俺は、教師として二年目を迎えた。
そしてこの年、初めて担任を任されることになった。
受け持ちは、高校一年生のクラスだった。
担任業務に加え、部活動の指導。
俺の生活は、
二年目にして一気に忙しさを増していった。
一方で、蒼司は大学四年生。
卒業制作と教育実習が重なり、
人生の中でもっとも慌ただしい時期を過ごしていた。
自然と、
お互いに会う回数は減っていった。
仕事と進路に追われる日々の中で、
お互いに会える時間は、
少しずつ、確実に減っていった。
夏。
俺たちの学校は、地区大会を勝ち上がっていた。
正直、誰もここまで来るなんて思っていなかった。
創部以来、初の三回戦進出。
校内は、じわじわとざわつき始めていた。
「え、うちの野球部こんなに強かったっけ」
「てか顧問の佐々木先生、普通にカッコよくない?」
「わかる。あの人、雰囲気あるよね」
そんな声が、廊下のあちこちで聞こえるようになった。
最初は冗談みたいな扱いだったのに、
気づけば“ちょっとした話題の人”になっていた。
グラウンドでは、夕方の光の中で選手たちが声を張り上げている。
土の匂いと、汗の匂い。
ユニフォームはすでに泥で黒くなっていた。
「まだいけるぞ!声出せ!」
ベンチから声を飛ばすと、
選手たちの返事が少しだけ強くなる。
——ああ、ちゃんと“チーム”になってきたな。
そんな感覚があった。
最初はただの寄せ集めみたいだったのに、
今は、ちゃんと戦っている。
試合終盤。
一点差。
相手は明らかに格上だった。
それでも、誰も下を向いていない。
マウンドの上で投手がうなずく。
キャッチャーがサインを出す。
その一瞬一瞬が、やけに遅く見えた。
そして――
最後の打球が、内野フライに上がった瞬間。
グラウンド全体が一気に静かになって、
次の瞬間、爆発みたいな歓声が上がった。
「勝った……!」
「三回戦、行ったぞ!」
ベンチの中で、誰かが叫ぶ。
俺はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。
ただ、息が切れていた。
嬉しいのか、現実感がないのか、自分でもわからない。
試合後、校舎に戻ると、妙に静かだった。
でも廊下の奥から、
まだ興奮冷めやらない声が漏れてくる。
「佐々木先生やばいって」
「普通にあの人、人気出るわ」
「野球部入ればよかったかも」
俺はその言葉を聞きながら、
少しだけ苦笑いした。
——そんな大したもんじゃないけどな。
でも、悪い気はしなかった。
ただ一つだけ、
頭のどこかでぼんやり思う。
(蒼司に、今のこの話したらなんて言うかな……)
きっと笑うだろうな。
「へえ、先生っぽいじゃん」って。
そんな想像だけが、少しだけ胸を軽くした。
* * *
10月。
俺は車の免許を取得し、
初めての遠出に蒼司を誘った。
行き先は、千葉県の勝浦だった。
見晴らしのいい展望台に車を停める。
階段を上がると、視界いっぱいに海が広がった。
「……わあ。すごいきれい」
「だろ。初ドライブで失敗したらどうしようかと思ったけど」
蒼司は笑って、手すりに近づく。
潮の匂いを胸いっぱいに吸い込んでいた。
「運転、上手だったよ。全然怖くなかった」
「それはよかった。正直、ハンドル握りながらずっと緊張してた」
「ふふ。顔、ちょっと固かった」
「言うなよ」
二人で並んで、黙って海を眺める。
波の音だけが、ゆっくりと耳に届く。
「……最近、忙しそうだね」
「……まあな。担任になったし、部活もあるし」
「そっか」
短い返事。
それ以上、踏み込まないところが、蒼司らしかった。
「でもさ、こういう時間は、ちゃんと作りたいと思ってる」
蒼司は、少し驚いたようにこちらを見る。
「……うん。ありがとう」
それだけ言って、また海に視線を戻す。
その横顔が、やけに大人びて見えた。
俺は、この景色を忘れないでいようと思った。
忙しさの中でも、
確かに、ここに二人で立っているという事実だけは。
車は、そのまま南へ走った。
次に向かったのは、鴨川シーワールドだった。
スタジアムに入ると、
潮の匂いとざわめきが混じった空気が広がっていた。
前の席に座ると、巨大なプールが目の前にある。
「……うわぁ」
「そんな声、久しぶりに聞いたな」
「シャチ、初めて見た……。
でか……ほんとにでかい……」
