蒼の向こうで君を待つ   作:ハマジロウ

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第24章 二人の背中 後編

 

 

四月。

 

 

俺は、三鷹市にある都立高校で、

 

保健体育の教師として新しい生活を始めた。

 

中堅の進学校。

 

落ち着いた校風で、生徒たちも、どこか素直だった。

 

着任して間もなく、俺は野球部の顧問を任された。

 

部員数は少なく、成績も、正直ぱっとしない。

 

いわゆる、弱小野球部。

 

目標は、まずは都大会一回戦突破。

 

現実的で、でも、ちゃんと前を向いた目標だった。

 

 

俺は、意識して、少しだけ明るく振る舞うようにした。

 

必要以上に背負わない。

 

必要以上に構えない。

 

グラウンドでは、自然と声が出た。

 

 

「お前らー、ちゃんとやれよー!」

 

「よし、今のナイスピッチング!」

 

 

怒鳴るより、背中を押す。

 

結果を急がせるより、続けさせる。

 

それが、昔の自分が一番欲しかった言葉だと、気づいていたからだ。

 

 

部員たちの反応は、悪くなかった。

 

 

「先生、話しやすいっす」

 

「野球、ちょっと楽しくなってきました」

 

 

そんな言葉を、何度か耳にした。

 

三鷹駅の近くにある職員宿舎で、一人暮らしも始めた。

 

一人暮らしが始まって、すぐに現実が来た。

 

思っていたより――何もできなかった。

 

最初は「ちゃんと自炊しよう」と思っていた。

 

スーパーで一通り食材を買って、

 

レシピ動画を見ながら、フライパンを温める。

 

最初の一歩は完璧だった気がする。

 

……気がしただけだった。

 

玉ねぎは焦げ、肉は固くなり、

 

味付けはなぜか妙にしょっぱい。

 

出来上がったそれを見て、俺はしばらく黙った。

 

「……これ、何だ?」

 

誰に聞くわけでもなく、呟く。

 

一口食べてみる。

 

まずい、というより“食べ物としての方向性を見失っている”。

 

その瞬間、ふと高校時代の光景がよみがえった。

 

竜司の家に泊まったときのことだ。

 

慣れない手つきでハンバーグを作って、

 

なぜか表面が真っ黒になっていた。

 

「焦げてるけど……、失敗じゃない」

 

とか言い張ってた竜司の顔。

 

結局食って、普通にうまくなかったのに、

 

なぜかめちゃくちゃ笑った。

 

思い出して、少しだけ笑ってしまった。

 

「……あいつも料理、下手だったな」

 

懐かしさだけが、妙に優しかった。

 

 

それ以来、自炊はやめた。

 

無理なものは無理だと、早めに理解した。

 

外食、スーパーの弁当、冷凍食品。

 

それが俺の“正解”になった。

 

生活は一気に現実寄りになる。

 

朝はギリギリに起きて、シャワーだけ浴びて出勤。

 

夜は疲れて帰ってきて、

 

部屋の電気をつけるのも少し面倒になる。

 

洗濯物はたまる。

 

掃除も後回しになる。

 

「これ、社会人ってこういうもんか?」

 

一瞬だけ疑うけど、誰も答えてくれない。

 

気づけば部屋は少しずつ“生活している形”を失っていった。

 

それでも仕事は待ってくれない。

 

野球部の練習は続くし、

 

生徒は普通に俺を先生として見てくる。

 

グラウンドに立てば声は出る。

 

「いいぞ、その調子!」

 

「もう一回いくぞ!」

 

それはできるのに、

 

自分の部屋はどうにもできないのが不思議だった。

 

ある日、ふと思った。

 

(蒼司のやつ、一人暮らし、大丈夫か……?)

 

今さらだ。

 

蒼司の家は前よりも近くなり、気づけば行き来するのが当たり前みたいになっていた。

 

気を使うわけでもなく、約束をきっちり決めるわけでもない。

 

なんとなく「今日いける?」みたいな一言で、すぐ成立する距離。

 

その流れで、蒼司の家の近くにあるファミレスに寄るのも増えた。

 

安いし、長居できるし、何より気楽だった。

 

ドリンクバーの音と、少しだけざわついた店内。

 

その中で、俺はソファに深く座りながら言う。

 

「いやさ、一人暮らしって思ったより大変だわ」

 

蒼司はボロネーゼをフォークで巻きながら、軽く笑う。

 

「カイト、一人っ子だし、お母さんが全部やってくれてたもんね」

 

「……うーん、否定はできない」

 

正直すぎて、少し笑ってしまう。

 

「俺も適当だからさ。食事とかこだわりないし」

 

蒼司は、グラスを持ち上げながら続ける。

 

