嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号 作:あまね みかん
1943年六月上旬
昭南島 旧ラッフルズ・カレッジ
オエイ・ティオン・ハム棟 第五事務室
昭南島には赤道直下の容赦ない日差しがねっとりと張り付いていた。
高い天井の下、絶え間ない和文タイプライターの打鍵音が響く大部屋で、越智広重はいつものように、伝票の山に機械的に検印を押していた。
「……おい、越智くん! 聞いたかね!」
恰幅の良い主査が、興奮した面持ちで大部屋の奥から足早に歩み寄ってきた。
手には軍内報の束が握られている。
「はあ……主査殿。何かありましたか?」
越智は手を止め、振り返った。
「経理部本局の、あの大和田中佐殿だよ! 今朝方、東京から極秘で派遣された陸軍省の法務官と憲兵司令部の憲兵に、いきなり身柄を拘束されたらしい!」
周囲の事務員たちが、一斉に手を止めてざわめき始めた。
主査は声を潜めながらも、手にした書類の束で自分の首を叩くような仕草をした。
「軍票の横領と不正蓄財、公文書の偽造だそうだ……なんでも、前線で戦死した兵士たちの遺品を悪用して、軍事郵便貯金で莫大な横領を働いていたとかでね。何名かの将校と、昭南島の野戦郵便局長を含む職員も一緒に引っ張られたそうだ。聞いた話じゃ、有無を言わさぬ即日罷免。そのまま内地へ強制送還のうえ、軍法会議にかけられるらしいぞ」
「……へえ。あの、いつも威張っておられた経理の中佐殿がですか」
越智は目を丸くして、国民服の上から胃のあたりをさすった。
「はあ……あんなに立派な方が、死人の財布に手を入れていたとは。……人は、本当に分からないものですな」
越智は息をつき、静かに首を振った。
「まったく、恐ろしい話だよ……しかし、よく東京も分かったな……きっと、我々のような者には縁のない、上層部の恐ろしい権力闘争だろう」
「いやはや……そういうものですか」
越智が卑屈な愛想笑いを浮かべると、主査は「うむ」と頷き、本来の用事を思い出したように机の端の備品を指差した。
「越智くん、それを持って第三事務室へ行って来てくれ。各部署への書類配布と整理の要請だ」
「はっ。承知いたしました」
越智の眼が、微かに細められた。
*
第三事務室の空気は停滞していた。数十人の将校の熱気と天井扇(シーリングファン)の風が混ざり合い、生温い。
着任から半年。真鍋勲中尉の机には、着任当初とは比較にならない量の書類が積まれている。複写紙(カーボン紙)と古いインクの匂いが漂っていた。
机上には、ソロモン・ニューギニア方面への「船舶輸送計画表」と、港湾部からの「実績報告」が並ぶ。
真鍋は筆を置き、計算尺の滑子(カーソル)を動かした。視線は、徴用船「永和丸」のマノクワリへの輸送実績報告に止まっている。
【輸送実績報告:第三〇一船団】
・航路:昭南(発)――マノクワリ(着)
・使用船舶:永和丸(五、五〇〇噸級・ロ号徴用船)
・随伴護衛艦:駆逐艦「早苗」、水雷艇「雉」
・主要積載貨物:
一、航空揮発油(乙規格) ドラム缶積
二、糧食(精米)
三、弾薬・その他器材
・航海記録:
・実航海速力:平均十二・五ノット
・之字運動:計三十二回実施
・自船機関燃料(石炭)消費量:実績値一一二・四%(対規定比)
・特記:向かい潮、および船底への介殻付着により主機に過負荷。
・判定:完遂(事故ナシ)
真鍋は計算尺を置いた。
本数、容積の積付構成、別冊台帳の参照番号。すべてが算定規則の枠内に収まっている。
だが、真鍋の指が一行の数字と特記事項で止まった。
「一一二・四%」
真鍋は計算尺を再び手に取り、対数目盛を滑らせながら低く呟いた。
