嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号   作:あまね みかん

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第11話 蛇口の主

1943年一月中旬

昭南島(旧シンガポール)

 

熱帯の雨季特有の、唐突なスコールがトタン屋根を激しく叩いていた。

 

昭南島の日本人街の外れにある、土間の打ちの大衆食堂。換気扇は油にまみれて重々しい音を立て、軍属や日雇いの労務者たちの怒声のような談笑が、狭い店内に充満している。

 

部屋の最も奥、裸電球の光が届かない薄暗いテーブルで、越智広重は出汁の濁ったうどんを、猫背のまま啜っていた。

 

向かいに座る、目つきが鋭く頬のこけた若い男――昼間は港湾人足の格好をしているが、中野学校上がりの優秀な部下、尾形敏夫(おがた・としお)陸軍少尉だ――彼は、油にまみれた箸を動かしながら、口の動きを最小限にして囁いた。

 

「……王榮發(オウ・エンパツ)の商館を調査しました。見立て通りです。真っ黒でした」

 

「……この店の出汁は油ばかりでコクが足りない。しかし君の持ってきた話は実に味わい深そうだ。続けてくれ」

 

越智はどんぶりを見つめたまま、静かに促した。

 

「ここ数週間、奴は界隈の闇取引の場から、手当たり次第に『金塊』と『外貨証券』をかき集めています。その原資は、南方開発金庫から引き出された現金でした」

 

「ほう。あの書類至上主義で杓子定規な南方開発金庫の鍵を、随分とあっさり開けたものだ。単独の偽装じゃないな。少なくとも三つは他部署の判を潜り抜けさせているはずだ」

 

越智はうどんを啜る手を止めず、視線を落としたまま楽しげに相槌を打つ。

 

「名目は『インド国民軍への支援物資調達』。ここ二ヶ月ほど、細かい発注を何度も小分けにして複数の偽装商館を迂回させていますが……王が実際に納入している資材は規定の七割。残りの三割は架空発注と水増し請求です。その差額の資金がすべて王の店に辿り着いています。その額……ざっと見積もっても、三十万圓は下りません」

 

「三割のピンハネで、累計三十万圓か。帝国は随分と気前が良いな。戦前なら、銀座に小洒落たビルヂングが一つ建つ額だ。路地裏の薬売りが、道端で偶然そんな純金を集めきれるわけがない」

 

「はい。集めているのは金塊だけではありません。現地の華僑から巻き上げた宝石、銀貨、外貨証券……手当たり次第の混合資産です。それを今、王が秘密裏に『溶解』して、持ち運びやすい延べ棒や塊にまとめ直している最中のようです」

 

「なるほど。その『塊』を、偽装ではない本物の七割の『医療品』や『精密機材』の木箱に紛れ込ませるということだな……王はただの『バケツ』であり『溶鉱炉』というわけだ」

 

越智はそこで言葉を切り、どんぶりの横に箸を置いた。

 

「……私が知りたいのは、そのバケツにせっせと水を流し込んでいる『蛇口』の主だよ」

 

「はい、大尉殿が見込んでいた通り、その『看板』は岩畔機関でした」

 

部下の声が一段低くなった。

 

「もっとも、機関ぐるみというわけではなく、岩畔機関という名前を巧みに利用して、金を抜いている者たちがいるようです。三日前から王を尾行させたところ、夜の唐人街(とうじんがい)で王と密かに接触している日本人を確認しました。……結城少佐の直属の副官、角田少尉です」

 

「結城少佐……」

 

越智はそこで初めて顔を上げ、手拭いで口元を拭った。

 

「いやはや、驚いたよ。昼間、あの糊の利いた軍服とピカピカに磨かれた長靴で、『大東亜の未来は』などと私に感動的な演説をしてくれた男がね。賽銭箱からカネをくすねる……昔からよく聞く話だが、実に大胆だ」

 

越智は喉の奥でくくっ、と不気味に笑い、楽しげに口角を上げた。

 

「誇り高き天保銭組(陸大卒)の選良様は、唐人街の泥水で自分の手を汚すような真似はしない。そういうことだろう? 彼は今頃、安全な将校集会所のふかふかな椅子に深く腰掛け、不味い火酒(ウヰスキー)でも舐めながら、自分がこの島で一番賢い男だと信じきっているはずだ。……王を『御用商人』として正規登録させているのも、角田との接触を正当化させるための隠れ蓑だな?」

 

「はい、その通りです。しかし……王が金塊を買い集めていることは分かりましたが、それをいつ、どこで少佐殿たちに引き渡すのかまでは、掴めませんでした。華僑の口は堅く、これ以上の内部情報は外からは引き出せません。角田を捕らえて締め上げますか?」

 

越智は懐から歪んだ煙草を取り出し、口にくわえた。

尾形が素早くマッチを擦る。チリ、と鳴った火の向こうで、越智の眼が細められた。

 

「尾形少尉。君は優秀だが、少しせっかちだ。角田の骨を折って吐かせても、結城は『私は知らん』と言ってトカゲの尾を切られて終わる」

 

越智は紫煙を深く吸い込み、ゆっくりと天井へ吐き出した。

 

「しかし君の仕事ぶりにはいつも感心させられるよ、本当に。……最後の隠し味については、やはり料理人本人に訊ねるのが一番手っ取り早い」

 

湿った声で続ける。

 

「近いうち、王の店を直接訪ねることになりそうだ。彼の処方する『薬種』は、恐ろしいほどによく効くと評判だからね。……ところで、王の家族構成は調べたか?」

 

「はい。妻の黄金蓮(オウ・キンレン)と、長女の秀蘭(シュウラン)、次女の美蘭(メイラン)がいます。現在はタングリン地区の屋敷に――」

 

「よろしい」

 

越智は尾形の報告を短く遮ると、吸いかけの煙草を安物の灰皿に押し当て、ジリジリと音を立てて揉み消した。

 

「彼女たちにも、丁重にご挨拶しなければね」

 

トタン屋根を打つスコールの音は、いっそう激しさを増していた。

 

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