嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号 作:あまね みかん
1943年六月上旬
昭南島 旧ラッフルズ・カレッジ
オエイ・ティオン・ハム棟 第三事務室
昭南島はスコールに見舞われていた。旧ラッフルズ・カレッジの校舎群に、激しい雨が降り続いている。
真鍋中尉は第三事務室の窓際に立ち、灰色に煙る街を見つめていた。
「真鍋中尉。少々、時間を頂きたい」
背後からの声に振り返る。九八式軍衣の襟に少佐の階級章をつけた男が立っていた。
佐久間鼎(さくま・かなえ)陸軍少佐。南方軍総参謀副長・稲田正純陸軍少将の周辺で名を聞く将校だ。
佐久間の頬は深くこけ、丸い細縁眼鏡の奥の目は静まり返っている。短く刈り込んだ髪がわずかに額にかかり、青白い顎には薄く無精髭が伸びていた。細身の体躯を包む軍衣には斜革(ななめがわ)が掛かり、書類を握る右手の指の側面はペンダコで硬く変色している。
「先日の『第三〇一船団・永和丸』の報告……貴官が処理した件だ」
佐久間の声は低い。細く長い指先が、無意識のうちに小さく動く。数表の端をなぞる癖のような仕草だった。
「あの報告書は、書式上は非の打ち所がない。完遂だ。現場は向かい潮のせいにしているが――中尉。貴官は、あの船の『重さ』に気づいているはずだ」
佐久間は回廊の外へ視線を向ける。石畳で雨が飛沫を上げている。
「現在、司令部では第十五軍によるインパール進攻の論議が止まらん。精神論で引かれた兵站線は、必ず物理の理(ことわり)に叩き返される。稲田少将は、その蓋然性を測るための材料を求めておられる。勇気や覚悟ではない――数字だ」
佐久間の視線が、真鍋の胸元の銀の鎖に一瞬だけ留まった。
「永和丸は平均十二・五ノット。之字運動を三十二回。それで石炭消費が百十二・四%。……貴官の計算尺は、この報告をどう弾く?」
真鍋は無表情で答える。
「――アドミラルティ係数の逆算です」
さらに続ける。
「要求される軸馬力は、排水量の三分の二乗と、速力の三乗に比例します」
「あの速力、あの回避運動を継続して、一割以上も出力要求が跳ね上がった。波浪抵抗を最大限に見積もっても計算が合いません。残る変数は一つ、船の排水量Δが、帳簿上の数字よりも過大だったということです」
一拍。
「ドラム缶の容積は同じでも、中身が比重の重い廃油や不純物であれば船は沈み込む。重くなった船体を引きずって十二・五ノットを出せば、当然、罐(かま)は規定以上の石炭を燃やさざるを得ない。私の計算が導く帰結は、それ以外にありません」
佐久間の口元が、わずかに動いた。
「その通りだ。帳簿の容積は美しく整い、抜かれた純良な航空揮発油は闇で金に変わる」
声が、わずかに低くなる。
「だが、その不純物まみれの燃料を受け取った前線の機体が、どうなるか。当然そのままでは使えないし、上昇率の顕著な低下、過熱傾向の増大が予測され、条件次第では、ノッキングや発動機停止の公算も跳ね上がるだろう」
佐久間が一歩、距離を詰める。
「中尉。貴官は“銀時計組”だ。帳簿を整えるためではない。整いすぎた帳簿に違和感を覚えるために、選ばれた人間だ」
「第十五軍の作戦も、永和丸と同じだ。書類上は成立している。だが中身が不純物で希釈されていれば、前線で返ってくるのは数字ではなく死だ」
真鍋は平坦に答える。
「……私は、与えられた職責に従い、数字を処理しているに過ぎません、少佐」
「ただし――規格外の劣悪な燃料で、発動機が要求性能を満たすという『算定基準』を私は持ち合わせておりません。計算尺が弾き出せるのは、規程に基づく事実だけです」
佐久間は短く頷いた。