「こうやって外で食べるの、むしろ楽しいし」

 

「そうか」

 

蒼司は短く言って、また食事に戻る。

 

俺は少しだけ姿勢を崩した。

 

「あとさ、洗濯とかも面倒なら、コインランドリーでまとめてやった方が楽だよ」

 

「なるほどな、そうするわ」

 

言いながら、ふと最近の自分の部屋を思い出す。

 

干しっぱなしの服、畳まれていないままの洗濯物。

 

「最近さ、干すのも面倒なんだよな」

 

「ふふ」

 

蒼司が、珍しく声を立てて笑った。

 

「なんだよ」

 

「いや、カイトってさ」

 

笑いながら、こちらを見る。

 

「ちゃんとしてるのに、こういう生活のとこ雑なの、ちょっと面白くて」

 

「……そうか」

 

否定できなくて、笑うしかなかった。

 

それを見て蒼司はまた小さく笑う。

 

「蒼司、ドリンクバーまだ飲むだろ? 取ってくるよ」

 

「ありがとう」

 

俺は席を立つ。

 

ドリンクバーのボタンを押しながら、俺はふと思う。

 

こういう時間が、好きだった。

 

何かを成し遂げているわけでもない。

 

特別な話をしているわけでもない。

 

ただ、同じテーブルで飯を食って、どうでもいい話をして、笑ったり、流したりしているだけ。

 

それなのに、不思議と落ち着く。

 

(……ああ、こういうのがいいんだよな)

 

グラスの氷が、静かに音を立てた。

 

 

 

* * *

 

新生活も、ようやく落ち着いてきた頃。

 

俺は、新宿の飲食店で松本と会う約束をしていた。

 

「おっ、松ちゃん。お疲れ!」

 

 

俺が先に声をかけると、

 

松本は一瞬きょとんとしてから、笑った。

 

「ああ、海斗。元気そうだな」

 

「まあな。生徒たち、けっこう素直でさ。

 

 毎日、意外と楽しいよ」

 

ビールを一口飲んでから、俺は言った。

 

「海斗、そりゃそうだよ」

 

松本が即答する。

 

「えっ?」

 

思わず聞き返すと、松本は少し呆れた顔をした。

 

「お前さ、自分じゃ気が付かないかもしれないけど……」

 

グラスを軽く揺らしながら続ける。

 

「若くて、明るくて、面倒見いいしさ」

 

一拍置いて、

 

「あと、イケメンだし」

 

「……そうなのか?」

 

素で返すと、松本は吹き出した。

 

「そこ疑うなよ」

 

「いや、そんな自覚ねぇし」

 

肩をすくめると、松本は苦笑しながら首を振る。

 

「そういうとこだよ」

 

「どういうとこだよ」

 

軽く笑い合ったあと、松本の表情が少しだけ曇った。

 

「……俺んところさ」

 

「ん?」

 

「指導してくれる先輩とちょっと合わなくてさ……」

 

グラスを見つめたまま、少し言葉を選ぶように続ける。

 

「……なんか、先行き不安だよ」

 

一瞬、店のざわめきが遠くなる。

 

俺は少しだけ考えてから言った。

 

「大学の事務職員だもんな」

 

「うん」

 

「でも松ちゃん頭いいから、そのうち慣れるさ」

 

できるだけ軽く言う。

 

押しつけにならないように。

 

松本は小さく笑った。

 

「だと、いいんだけどな」

 

その声はさっきより少しだけ静かだった。

 

俺はグラスを置いて、肩をすくめる。

 

「ま、無理すんなよ」

 

「お前に言われると説得力あるな、それ」

 

「なんだそれ」

 

笑いながら返すと、またいつもの空気に戻った。

 

でもその奥に、ほんの少しだけ残る不安みたいなものは、消えなかった。

 

それでも、今はそれでいい気がした。

 

 

そこから、話は途切れなかった。

 

仕事の愚痴。

 

生徒の話。

 

大学の裏話。

 

どうでもいい近況。

 

笑って、突っ込んで、また笑う。

 

気づけば、時間はあっという間に過ぎていた。

 

 

お酒もいつものペースより進んでゆき、

 

松本が俺の顔をまじまじと見る。

 

「……ていうかさ、海斗」

 

「ん?」

 

「お前、どうした?」

 

「何が?」

 

「いやさ。

 

もともと明るい奴だったけど……

 

なんか、さらに明るくなってね?」

 

俺は、思わず笑った。

 

「そうか?」

 

肩をすくめる。

 

「まあ、いいじゃん。元気なんだから」

 

その言い方が、自分でも少し軽いと感じた。

 

でも、無理をしている感じはなかった。

 

 

さらに酒が進むにつれて、

 

