蒼の向こうで君を待つ   作:ハマジロウ

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第25章 届かない想い

 

俺は、教師として二年目を迎えた。

 

そしてこの年、初めて担任を任されることになった。

 

受け持ちは、高校一年生のクラスだった。

 

 

担任業務に加え、部活動の指導。

 

俺の生活は、

 

二年目にして一気に忙しさを増していった。

 

 

一方で、蒼司は大学四年生。

 

卒業制作と教育実習が重なり、

 

人生の中でもっとも慌ただしい時期を過ごしていた。

 

 

自然と、

 

お互いに会う回数は減っていった。

 

仕事と進路に追われる日々の中で、

 

お互いに会える時間は、

 

少しずつ、確実に減っていった。

 

 

夏。

 

 

俺たちの学校は、地区大会を勝ち上がっていた。

 

正直、誰もここまで来るなんて思っていなかった。

 

創部以来、初の三回戦進出。

 

校内は、じわじわとざわつき始めていた。

 

「え、うちの野球部こんなに強かったっけ」

 

「てか顧問の佐々木先生、普通にカッコよくない?」

 

「わかる。あの人、雰囲気あるよね」

 

そんな声が、廊下のあちこちで聞こえるようになった。

 

最初は冗談みたいな扱いだったのに、

 

気づけば“ちょっとした話題の人”になっていた。

 

 

グラウンドでは、夕方の光の中で選手たちが声を張り上げている。

 

土の匂いと、汗の匂い。

 

ユニフォームはすでに泥で黒くなっていた。

 

「まだいけるぞ!声出せ!」

 

ベンチから声を飛ばすと、

 

選手たちの返事が少しだけ強くなる。

 

——ああ、ちゃんと“チーム”になってきたな。

 

そんな感覚があった。

 

最初はただの寄せ集めみたいだったのに、

 

今は、ちゃんと戦っている。

 

試合終盤。

 

一点差。

 

相手は明らかに格上だった。

 

それでも、誰も下を向いていない。

 

マウンドの上で投手がうなずく。

 

キャッチャーがサインを出す。

 

その一瞬一瞬が、やけに遅く見えた。

 

そして――

 

最後の打球が、内野フライに上がった瞬間。

 

グラウンド全体が一気に静かになって、

 

次の瞬間、爆発みたいな歓声が上がった。

 

「勝った……!」

 

「三回戦、行ったぞ!」

 

ベンチの中で、誰かが叫ぶ。

 

俺はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。

 

ただ、息が切れていた。

 

嬉しいのか、現実感がないのか、自分でもわからない。

 

 

試合後、校舎に戻ると、妙に静かだった。

 

でも廊下の奥から、

 

まだ興奮冷めやらない声が漏れてくる。

 

「佐々木先生やばいって」

 

「普通にあの人、人気出るわ」

 

「野球部入ればよかったかも」

 

俺はその言葉を聞きながら、

 

少しだけ苦笑いした。

 

——そんな大したもんじゃないけどな。

 

でも、悪い気はしなかった。

 

ただ一つだけ、

 

頭のどこかでぼんやり思う。

 

(蒼司に、今のこの話したらなんて言うかな……)

 

きっと笑うだろうな。

 

「へえ、先生っぽいじゃん」って。

 

そんな想像だけが、少しだけ胸を軽くした。

 

* * *

 

10月。

 

 

俺は車の免許を取得し、

 

初めての遠出に蒼司を誘った。

 

行き先は、千葉県の勝浦だった。

 

見晴らしのいい展望台に車を停める。

 

階段を上がると、視界いっぱいに海が広がった。

 

「……わあ。すごいきれい」

 

「だろ。初ドライブで失敗したらどうしようかと思ったけど」

 

蒼司は笑って、手すりに近づく。

 

潮の匂いを胸いっぱいに吸い込んでいた。

 

「運転、上手だったよ。全然怖くなかった」

 

「それはよかった。正直、ハンドル握りながらずっと緊張してた」

 

「ふふ。顔、ちょっと固かった」

 

「言うなよ」

 

二人で並んで、黙って海を眺める。

 