「……向かい潮と介殻付着等による船底汚損か。いかにも現場が書きそうな苦しい言い訳だ。永和丸が出港前に船底清掃を済ませていることは、前回の整備記録が証明している」
目録の隅にある「質」の欄へ視線を移す。
【航空揮発油 規格:乙】
背後で、リノリウムの床を歩く足音がした。
「妙ですな」
あの「鼠」のような越智という軍属の男が、書類を配りながら真鍋の背後を通り過ぎる。足を止めることなく、独り言のように続けた。
「たかが向かい潮程度で、一割以上も余分に石炭を食うものでしょうか」
越智の足音が遠ざかる。
真鍋はすぐさま別冊の『積荷台帳』を引き寄せ、項目を鋭く検分する。
「精米や弾薬の重量を見誤ったか?」
「いいえ」
少し離れた場所で、越智が窓の上を見上げながら独り言のように応えた。
「糧食も弾薬も規格品です。港の積付記録を見る限り、数は一寸の狂いなく合っておりました」
真鍋は無言のまま、配られたばかりの書類の山から自ら『出港時検査報告』を引き抜いた。数表を指でなぞり、「吃水(きっすい)」の欄に目を留める。
その数値は、前部・後部ともに、計算上の数値と一致していた。
「……書類上は問題ない。だが……」
真鍋は手元の書類の束から、機関室から上がってきた別紙の報告書を引っ張り出した。
主機の燃焼効率と配管の圧力を一行ずつ追う。機関の老朽化による出力低下という可能性はまずない。さらに、スクリューの回転数と速力から割り出された「スリップ率」の項目を指でなぞる。
真鍋の指が、ピタリと止まった。
そこには、真鍋の違和感を裏付ける高数値が記録されていた。
「……やはりか」
真鍋は呟くように言った。
「増大した抵抗に逆らって無理に回転数を上げれば、スクリューの空回り――スリップ率が跳ね上がる。前へ進む推力より、ただ水を掻き回すだけの無駄な出力が増える」
「書類にはない『重り』があった、と」
背後から、越智の湿った声が落ちる。真鍋は再び『積荷台帳』へ視線を戻した。
「規格の決まった固形物ならば、数が合えば総重量が上振れする余地はない。だが……航空揮発油の比重は、〇・七二だ」
真鍋は計算尺を手に取り、対数目盛をわずかに滑らせた。散らばっていた書類の数字が、一本の線に繋がる。
「中身を希釈したか」
真鍋の声は平坦だった。
「ドラム缶の中身は見えませんからな」
「ああ。航空揮発油を抜き取り、代わりに比重の重い水や廃油や粗悪な重油を混ぜたか。容積も見た目の数も同じだが、積荷の総重量は確実に上がる」
真鍋は書類に目をやる。
「報告にある吃水は事実と違うな……船体は計算よりも深く沈み込み、波浪抵抗が増した。その重い船体を引きずって十二・五ノットを強行すれば……」
越智は淡々と応えた。
「であれば、推進効率は確実に落ちますな」
再び足音が動き出した。
真鍋は、傍らの印肉に木製の事務印を浸した。
手首を返し、報告書の余白へと叩きつける。
「カツッ」
紙に真新しい朱の『閲』の一文字。
続けて細い認印を手に取り、その横へ『真鍋』の朱を沈めた。
顔を上げたとき、足音は遠のき、軍属の男の姿は消えていた。
真鍋は胸ポケットから銀時計を引き出した。
リューズを押し、蓋を開く。白磁の文字盤の上で、秒針が正確に目盛りを刻んでいる。
指に力を込め、蓋を押し戻した。
「カチリ」
真鍋は銀時計を左胸のポケットへ収め、鎖を整えた。
正午を告げるサイレンが鳴り渡る。室内では一斉に椅子が引かれ、将校たちが立ち上がった。真鍋も軍帽を手に取り、席を立つ。
窓の外には、整然と区画された昭南の街並みが広がっている。
真鍋は軍服の襟を正し、机上の「一一二・四%」という数字を一瞥してから、事務室の扉へ向かって歩き出した。
*