「今夜、貴官の机に電文を置く。アンボンからの『発動機不調に関する報告』だ。明日までに整理しておけ。稲田閣下が、大本営へ具申するための材料だ」
それだけ言うと、佐久間は背を向け、回廊を歩き去った。
独り残された真鍋は、銀時計を引き出し、文字盤を見つめる。秒針は正確に時を刻んでいた。
「カチリ」
蓋を閉じ、左胸のポケットへ戻す。
真鍋は窓から離れ、自らの机へ向かった。
椅子を引き、机の上に広げられた書類の山を一瞥してからペンと計算尺を取る。
カーソルを滑らせる乾いた音が、静かな室内で微かに響いた。
深夜の第三事務室。当直将校の吸う煙草の煙が、停滞した空気の中で層を成している。
窓の外のスコールは止み、石造りの庁舎には重い湿気が満ちていた。
真鍋勲中尉は独り、机で計算尺を動かしている。
背後でリノリウムを踏む音がした。
階級章のない年配の雇員の男が、一束の書類を机の端に置く。
一番上にはアンボンからの『発動機不調に関する報告』。
だがその下には、ビルマ方面・第十五軍発信の電文が綴じ込まれていた。
部隊別の行軍計画、補給量、そして――牛馬の損耗予測。
赤字で「焼却」の検印が押された、正規の流通経路を外れた書類。
この部屋にあること自体、軍規違反を問われかねない代物だった。
男は真鍋の顔を見ず、書類の角を揃えると、足音を消して暗い廊下へ消えていった。
真鍋は左胸のポケットから懐中時計を引き出す。
午前一時。蓋を閉じる乾いた音が響いた。
*
翌朝。
窓から強い陽光が差し込んでいる。
登庁してきた将校たちの椅子を引く音や話し声が響き始めた。
真鍋は机に伏したまま、短い仮眠から引き戻された。
「……真鍋中尉、起きろ。時間だ」
肩を叩かれ、真鍋は顔を上げた。
至近距離に佐久間少佐が立っている。
佐久間は一度だけ小さく頷き、真鍋が軍衣の乱れを直すのを待った。
佐久間は机上のグラフを一瞥する。
「焼却」印の電文は、すでに図嚢の奥にある。
「真鍋中尉。例の“私物”を持って来い。参謀副長が御立腹だ」
周囲にも聞こえる事務的な声。
真鍋は無言で起立した。
徹夜で仕上げた綴り込み帳を小脇に抱え、計算尺を図嚢に差し込むと、佐久間の後に続く。
本庁舎、マナセ・メイヤー棟の二階中央。
観音開きの扉の前で、二人の憲兵が直立不動の姿勢を取っている。
佐久間が扉を叩き、顎で中を示した。
室内には巨大な作戦地図が掲げられ、その前に一人の将官が背を向けて立っていた。
南方軍総参謀副長、稲田正純少将。
「……中尉、そこへ置け」
振り返らぬままの声だ。
真鍋は地図台横の平机に「兵站実績比較表」と「特殊算定表」を置く。
稲田が歩み寄る。軍靴の音が室内に響いた。
眼鏡を直し、稲田は折れ線グラフを手に取り、しばらく凝視する。
「これは、貴官の独断か」
視線が真鍋に向けられる。
「はっ。各部からの実績電文、および大本営計画数値を照合した結果であります。推測は含まれておりません」
稲田は短く鼻で笑った。
「推測がない、か……それが一番、始末に悪い」
稲田は眼鏡のブリッジを押し上げ、身を乗り出して紙面を見る。
鉛筆を強く走らせた跡が、紙に溝を作っている。
「……一人一日あたり、二合五勺。これが第十五軍の算出している最低配給量だ」
図表を机に置き、指で叩く。
「だが貴官の算定表では、この熱量でアラカン山系を越え、なおかつ戦闘を行える期間はほぼ無いと出ている。……物理的に、だ」
「はっ。兵の携行装備三十キロ、標高差千メートル以上の連続行軍を前提とした場合、人体という内燃機関が消費する熱量は、第十五軍の想定の二倍に達します。
……不足分の熱量は、兵が自らの筋肉と脂肪を燃焼させて補う計算になります」
真鍋は抑揚のない声で答えた。