松本の声は少しずつ大きくなっていった。

 

頬も、ほんのり赤い。

 

「だからさぁ……」

 

グラスを持ったまま、松本が愚痴をこぼす。

 

「用賀からS大通うの、時間かかりすぎなんだよ」

 

「あいつに引っ越したいって言ってもさ、

 

 “ちょっと待ってて”だぞ?」

 

鼻で笑う。

 

「ふざけんなって感じでさぁ」

 

俺は苦笑する。

 

「渋谷勤務だから、今の場所から動きたくないんだろ」

 

「そう! そうなんだよ!」

 

松本は、勢いよく頷いた。

 

「もうさ、こっちの都合も少しは考えろっての」

 

グラスを置いて、俺は言う。

 

「……松ちゃん、だいぶ溜まってるな」

 

「え?」

 

「ちょっと水飲もうか」

 

そう言って、水のグラスを差し出す。

 

松本は一瞬だけ黙ってから、

 

でもすぐに身を乗り出してきた。

 

「それよりさ、海斗!」

 

嫌な予感がした。

 

「……何だよ」

 

「お前、竜司から、まだLINE来てんのか?」

 

「あー……」

 

正直に答える。

 

「ちょくちょくな」

 

「何送ってくんの?」

 

「学校どうだとか、新居どうだとか」

 

松本が、目を細める。

 

「……何で?」

 

俺は肩をすくめた。

 

「さあ。まあ、普通に返してるだけだよ」

 

 

松本は、少し考えるように黙り込んでから言った。

 

「……竜司、何考えてんだろうな」

 

「未練があるって感じでも、なさそうだし」

 

「……いや」

 

俺は、静かに返す。

 

「俺も、今さらだし」

 

その瞬間。

 

「本当か!?」

 

松本が、身を乗り出した。

 

「お前さ、また選択、誤んなよ」

 

「竜司のことになると、すぐ流されやすいんだからさ」

 

少しだけ、きつい口調。

 

でも、心配してるのは、はっきり分かる。

 

「何が一番大事か、ちゃんと分かってんだよな?」

 

俺は、吹き出した。

 

「分かってる分かってる」

 

「松ちゃんさ」

 

笑いながら、グラスを軽く指で押し返す。

 

「酒癖、わりぃな」

 

松本は、一瞬ムッとした顔をしてから、

 

ふっと笑った。

 

「……悪いかよ」

 

「悪い」

 

「でも、ありがとな」

 

俺は、そう言って、水を飲んだ。

 

松本をなだめながら、同時に思う。

 

 

 

――俺、前より落ち着いてるな。

 

 

 

感情に振り回されてない。

 

誰かに怒られても、

 

ちゃんと笑って受け止められる。

 

それが、今の俺だった。

 

 

 

すっかり酔っ払った松本を連れて、俺たちは店を出た。

 

夜の新宿は、相変わらず人が多くて、

 

ネオンがやけに眩しい。

 

「松ちゃん……帰れるのかよ」

 

「だいじょーぶ……たぶん」

 

危なっかしい足取りで、松本はふらついている。

 

 

そのときだった。

 

 

「恒一」

 

 

名前を呼びながら、一人の男が近づいてくる。

 

「あ、迎えにきたー」

 

松本が、安心したみたいに笑った。

 

「おい、恒一。飲み過ぎだろ」

 

男は、そう言って松本の肩を支え、

 

それから、俺のほうを見て言った。

 

「あっ……はじめまして」

 

軽く頭を下げる。

 

「前田といいます。恒一の相方です」

 

穏やかな声。

 

優しそうで、どこか少し気の弱そうな雰囲気。

 

でも、松本を支える手は、しっかりしていた。

 

 

「今日は、俺が連れて帰るので」

 

 

そう言って、もう一度、頭を下げる。

 

「すみません。

 

恒一のやつ、最近仕事でピリピリしてて……」

 

「佐々木さんに会えて、

 

嬉しくて気が緩んだんでしょうね」

 

「……そうなんですか?」

 

「はい。やっぱり、新卒で入ったばかりですから……」

 

なるほど、と俺は頷いた。

 

「じゃあ、失礼します」

 

前田はそう言って、松本をそっと促す。

 

「おい、恒一。ちゃんと歩け」

 

「はーい……」

 

二人は、肩を並べて歩き出した。

 

 

 

松本はまだ少しふらつきながら、

 

でも、前田に身を預けている。

 

その背中を見送りながら、俺は、心の中で思った。

 

 

 

……いいな。

 

 

 

特別な言葉がなくても、

 

無理に気を張らなくても、

 

当たり前みたいに隣にいてくれる誰か。

 

 

 

夜の雑踏に、二人の背中は、迷いなく溶けていった。

 

 

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