蒼の向こうで君を待つ   作:ハマジロウ

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第26章 選択のとき

 

週が明けた。

 

 

蒼司の「四国に行く」って言葉が、

 

頭から離れなかった。

 

 

仕事に、どうにも身が入らない。

 

 

保健の授業中。

 

黒板の前で説明していると、生徒たちがひそひそと囁く。

 

「……佐々木先生、今日ちょっとおかしくない?」

 

「なんか上の空じゃね?」

 

聞こえないふりをして、授業を続ける。

 

 

放課後。

 

部活でも同じだった。

 

「先生、今日どうしたんすか?」

 

「なんか変っすよ」

 

……自覚は、あった。

 

平静をよそおっても、隠しきれなかった。

 

 

 

さらに、数日が経った。

 

俺と蒼司は、連絡を取っていない。

 

 

……いや、

 

正確には、俺自身が連絡できなかった。

 

もし、蒼司が四国に行けば、

 

俺たちは、離れ離れになってしまう。

 

 

――いや、遠距離……。

 

 

……ダメだ。

 

 

その言葉を思い浮かべた瞬間、

 

竜司のことを思い出してしまった。

 

 

福岡に行ってしまった竜司。

 

自然と広がっていった距離。

 

少しずつ、噛み合わなくなっていった心。

 

あんな終わり方は、もう二度としたくない。

 

 

……じゃあ、どうする。

 

 

そうだ。

 

俺が、四国に行けばいい。

 

ふと、そんな考えが浮かんだ。

 

 

俺は、もう子どもじゃない。

 

高校の頃みたいに、選択肢がほとんどなかったわけじゃない。

 

 

今は――

 

住む場所も、仕事も、自分の意思で選ぶことができる。

 

 

そうだ。

 

俺も、四国に行けば。

 

 

そうすれば、蒼司と、離れずに済む。

 

胸の奥で、何かが、静かに動き始めていた。

 

俺は、スマホで地図を開いた。

 

――高松、って言ってたな。

 

どこだ?

 

検索欄に打ち込む。

 

 

高松。

 

……香川県か。

 

そんなことを考えていた、その時だった。

 

スマホの画面が、突然切り替わる。

 

 

――着信。

 

 

誰だ?

 

画面を見る。

 

 

……あれ?

 

 

表示されていたのは、春日部実業高校時代、

 

高校の野球部で世話になった、あの監督の名前だった。

 

 

「……はい」

 

『おお。佐々木か。急にすまんな』

 

「いえ、大丈夫です」

 

『元気にしとるか』

 

「……はい」

 

『そういえば、佐々木はいま保健体育教師やってるって言ってたな』

 

 

監督とは、先日の竜司の結婚披露宴で再会して、近況を話していた。

 

 

「……はい。今は、都立高校で保健体育の教師をしています。三鷹の方です」

 

『ああ、三鷹か。野球部は……見とるのか?』

 

「はい。一応……ただ、弱小で、全然なんですけど」

 

『はは。お前みたいな能力を持っとるやつが、

 

そんなところでくすぶっとるのは、もったいないな』

 

「いえ……それなりに、やりがいはありますから」

 

『そうか……』

 

 

一拍置いて、監督は続けた。

 

 

『……なあ。埼玉県に、私立の蒼陵高校ってあるの、知っとるか?』

 

「ああ……名前は聞いたことあります」

 

「最近、野球にすごく力を入れていて……今や、強豪校の一角ですよね」

 

『そうだ。実は俺、そこの理事長と知り合いでな、今、野球部のコーチをしてくれる人を探しとるらしい』

 

 

胸が、少しだけ跳ねる。

 

『それでな……ふと、お前の顔が浮かんで』

 

『どうだ。一度、話だけでも聞いてみる気はないか』

 

「……え?」

 

 

一瞬、言葉に詰まる。

 

 

せっかく、監督が声をかけてくれた。

 

むやみに断るわけにもいかない。

 

 

話を聞くだけなら――。

 

 

「……わかりました。お話、ぜひお願いします」

 

『おお、よかった』

 

『じゃあ、また改めて連絡する』

 

「はい。よろしくお願いします」

 

通話が切れる。

 

俺は、スマホを握ったまま、しばらく動けなかった。

 

 

高松。そして、埼玉。

 

 

胸の中で、いくつもの道が、静かに交差していた。

 

 

* * *

 

後日。

 

新宿の喫茶店。

 

 

わざわざ新宿まで、蒼陵高校の理事長と、監督が足を運んでくれた。

 

静かな店内。

 

席につくと、理事長が丁寧に名刺を差し出す。

 

 

「はじめまして。九条と申します。このたびは、お時間をいただき、ありがとうございます」

 

物腰は柔らかく、

 

声も穏やかで、どこか品がある人だった。

 

「春日部実業――

 

二年連続、甲子園出場。しかも、準優勝……」

 

「まさに、黄金時代でしたね」

 

「そんな……あれは、青柳選手の力です」

 

 

思わず、そう答える。

 

 

すると、九条は首を横に振った。

 

「いえ。私は、そうは思っていません」

 

「確かに、青柳選手は素晴らしかった。ですが――」

 

 

一拍置いて、こちらを見る。

 

 

「その陰に隠れがちだったあなたの存在。エースとして投げ抜いた功績は、決して小さくない」

 

「私は何試合も、あなたの試合映像を見ました。投球だけではありません。

 

仲間への声掛けや、ベンチでの振る舞いまで含めてです。

 

あなたみたいな人が、選手を育てるべきだと確信しました。」

 

 

胸の奥が、少し熱くなる。

 

 

――そんなふうに、

 

――見てくれている人が、いたのか。

 

 

「ぜひ、わが蒼陵高校に来ていただきたい」

 

 

九条はそう言って、

 

一冊のパンフレットをテーブルに置いた。

 

ページをめくる。

 

広々としたグラウンド。

 

充実した屋内練習場。

 

最新のトレーニングマシン。

 

整った野球部寮。

 

 

「……すごいですね」

 

 

思わず、声が漏れる。

 

もし――

 

もし、ここで野球を教えることができたら。

 

頭の中に、ノックの音、投球音、

 

土の匂いが、よみがえる。

 

 

「こちらが、佐々木先生に提示する条件です」

 

 

差し出された書類に目を通し、俺は思わず目を見開いた。

 

 

「……こんなに、いただけるんですか」

 

「しかも……教員宿舎の家賃、光熱費も……負担なし……」

 

言葉が、うまく続かない。

 

「俺には……もったいない話です」

 

 

九条は、静かに頷いた。

 

 

「それだけ、こちらも本気だということです」

 

「佐々木先生に、野球部を任せたい」

 

「……ありがとうございます」

 

深く、頭を下げる。

 

「ただ……少し、考える時間をください」

 

「もちろんです」

 

「いいお返事を、期待しています」

 

そう言って、九条は穏やかに微笑んだ。

 

 

喫茶店を出て、新宿の雑踏の中を歩く。

 

不思議と、胸の奥がざわついていた。

 

教師としての日々。

 

保健体育の授業。

 

弱小野球部。

 

 

そして――

 

再び、野球に全力で向き合える場所。

 

――俺、

 

――まだ、こんなに野球が好きだったのか。

 

 

野球への情熱は、確かに戻ってきていた。

 

だけど――

 

心の中には、まだ一人の姿があった。

 

蒼司。

 

野球を選ぶのか。

 

蒼司を選ぶのか。

 

その答えは、まだ、出せそうになかった。

 

忘れたつもりでいた情熱が、静かに、確かに、再び火を灯し始めていた。

 

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