嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号   作:あまね みかん

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第12話 八角の香る夜

1943年一月中旬

昭南島(旧シンガポール)

 

三日後。

 

夜の昭南島は、昼間の息苦しい熱気をそのまま孕んだまま、ねっとりとした闇に沈んでいた。

 

唐人街の裏路地。八角の甘い香りと、ドブの腐臭が混ざり合う湿った空気の中を、三つの影が足音を殺して進んでいく。

 

看板のない薬種店の勝手口。その暗がりに同化するように張り込んでいた部下が一人、歩み寄ってきた越智に短い敬礼をした。

 

「表の通りにも二名配置済み。包囲は完了しています」

 

「ご苦労。……奴は今、一人か?」

 

越智は擦り切れた国民服のポケットから煙草を取り出して咥える。

 

部下がすかさず燐寸をすり、煙草に火をつけた。

 

「はい。一時間前に使用人たちは帰らせました。現在は奥のランプの下で、一人で帳簿を整理しているようです。……それから」

 

部下は周囲を警戒しながら、上着の内側から薄い封筒を取り出した。

 

「指示通り、タングリンの屋敷の写真を撮りました。たった今、現像が上がったばかりです」

 

越智はゆっくりと、封筒から抜き取られた数枚の写真に目を落とした。

 

暗室で浮き上がったばかりの印画紙には、居間の長椅子(ソファ)で身を寄せ合う王の娘たちの姿が映っている。背後には、拳銃を持つ男の影。

 

越智は紫煙を燻らせる。

 

「……素晴らしい。実に良い表情(かお)をしている。やはり写真は、真実を写さねば意味がないからね」

 

越智は満足げに目を細めると、写真を封筒に戻し、それを国民服の左胸――心臓に近いポケットへと丁寧に収めた。

 

部下はさらに懐から、小さく折りたたまれた紙切れを取り出し、手早く広げた。昼間のうちに調べ上げた、店内のおおよその見取り図だ。

 

「勝手口から帳場までは直線です。途中に遮蔽物はありません」

 

越智は見取り図に一瞥だけくれて頷いた。

 

「よろしい。開けろ」

 

部下が慣れた手つきで南京錠に特殊な工具を差し込むと、数秒でカチャリと重い音が鳴った。

 

「開きました。突入しますか」

 

部下が懐の拳銃に手をかけながら囁く。

 

「いや、外で待っていろ」

 

越智は吸いかけの煙草を落とし足で揉み消しながら首を振った。

 

「ネズミが一匹で入ってくる分には驚かないが、群れで押し入れば、彼のような商人は狼狽して無駄に騒ぎ立てるからね。極力目立たない方が良いだろう。……十五分で終わらせる。誰も近づけるな」

 

「はっ」

 

部下たちが暗がりに散開するのを見届け、越智はノブを回す。

 

軋み音一つ立てず、滑り込むように店内へと足を踏み入れた。

 

「誰だっ!どうやって入ってきた」

 

薄暗いランプの下で帳簿を捲っていた恰幅の良い華僑の男が、驚いて顔を上げた。王榮發(オウ・エンパツ)という名のこの男は、表向きは手広く貿易商を営んでいるが、裏では軍の横流し物資を捌く黒幕の一人である。

 

王が慌てて机の引き出しに手を伸ばした瞬間。

 

越智は無言のまま素早く歩み寄り、その引き出しを足の裏で強く押し留めた。

 

「おっと。その引き出しの中身を取り出すのはお勧めしないよ、王さん」

 

越智は足を下ろすと勝手に鉄椅子を引き、王の正面にゆったりと腰を下ろした。

 

「君のその短くて太い指が引き金に届く頃には、外で待っている私の優秀な部下たちが、この何とも味わい深い店を蜂の巣に変えてしまうからね。お互い、そんな野蛮な真似は避けようじゃないか」

 

「き、貴様……憲兵か? 言っておくが、私の背後には岩畔機関の結城少佐殿という――」

 

「結城少佐。ああ……実に頼もしい将校だ」

 

越智は不気味に口角を上げて、言葉を遮った。

 

「軍服の着こなしも完璧だし、何よりあの自信に満ちた歩き方がいい。大東亜の未来を背負って立つような、そう、まるで絵に描いたような英雄像だ。……だがね、王さん。私は仕事柄、多くの人間を見てきたが、己の野心を隠しきれない者ほど、容易く足元をすくわれるものはないのだよ」

 

越智は懐から、昼間、第五事務室で検印を押したあの『青い伝票』の写しを取り出し、テーブルの上に滑らせた。

 

