四月。
俺は、三鷹市にある都立高校で、
保健体育の教師として新しい生活を始めた。
中堅の進学校。
落ち着いた校風で、生徒たちも、どこか素直だった。
着任して間もなく、俺は野球部の顧問を任された。
部員数は少なく、成績も、正直ぱっとしない。
いわゆる、弱小野球部。
目標は、まずは都大会一回戦突破。
現実的で、でも、ちゃんと前を向いた目標だった。
俺は、意識して、少しだけ明るく振る舞うようにした。
必要以上に背負わない。
必要以上に構えない。
グラウンドでは、自然と声が出た。
「お前らー、ちゃんとやれよー!」
「よし、今のナイスピッチング!」
怒鳴るより、背中を押す。
結果を急がせるより、続けさせる。
それが、昔の自分が一番欲しかった言葉だと、気づいていたからだ。
部員たちの反応は、悪くなかった。
「先生、話しやすいっす」
「野球、ちょっと楽しくなってきました」
そんな言葉を、何度か耳にした。
三鷹駅の近くにある職員宿舎で、一人暮らしも始めた。
一人暮らしが始まって、すぐに現実が来た。
思っていたより――何もできなかった。
最初は「ちゃんと自炊しよう」と思っていた。
スーパーで一通り食材を買って、
レシピ動画を見ながら、フライパンを温める。
最初の一歩は完璧だった気がする。
……気がしただけだった。
玉ねぎは焦げ、肉は固くなり、
味付けはなぜか妙にしょっぱい。
出来上がったそれを見て、俺はしばらく黙った。
「……これ、何だ?」
誰に聞くわけでもなく、呟く。
一口食べてみる。
まずい、というより“食べ物としての方向性を見失っている”。
その瞬間、ふと高校時代の光景がよみがえった。
竜司の家に泊まったときのことだ。
慣れない手つきでハンバーグを作って、
なぜか表面が真っ黒になっていた。
「焦げてるけど……、失敗じゃない」
とか言い張ってた竜司の顔。
結局食って、普通にうまくなかったのに、
なぜかめちゃくちゃ笑った。
思い出して、少しだけ笑ってしまった。
「……あいつも料理、下手だったな」
懐かしさだけが、妙に優しかった。
それ以来、自炊はやめた。
無理なものは無理だと、早めに理解した。
外食、スーパーの弁当、冷凍食品。
それが俺の“正解”になった。
生活は一気に現実寄りになる。
朝はギリギリに起きて、シャワーだけ浴びて出勤。
夜は疲れて帰ってきて、
部屋の電気をつけるのも少し面倒になる。
洗濯物はたまる。
掃除も後回しになる。
「これ、社会人ってこういうもんか?」
一瞬だけ疑うけど、誰も答えてくれない。
気づけば部屋は少しずつ“生活している形”を失っていった。
それでも仕事は待ってくれない。
野球部の練習は続くし、
生徒は普通に俺を先生として見てくる。
グラウンドに立てば声は出る。
「いいぞ、その調子!」
「もう一回いくぞ!」
それはできるのに、
自分の部屋はどうにもできないのが不思議だった。
ある日、ふと思った。
(蒼司のやつ、一人暮らし、大丈夫か……?)
