蒼の向こうで君を待つ   作:ハマジロウ

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第21章 途切れない波 前編

 

竜司との別れから数日後。

 

俺は、松本といつものカフェで落ち合った。

 

昼過ぎの店内は落ち着いていて、

 

コーヒーの香りと、低い話し声だけが流れている。

 

俺は、竜司との一連の出来事を、

 

最初から最後まで話した。

 

 

寮の前で待ってたこと。

 

公園まで歩いたこと。

 

結婚の話。

 

そして、別れ際の背中。

 

 

松本は、途中で一度も口を挟まなかった。

 

カップを持つ手が、

 

少しずつ強くなっていくのが分かる。

 

 

全部話し終えたあと、しばらく沈黙が落ちた。

 

 

松本は、ゆっくりと息を吐いてから、言った。

 

 

「……なんかさ」

 

 

低い声。

 

 

「俺、竜司のとこ行って

 

 一発殴ってきてもいいか」

 

 

思わず、苦笑が漏れそうになる。

 

 

「やめとけって」

 

「なんでだよ」

 

松本は、珍しく、苛立ちを隠さなかった。

 

 

「結婚するならするで、もっとちゃんと話すべきだろ」

 

「都合いいときだけ現れて、全部言って、はい終わりってさ」

 

「それ、ズルくねえ?」

 

 

俺は、コーヒーを一口飲んでから答えた。

 

 

「……まあな」

 

「“まあな”で済ませんなよ」

 

「済ませてるわけじゃない」

 

 

少し間を置く。

 

 

「ただ……もう、いいんだよ」

 

 

松本は、納得いかない顔で俺を見る。

 

 

「良くねえだろ」

 

「良くはない」

 

 

はっきり言った。

 

 

「……でもさ、終わったんだ」

 

 

その言葉を口にした瞬間、

 

胸の奥が、少しだけ静かになった。

 

 

松本は、しばらく黙っていたが、

 

やがて肩の力を抜いた。

 

 

「……お前さ。ほんと、優しすぎだよ」

 

「優しいっていうか……」

 

言葉を探す。

 

「もう、待ってる理由がなくなっただけだよ」

 

 

松本は、ふっと息を吐いて、苦笑した。

 

 

「それ、一番しんどいやつだろ」

 

 

俺は、何も返さなかった。

 

否定も、肯定も、しなかった。

 

でも、松本が怒ってくれていることが、

 

少しだけ、救いだった。

 

 

松本は、空になりかけたカップを指で回しながら、ふいに言った。

 

「なあ、海斗」

 

「ん?」

 

 

 

一拍。

 

 

 

「……お前さ、

 

 蒼司くんと付き合えば?」

 

「え?」

 

思わず、声が裏返る。

 

「なんだよ、いきなり」

 

松本は、肩をすくめる。

 

「だってさ。普通に聞いてて、

 

 いい感じじゃん」

 

「……」

 

「一緒に飯食って、泊まって、

 

 無理しなくていい相手で」

 

「それ、もう答え出てね?」

 

 

俺は、視線を落とした。

 

 

「……今は、ちょっと」

 

「ちょっと?」

 

「……まだ、気持ちの整理が

 

 ついてなくてさ……」

 

正直な言葉だった。

 

 

松本は、少しだけ眉を寄せる。

 

「まあ、そりゃそうか」

 

でも、すぐに真剣な顔になって、身を乗り出した。

 

「なあ、海斗」

 

低い声。

 

「それでもさ、タイミング、逃すなよ」

 

「……」

 

「整理が終わるの、いつか分かんねえだろ」

 

「その間に、相手の気持ちがどっか行くこともある」

 

その言葉が、胸の奥に、静かに刺さる。

 

「今すぐ答え出せ、とは言わねえ」

 

「でもさ、

 

 “待ってもらえる”って

 

 当たり前じゃねえからな」

 

俺は、カップの中のコーヒーを見つめた。

 

蒼司の顔が、一瞬だけ、頭をよぎる。

 

 

「……分かってるよ」

 

小さな声だった。

 

 

松本は、それ以上は言わなかった。

 

ただ、

 

「そっか」とだけ言って、

 

椅子に背中を預けた。

 

 

その沈黙が、妙にありがたかった。

 

 

* * *

 

部屋に戻ったあとも、外の空気の名残みたいなものが、まだ体の中に残っていた。

 

ドアを閉めて、靴を脱いで、ようやく現実に戻る。

 

ベッドに腰を下ろすと、スマホを無意識に手に取っていた。

 

 

画面をつける。

 

LINEを開く。

 

そこにある名前を、なんとなく見つめる。

 

そのまま、スクロールする。

 

上へ、下へ。

 

やり取りの履歴が流れていく。

 

 

その中で、不意に指が止まった。

 

竜司の名前。

 

画面の下の方に、それはちゃんと残っていた。

 

最後のメッセージは、もうずっと前のまま。

 

そこから先は、何もない。

 