「もちろんこれだけではないが、裏はすべて取れている。……納入する医薬品や精密機材は常に七割。残りの三割は、君が協力した架空発注による水増し請求だ。その差額はここ二ヶ月で累計三十万圓に上る」

 

越智は冷たい声で数字を並べ立てた。

 

「インド国民軍への工作資金という名目で引き出されたその大金は、君の商館を経由して、美しく輝く金塊に姿を変えた。錬金術としては三流だが、軍の会計の盲点を突いた大胆さは評価しよう。……問題は、その重たい金塊がインドの同志たちではなく、結城少佐個人の宝物庫へ向おうとしていることだ。君もそう思うだろう?」

 

王の顔から一瞬血の気が引いたが、すぐに太い首を振って鼻で笑った。

 

「……馬鹿げている。ただの紙切れの写しで、私を脅そうというのか?」

 

王は引き出しから手を離し、椅子に深くふんぞり返った。

 

「私は岩畔機関の正規の指定業者だ。取引はすべて合法だ。結城少佐殿の仕事は、大東亜の聖戦のためのものだぞ。あんたのようなコソ泥が嗅ぎ回っていい案件じゃない。これ以上踏み込めば、昭南の海に沈められるのはあんたの方だ。……帰れ。今日のところは、見なかったことにしてやる」

 

越智はテーブルの上に両肘を突き、王の脂ぎった顔を真正面から覗き込んだ。

 

「私はね、王さん。君のそういう強欲で図太いところは決して嫌いじゃないんだ。むしろ好意すら持っている。戦時の混乱という濁流を泳ぎ切る強かさは、実に見事なものだよ。……だが、少しばかり脇が甘い」

 

越智は懐から、一枚の真新しい写真を取り出し、伝票の横へ無造作に滑らせた。

 

王の視線が写真に落ちた瞬間、ハッと息を呑み込んだ。

 

写っていたのは、王が家族を住まわせているタングリン地区の豪奢な洋館の居間。長椅子(ソファ)で身を寄せ合って怯える二人の娘の背後に、越智の部下と思われる男が、抜身の拳銃を手に無表情で立っている。

 

王の脂ぎった顔が急速に血の気を失い、土気色に変わっていく。

 

越智は大きくため息をつくと、国民服の上から大げさに胃のあたりをさすった。

 

「……ああ。王さん。君の顔を見ていると、私の胃痛がまたひどくなってくる。本当だ」

 

越智はゆっくりと首を横に振り、哀れむような言葉を落とす。

 

「私も出来れば、こんな手荒な真似はしたくないんだよ。君のような強かな商人は、国の宝だ。……だがね、君の返答次第では、不本意ながら私も苦渋の決断をしなければならない。全く損な役回りだよ、胸が潰れる思いだ。頼むから私に、これ以上胃の痛む思いをさせないでくれ」

 

「……ッ」

 

「秀蘭さんは、父親思いの実に美しい娘さんだね。次女の美蘭さんは……可哀想に少し風邪気味のようだったよ」

 

王は息を止め、越智の眼をじっと見つめ返した。

 

越智は、ふっと事務的な声音に変わった。

 

「王さん、誤解しないでほしいがね……私は憲兵じゃない。求めているのは『首輪を食いちぎる犬』の始末だ。……君たちじゃない」

 

「……」

 

「もちろん、あの金塊は皇国の尊い資産だから回収させてもらうが、大人しく協力してくれるなら、君たちの身の安全は保証しよう」

 

越智は机を指先でトントン、と叩いた。

 

「いいかね王さん。君には二つの道がある……一つは、取引の日時を私に話し、明日からもこの香ばしい薬屋の主人として、可愛い娘さんたちと穏やかに暮らせる道だ。……だが、もしこのまま私を手ぶらで帰し、次に憲兵が絡む事態になれば……残念ながらもう一つの道を歩む事になる。そうなれば私はもう、どうしてあげることもできない」

 

越智は少しだけ声を潜め、王の耳元で湿った言葉を落とす。

 

「あいつらは私と違ってひどく手際が悪い。爪を一枚ずつ剥がしながら、秀蘭さんや美蘭さんたちが留置所でどんな扱いを受けているか聞かされる……考えただけでも、身の毛のよだつ話だよ。そして最後は王さん、舌を噛み切ることも許されず血の海の中で悶える。……そんな未来は、君だって望まないだろう?」

 

越智はゆっくりと眼を細めた。

 

