海斗 高校三年 四月。
あれから、俺たちの付き合いは順調だった。
最後の夏――甲子園を目指して、
俺は毎日、黙々と練習を重ねていた。
そんな中で、ひとつだけ、変わったことがあった。
蒼司が、同じ高校に入学してきたのだ。
幼い頃からずっと一緒にいた蒼司が、
まさか本当にここを選ぶとは思っていなかった。
理由を聞いてみても、
返ってきた答えはあっさりしたものだった。
「特に、他に行きたいところがなかったから」
それだけ。
いつも通りで、それが蒼司らしかった。
四月のある日。
春日部駅のホーム。
部活帰り、いつもの時間、いつもの光景。
俺と竜司は並んで電車を待っていた。
――ただ、ひとつだけ違っていたことがある。
今日は、蒼司が一緒だった。
蒼司は美術部に入部していた。
制作がある日は帰りが遅くなるらしく、
そんな日は、こうして三人で帰るようになっていた。
同じ制服、同じホーム。
でも、それぞれ違う時間を過ごしてきた三人。
電車を待ちながら、俺はふとこれが当たり前になっていくんだろうな、と思った。
俺は、何となく蒼司に声をかけた。
「蒼司、高校生活、どうだ?」
「……普通」
蒼司は淡々と答える
「とりあえずさ。俺は高校で、絵が描ければそれでいいから」
「そうか」
少し間が空く。
電車の接近音が、遠くで鳴った。
「まだ、あの青い海の絵、描いてるんだろ?」
「うん」
「今度、見せてくれよ。俺、お前の絵、好きだからさ」
「……うん。いいよ」
二人の会話に、竜司が入ってくる。
「じゃあさ、俺にも見せてくれよ。今度、美術室行くから」
「兄貴はダメ」
即答だった。
「なんでだよ」
「……なんとなく」
ちょうどそのとき、電車がホームに滑り込んできた。
蒼司はそれ以上何も言わず、
俺たちは流れに乗るように、同じ車両に乗り込んだ。
駅から家までの道。
俺は、この家までの道が、相変わらず好きだった。
いつもなら、俺の隣に寄り添うように、
竜司が並んでいる。
歩幅を合わせるみたいに、静かに横歩く。
でも今日は、少し距離を取って歩いていた。
意図してそうしたわけじゃない。
ただ、気づいたらそうなっていた。
理由なんて、特にない。
それなのに、胸の奥が、なんだか気持ち悪かった。
深い意味はない。
……たぶん。
竜司の家の前に着いた。
玄関の灯りが点いている。
蒼司は何も言わずに、先に家の中へ入っていった。
ドアが閉まる音が、やけに大きく聞こえた。
残ったのは、俺と竜司だけ。
「なあ、カイト」
俺は顔を上げる。
「今度の休みさ、両親出かけていないんだわ」
「え?」
「なんかさ、じいさんの家の用事で。二人とも」
一拍、間が空く。
「それで……その日、よかったら泊まりに来ないか」
胸が熱くなった。
心拍数が、一気に上がる。
「え……?」
言葉が、うまく出てこない。
「あ、でも……蒼司、いるんだろ」
「ああ、蒼司もいる」
同じ言葉を、確認するみたいにもう一度。
「最近、家に来てなかっただろ。蒼司も喜ぶし」
少し照れたように、続ける。
「それにさ……わかるだろ」
その一言で、背中を押された気がした。
「……あぁ」
気づいたら、勢いで答えていた。
「わかってる」
「じゃあ、この日な」
「……あぁ、行くよ」
少し間が空く。
「じゃあ、また明日な」
「あぁ、また明日」
竜司は手を振って、家の中へ戻っていった。
俺はしばらく、その場に立ったまま、
胸の鼓動が落ち着くのを待っていた。
* * *
そして、約束の日
俺は、昨夜ほとんど眠れなかった。