「自らの肉体を燃料に代えることで、前線に到達すること自体は物理的に可能です。
しかし、到着したその瞬間に肉体は限界を迎えます。
要害に辿り着きはしても、そこから交戦し、拠点を攻略するための『戦う時間』が残されていない。
到達時の継戦能力が極めて低いという等式です」
稲田が鋭い視線を向ける。
「さらに、閣下が懸念されている『ジンギスカン作戦』……家畜を食料として連れて行く案ですが、最大の問題は家畜の生存維持です。
急峻な地形と泥濘において、牛一頭が自重を支えるための消費熱量と現地の植生密度を照合しました。
結果は負の数値です。
家畜の多くは行軍途上で斃れ、辛うじて前線に到達したとしても、それは既に食糧としての価値を失った骨と皮です。
兵站としての歩留まりは、到達の時点でゼロに近い数字へと収束します」
真鍋は言葉を区切り、まっすぐに稲田を見る。
「しかし閣下。この作戦は、最初から勝ち目が全くない荒唐無稽な代物というわけではありません。
奇襲という点では確かに利があり、過去の南方作戦やアラカンでの実績において、英印軍は迂回されると退却する傾向にありました。
……ゆえに第十五軍の計画書は、意図的に敵の抗戦時間という『変数』を軽視しているのです」
真鍋は机上の図表を指し示した。
「我々がほぼ燃料切れでインパールに到達した時点で、イギリス軍が奇襲に動揺し、組織的抵抗を行う前に陣地を放棄して退却し、無傷の軍需物資をそっくり置いていく。
……最善の条件が揃えば、我々は敵の食糧で兵站を繋ぎ、作戦は成功します」
稲田が紫煙を吐き出す。
「敵の過失に期待する作戦など、そう何度も上手くはいかん」
「はっ。最大の問題は、条件依存の強い作戦構造そのものにあります」
真鍋は続ける。
「この作戦計画には、不測の事態に対する『余白』が一切存在しません。
もしイギリス軍が戦術的転換を図り、包囲されても陣地を死守して粘った場合。
あるいは、雨季の到来が想定を外れた場合。
……前提条件がただ一つでも崩れた瞬間、すべてが連鎖崩壊を引き起こす設計になっています」
「強固な要害に対し、重火器を持たぬ軽装で挑む以上、足止めされたその日から数日で戦況は不可逆的な不利に移行します。
退路という余白を持たない以上、撤退すら困難な惨事が想定されます」
数分間の沈黙。
天井扇が空気を攪拌する音と、紙の擦れる音だけが続く。
「……前線の焦燥もわからんではない。座して待つより機先を制して要衝を叩くべきだという彼らの『攻勢防御』の論理にも、戦術的な一理はある。だが……」
稲田は長く伸びた灰を落とし、椅子に深く背を預けた。
「……第十五軍の計画書は、敵が過去と同じ行動を取るという、摩擦のない真空の中で機械が動くことを想定している。
過去の成功体験という論理で、精神論が摩擦を除去するとな」
眼鏡を外し、机に置く。
「……だから連中は、乾いた雑巾を絞れば水が出ると本気で信じている。
それどころか、絞り方の気合が足りないから水が出ないのだと触れ回る」
一拍。
「……そうか。陸士は何期だ」
「五十五期であります」
「……恩賜組か」
地図のインパールを指で叩く。
「第十五軍は三週間で山を越えると言っている。
だが貴官の数字では、粘られた瞬間に軍が消滅する」
帳面を閉じる。
「この“制度上の真実”を、奴らに突きつけてやる必要がある」
煙草を揉み消し、新たな一本をくわえる。
真鍋は一歩前に出た。鎖がかすかに鳴る。
燐寸を擦り、炎を庇うように差し出す。
稲田は火を受け、紫煙を吐いた。
「中尉。この数字は預かる。貴官には四課とは別に、私の直轄で動いてもらうかもしれん。……異存はあるか」
「命令であれば、従うまでであります」
深く敬礼する。
稲田は再び地図へ向き直った。