嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号   作:あまね みかん

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第15話 死者たちの貯金箱

1943年四月上旬 昭南島(旧シンガポール)

旧ラッフルズ・カレッジ オエイ・ティオン・ハム棟第五事務室

 

石造りの庁舎は、赤道直下の強烈な日差しを厚い漆喰の壁で遮断し、内部に独特の薄暗さと冷気を保っていた。

 

第五事務室には、今日も絶え間ない和文タイプライターの打鍵音と、紙をめくる単調な音が響いている。

 

「……頼むよ越智くん。このマニラからの補給要請は、書式が違うと前にも言ったはずだ。乙号ではなく丙号だ。……まったく、二度手間だよ」

 

恰幅の良い主査が、忌々しげに伝票の束で机を叩いた。

 

「はあ、丙号でしたか……失礼いたしました」

 

越智は擦り切れた国民服の背中を丸め、卑屈な愛想笑いを浮かべて書類を受け取った。

 

主査は鼻を鳴らすと、ふっと思い出したように、部屋の隅に積み上げられた麻袋の山を指差した。

 

「……それで、例の還送品の仕分けはどうなった。少しは進んでいるんだろうね……それはどこの部隊だ」

 

主査が煙草に火を付け、紫煙を吐き出しながら近づいてくる。

 

越智は慌てて山積みになった麻袋の口を解き、中身を机に広げて見せた。

 

どさりと零れ落ちたのは、泥と血、それに乾いた汗の匂いが染み付いた遺品の数々だ。

千人針、家族の写真、汚れきった手帳、そして百冊ほどに上る薄汚れた『軍事郵便貯金通帳』。

 

「ええ。昨年の二月、昭南島北部の湿地帯で全滅した歩兵小隊の遺品です。内地の遺族へ送り返すための目録作成と、通帳の照合を……と仰せつかっておりましたので、間違いがないよう、これからしっかりと……」

 

「いやいや……それにしても、酷い臭いだな」

 

主査は嫌そうに鼻をすする。

 

「だいたいでいいんだよ、そんなものは。適当に名簿と突き合わせて、さっさと木箱に詰めてしまえ。英霊には悪いが、こっちも暇じゃないんだ」

 

「はあ……分かりました」

 

越智は猫背を丸め、欠伸を噛み殺しながら、傍らの『戦死者名簿』に目を落とした。

 

「一等兵、小塚禎一。……二月九日、戦死」

 

小塚の通帳を開き、最終ページを確認する。

 

「伍長、二宮八郎。……二月九日、戦死」

 

二宮の通帳を開く。

 

「上等兵、原口……」

 

単調な作業。だが、十数冊目の通帳を開いた時、越智の手がピタリと止まった。

機械的に動かしていた目が、通帳の最終行の数字と印影に釘付けになる。

 

『預入八百二十圓』

 

(……奇妙だな、兵卒がこんな大金を)

 

『昭和十七年八月十二日』

 

(この部隊が全滅したのは、間違いなく十七年の二月だ……)

 

越智はそのページを薄暗いランプの光に透かし、印影を爪で軽くなぞった。

 

(やけに鮮やかな朱色だな。)

 

もう一冊手に取る。

越智の手が再び止まった。

 

僅かに目を細める。

 

「……ほう、そういうことか……いやはや。帝国の軍人は、家族思いで涙が出るね」

 

周囲の喧騒と激しい雨音に紛れ、越智は誰にも聞こえない声で独り言を呟いた。

 

「死体の山に隠せば、バレないと思ったか。……だが、インクの『質』をお忘れのようだね」

 

越智は通帳の束を丁寧に麻袋へ戻しながら、国民服の上から胃のあたりをさすった。

 

外のスコールは、さらに激しさを増していた

 

     * 

 

翌日の夕方。

昭南島の日本人街の外れ。トタン屋根の土間打ちの食堂は、安油の匂いに満ちていた。

 

客の大半は労務者や下級軍属たちだ。部屋の最も奥の薄暗いテーブルで、越智広重は相変わらず出汁の濁ったうどんを啜っていた。

 

向かいに座る港湾人足姿の尾形少尉が、声を潜めた。

 

「……死んだ兵士が、半年後に送金手続きを?」

 

「尾形少尉、まさに奇跡の美談だよ。私が昼間、第五事務室でカビと泥に塗れた遺品をひっくり返していて見つけた通帳の記録だ」

 

越智はどんぶりを見つめたままズルズルとうどんを啜り、事もなげに言った。

 

「島の北部の湿地帯で二月に全滅したはずの小隊の兵士たちがね。なぜか半年後に三々五々、軍事郵便の窓口を訪れている。八月十二日に上等兵が『八百二十圓』、十五日には伍長が『四百七十圓』、二十日には別の一等兵が『百二十圓』、月末には『六百五十圓』……といった具合にね。……私は昔から怪談話というやつがどうも苦手でね。……ところがあの、恨めしやと普段から泣き喚くばかりの幽霊たちが、気前よく家族へ送金したと言うんだから驚きだ」

 

「そんな馬鹿な。……後送部隊の経理が、記帳の処理を溜め込んでいただけでは?」

 

「私も最初はそう考えた。。……だがね、少尉」

 

越智は箸を置き、懐から歪んだ煙草を取り出して口にくわえた。尾形が素早く燐寸(マッチ)を擦る。

 

チリ、という微かな音とともに火が灯り、越智の冷え切った眼が紫煙の向こうで細められた。

 

「ジャングルの泥の中を転々とする野戦郵便局のスタンプは、湿気と粗悪な補充液のせいで例外なくドス黒く酸化している。だが、通帳に押された八月の日付印は鮮やかな朱色だった」

