか、してやれねえから」
言った瞬間、胸の奥が、少しだけきしんだ。
でも、嘘じゃない。
竜司は黙ったまま、ただ、視線を下げている。
「……俺、大丈夫だよ」
そう言い切ると、
ようやく、自分の声が落ち着いた気がした。
「……こうなる予感は、してた」
夜の公園。
街灯の下で、影が長く伸びる。
「高校で離れてさ。距離ができてきた頃から」
言葉を選びながら、でも止まらずに続ける。
「いずれ、こうなるってのは……
なんとなく、分かってた……」
好きだった時間が、
そのまま続くわけじゃないこと。
夢を追う人間の隣に、
ずっと同じ場所で立っていられないこと。
俺は、それをずっと前から、分かっていた。
だから――
驚きはあっても、
取り乱すほどじゃなかった。
ただ、少しだけ、
胸の奥が静かに痛むだけだった。
竜司は、ようやく口を開く。
「……カイト」
その声に、俺は顔を上げなかった。
「俺さ……」
少し間を置いてから、
俺は続けた。
「これからも、お前のこと、応援してる」
竜司は、何も言わずに聞いている。
「一流選手になってさ。もっと活躍して」
言葉を探しているわけじゃないのに、
自然と、そんな言葉が並んでいく。
「みんなから尊敬されて、憧れられる選手になる」
ほんの一瞬、昔の姿が頭をよぎる。
バットを握る横顔。
グラウンドに立つ背中。
「……そうなれるように」
俺は、静かに息を吐いた。
「俺はもう、お前の横に一緒には、いられないけど」
一拍。
「それでも……、応援してる」
言い切ったはずなのに、
胸の奥で、小さく揺れるものがあった。
本音と強がりが半分。
どっちが多いのかは、
自分でも、よく分からない。
ただ、俺は感情を込めるでもなく、
淡々と話していた。
まるで――
誰かの言葉を、
口が勝手に再生しているみたいな感覚。
言い終えたあと、静けさが落ちる。
夜の公園に、風の音だけが流れた。
竜司は、しばらく黙っていた。
「俺さ」
少しだけ、間を置いてから続けた。
「目標ができたんだ」
竜司は、顔を上げて俺を見る。
「体育教師になってさ。野球部のコーチになる」
夜の空気に、言葉が静かに溶けていく。
「お前みたいな、華やかな人生じゃないけど」
自嘲するつもりはなかった。
ただ、事実を言っただけだ。
「それでもさ。これからも野球に関わって、俺は、俺の道を行く」
一度、息を吸う。
「だからさ、竜司」
視線を合わせないまま、続けた。
「俺に対して、後ろめたいとか、
そんなこと、思う必要はない」
言葉にしてしまうと、不思議と胸が軽くなる。
「いいんだよ。お前は、いい選択をした」
それは、自分に言い聞かせる言葉でもあった。
「祝福する」
少しだけ、声が柔らぐ。
「……そうだ」
ふと思い出したみたいに、付け足す。
「結婚式さ。呼んでくれよ」
竜司が、驚いたようにこちらを見る。
「俺、行くからさ」
その瞬間、竜司の表情が、わずかに歪んだ。
悲しそうな顔だった。
俺は、その変化を、見ないふりをした。
「……わかった」
竜司は、短くそう言って、
少しだけ間を置く。
「じゃあ……俺、行くわ」
それだけ言うと、竜司は背を向けた。
振り返らなかった。
足音が、公園の砂利の上を遠ざかっていく。
俺は、その背中を、最後まで追わなかった。
追わなくてもいいと、もう分かっていたから。
夜の公園に、静けさだけが残った。
* * *
俺は、気がついたら部屋に戻っていた。
ベッドに腰を下ろして、
しばらく、そのまま動けなかった。
……なんでだろう。
涙は、出なかった。
悲しいはずなのに。
胸は重いのに。
喉の奥も、きしきし痛むのに。
それでも、泣けなかった。
俺は、バカだ。
こんな結末になることくらい、
最初から、分かってたはずなのに。
高校で離れて、
距離ができて、
連絡が減って。
それでも俺は、どこかで、
「まだ何かあるかもしれない」って、
思い続けていた。
……でも。
いつか。
いつか、もしかしたら。
竜司が、俺を迎えに来る日が、あるかもしれない。
そんな、ほとんどゼロに近い可能性を、
最後まで、捨てきれなかった。
だから、こうなった。
俺は、
もっと――
楽しい恋がしたかった。
駆け引きもしなくてよくて、
我慢もしなくてよくて。
一緒にいて、息が楽で、
笑っていられる恋がしたかった。
自分を、素のままでいられる恋が、したかった。
「……俺は、バカだ」
誰もいない部屋でそう、静かに呟いた。
部屋は、静かだった。
時計の針の音だけが、
やけに大きく聞こえていた。