第13章 途切れない波 後編
9月
東京都教員採用試験の結果が届いた。
合格。
短い二文字を見た瞬間、
胸の奥に張りつめていたものが、ふっと緩んだ。
その夜、俺は久しぶりに蒼司の家を訪れた。
玄関を開けると、
懐かしい匂いと、変わらない空気がそこにあった。
テーブルの上には、
ピザと、ケーキと、サラダ。
どれも、気取らない。
でも、ちゃんとした「お祝い」だった。
「合格、おめでとう」
「……ありがとう」
グラスを軽く鳴らして、二人で乾杯する。
他愛ない話が続く。
教育実習のこと。
試験のこと。
これからの配属の話。
久しぶりなのに、間は空かなかった。
「やっと一区切り、だね」
「ああ……正直、ホッとしてる」
「頑張ってたもん」
その言葉に、俺は何も返さず、ピザを一口かじった。
そのときだった。
テレビのニュース番組が、
スポーツコーナーに切り替わる。
何気なく流していた画面に、見覚えのある名前が映る。
《プロ野球・福岡フェニックス
青柳竜司選手 入籍を発表》
……あ。
フォークを持つ手が、止まった。
画面には、スーツ姿の竜司。
その隣に、見知らぬ女性が立っている。
蒼司は、一瞬だけ俺を見てから、
何も言わずにリモコンを手に取った。
「……大丈夫だよ」
静かな声だった。
「もうさ、テレビじゃないと、
竜司のこと、見られないし」
テレビは消さなかった。
音量も、そのまま。
ニュースは、明るい調子で続いていく。
相手は、六歳年上の女子アナウンサー。
大学時代はミスコン優勝。
取材を通じて知り合い、交際に発展。
さらに、アナウンサーの声が続く。
《料理が得意で、
現在はスポーツ公認栄養士の資格取得
に向けて勉強中。
アスリートを
食事面から支える存在だということです》
画面が切り替わる。
二人並んだ、会見の映像。
「お互いの決め手は?」
竜司は、少し照れたように笑って答える。
「料理ですね。完全に、胃袋掴まれました」
隣の女性が、穏やかに微笑む。
「いつも、支えてくれてます」
フラッシュが光る。
「お似合いの二人ですね」
そう締めくくられて、ニュースは次の話題へ移った。
……それだけだった。
俺は、表情を変えずに、黙って画面を見ていた。
胸の奥で、何かが静かに沈んでいくのが分かった。
痛みは、ある。
でも、もう波立たない。
竜司は、テレビの中の人になった。
過去の恋は、ニュースになって、
誰かの祝福の言葉に包まれて、
終わった。
蒼司は、何も言わなかった。
俺も、何も言わなかった。
ただ、少し冷めたピザを口に運ぶ。
……それでも、ちゃんと、味はした。
重たい沈黙が、部屋に落ちたままだった。
テレビはもう別のニュースを流している。
画面の向こうでは、関係のない誰かが笑っている。
俺は、フォークを置いた。
そして、その沈黙を壊すみたいに、
ぽつりと口を開いた。
「……竜司、幸せそうだな」
自分でも驚くくらい、落ち着いた声だった。
「……良かったよ」
一拍置いて、続ける。
「なんかさ……
良さそうな人だよな、相手の人」
蒼司は何も言わない。
ただ、俺のほうを見ている。
「料理も得意でさ。
スポーツ公認栄養士の資格、勉強してるって」
軽く笑おうとして、うまくいかなかった。
「……すげえよな」
視線を落としたまま、言葉が勝手に出てくる。
「俺じゃさ……全然、立ち打ちできねえよ」
それは誰に向けた言葉なのか、
自分でも分からなかった。
「支える覚悟もあるし、
自分の人生もちゃんと持ってて‥‥」
少しだけ、息を吸う。
「竜司が幸せになれるんなら……
ほんと、良かったよ」
言い切ったあと、胸の奥が、じん、と鈍く鳴った。
でも、否定したい気持ちはなかった。
嘘でもなかった。
蒼司は、最後まで黙って聞いていた。
慰める言葉も、否定も、同意もなかった。
ただ、逃げずに、そこにいた。
俺の言葉が全部出きるまで、
静かに、待っていた。
沈黙は、さっきより少しだけ、柔らかくなっていた。
蒼司は、いつものように優しく、静かにそこにいた。
「……カイト、つらくない?」
「大丈夫だよ」
そう答えたけど、
完全につらくないと言えば、それは嘘になる。
それでも――
「もう、俺たちはそれぞれ違う道を歩いてる。
時間が、きっと解決してくれるよ。