竜司の家には、子どもの頃から何度も泊まっている。
勝手も分かっているし、
緊張する理由なんて、本当はない。
――でも今日は違う。
付き合ってから、初めての泊まりだった。
夕方、竜司の家に着く。
リビングに入ると、すでに蒼司もいた。
竜司はすでに決定事項のように宣言した。
「今日は俺が飯、作るから」
「え? マジで?」
俺は反射的に言葉を発する。
「ピザでよくない?」
蒼司の目は座っている。
「うるせえ」
即答だった。
「今日のために、ちゃんと勉強してきたんだよ」
エプロンを引っ張り出しながら、胸を張る。
「今日は俺が作る。お前らは黙って食え」
「……兄貴、横暴」
「……竜司、料理、できたっけ?」
「だから勉強したっつってんだろ」
俺は少し躊躇してから、聞いた。
「俺、何か手伝おうか?」
「いいって、いいって。カイトは今日はお客さんなんだから」
そう言ってから、蒼司を見る。
「蒼司の相手、してやって」
「……兄貴」
少しだけ、むっとした声。
「俺、もう子どもじゃないから」
竜司は一瞬きょとんとして、
それから苦笑いした。
それからリビングで、俺と蒼司とゲームをしていた。
「やっぱこのゲーム、蒼司つえぇな」
「普通だよ。海兄の立ち回りが弱すぎるだけ」
画面の中で、俺のキャラがあっさりやられる。
「はいはい……」
その一方で、キッチンからは――
「……おかしいな」
フライパンの音。
「これで合ってるはずなんだけど……」
間が空いて、もう一度。
「あれ? なんか違う……」
「兄貴、苦戦してるね」
「今日、やばいかもな」
「腹、痛くならなきゃいいけど」
「まあ……あいつなりに頑張ってるし」
俺は画面から目を離さずに言った。
「温かく見守ってやろうぜ」
しばらくして、
竜司がエプロンを外しながら顔を出した。
「悪い。ちょっと材料足りないから、買いに行ってくるわ」
「俺、代わりに行こうか?」
「いいっていいって」
「俺が行かないと、たぶん何買えばいいかわかんねえし」
少し照れたように笑う。
「悪いけど、留守番頼む」
そう言って、竜司は玄関へ向かった。
ドアが閉まる音。
気づけば、俺は蒼司と、二人きりになっていた。
ドアが閉まって、
家の中が、急に静かになった。
さっきまであった生活音が、すっと引いていく。
俺は、少し――
どうすればいいのか、分からなくなった。
言葉が、喉の奥で詰まる。
ゲームの画面だけが、無意味に動いている。
……このまま黙ってるのも、違う気がした。
俺は、意を決して口を開く。
「……あのさ、蒼司」
蒼司はコントローラーを持ったまま、
ちらっとこっちを見る。
「言いそびれてたんだけどさ」
一拍、置いて。
「お前、中学のコンクールで賞、取ったんだろ」
「……うん」
「おめでとう」
蒼司は何も言わないけど、
ほんの少しだけ、肩の力が抜けたのが分かった。
「どんな絵、描いたんだ?
もし、まだあったら……見せてくれよ」
蒼司は少し黙ってから、
視線を床に落とした。
「……いいよ」
少し間を置いて、蒼司が言った。
「俺の部屋にあるから」
そう言って、立ち上がる。
俺はその後ろについていく。
――蒼司の部屋に入るのは、これが初めてだった。
ドアが開く。
「……これだよ」
壁に立てかけられた一枚の絵。
一面の青。
いや、ただの青じゃない。
深い青。
さらに深い、深い蒼。
そこには、海があった。
静かで、重くて、底の見えない蒼の海。
……でも。
よく見ると、その中に、何かがいる。
これは――
イルカ?
シャチ?
それとも、クジラ?
