二月。
俺は、蒼司の大学の卒業制作展に向かった。
会場に入ると、人の波と、ざわめきと、絵の具と木と、少し埃っぽい匂いが混じった空気が広がっている。
パンフレットを手に、ページをめくりながら、作品番号を探す。
……どれだ。
蒼司の作品は、どれだ。
そのときだった。
――あ。
ひときわ大きなキャンバス。
人だかりができている。
「すごいね……」
「これ、本当に学生の作品?」
「なんか……泣けてくる」
そんな声が、あちこちから聞こえてくる。
俺は、人の隙間から、その絵を見た。
――ああ。
これは、俺の知っている蒼司の絵だ。
いろんな青。
明るい青。
深い蒼。
何層にも重なった、蒼い海。
その中を、一頭の生き物が泳いでいる。
シャチみたいな、でも、どこか違う。
力強く、まっすぐに、光の差すほうへ向かって。
……すごい。
こんな絵、俺は、初めて見た。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられて。
気がついたら、涙が、こぼれていた。
「……カイト?」
後ろから、聞き慣れた声がした。
振り返ると、蒼司が立っていた。
少し照れたように、でも、どこか誇らしそうに。
「……来てくれてたんだ、ありがとう」
俺は、うまく言葉が出てこなくて、
ただ、もう一度、絵を見る。
「この絵……」
「この生き物って、この前見たシャチ、だよな?」
蒼司は、ゆっくり首を振った。
「違うよ」
「……え?」
「これは、シャチじゃない」
一瞬、間を置いてから、蒼司は、静かに言った。
「……これは、カイトだよ」
俺は、息をのんだ。
「俺さ……ずっと、カイトを描いてた」
言葉が、胸の奥に、まっすぐ落ちてくる。
そうだったのか。
蒼い海は、蒼司の世界。
その世界の中で、泳いでいたのは――俺だった。
「……ありがとう、蒼司」
声が、震えた。
「俺を……ずっと、描いてくれて」
蒼司は、少し困ったように笑って、小さく頷いた。
そのあと、人の少ない空き教室に移動した。
窓から、冬の光が差し込んでいる。
蒼司が、先に口を開いた。
「俺さ……高松の私立高校に、採用になった」
「……そっか」
「四月から、四国」
一瞬、胸がきしんだ。
でも、俺は、ちゃんと前を見て言った。
「ああ。俺もな、四月から、埼玉の蒼陵高校に行く」
「……野球の強豪校だ」
「……やりたいこと、全部やるよ」
蒼司は、目を見開いて、
それから、ふっと笑った。
「……そっか……良かった」
「カイトは、野球やってるときが、一番かっこいいよ」
照れくさくて、俺は視線を逸らす。
「……蒼司……いつか、帰ってこいよ」
「……俺は、待ってるから」
蒼司は、少し驚いたように目を見開いた。
その表情が、ゆっくりと柔らかくなる。
「……うん」
静かな返事だけが、冬の教室に響いた。
教室には、もう誰もいない。
窓から差し込む夕暮れ前の光が、二人の影を長く床に伸ばしていた。
蒼司が、一歩近づく。
俺も、その場を動かなかった。
目が合う。
言葉はいらなかった。
蒼司は、そっと俺の頬に手を添えた。
その手は少し冷たくて、でも、不思議と安心する温もりがあった。
「……カイト」
名前を呼ぶ声が、小さく震える。
俺は黙って頷いた。
次の瞬間。
蒼司の唇が、静かに重なった。
触れるだけでは終わらない。
ゆっくりと。
お互いの温もりを確かめ合うように。
離れたくないという想いを、そのまま唇に乗せるように。
どれくらいの時間が過ぎたのか分からない。
ほんの数秒だったのか。
それとも、もっと長かったのか。
時間だけが、ゆっくり流れていく。
ようやく唇が離れる。
二人とも、何も言えなかった。
目を合わせるだけで、胸の奥がいっぱいになる。
蒼司が、小さく笑った。
俺も、少しだけ笑い返す。
しばらく沈黙が続いた。
教室には、冬の風が窓を揺らす音だけが聞こえている。
やがて蒼司が、小さく息を吸った。
「……じゃあ」
俺は頷く。
「ああ」
蒼司は、少し寂しそうに笑って言った。
「……元気で」
「……蒼司も」
それだけだった。
蒼司は背を向け、ゆっくりと教室を出ていく。
俺は、その背中が見えなくなるまで見送った。
呼び止めようとは思わなかった。
もう、お互いに前へ進むと決めたから。
教室に残った静けさの中で、俺はそっと唇に触れる。
教室の窓の向こうに、青い空が広がっていた。
俺たちは、もう同じ場所にはいない。