今さらだ。
蒼司の家は前よりも近くなり、気づけば行き来するのが当たり前みたいになっていた。
気を使うわけでもなく、約束をきっちり決めるわけでもない。
なんとなく「今日いける?」みたいな一言で、すぐ成立する距離。
その流れで、蒼司の家の近くにあるファミレスに寄るのも増えた。
安いし、長居できるし、何より気楽だった。
ドリンクバーの音と、少しだけざわついた店内。
その中で、俺はソファに深く座りながら言う。
「いやさ、一人暮らしって思ったより大変だわ」
蒼司はボロネーゼをフォークで巻きながら、軽く笑う。
「カイト、一人っ子だし、お母さんが全部やってくれてたもんね」
「……うーん、否定はできない」
正直すぎて、少し笑ってしまう。
「俺も適当だからさ。食事とかこだわりないし」
蒼司は、グラスを持ち上げながら続ける。
「こうやって外で食べるの、むしろ楽しいし」
「そうか」
蒼司は短く言って、また食事に戻る。
俺は少しだけ姿勢を崩した。
「あとさ、洗濯とかも面倒なら、コインランドリーでまとめてやった方が楽だよ」
「なるほどな、そうするわ」
言いながら、ふと最近の自分の部屋を思い出す。
干しっぱなしの服、畳まれていないままの洗濯物。
「最近さ、干すのも面倒なんだよな」
「ふふ」
蒼司が、珍しく声を立てて笑った。
「なんだよ」
「いや、カイトってさ」
笑いながら、こちらを見る。
「ちゃんとしてるのに、こういう生活のとこ雑なの、ちょっと面白くて」
「……そうか」
否定できなくて、笑うしかなかった。
それを見て蒼司はまた小さく笑う。
「蒼司、ドリンクバーまだ飲むだろ? 取ってくるよ」
「ありがとう」
俺は席を立つ。
ドリンクバーのボタンを押しながら、俺はふと思う。
こういう時間が、好きだった。
何かを成し遂げているわけでもない。
特別な話をしているわけでもない。
ただ、同じテーブルで飯を食って、どうでもいい話をして、笑ったり、流したりしているだけ。
それなのに、不思議と落ち着く。
(……ああ、こういうのがいいんだよな)
グラスの氷が、静かに音を立てた。
* * *
新生活も、ようやく落ち着いてきた頃。
俺は、新宿の飲食店で松本と会う約束をしていた。
「おっ、松ちゃん。お疲れ!」
俺が先に声をかけると、
松本は一瞬きょとんとしてから、笑った。
「ああ、海斗。元気そうだな」
「まあな。生徒たち、けっこう素直でさ。
毎日、意外と楽しいよ」
ビールを一口飲んでから、俺は言った。
「海斗、そりゃそうだよ」
松本が即答する。
「えっ?」
思わず聞き返すと、松本は少し呆れた顔をした。
「お前さ、自分じゃ気が付かないかもしれないけど……」
グラスを軽く揺らしながら続ける。
「若くて、明るくて、面倒見いいしさ」
一拍置いて、
「あと、イケメンだし」
「……そうなのか?」
素で返すと、松本は吹き出した。
「そこ疑うなよ」
「いや、そんな自覚ねぇし」
肩をすくめると、松本は苦笑しながら首を振る。
「そういうとこだよ」
「どういうとこだよ」
軽く笑い合ったあと、松本の表情が少しだけ曇った。
「……俺んところさ」
「ん?」
「指導してくれる先輩とちょっと合わなくてさ……」
グラスを見つめたまま、少し言葉を選ぶように続ける。
「……なんか、先行き不安だよ」
一瞬、店のざわめきが遠くなる。
俺は少しだけ考えてから言った。
「大学の事務職員だもんな」
「うん」
「でも松ちゃん頭いいから、そのうち慣れるさ」
できるだけ軽く言う。
押しつけにならないように。
松本は小さく笑った。
「だと、いいんだけどな」
その声はさっきより少しだけ静かだった。
俺はグラスを置いて、肩をすくめる。
「ま、無理すんなよ」
「お前に言われると説得力あるな、それ」
「なんだそれ」
笑いながら返すと、またいつもの空気に戻った。
でもその奥に、ほんの少しだけ残る不安みたいなものは、消えなかった。
それでも、今はそれでいい気がした。
そこから、話は途切れなかった。
仕事の愚痴。
生徒の話。
大学の裏話。
どうでもいい近況。
笑って、突っ込んで、また笑う。
気づけば、時間はあっという間に過ぎていた。
お酒もいつものペースより進んでゆき、