翌日の夕刻。
昭南島の日本人街の外れ。いつものトタン屋根土間打ちの食堂で、越智は伸びかけたうどんをひどく退屈そうに箸で弄んでいた。
向かいに座る尾形少尉が周囲を警戒しながら茶を啜るのを横目に、越智はふと、独り言のように口を開いた。
「……今回の『幽霊』の騒動はご苦労だったね。君たちが夜な夜な泥にまみれて、あの非の打ち所のない証拠を揃えてくれたおかげで、東京の連中もさぞかし気持ちよく大鉈を振るえたことだろう」
尾形は姿勢を正し、短く頭を下げた。
「はっ。お役に立てて何よりです」
越智はふっと笑みをこぼし、どんぶりから視線を上げた。
「尾形少尉。泥水の中で豚と取っ組み合うのも悪くないが、時には快適な部屋で盤面を眺めるのも一興だと思わないか?……人間の洞察力というものには、実に色々な形があるらしいな」
「は……?」
越智は懐から歪んだ煙草を取り出し、口にくわえた。尾形が素早く燐寸(マッチ)を擦る。
チリ、という音とともに火が灯り、越智は紫煙を細く吐き出した。
「今日、第三事務室で面白い事があってね。……最近、この昭南の闇市で質のいい航空揮発油が不自然に出回っている件は、君も前に追っていたね?」
「はい。横流しのルートを洗いましたが、港の積荷台帳も憲兵の検査記録も完璧で、どこから抜かれたのか尻尾が掴めませんでした」
「抜かれたんじゃない。初めから『すり替え』られていたのさ。……私も初めから確信があったわけじゃないんだ。どうにも数字の座りが悪くてね。しかし、真鍋というあのお堅い野戦上がりの中尉が、書類の束からそれを見事に証明して見せてくれてね」
尾形が目を少し見開いた。
「書類で、ですか」
「ああ。マノクワリへ向かった徴用船の輸送実績報告は、喫水など、偽装されたんだがね。機関室から上がってきた資料だよ」
越智の口角が僅かに上がる。
「まあ、揮発油を抜いて水や廃油で目方を誤魔化すなんていうのは、珍しい話じゃない。この手の横流しじゃあ古典的な手口だ。物理法則だけは誤魔化せないからね……理屈の上では疑おうと思えば誰にでも疑える」
尾形は怪訝な顔で身を乗り出した。
「では、中尉殿はすぐさまその報告書を差し止め、軍法会議にかけるべく査問委員会を……」
「いや」
越智は煙草の灰を無造作に落とし、喉の奥でくくっと笑った。
「彼は誰に相談するでもなく、騒ぎ立てるでもなく、あっさりと『閲』の印を叩きつけたよ」
尾形が絶句した。
「えっ?……なぜですか。せっかく尻尾を掴みながら、なぜその錬金術を見逃すような真似を」
「そこだよ、尾形少尉。そこがこの話の最も甘美な部分だ」
越智はうどんの汁を一口啜り、目を細めた。
「書類の矛盾を突いてあの手口を見破るだけなら、それなりの頭があればできる。だが普通なら、手柄顔で上に報告するか、正義感に駆られて港湾部に噛みつき、確たる物証もないまま『事務屋が数字遊びで現場の足を引っ張る気か』と逆に袋叩きに遭うのがオチだ。南方の補給線じゃ、ドラム缶に雨水が混じるなんて『よくあること』だからね」
越智は満足そうに、煙草の煙を尾形の方へ細く吹きかけた。
「彼はよく知っているのさ。『善悪』などという概念がいかに不安定で、くだらない代物であるかをね。そんな安い酒に酔って、喚き散らすなんて事はせず、あえて『既成事実』として嘘を呑み込んだ。牙を剥くのは、それが許容範囲を超え、確実に相手の喉笛を噛み千切れる証拠が揃った時だ。……毒を食らわば皿まで。組織というものの論理を、まだ入り口とはいえ、あの若さで気付いているとはね」
「では、大尉殿……」
越智は一圓札をテーブルに置き、笑みを浮かべた。
「君も、闇雲に噛みつくばかりが猟犬の仕事ではないと、よく覚えておきなさい」