波の音だけが、ゆっくりと耳に届く。

 

「……最近、忙しそうだね」

 

「……まあな。担任になったし、部活もあるし」

 

「そっか」

 

短い返事。

 

それ以上、踏み込まないところが、蒼司らしかった。

 

 

「でもさ、こういう時間は、ちゃんと作りたいと思ってる」

 

蒼司は、少し驚いたようにこちらを見る。

 

「……うん。ありがとう」

 

それだけ言って、また海に視線を戻す。

 

その横顔が、やけに大人びて見えた。

 

俺は、この景色を忘れないでいようと思った。

 

忙しさの中でも、

 

確かに、ここに二人で立っているという事実だけは。

 

 

車は、そのまま南へ走った。

 

次に向かったのは、鴨川シーワールドだった。

 

 

スタジアムに入ると、

 

潮の匂いとざわめきが混じった空気が広がっていた。

 

前の席に座ると、巨大なプールが目の前にある。

 

「……うわぁ」

 

「そんな声、久しぶりに聞いたな」

 

「シャチ、初めて見た……。

 

 でか……ほんとにでかい……」

 

水面から姿を現したシャチが、ゆっくりと尾を振る。

 

会場がどよめいた。

 

「ねえ。イルカとシャチって、何が違うんだろう」

 

「え?」

 

突然の問いに、少し考える。

 

「うーん……何って言われても……

 

口じゃ、うまく説明できねえな」

 

「はは。だよね」

 

 

ちょうどその時、

 

シャチが大きく跳ね上がり、

 

水しぶきが観客席まで届いた。

 

 

「うわっ!」

 

「はは、濡れた?」

 

「ちょっと。でも、すごいね……迫力が」

 

「イルカは軽やかで、

 

 シャチは……なんていうか、

 

 力でねじ伏せる感じだな」

 

「なるほど。同じ海の生き物なのに、全然違うね」

 

「人も、そんなもんじゃねえの」

 

 

蒼司は一瞬だけ、俺を見る。

 

そして、くすっと笑った。

 

 

「……確かに」

 

 

二人で顔を見合わせて、笑う。

 

理由なんて、特になかった。

 

ただ、忙しさも、将来のことも、

 

今だけは、少し遠くに置いておけた。

 

 

シャチがもう一度、大きく跳ねた。

 

水面に広がる波紋を、

 

俺たちは並んで眺めていた

 

 

* * *

 

 

夕暮れ時。

 

オレンジ色に染まる空を背に、

 

車はゆっくりと走っていた。

 

さっきまでの喧騒が嘘みたいに、

 

車内には心地いい静けさが流れている。

 

ラジオもつけず、ただエンジン音だけが続く。

 

「……今日、楽しかった」

 

「……ああ」

 

それだけで、十分だった。

 

「もう、遅くなっちゃったね」

 

フロントガラスの向こうで、

 

空の色が少しずつ夜に近づいていく。

 

俺はハンドルを握りながら、

 

ほんの少しだけ照れくささを隠して、口を開いた。

 

「……あのさ、蒼司」

 

「ん?」

 

「……明日、休みだろ?」

 

 

一瞬の間。

 

 

蒼司が、何かを察したようにこちらを見る。

 

「……実は俺、ホテル取ってんだわ」

 

「え?」

 

 

少し驚いた声。

 

でも、嫌そうな色はなかった。

 

 

「もし、よかったら……」

 

 

言い終わる前に、蒼司は小さく笑った。

 

「いいよ」

 

短い返事だったけど、その一言で胸の奥が、ふっと軽くなる。

 

 

「……ありがとな」

 

「こっちこそ」

 

 

車は、再びアクセルを踏む。

 

前方に伸びる道を、静かに、確かに進んでいく。

 

蒼司が、前を向いたまま、ぽつりと言う。

 

 

「……俺、今日楽しかった」

 

「うん」

 

「ちょっとさ、卒業制作、行き詰まってたんだよね。

 

でも今日で……なんか、描けそうな気がする」

 

「そっか」

 

 

少し間を置いてから、俺は思ったことを口にした。

 

 