別れる前から、やり取りは途絶えていた。

 

通知も、既読も、それ以上は増えていない。

 

指を少しだけ浮かせる。

 

押せば、まだ送れる。

 

連絡なんて、しようと思えばすぐできる距離だ。

 

ただの文字一つでいい。

 

それだけで届くはずなのに。

 

――なのに、どうしてこんなに遠いんだろう。

 

喉の奥が、少しだけ詰まる。

 

スマホの画面を見つめたまま、動けない時間が流れる。

 

 

「……もう終わったんだ」

 

 

ぽつりと、部屋の中に落ちる声。

 

誰に向けたわけでもない。

 

でも、その言葉を口にした瞬間だけ、少しだけ現実が固まった気がした。

 

 

そのとき、不意に通知音が鳴った。

 

心臓が、少しだけ跳ねる。

 

……誰だ?

 

反射的に画面を見る。

 

蒼司だった。

 

一瞬、息が止まる。

 

すぐにメッセージを開く。

 

 

《二次試験頑張って》

 

 

短い一文。

 

それだけ。

 

でも、蒼司らしい、とすぐに思った。

 

余計なことは書かない。

 

励ましも、押しつけもない。

 

ただ、そこに置いていくみたいな言葉。

 

その一文を見ているうちに、

 

さっきまで胸の奥にあったざわつきが、少しずつほどけていく。

 

不思議なくらい、呼吸がしやすくなる。

 

俺はスマホを握り直して、

 

短く打った。

 

 

《ありがとう》

 

 

それだけ。

 

俺は少し間を置いて、スマホを握り直した。

 

指が、迷うことなく文字を打つ。

 

 

《試験終わったら、海行こう》

 

 

送信ボタンを押したあと、ほんの少しだけ呼吸が浅くなる。

 

すぐには返ってこない。

 

画面を見つめたまま、時間だけがゆっくり流れていく。

 

――何か、考えてるのか。

 

それとも、ただ一瞬の間なのか。

 

やがて、通知音が鳴った。

 

短い振動。

 

視線を落とす。

 

 

《わかった》

 

 

それだけだった。

 

あまりにも簡単で、あまりにもいつも通りで。

 

でも、その「わかった」の中に、拒絶は一つもない。

 

蒼司は、断ってくることがない。

 

無理だとか、嫌だとか、そういう線引きをしない。

 

その優しさに、救われている自分もいる。

 

画面を見つめたまま、少しだけ息を吐いた。

 

――大丈夫だ。

 

俺は前に進める。

 

ちゃんと、進めるはずだ。

 

スマホを机に置く。

 

椅子を引いて、参考書を開く。

 

「よし……二次試験対策、やるか」

 

静かな部屋の中で、ページをめくる音だけが小さく響く。

 

視線は文字を追っている。

 

でも、頭のどこかにまだ、さっきの短いやり取りの余韻が残っていた。

 

それでも俺は、鉛筆を握り直して、静かに問題集へと意識を落としていった。

 

* * *

 

8月下旬。東京都教員採用試験。

二次試験。

 

保健体育教員は、狭き門だ。

 

試験は面接だった。

 

もし、これに落ちたら――。

 

そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎる。

 

俺は、ゆっくりと面接室のドアを開けた。

 

中に入ると、静かな空気が流れていた。

 

机越しに並ぶ面接官たちの視線が、一斉にこちらへ向く。

 

軽く礼をして、椅子に座る。

 

「志望動機をお願いします」

 

その言葉から、面接は始まった。

 

俺は、教師になろうとした理由を話した。

 

今まで野球に打ち込んできたこと。

 

甲子園で、エースとしてマウンドに立ったこと。

 

大学生活の中で感じたこと。

 

言葉は、思っていたよりも落ち着いて出てきた。

 

飾るつもりはなかった。

 

ただ、自分の中にあるものを、そのまま渡すように話した。

 

面接官は、時折うなずきながら、静かに話を聞いていた。

 

意外なほど、空気は和やかだった。

 

緊張はあった。

 

それでも、どこかで「ちゃんと届いている」という感覚もあった。

 

やがて、面接は終わる。

 

「ありがとうございました」

 

頭を下げて、席を立つ。

 

面接室のドアを出た瞬間、肩の力が抜けた。

 

 

(……終わった)

 

 

その一言が、頭の中でゆっくりと響く。

 

なのに、すぐには実感が追いつかない。

 

頭が、真っ白だった。

 

……どうだった?

 

手応えは、あったのか?

 

いや、まだ分からない。

 

良かった気もするし、そうでもない気もする。

 

期待と不安が、同じ重さで胸の中に残っていた。

 

 

 

建物の外に出る。

 

空は、やけに広かった。

 

夏の深い青色。

 

まっすぐで、どこまでも続いていきそうな色。

 

その青を見上げた瞬間、不意に思う。

 

――蒼司の絵みたいだな。

 

そんなことを、ぼんやりと考えていた。

 

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