嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号 作:あまね みかん
1972年十月 ポルトガル領 マカオ
大陸の影と香港の喧噪の狭間で、「極東の巨大兵站基地」から流れ込む莫大な逃避資金が、渦を巻く街。
珠江デルタの夜は、常に湿り気を帯びて熱かった。
一台の黒塗りのセダンが、ホテルの車寄せに滑り込む。
「着いたぞ、真鍋。……虚数の戦場だ」
後部座席に座る男が、低く呟いた。
わずかに白髪の混じるオールバックに、細身の体躯。その表情からはいっさいの感情が読み取れない。
辻村というこの男は、常に冷めた目で世界を見ていた。
車のドアが開く。
車内の冷え切った空気は一瞬で押し流され、同時に外の熱気と潮の匂いが流れ込んでくる。
先に降りた真鍋は、スーツの襟を正す。
陸士時代から変わらない短く刈り込んだ髪と、無駄のない均衡の取れた立ち姿は、一見すればモデル、あるいは洗練されたビジネスマンのようだった。
辻村も車を降りる。
肩口に付いた一本の糸を、指先で摘み取る。動きに無駄はない。
軽くスーツを払うと、そのまま歩き出した。
目の前には、上層部が円筒形に張り出した巨大なホテルがそびえている。外壁に設置された赤と黄色のネオン管が発光し、湿気を含んだ夜の空気を直接照らし出していた。
二人は並んでエントランスへ向かう。
真鍋が右足の違和感を隠して歩幅を調整すると、辻村は視線だけを周囲に這わせながら、自然と隣の歩調に合わせた。
回転扉を抜けて、冷え切ったホテルのロビーに足を踏み入れる。
湿った熱気は冷房に断ち切られ、代わりに白檀の甘い香りが満ちてきた。
真鍋の古傷は、雨季の低気圧よりも、こうした人工の冷気に敏感だった。
辻村が天井を一瞥する。
「風水だよ。虎の口だ」
ポケットに手を入れたまま、視線だけで人の流れと音の揺らぎを測っていた。
ハ特(ハルビン特務機関)で叩き込まれ、ラングレーで上書きされた観察の習性。
空気を探る癖は、もう身体の一部だった。
「入ったら出られない鳥籠、か。兵站将校としては感心しない導線だな」
真鍋の声は低く、短い。
腹の底から響くその音は、戦場でも会議でも揺らがなかった。
「出る時は身包み剥がされた後さ。……もっとも、今の我々の故郷も同じだったな」
辻村は笑わない。
「ウォール街は、列島(ジャパン)という巨大な鳥籠から、いかに上手く利益だけを持ち出すか――それしか考えていないからな」
二人はメインフロアへ足を踏み入れる。
大小(シックボー)に沸く広東語の怒号。
甘い香水と汗の匂い。
チップが弾く乾いた音。
喧騒の中心を、二人は速度を変えずに横切った。
「ワシントンは悲鳴を上げているよ」
辻村の声は、雑踏に溶ける音量だった。
だが、真鍋の耳にははっきり届く。
「今朝のテレックスだ。法務委員会が、また揺れている」
辻村は歩調を変えずに言った。
「日系の弁護士連中がうるさくてな。修正十四条だの適正手続だの、日本地域住民の権利保護を盾にしてきている」
「建前だろ。本音は資産保全だ」
真鍋は鼻で短く笑った。一瞬、辻村の冷ややかな視線がルーレットのテーブルへ落ちる。
「投資家も多国籍企業も、『準州』なんて曖昧な法的地位に、これ以上カネを置きたがらないからな」
辻村はそこで言葉を切り、歩調を緩めることなく続けた。
「そして連中お得意の、連邦税法501条C項――いわゆる『501C』だ。ワシントンにある『極東政策研究所(FEPI)』や『環太平洋親善開発財団(PRDF)』を知っているな?」