輪郭ははっきりしないのに、
確かに“生きている”感じだけは伝わってくる。
俺は、気づけば、完全にその世界に引き込まれていた。
「……綺麗な絵だな」
それから、そっと聞く。
「これ、なんの生き物なんだ?」
蒼司は、少し答えにくそうに視線を逸らした。
「……それは」
一瞬、間があって。
「……秘密」
「秘密か」
俺は、軽く笑った。
「わかった」
もう一度、絵を見る。
「この絵、好きだな……」
そう言うと、蒼司は何も返さなかった。
でも、顔が少し赤くなっているのが、分かった。
* * *
リビングに戻った。
テーブルを挟んで、二人でお茶を飲む。
湯気だけが、静かに立ち上っていた。
しばらく、何も言葉はなかった。
その沈黙を破るように、蒼司が重い口を開く。
「……海兄」
俺は顔を上げる。
「兄貴と、付き合ってるんだよね」
「――っ」
思わず、お茶を吹きそうになる。
「す、すまん……」
カップを置いて、息を整える。
「えーと……ごめん。
隠すつもりはなかったんだけど」
蒼司の目を見る。
逃げずに、ちゃんと。
「ああ。……付き合ってる」
蒼司は、一瞬だけ俺を見て、すぐに視線を逸らした。
「……そっか」
少し間があって。
「……良かったね」
その声は、意外なほど穏やかだった。
また、間。
「……海兄、ずっと兄貴のこと、好きだったもんね」
「し、知ってたのか……?」
「うん。わかりやすいよ」
苦笑いする。
「……ずっと兄貴のこと見てたよね」
俺は、意図的に話題を変えた。
「……なあ、蒼司」
「なに」
「将来さ。絵の道、進むのか?」
少し考えてから、蒼司は答えた。
「とりあえず、美大には行きたい。
その先は……まだ、わからないよ」
「……そっか」
それから、俺は蒼司を真っ直ぐ見て言った。
「……お前さ、絵やめんなよ」
「……え?」
蒼司は、少し驚いたように目を瞬かせた。
「なんで?」
俺は少し考えてから、正直に答える。
「俺さ、絵のこととか、よくわかんねえけど」
壁に立てかけられていた、あの深い蒼の海を思い出す。
「……蒼司の絵、好きなんだ」
蒼司が、わずかに目を見開く。
「俺さ……蒼司の絵のファンだから」
その言葉に、蒼司はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくり口を開く。
「……ありがとう」
小さな声。
でも、どこか大事に噛みしめるみたいな響きだった。
「海兄が……俺のファン一号だね」
俺は少し照れくさくなって、頭をかいた。
「……そうか、俺が一号か」
「……ふふ」
蒼司は珍しく、小さく笑った。
それから、ふっと表情を落ち着かせる。
「……わかった」
静かな声。
「やめないよ」
少し間が空く。
「……ていうか、俺、絵を描くことしかできないし」
最後だけ、少し自嘲気味に笑った。
少し間があって、今度は蒼司が聞いてくる。
「海兄は?野球、続けるの?
……兄貴は、プロ目指してるよ」
そう答えてから、
俺は少し声を落とした。
「……あー、俺はプロは無理だ」
「……」
「……自分の限界は、もうわかってる」
でも、と続ける。
「……それでもさ。夏の大会は、死ぬ気でやる。
……竜司がプロに行けるように、
せめて甲子園は……絶対、行かないと」
「……海兄って、優しいね」
蒼司は、ぽつりと続けた。
俺は、返事をしなかった。
どう返せばいいのか、分からなかった。
「もしさ……」
少し間が空く。
「兄貴がプロに行ったら……、
……道、分かれちゃうね」
その言葉は、静かだったけど、胸の奥に、はっきり届いた。
「それでもさ……、兄貴が甲子園に行って、プロに行けるようにって、自分は身を引いて、甲子園を目指すんでしょ」
蒼司は俺を見ないまま、続ける。
「……ほんと、すごいよ」
俺は、何も言えなかった。
その瞬間、俺の中で、何かが――
はっきり音を立てたわけでもないのに、
確かに、ずれて、そして重なった。
言葉にできない感情が、
胸の奥で、静かに波紋みたいに広がっていく。
「俺は、そんな――」
蒼司の最後の言葉は、
小さくて、聞き取れなかった。
「……ん? 今、なんて言った?」
そのとき――
玄関のドアが開く音。
「悪い悪い、遅くなった!」
空気が、一気に戻ってくる。
蒼司は何も答えず、
ただ静かにカップを置いた。