「選択さえ間違えなければ、これからも君は太く、そして長く、この街に君臨し続けられる」

 

越智はかすかな微笑みを見せる。

 

数秒が経った。

 

王の太い首筋を、脂汗がゆっくりと伝い落ちる。

 

「……来週の金曜……二十三時だ」

 

王は諦めたかのように深いため息をついた。

 

「ケッペル港の第七倉庫。……そこで、金塊の引き渡しが行われる。結城少佐本人が、信頼する部下たちだけを連れて来るはずだ……」

 

「よろしい。」

 

越智は古い友人に会ったかのような、哀愁漂う笑顔を見せた。

 

「ケッペル港の第七倉庫。来週の金曜日二十三時だね?」

 

越智は立ち上がり、王の震える肩をポンと叩いた。

 

「実に賢明な判断だよ。……では王さん、当日は君の商館のトラックと、人足たちの作業着を四着ほど用意してもらおう。重い荷運びは、私の優秀な部下たちが代行する。段取りがついたら彼らがご挨拶に伺うから、そのつもりでいてくれ」

 

王は越智の眼をしばらくじっと見てから、再び深いため息をついた。

 

「……わかった」

 

「これで君も来週の週末は、家に帰って娘さんたちと温かい茶でも飲んでいられる。間違っても港には決して近づかないことだ。……それと」

 

越智は唇に人差し指を当て、王の耳元で氷のように冷たく囁いた。

 

「結城少佐への忠誠心なんてものが、君の中に残っていないことを祈るよ」

 

越智は勝手口へと歩き出す。その背中に、王が恐る恐る声を投げかけた。

 

「あんた……一体、何者なんだ。結城少佐の背後には、参謀部の急進派が幾らでもいるんだぞ……」

 

越智はドアの取手に手をかけたまま振り返り、再びにっこりと微笑んだ。

 

「知らない方が、王さん、君だって商売がやりやすいだろう……ただの会計係だよ。帳簿の数字が合わないと、気になって夜も眠れない性分でね。……ああ、あとそこの棚の八角を少しいただいていいかな。最近、この島の暑さのせいでどうも胃の調子が悪くてね」

 

「あ、ああ……」

 

「助かるよ。では、良い夜を」

 

勝手口の扉が軋み音一つ立てずに閉まり、越智は再びねっとりとした裏路地の闇へ滑り出た。

 

周囲に散開して警戒に当たっていた三つの影が、素早く暗がりから歩み寄ってくる。

 

越智は懐から煙草を取り出し、口にくわえた。

 

部下の一人が素早くマッチを擦り、両手で火を差し出す。チリ、と微かな音が鳴り、越智の凄みのある横顔が一瞬だけオレンジ色に照らされた。

 

紫煙を深く吸い込み、ゆっくりと夜気に吐き出しながら、越智はどこか楽しげに口を開いた。

 

「……来週の金曜二十三時、ケッペル港の第七倉庫だそうだ」

 

「はっ。直ちに裏付けと周辺の制圧準備に入ります」

 

「ああ、頼むよ。……それにしても」

 

越智は煙草を指に挟んだまま、大げさな感嘆の溜息をついた。

 

「書類の上では、インドの同志を支援する極秘工作として、完璧に装飾されている。現地の経理部も憲兵どもも、特務機関の『聖域』には、正面から触れづらい。……だがね」

 

越智は夜の闇に向かって、紫煙を細く、ゆっくりと吐き出した。

 

「紙の上の数字は、インクの染み一つでいくらでも、どうにでも踊らすことができる。だが……『三十万圓分の金塊』という、あの重く、生々しい質量だけは、どうやっても隠しきれないんだよ。なのに彼は、自分だけは特別で、はるか遠く東京の目など絶対に届かない、安全地帯にいると信じ切っている。……その傲慢さ……正直言って、私は嫌いではないがね」

 

「しかし、まぁ……」

 

越智は再びあの冴えない事務掛の猫背を作りながら、大げさに腹のあたりをさすった。

 

「……毎回これくらいラクで、ちっとも頭を使わない仕事ばかりなら、私の胃痛も少しはマシになるんだろうがね」

 

部下たちはただ無言で頭を下げた。

 

「あぁ、王からは引き続き目を離すなよ。あの手の商人は、恐怖の半減期が短いからね」

 

「はっ。引き続き交代で二名、張らせます」

 

「さあ、帰ろうか。明日はまた、朝から退屈な伝票整理が待っているからね」

 

越智は静かに歩き出し、熱帯の夜に姿を消した。

 

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