俺も、立ち止まってちゃいられないからさ」
蒼司は何も言わず、ただ少しだけ距離を詰めた。
そして、そっと俺にキスをする。
蒼司のほうからキスをしてきたのは、
これが初めてだった。
俺は目を閉じ、
背中に手を回して、蒼司を静かに引き寄せる。
その温もりの中で、
俺は久しぶりに、心から安らぎを感じていた。
* * *
11月
俺は大学野球を引退し、
引退セレモニーが盛大に開催された。
俺は最後の一年間、主将としてチームをまとめてきた。
チームの仲間から、たくさんのねぎらいの言葉をもらった。
監督も、俺に笑顔を向けてくれた。
俺は、野球チームの企業団から
いくつかスカウトを受けていた。
条件は、決して悪くなかった。
だが、俺はそれを断った。
俺は来年の四月から、保健体育の教師になる。
これでいい。
俺は、野球は選手としてやりきった。
ちゃんと、前に進んでいる。
ちょうどその頃、
竜司のいる福岡フェニックスの、
日本シリーズの戦いが終わった。
残念ながら、福岡フェニックスは
日本シリーズ制覇を逃した。
優勝には、あと一歩届かなかった。
それでも――
試合後のインタビューでは、
竜司の姿がテレビに映し出されていた。
来季への意気込みや、
チームとしての課題。
そして――
プライベートな質問も、当然のように投げかけられる。
「青柳選手、ご入籍の話も出ていますが、
式はいつ頃を予定されているんですか?」
竜司は一瞬だけ照れたように笑い、
それでも、すぐにいつもの表情に戻った。
「まだ詳しいことはこれからですが、
来年には、ちゃんと形にできたらと思っています」
画面の中の竜司は、迷いのない声で、
揺るぎない自信を持ってそう答えていた。
俺は、寮の部屋で一人、
ぼんやりとスマホを眺めていた。
画面には、LINE。
そこには、竜司の名前が残っている。
もう、ずっとやりとりはしていない。
それでも――
このLINEは、まだつながっているんだろうか。
そんなことを、ぼんやり考えていた。
気づくと、俺の指は、勝手に動いていた。
竜司のトーク画面をタップする。
『おめでとう』
『優勝、あともうちょっとだったな』
短い言葉を、いくつか。短文で、メッセージを打ち込む。
竜司のことだ。
きっと、同じようなメッセージが、
何十人、いや、もっと多くの人から
届いているはずだ。
俺は、その中の一人に過ぎない。
たぶん、返事は来ないだろう。
それでも――
俺は、竜司を応援する一人として、
そのメッセージを、送信してしまった。
すると、比較的、短い時間で通知音が鳴った。
ピロリン。
俺は反射的にスマホを見る。
……誰だ?
画面を見て、俺は、はっと息を止めた。
――竜司。
なんで?
心臓が、嫌な音を立てる。
俺は緊張したまま、LINEをタップした。
ひょっとして、
「もう連絡してくるな」
……そんな言葉かもしれない。
そう思った瞬間。
画面に表示されたのは――
『ありがとう。
お前、教員試験受かったか?どうだった?』
たった、それだけだった。
俺は、心の中でそう思った。
何だよ。
竜司……何で返事してくるんだよ。
しかも、この流れ。
まだ、返事しなきゃいけないじゃねえか。
俺は、少しだけ間を置いて、メッセージを打った。
『俺、合格した。
来年から、保健体育の教師になるよ』
送信。
すると、またすぐに返事が来た。
『おめでとう。 頑張れよ』
――それだけだった。
俺はスマホを握りしめたまま、ゆっくりと顔を膝にうずめた。
それからというもの、
竜司から、ちょくちょくLINEが届くようになった。
別れる前は、連絡一つなかったというのに。
「元気か?」
「今日も頑張れ」
「今日は練習きつかった」
「今日は疲れた」
特別な内容は、何もない。
ただの日常の言葉。
最初のうちは、
俺はどう返せばいいのか分からず、
画面を前にして、何度も指を止めていた。
けれど――
それも、次第に慣れていった。
今では、
まるで普通の友達とやりとりしているみたいに、
自然に返事をするようになっていた。
ただ一つだけ、
どうしても聞けないことがあった。
――なぜ、竜司は、
こんなにも頻繁にLINEをしてくるのか。
その答えを聞く勇気は、
まだ、俺にはなかった。