水面から姿を現したシャチが、ゆっくりと尾を振る。
会場がどよめいた。
「ねえ。イルカとシャチって、何が違うんだろう」
「え?」
突然の問いに、少し考える。
「うーん……何って言われても……
口じゃ、うまく説明できねえな」
「はは。だよね」
ちょうどその時、
シャチが大きく跳ね上がり、
水しぶきが観客席まで届いた。
「うわっ!」
「はは、濡れた?」
「ちょっと。でも、すごいね……迫力が」
「イルカは軽やかで、
シャチは……なんていうか、
力でねじ伏せる感じだな」
「なるほど。同じ海の生き物なのに、全然違うね」
「人も、そんなもんじゃねえの」
蒼司は一瞬だけ、俺を見る。
そして、くすっと笑った。
「……確かに」
二人で顔を見合わせて、笑う。
理由なんて、特になかった。
ただ、忙しさも、将来のことも、
今だけは、少し遠くに置いておけた。
シャチがもう一度、大きく跳ねた。
水面に広がる波紋を、
俺たちは並んで眺めていた
* * *
夕暮れ時。
オレンジ色に染まる空を背に、
車はゆっくりと走っていた。
さっきまでの喧騒が嘘みたいに、
車内には心地いい静けさが流れている。
ラジオもつけず、ただエンジン音だけが続く。
「……今日、楽しかった」
「……ああ」
それだけで、十分だった。
「もう、遅くなっちゃったね」
フロントガラスの向こうで、
空の色が少しずつ夜に近づいていく。
俺はハンドルを握りながら、
ほんの少しだけ照れくささを隠して、口を開いた。
「……あのさ、蒼司」
「ん?」
「……明日、休みだろ?」
一瞬の間。
蒼司が、何かを察したようにこちらを見る。
「……実は俺、ホテル取ってんだわ」
「え?」
少し驚いた声。
でも、嫌そうな色はなかった。
「もし、よかったら……」
言い終わる前に、蒼司は小さく笑った。
「いいよ」
短い返事だったけど、その一言で胸の奥が、ふっと軽くなる。
「……ありがとな」
「こっちこそ」
車は、再びアクセルを踏む。
前方に伸びる道を、静かに、確かに進んでいく。
蒼司が、前を向いたまま、ぽつりと言う。
「……俺、今日楽しかった」
「うん」
「ちょっとさ、卒業制作、行き詰まってたんだよね。
でも今日で……なんか、描けそうな気がする」
「そっか」
少し間を置いてから、俺は思ったことを口にした。
「あのさ。いつも絵に出てくる動物、いるだろ」
「……うん」
「あれ、今日見たシャチかなって、思って」
蒼司は少しだけ困ったように笑った。
言葉を選ぶみたいに、視線を落とす。
「うーん……それはね。違うんだよね」
言いにくそうな空気が、伝わってくる。
「……そっか」
それ以上、踏み込むのはやめた。
今は、無理に答えを聞く必要はない気がした。
蒼司が何を描いているのか。
その理由も、意味も。
いつか、話してくれる日が来るなら、
そのときでいい。
俺はただ、ハンドルを握りながら、前を見ていた。
* * *
ホテルのレストランで食事を終え、部屋に戻ってきた。
「……すごく美味しかった」
「だろ?」
「なんかさ、食べたことのない料理ばっかりだった」
「俺もさ。
こういうところ予約したの初めてだったんだけど……よかったわ」
それから、会話がふっと途切れる。
でも、不思議と気まずさはなかった。
窓の外には、もう夜の海。
波の音が、かすかに聞こえてくる。
俺は一瞬、蒼司の就職のことを聞こうかと思った。
でも――
せっかくの旅行で、
こんな場所に来てまで、
現実的な話をするのは、やめておこうと思った。
「……風呂、行こうぜ」
「うん、わかった。ちょっと用意するね」
蒼司はそう言って、荷物のほうへ向かう。
俺はその背中を見ながら、
この静かな時間を、
もう少しだけ、続けていたいと思った。
風呂を終えて、部屋に戻る。
俺は、蒼司より少し遅れて部屋に入った。
ドアを開けると、
ベッドの上から、規則正しい寝息が聞こえてくる。
蒼司は、ベッドの上にそのまま寝転がって、
布団もかけずに、すでに眠っていた。
「……すー……すー……」
そういえば、卒業制作で、先日徹夜したって言ってたな。
きっと、疲れが溜まってるんだろう。
俺は、そっと近づいて、蒼司の寝顔をじっと見る。
……きれいな寝顔だな。
今日一日を、静かに思い返す。
海を見て、シャチを見て、笑って。
――楽しかったな。
やっぱり俺、蒼司と一緒にいると、落ち着く。