真鍋がわずかに眉をひそめる。
「インフラ整備及び環境保全、あるいは社会福祉や文化交流を謳ってる、非営利の免税団体だろ……FEPIの理事長はたしか、元国務次官補だったか」
「アレを使って莫大な資産が非課税のまま列島から吸い上げられている。それがロビー活動に化けるっていつものやつだ」
「……要するに、面倒な話だ」
すれ違いざま、バニーガールが運ぶトレイに載った乳褐色のカクテルを、辻村は視線だけで追う。甘いココナッツの香りが鼻先をかすめた。
「州昇格……またその話か」
真鍋の低い声が届く。
「八分割案はどうなった?」
辻村は前を向いたまま答えた。
「保守派が発狂する。それに民主党も一枚岩じゃない。八つも新しい州が一気に増えてみろ。下院も上院も、あらゆるバランスが崩壊する」
辻村は短く息を吐く。
「……だが、もう限界だ」
ほんの一瞬、辻村の口角が下がる。
「海底ケーブルが太平洋の時差を殺してから、もう何年も経つ。カネの巡りが速すぎる」
「落とし所は探してるのか」
真鍋が尋ねた。
「探してるさ。だが、法的な防波堤が要る。ないと、誰も手を離せんしな」
一拍置いて、辻村が続けた。
「結局、誰も望んでいないのに、誰も止められない」
「誰かが机の上で鉛筆を転がす」
真鍋はディーラーへ一瞥を投げる。
「それで国が割れるわけか」
「そういうことだ」
辻村は小さく頷いた。
「俺たちは、その転がる先に――ハンカチ置く」
ベルベットロープの向こうで、黒服の男が二人に向かって恭しく頭を下げる。
VIPエリアへ通じる重い両開きの扉が開いた。
途端に、空気の密度が変わる。
足元には、紅と金の糸で模様を織り込んだ厚い絨毯。
壁面は金箔をあしらった木彫りの装飾で覆われ、天井からはクリスタルのシャンデリアが下がっている。
音は抑えられていた。
チップが触れ合う乾いた音と、ディーラーの無機質な声だけが、間を置いて響く。
フロアには、緑の羅紗を張ったバカラ台が五台、間隔を空けて据えられている。
片隅でジャズが流れているが、耳を傾ける者はいない。
先導する黒服が立ち止まり、無言のまま恭しく片手を差し出した。
視線の先、奥のテーブルに三つ空席が並んでいる。
辻村は頷きもせず、歩調を変えずにその台へと向かった。
「プレイヤー」
先客の地味な背広の男が、押し出すように数千ドル分のチップを枠内に置く。
その様子を横目に、辻村が真鍋へ目で合図した。
真鍋は、ゆっくりと椅子を引く。
右足の痛みが、ふと遠のいた気がした。
懐から小切手帳と万年筆を取り出すと、テーブルの端で素早く金額を書き込み、乱雑に破り取って傍らの黒服へ差し出す。
辻村もまた、内ポケットからあらかじめ用意していた小切手を黙って手渡した。
ほどなくして二人の前には、それぞれチップの山が積まれた。
「それで、今日はどっちの候補と心中するんだ」
真鍋は低い声で冷やかした。
「……他人事だからな」
辻村はポケットからタバコを取り出しながら、無表情に続ける。
「青(プレイヤー)か、赤(バンカー)か。……ただの二択だが、これがなかなか奥深い」
真鍋は短く鼻で笑った。
「タイ(引き分け)は、確率的にハウスが儲かるだけの茶番だろ」
ディーラーは無感情に、右側に並んで座った二人を見据え、新しいシューへ手を伸ばした。
テーブルは九人がゆったりと座れる大きさで、先客が四人、すでに囲んでいる。
緩やかなカーブの奥――ディーラーの真正面には、白っぽい麻の背広の上着を大きくはだけ、派手な開襟シャツを覗かせた日本人らしい男が陣取っていた。首元に脂汗を滲ませ、火をつけたばかりのタバコを揉み消している。