「あのさ。いつも絵に出てくる動物、いるだろ」

 

「……うん」

 

「あれ、今日見たシャチかなって、思って」

 

 

蒼司は少しだけ困ったように笑った。

 

言葉を選ぶみたいに、視線を落とす。

 

 

「うーん……それはね。違うんだよね」

 

 

言いにくそうな空気が、伝わってくる。

 

 

「……そっか」

 

 

それ以上、踏み込むのはやめた。

 

今は、無理に答えを聞く必要はない気がした。

 

蒼司が何を描いているのか。

 

その理由も、意味も。

 

いつか、話してくれる日が来るなら、

 

そのときでいい。

 

俺はただ、ハンドルを握りながら、前を見ていた。

 

 

* * *

 

 

ホテルのレストランで食事を終え、部屋に戻ってきた。

 

 

「……すごく美味しかった」

 

「だろ?」

 

「なんかさ、食べたことのない料理ばっかりだった」

 

「俺もさ。

 

こういうところ予約したの初めてだったんだけど……よかったわ」

 

 

それから、会話がふっと途切れる。

 

でも、不思議と気まずさはなかった。

 

窓の外には、もう夜の海。

 

波の音が、かすかに聞こえてくる。

 

俺は一瞬、蒼司の就職のことを聞こうかと思った。

 

でも――

 

せっかくの旅行で、

 

こんな場所に来てまで、

 

現実的な話をするのは、やめておこうと思った。

 

 

「……風呂、行こうぜ」

 

「うん、わかった。ちょっと用意するね」

 

 

蒼司はそう言って、荷物のほうへ向かう。

 

俺はその背中を見ながら、

 

この静かな時間を、

 

もう少しだけ、続けていたいと思った。

 

 

風呂を終えて、部屋に戻る。

 

俺は、蒼司より少し遅れて部屋に入った。

 

 

ドアを開けると、

 

ベッドの上から、規則正しい寝息が聞こえてくる。

 

 

蒼司は、ベッドの上にそのまま寝転がって、

 

布団もかけずに、すでに眠っていた。

 

 

「……すー……すー……」

 

 

そういえば、卒業制作で、先日徹夜したって言ってたな。

 

きっと、疲れが溜まってるんだろう。

 

俺は、そっと近づいて、蒼司の寝顔をじっと見る。

 

 

……きれいな寝顔だな。

 

 

今日一日を、静かに思い返す。

 

海を見て、シャチを見て、笑って。

 

 

――楽しかったな。

 

 

やっぱり俺、蒼司と一緒にいると、落ち着く。

 

それに気づいて、胸の奥が、少しだけ温かくなる。

 

 

……俺は、やっぱり蒼司のことが好きだ。

 

 

「おやすみ、蒼司」

 

 

小さくそう呟いて、俺もベッドに横になった。

 

波の音が、遠くで続いている。

 

その音に包まれながら、

 

俺は、ゆっくりと目を閉じた。

 

 

* * *

 

 

翌朝。

 

ホテルをチェックアウトして、車は館山方面へ向かった。

 

 

海沿いの道を走り、立ち寄りながら観光をして、

 

そのまま房総半島をぐるっと一周するようなルートを選んだ。

 

 

窓の外には、昨日とはまた違う色の海が広がっている。

 

車内では、不思議なくらい会話が途切れなかった。

 

他愛のない話。

 

子どもの頃のこと。

 

大学の話。

 

最近観た映画や、好きな音楽。

 

 

蒼司が笑って、俺もつられて笑う。

 

 

ハンドルを握りながら、何度も横顔を盗み見た。

 

俺は運転をしながら、

 

胸の奥で、ずっと同じことを考えていた。

 

 

――帰るまでに、

 

――ちゃんと、蒼司に。

 

 

自分の気持ちを、伝えなきゃ。

 

そのまま車は、東京湾アクアラインへと進む。

 

 

途中、海ほたるで車を停めた。

 

潮風に当たりながら、コーヒーを片手に、海を眺める。

 

ここまで来たんだな、と実感が湧く。

 

 

海ほたる。

 

二人で、並んで海を眺めていた。

 