それに気づいて、胸の奥が、少しだけ温かくなる。
……俺は、やっぱり蒼司のことが好きだ。
「おやすみ、蒼司」
小さくそう呟いて、俺もベッドに横になった。
波の音が、遠くで続いている。
その音に包まれながら、
俺は、ゆっくりと目を閉じた。
* * *
翌朝。
ホテルをチェックアウトして、車は館山方面へ向かった。
海沿いの道を走り、立ち寄りながら観光をして、
そのまま房総半島をぐるっと一周するようなルートを選んだ。
窓の外には、昨日とはまた違う色の海が広がっている。
車内では、不思議なくらい会話が途切れなかった。
他愛のない話。
子どもの頃のこと。
大学の話。
最近観た映画や、好きな音楽。
蒼司が笑って、俺もつられて笑う。
ハンドルを握りながら、何度も横顔を盗み見た。
俺は運転をしながら、
胸の奥で、ずっと同じことを考えていた。
――帰るまでに、
――ちゃんと、蒼司に。
自分の気持ちを、伝えなきゃ。
そのまま車は、東京湾アクアラインへと進む。
途中、海ほたるで車を停めた。
潮風に当たりながら、コーヒーを片手に、海を眺める。
ここまで来たんだな、と実感が湧く。
海ほたる。
二人で、並んで海を眺めていた。
西の空は、ゆっくりと朱色に染まり、
水面がきらきらと光っている。
蒼司の横顔が、夕日に照らされる。
――きれいだ。
思わず、そう思った。
俺は、胸の奥で何度も繰り返していた言葉を、
ようやく口にした。
「……あのさ、蒼司」
蒼司は、ゆっくりこちらを見る。
「……俺、蒼司のことが好きだ」
一瞬、風の音だけが流れる。
「……ごめん。言うの、かなり遅くなった」
言葉を選びながら、続ける。
「でもさ……
俺、蒼司のおかげで、ここまで立ち直れた」
「これからも、ずっと一緒にいてほしい」
少し息を吸って、はっきり言った。
「……俺と、付き合ってほしい」
蒼司は、何も言わない。
ただ、夕焼けの海を見たまま、黙っている。
心臓の音が、やけに大きく聞こえた。
俺は耐えきれず、
照れ隠しみたいに、ぽつりと付け足す。
「正直、俺の中では、もうとっくに付き合ってるつもりだったんだけど」
沈黙のあと。
蒼司が、小さく息を吐いた。
日は、ゆっくりと沈んでいく。
海ほたるの向こうで、空が深い色に変わっていった。
蒼司が、静かに口を開く。
「……カイト。ありがとう」
その声は、やさしくて、でも少し遠かった。
沈黙が、少しだけ続いたあと。
蒼司が、視線を落としたまま言った。
「……でも、……ごめん」
「……え?」
嫌な予感が、胸をよぎる。
「俺……付き合えない」
「な、なんで?」
言葉の意味が、すぐに理解できなかった。
「俺……遠く、行くから」
「……え?」
「遠く?」
蒼司は、小さく頷いた。
「うん。就職なんだけど……」
「……四国に、行くんだ」
「……四国?」
「……うん。今の大学の教授の紹介でさ……」
「……高松の私立高校。美術教師」
一つひとつ、淡々と告げられる言葉が、
胸に落ちてくる。
「教授の紹介だから……
たぶん、受かりそうなんだ」
「……そ、そんな」
「なんで……四国なんかに」
声が、震えた。
蒼司は、少し困ったように笑う。
「……俺、こんな性格だからさ……普通に採用試験受けても、受からないと思うし……」
「……それに、公立は美術教員、倍率すごいだろ……普通に試験受けても、たぶん無理だし……」
「……そんな……」
それ以上、言葉が続かなかった。
頭の中が、一気に白くなる。
夕焼けの色も、潮の匂いも、全部、遠くなっていく。
――意味が、わからない。
俺は、その場に立ったまま、何も考えられずにいた。
蒼司は、しばらく黙ったまま、
沈みきった海を見つめていた。
そして、ゆっくりと振り返る。
「……帰ろう」
それだけだった。
俺は、それ以上何も言えず、黙って頷いた。
車に戻り、エンジンをかける。
夜の道を、二人で走る。
さっきまであんなに話していたのに、
今は、言葉が見つからない。
俺は、蒼司を家まで送った。
「今日は……ありがとう」
蒼司は、そう言って車を降りる。
「……ああ」
それだけしか、返せなかった。
気がついたら、俺は自分の部屋にいた。
靴を脱ぎ、見慣れた空間に立っている。
頭が、まだ追いついていない。
「……蒼司」
声が、少し震える。
「どうして……」
問いの続きを、
まだ言葉にできないまま、
俺は立ち尽くしていた。