その右隣、先程チップを置いた地味な背広の男は、罫線表(スコアカード)を黙って睨み続けていた。
左側には、広東語訛りの英語を話す、琥珀色のサングラスをかけた小柄な華人の老人。さらにその左に、派手なアロハシャツの華人の男が座っていた。
真鍋が、近づいてきたウェイターに短く告げる。
「オールドパー。ロックで」
「タンカレー。ライムを搾ってくれ」
辻村は、メニューに目も落とさずに言った。
開襟シャツの男が、プレイヤーにチップを積み上げながら、忌々しそうに――だが、どこか嬉しげに言う。
「履帯(キャタピラ)の消耗が早すぎるわ。ジャングルの泥は鉄をぎょうさん食いよるからな。おかげで神戸の工場はフル稼働や。……おい、カードはこっちや」
「相模も、似たようなもんだね。補給廠が手一杯。そろそろパンクしそうだよ」
地味な背広の男は、罫線から目を離さずに応えた。
琥珀色のサングラスの老人が、細い指でバンカー側のカードをゆっくりと絞り上げる。
「大陸もごちゃごちゃ内輪揉めで忙しいから、鉄パイプとトラックの需要が天井知らずだ。香港経由で入れた工作機械が、翌月にはスクラップになって戻ってくるぞ。……ほれ、ナチュラル・エイト」
老人がカードを放り投げると、開襟シャツの男は悔しそうにテーブルを叩いた。
「あかん、またバンカーか。……まあええわ。昨日の出荷分で取り返せるで」
ディーラーが無言でチップを回収していく。
プラスチック同士が「カチャカチャ」と擦れ合う。男のグラスについた水滴が、コースターに小さな染みを作った。
辻村は、咥えたままのタバコを少し揺らしながら、視線だけで真鍋に合図を送る。
(神戸に製鉄所を持つ軍需専門商社の社長とロジスティクス屋、華僑系の国際武器ブローカー……といったところか)
「社長、次はどっちかね?」
地味な背広の男が、慣れた手つきでチップを整えながら言った。
社長と呼ばれた開襟シャツの男は、おしぼりで首筋の脂汗を拭う。
「バンカーや。そろそろ伸びる頃やろ。……それにしても、最近は輸送船の確保が難しいわ。準州籍の船は、保険料が上がってかなわん」
「なら、マカオの船籍を貸そうか?」
派手なアロハシャツの男が、不敵に笑いながら口を挟んだ。
「ここの地下で書類はすぐ作れる。中身が何であれ、ポルトガル国旗ならバシー海峡も台湾海峡もフリーパスだ」
「そらええ話やな。……だが、積荷が『肥料』名目じゃ、税関がうるさいんちゃうか?」
「『農機具』にしておけ。分解すれば、ただの鉄パイプだ」
軽く、笑いが広がった。
ウェイターが恭しく、重量感のあるクリスタルグラスを二つ置く。
真鍋の前には、琥珀色の液体に浮かぶ手割りの氷。
辻村の前には、ライムが沈む透き通ったジン。
辻村はオイルライターで火をつけ、紫煙を吐き出した。
「なかなか、景気の良さそうな台だな」
そう言うと、辻村は持っていたチップを躊躇なく「プレイヤー」へ押し出す。
「逆張りか?」
真鍋が低い声で尋ねる。
グラスを傾けると、氷が「カラッ」と音を立てた。芳醇なピートの香りが立ち上る。
「いや、とりあえずバランスを取ってみる。……世界と同じでな」
指先に挟んだタバコの煙が、ゆるやかに立ち上って熱気に溶けていく。
未曾有の超高度経済成長に沸きながらも、極東の鳥籠となった列島。
それが今まさに、膨張の果てに内側から割れようとしている、すべての始まり。
時間は、二十九年前の冬へと遡る。