でも――それぞれの世界で、それぞれの海を泳いでいく。
三月。
蒼司は、四国へ引っ越していった。
俺は、空港まで見送りに行った。
やっぱり、寂しかった。
でも――俺は、泣かなかった。
蒼司は、前を向いて行った。
なら、俺も、前を向かなきゃいけない。
俺も三鷹での引っ越し準備を終え、
新しい生活に向けて、少しずつ身辺を整理していた。
久しぶりに、松本と会った。
いつもの、松本の家の近くのカフェ。
「海斗、お待たせ」
「ああ、松ちゃん」
顔を上げた瞬間、松本が吹き出した。
「……おわ」
「なんだよ」
「海斗、なんだその顔。
せっかくのイケメンが、台無しだな」
「……俺さ」
カップを両手で包みながら、ぽつりと言う。
「やっぱり、寂しい」
「もう……ダメかもしれない」
松本は、ため息をついてから肩をすくめた。
「おいおい。
やっとお互い、進むべき道ができたってのに」
「……俺、もう恋するのやめる」
「……たぶん、向いてないわ」
「ふふ」
「何だよ。何がおかしいんだよ」
松本は、にやっと笑う。
「海斗ってさ、
恋愛の話になると、ほんと可愛くなるよな」
「うるせー」
そのとき。
ピロリン。
俺のスマホが、テーブルの上で震えた。
「……ん?」
画面を見る。
「……竜司からだ」
松本が、少し驚いた顔をする。
「まだ、連絡来るんだな」
「まぁな」
画面には、短いメッセージ。
――
蒼司、無事卒業できた。
ありがとな。
今まで、蒼司の面倒見てくれて。
――
俺は、そっとスマホを伏せた。
「……まだ、竜司のこと忘れられない?」
松本が、探るように聞く。
「いや。……もう、吹っ切れてるよ」
松本は、少しだけ安心したように頷いた。
「そっか」
一拍置いて、松本がさらっと言う。
「そうそう。俺、来月から赤羽に引っ越すから」
「マジで?」
「これで、職場も近くなるしな」
「おお、いいじゃん。
お互いの職場の中間地点くらいか。
乗り換えもいらねぇし」
「だろ」
「松ちゃんはいいな。順調で」
松本は、苦笑いする。
「まぁ、一緒に住んだら住んだらで、
いろいろあるけどな」
「……でもさ。海斗のとこから、そんなに遠くないし」
「また、こうして話、聞くよ」
胸の奥が、少しだけ軽くなった。
「……サンキュ」
カフェの窓の外では、春の気配が、静かに広がっていた。
俺はまだ、完全には立ち直れていない。
でも――一人じゃない。
そう思えただけで、もう一歩、前に進める気がした。
四月。
俺は、蒼陵高校で、保健体育教師として、
そして同時に、野球部コーチとして、
新しいスタートを切った。
強豪校の指導は、正直きつい。
練習量も、要求されるレベルも、
これまでとは比べものにならない。
それでも――
今までで、いちばんやりがいがあって、
いちばん充実していた。
グラウンドに立つと、自然と体が動く。
声が出る。
俺は、生徒の前では、前よりも明るく、
前よりもさっぱりと振る舞うようにした。
過去を引きずらない。
でも、忘れもしない。
それが、今の俺なりの答えだった。
そんな中で、俺は一つの趣味を見つけた。
――キャンプだ。
きっかけは、テレビや動画で見かけた、
人気タレントのソロキャンプ。
何気なく見て、何となく、やってみた。
焚き火の音。
夜の静けさ。
一人で過ごす時間。
誰とも話さない時間。
でも、孤独じゃない時間。
昔の楽しかった思い出に、そっと浸る時間。
――ああ、
これは、俺に合ってる。
そう思えた。
* * *
* * *
* * *
そして――時は戻り
現在。
蒼陵高校、美術準備室。
気がつくと、外はすっかり暗くなっていた。
「……」
ぼんやりと、蒼司の青い海の絵を眺めいると、
「うわっ」
警備員の声がして、俺は我に返る。
「佐々木先生、どうしたんですか?
こんな時間まで」
「あっ……すみません」
「ちょっと考えごとしてて、ぼーっとしてました」
「もう、帰ります」
準備室の電気を消して、廊下に出る。
静かな校舎。
遠くで、夜風の音がする。
そのとき――
胸の奥で、確かな実感があった。
蒼司は、俺のところに帰ってきた。
それは、同じ場所にいる、という意味じゃない。
同じ時間を、同じ方向を向いて、
生きている、ということ。
俺の物語は、ここで終わらない。
また、動き出す。
あの蒼い海のように。
ゆっくりと。
でも、確かに。
光のほうへ。
――蒼の向こうで君を待つ。
【完】