 

尾形が息を呑む音が聞こえた。

 

「それでは……」

 

「おそらくは、そういうことだ」

 

越智は煙草を指に挟み、感心したように大げさな溜息を吐き出した。

 

「いやはや。帝国の軍人というのは実に親孝行なんだね。死んでもなお昭南島の窓口へ現れ、キッチリと送金の手続きを済ませるんだから。……実に涙ぐましい話じゃないか」

 

尾形の顔に、呆れとも怒りともつかない緊張が走る。

 

「……第二十五軍の、消えた裏資金でしょうか。金塊や現生(げんなま)を船に乗せれば税関や憲兵の目につく。だから遺品として倉庫に滞留している死者の通帳を使い、軍事郵便為替として処理する……」

 

越智は灰皿へ静かに灰を落とした。

 

「東京の経理部が書類の束をどれだけ睨んでも、このカラクリには気付かんだろうね……」

 

「実行犯は野戦郵便局の人間ですか? そしてその後ろで糸を引いているのは、第二十五軍の経理幹部……」

 

「少尉、君は物事の表層しか見ていないよ」

 

越智は喉の奥で低く笑った。

 

「暦をめくってみたまえ。第二十五軍の連中がスマトラへ移ったのは七月だ。彼らがどうやって八月の昭南島で判を押すんだい?」

 

尾形はハッとして息を呑んだ。

 

「では、犯人はスマトラへ行った第二十五軍ではない……!」

 

「ああ。第二十五軍の連中は、華僑から巻き上げた莫大な裏資金の端た金と、死んだ部下たちの遺品をこの島の地下倉庫に置き去りにして移っていった。問題は、その後釜に座り倉庫の管理を引き継いだ連中だ」

 

尾形は信じられないというように目を見開いた。

 

「大尉殿と同じ庁舎にいる、南方軍総司令部の役人どもですか……! 彼らが前任者の隠し財産を見つけ、同じ倉庫にあった死者の通帳を使って横領したと……」

 

「他人の盗品を、他人の死者で洗う……マレーの裏資金の事情を把握し、かつ遺品の発送を操作できる男。経理部本局の佐官級といったところだろうね」

 

尾形が怪訝な顔で首を傾げた。

 

「ですが大尉殿……そこまで巧妙な細工をするなら、なぜ送金手続きを終えた後に、わざわざ通帳を遺品の袋に戻して第五事務室に回してきたのです? その場で燃やしてしまえば、大尉殿の目にも留まらなかったはずです」

 

越智は煙草の灰を落とし、冷ややかに目を細めた。

 

「少尉、君は実に優秀だが、官僚という生き物の生態を分かっていない。帝国陸軍という巨大な怪物はね、兵士の血ではなくインクで呼吸しているんだよ」

 

「インク、ですか」

 

「前線から送られてきた遺品には必ず『仮目録』がついている。もし彼らが勝手に通帳を抜き取って燃やせば、今日の午後、私が目録と照合した際に『通帳だけが丸ごと紛失している』と大騒ぎになる。そうなれば憲兵どもが最前線からの輸送ルートをひっくり返して、泥棒探しを始めるからね」

 

尾形は息を呑んだ。

 

「……だから一度袋に戻し、大尉殿に受領・異常なしの検印を押させる必要があった……!」

 

「そういうことだ。私が判子を押せば、前線部隊から昭南島の第五事務室へ遺品が無事に引き継がれたという公式証明になる。そしてその後、遺品は最終発送のため本局の経理部へ回される」

 

「経理部……犯人たちの本丸ですね。しかし、そこでどうやって通帳を消すんです? 結局内地に送らなければ、遺族が騒ぎませんか」

 

越智は紫煙を細く吐き出し、氷のような声で言った。

 

「書類に一つ、赤いゴム印を押すだけだ」

 

「ゴム印?」

 

「『汚染激甚につき、衛生規定に基づき現地にて焼却処分』……とな。マレーのジャングルで死んだ兵士の遺品だ。泥や血に塗れていることも多い。衛生上・防諜上の理由で現地焼却は通常業務だ」

 

尾形は絶句した。

 

「……自分たちの権限で、司令部の焼却炉で通帳を燃やせるということですか」

 

「その通りだ。遺族には『通帳は汚損のため処分したが貯金は全額送金済み』という定型文が一枚添えられるだけだ」

 

尾形は呆気に取られる。

 

「死人の金だけでなく、記録までも証拠隠滅のために……」

 

「彼らは官僚機構の悪用にかけては一流だ。インクの質を見落としたのは残念だったがね」

 

越智はどんぶりの横に一圓札を無造作に置いた。

 

「さて、尾形少尉。君の仕事だ。この島で夜な夜な幽霊の相手をしている郵便局員と、その後ろの黒幕を洗い出してくれ」

 

「はっ。ただちに」

 

「何人必要かね」

 

「私以外に、三人ほど」

 

「よろしい。古賀、西尾、北島の三人を使いなさい」

 

「はっ」

 

「……ただし今回は調査報告までだ。捕物(とりもの)はやらないよ」

 

「……どういうことですか」

 

「今回はさすがに相手が大きい。東京から直接、彼らの首を刎ねる」

 

尾形が頷くのを見届け、越智は再びうどんを引き寄せた。

 

「頼むよ」

 

短く息を吐く。

 

「しかしまったく……この島は奇妙な錬金術師ばかりで嫌になるね」

 

越智は胃のあたりをさすり、退屈そうにうどんを啜り始めた。

 

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