週が明けた。
蒼司の「四国に行く」って言葉が、
頭から離れなかった。
仕事に、どうにも身が入らない。
保健の授業中。
黒板の前で説明していると、生徒たちがひそひそと囁く。
「……佐々木先生、今日ちょっとおかしくない?」
「なんか上の空じゃね?」
聞こえないふりをして、授業を続ける。
放課後。
部活でも同じだった。
「先生、今日どうしたんすか?」
「なんか変っすよ」
……自覚は、あった。
平静をよそおっても、隠しきれなかった。
さらに、数日が経った。
俺と蒼司は、連絡を取っていない。
……いや、
正確には、俺自身が連絡できなかった。
もし、蒼司が四国に行けば、
俺たちは、離れ離れになってしまう。
――いや、遠距離……。
……ダメだ。
その言葉を思い浮かべた瞬間、
竜司のことを思い出してしまった。
福岡に行ってしまった竜司。
自然と広がっていった距離。
少しずつ、噛み合わなくなっていった心。
あんな終わり方は、もう二度としたくない。
……じゃあ、どうする。
そうだ。
俺が、四国に行けばいい。
ふと、そんな考えが浮かんだ。
俺は、もう子どもじゃない。
高校の頃みたいに、選択肢がほとんどなかったわけじゃない。
今は――
住む場所も、仕事も、自分の意思で選ぶことができる。
そうだ。
俺も、四国に行けば。
そうすれば、蒼司と、離れずに済む。
胸の奥で、何かが、静かに動き始めていた。
俺は、スマホで地図を開いた。
――高松、って言ってたな。
どこだ?
検索欄に打ち込む。
高松。
……香川県か。
そんなことを考えていた、その時だった。
スマホの画面が、突然切り替わる。
――着信。
誰だ?
画面を見る。
……あれ?
表示されていたのは、春日部実業高校時代、
高校の野球部で世話になった、あの監督の名前だった。
「……はい」
『おお。佐々木か。急にすまんな』
「いえ、大丈夫です」
『元気にしとるか』
「……はい」
『そういえば、佐々木はいま保健体育教師やってるって言ってたな』
監督とは、先日の竜司の結婚披露宴で再会して、近況を話していた。
「……はい。今は、都立高校で保健体育の教師をしています。三鷹の方です」
『ああ、三鷹か。野球部は……見とるのか?』
「はい。一応……ただ、弱小で、全然なんですけど」
『はは。お前みたいな能力を持っとるやつが、
そんなところでくすぶっとるのは、もったいないな』
「いえ……それなりに、やりがいはありますから」
『そうか……』
一拍置いて、監督は続けた。
『……なあ。埼玉県に、私立の蒼陵高校ってあるの、知っとるか?』
「ああ……名前は聞いたことあります」
「最近、野球にすごく力を入れていて……今や、強豪校の一角ですよね」
『そうだ。実は俺、そこの理事長と知り合いでな、今、野球部のコーチをしてくれる人を探しとるらしい』
胸が、少しだけ跳ねる。
『それでな……ふと、お前の顔が浮かんで』
『どうだ。一度、話だけでも聞いてみる気はないか』
「……え?」
一瞬、言葉に詰まる。
せっかく、監督が声をかけてくれた。
むやみに断るわけにもいかない。
話を聞くだけなら――。
「……わかりました。お話、ぜひお願いします」
『おお、よかった』
『じゃあ、また改めて連絡する』
「はい。よろしくお願いします」
通話が切れる。
俺は、スマホを握ったまま、しばらく動けなかった。
高松。そして、埼玉。
胸の中で、いくつもの道が、静かに交差していた。
* * *
後日。
新宿の喫茶店。
わざわざ新宿まで、蒼陵高校の理事長と、監督が足を運んでくれた。
静かな店内。
席につくと、理事長が丁寧に名刺を差し出す。
「はじめまして。九条と申します。このたびは、お時間をいただき、ありがとうございます」
物腰は柔らかく、
声も穏やかで、どこか品がある人だった。
「春日部実業――
二年連続、甲子園出場。しかも、準優勝……」
「まさに、黄金時代でしたね」
「そんな……あれは、青柳選手の力です」
思わず、そう答える。
すると、九条は首を横に振った。
「いえ。私は、そうは思っていません」
「確かに、青柳選手は素晴らしかった。ですが――」
一拍置いて、こちらを見る。
「その陰に隠れがちだったあなたの存在。エースとして投げ抜いた功績は、決して小さくない」
「私は何試合も、あなたの試合映像を見ました。投球だけではありません。
仲間への声掛けや、ベンチでの振る舞いまで含めてです。
あなたみたいな人が、選手を育てるべきだと確信しました。」
胸の奥が、少し熱くなる。
――そんなふうに、
――見てくれている人が、いたのか。
「ぜひ、わが蒼陵高校に来ていただきたい」
九条はそう言って、
一冊のパンフレットをテーブルに置いた。
ページをめくる。
広々としたグラウンド。
充実した屋内練習場。
最新のトレーニングマシン。
整った野球部寮。
「……すごいですね」
思わず、声が漏れる。
もし――
もし、ここで野球を教えることができたら。
頭の中に、ノックの音、投球音、
土の匂いが、よみがえる。
「こちらが、佐々木先生に提示する条件です」
差し出された書類に目を通し、俺は思わず目を見開いた。
「……こんなに、いただけるんですか」
「しかも……教員宿舎の家賃、光熱費も……負担なし……」
言葉が、うまく続かない。
「俺には……もったいない話です」
九条は、静かに頷いた。
「それだけ、こちらも本気だということです」
「佐々木先生に、野球部を任せたい」
「……ありがとうございます」
深く、頭を下げる。
「ただ……少し、考える時間をください」
「もちろんです」
「いいお返事を、期待しています」
そう言って、九条は穏やかに微笑んだ。
喫茶店を出て、新宿の雑踏の中を歩く。
不思議と、胸の奥がざわついていた。
教師としての日々。
保健体育の授業。
弱小野球部。
そして――
再び、野球に全力で向き合える場所。
――俺、
――まだ、こんなに野球が好きだったのか。
野球への情熱は、確かに戻ってきていた。
だけど――
心の中には、まだ一人の姿があった。
蒼司。
野球を選ぶのか。
蒼司を選ぶのか。
その答えは、まだ、出せそうになかった。
忘れたつもりでいた情熱が、静かに、確かに、再び火を灯し始めていた。