松本が俺の顔をまじまじと見る。
「……ていうかさ、海斗」
「ん?」
「お前、どうした?」
「何が?」
「いやさ。
もともと明るい奴だったけど……
なんか、さらに明るくなってね?」
俺は、思わず笑った。
「そうか?」
肩をすくめる。
「まあ、いいじゃん。元気なんだから」
その言い方が、自分でも少し軽いと感じた。
でも、無理をしている感じはなかった。
さらに酒が進むにつれて、
松本の声は少しずつ大きくなっていった。
頬も、ほんのり赤い。
「だからさぁ……」
グラスを持ったまま、松本が愚痴をこぼす。
「用賀からS大通うの、時間かかりすぎなんだよ」
「あいつに引っ越したいって言ってもさ、
“ちょっと待ってて”だぞ?」
鼻で笑う。
「ふざけんなって感じでさぁ」
俺は苦笑する。
「渋谷勤務だから、今の場所から動きたくないんだろ」
「そう! そうなんだよ!」
松本は、勢いよく頷いた。
「もうさ、こっちの都合も少しは考えろっての」
グラスを置いて、俺は言う。
「……松ちゃん、だいぶ溜まってるな」
「え?」
「ちょっと水飲もうか」
そう言って、水のグラスを差し出す。
松本は一瞬だけ黙ってから、
でもすぐに身を乗り出してきた。
「それよりさ、海斗!」
嫌な予感がした。
「……何だよ」
「お前、竜司から、まだLINE来てんのか?」
「あー……」
正直に答える。
「ちょくちょくな」
「何送ってくんの?」
「学校どうだとか、新居どうだとか」
松本が、目を細める。
「……何で?」
俺は肩をすくめた。
「さあ。まあ、普通に返してるだけだよ」
松本は、少し考えるように黙り込んでから言った。
「……竜司、何考えてんだろうな」
「未練があるって感じでも、なさそうだし」
「……いや」
俺は、静かに返す。
「俺も、今さらだし」
その瞬間。
「本当か!?」
松本が、身を乗り出した。
「お前さ、また選択、誤んなよ」
「竜司のことになると、すぐ流されやすいんだからさ」
少しだけ、きつい口調。
でも、心配してるのは、はっきり分かる。
「何が一番大事か、ちゃんと分かってんだよな?」
俺は、吹き出した。
「分かってる分かってる」
「松ちゃんさ」
笑いながら、グラスを軽く指で押し返す。
「酒癖、わりぃな」
松本は、一瞬ムッとした顔をしてから、
ふっと笑った。
「……悪いかよ」
「悪い」
「でも、ありがとな」
俺は、そう言って、水を飲んだ。
松本をなだめながら、同時に思う。
――俺、前より落ち着いてるな。
感情に振り回されてない。
誰かに怒られても、
ちゃんと笑って受け止められる。
それが、今の俺だった。
すっかり酔っ払った松本を連れて、俺たちは店を出た。
夜の新宿は、相変わらず人が多くて、
ネオンがやけに眩しい。
「松ちゃん……帰れるのかよ」
「だいじょーぶ……たぶん」
危なっかしい足取りで、松本はふらついている。
そのときだった。
「恒一」
名前を呼びながら、一人の男が近づいてくる。
「あ、迎えにきたー」
松本が、安心したみたいに笑った。
「おい、恒一。飲み過ぎだろ」
男は、そう言って松本の肩を支え、
それから、俺のほうを見て言った。
「あっ……はじめまして」
軽く頭を下げる。
「前田といいます。恒一の相方です」
穏やかな声。
優しそうで、どこか少し気の弱そうな雰囲気。
でも、松本を支える手は、しっかりしていた。
「今日は、俺が連れて帰るので」
そう言って、もう一度、頭を下げる。
「すみません。
恒一のやつ、最近仕事でピリピリしてて……」
「佐々木さんに会えて、
嬉しくて気が緩んだんでしょうね」
「……そうなんですか?」
「はい。やっぱり、新卒で入ったばかりですから……」
なるほど、と俺は頷いた。
「じゃあ、失礼します」
前田はそう言って、松本をそっと促す。
「おい、恒一。ちゃんと歩け」
「はーい……」
二人は、肩を並べて歩き出した。
松本はまだ少しふらつきながら、
でも、前田に身を預けている。
その背中を見送りながら、俺は、心の中で思った。
……いいな。
特別な言葉がなくても、
無理に気を張らなくても、
当たり前みたいに隣にいてくれる誰か。
夜の雑踏に、二人の背中は、迷いなく溶けていった。