 

西の空は、ゆっくりと朱色に染まり、

 

水面がきらきらと光っている。

 

蒼司の横顔が、夕日に照らされる。

 

 

――きれいだ。

 

 

思わず、そう思った。

 

俺は、胸の奥で何度も繰り返していた言葉を、

 

ようやく口にした。

 

 

「……あのさ、蒼司」

 

 

蒼司は、ゆっくりこちらを見る。

 

 

「……俺、蒼司のことが好きだ」

 

 

一瞬、風の音だけが流れる。

 

 

「……ごめん。言うの、かなり遅くなった」

 

 

言葉を選びながら、続ける。

 

 

「でもさ……

 

俺、蒼司のおかげで、ここまで立ち直れた」

 

「これからも、ずっと一緒にいてほしい」

 

少し息を吸って、はっきり言った。

 

 

「……俺と、付き合ってほしい」

 

 

蒼司は、何も言わない。

 

ただ、夕焼けの海を見たまま、黙っている。

 

心臓の音が、やけに大きく聞こえた。

 

 

俺は耐えきれず、

 

照れ隠しみたいに、ぽつりと付け足す。

 

 

「正直、俺の中では、もうとっくに付き合ってるつもりだったんだけど」

 

 

沈黙のあと。

 

蒼司が、小さく息を吐いた。

 

 

日は、ゆっくりと沈んでいく。

 

海ほたるの向こうで、空が深い色に変わっていった。

 

 

蒼司が、静かに口を開く。

 

 

「……カイト。ありがとう」

 

 

その声は、やさしくて、でも少し遠かった。

 

沈黙が、少しだけ続いたあと。

 

蒼司が、視線を落としたまま言った。

 

「……でも、……ごめん」

 

「……え?」

 

嫌な予感が、胸をよぎる。

 

「俺……付き合えない」

 

「な、なんで?」

 

言葉の意味が、すぐに理解できなかった。

 

「俺……遠く、行くから」

 

「……え?」

 

「遠く?」

 

蒼司は、小さく頷いた。

 

 

「うん。就職なんだけど……」

 

「……四国に、行くんだ」

 

「……四国?」

 

「……うん。今の大学の教授の紹介でさ……」

 

「……高松の私立高校。美術教師」

 

 

一つひとつ、淡々と告げられる言葉が、

 

胸に落ちてくる。

 

 

「教授の紹介だから……

 

 たぶん、受かりそうなんだ」

 

「……そ、そんな」

 

「なんで……四国なんかに」

 

 

声が、震えた。

 

蒼司は、少し困ったように笑う。

 

 

「……俺、こんな性格だからさ……普通に採用試験受けても、受からないと思うし……」

 

「……それに、公立は美術教員、倍率すごいだろ……普通に試験受けても、たぶん無理だし……」

 

「……そんな……」

 

 

それ以上、言葉が続かなかった。

 

頭の中が、一気に白くなる。

 

夕焼けの色も、潮の匂いも、全部、遠くなっていく。

 

 

――意味が、わからない。

 

 

俺は、その場に立ったまま、何も考えられずにいた。

 

蒼司は、しばらく黙ったまま、

 

沈みきった海を見つめていた。

 

 

そして、ゆっくりと振り返る。

 

 

「……帰ろう」

 

 

それだけだった。

 

 

俺は、それ以上何も言えず、黙って頷いた。

 

車に戻り、エンジンをかける。

 

夜の道を、二人で走る。

 

さっきまであんなに話していたのに、

 

今は、言葉が見つからない。

 

 

俺は、蒼司を家まで送った。

 

「今日は……ありがとう」

 

蒼司は、そう言って車を降りる。

 

 

「……ああ」

 

 

それだけしか、返せなかった。

 

 

気がついたら、俺は自分の部屋にいた。

 

靴を脱ぎ、見慣れた空間に立っている。

 

頭が、まだ追いついていない。

 

「……蒼司」

 

声が、少し震える。

 

 

「どうして……」

 

 

問いの続きを、

 

まだ言葉にできないまま、

 

俺は立ち尽くしていた。

 

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