嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号 作:あまね みかん
1943年六月中旬。
昭南島 旧ラッフルズ・カレッジ、第五事務室。
窓の外には、突き刺すような南国の陽光が溢れていた。連日のスコールは跡形もなく、白亜の校舎を蝉時雨が包み込んでいる。越智広重は、山のように積まれた『損耗報告書』の束に、単調なリズムで検印を押し続けていた。
「……まったく、忌々しいことだ。抗日ゲリラの奴らめ」
主査が苛立たしげに軍内報を机に叩きつけた。
「ケッペル港の第四号軍需倉庫が全焼だ。よりにもよって、三日前に到着したばかりの『栄光丸』の積荷……三千トンの精米と弾薬が、すべて灰になってしまった」
「はあ……それは痛手ですね。前線の将兵の皆様が気の毒です」
越智は手を止めず、相槌を打つ。
「警備の兵長は責任をとって自決したそうだが、そんなもので三千トンの米が戻ってくるわけじゃない。……越智くん、その『焼失証明』の書類、急ぎで処理して経理部へ回してくれ。東京の大本営に急いで補充送付の要請を出さねばならんからな」
「はっ。承知いたしました」
越智は一番上に置かれた書類を引き寄せた。
『輸送船・栄光丸。六月九日、昭南港着。同日、第四号倉庫へ全量搬入ス』
その下には、港湾部と兵站司令部の立派な受領印が並んでいる。そして、別の用紙には『六月十二日未明、不審火により倉庫全焼』の文字。
越智はその二枚の書類を透かすように見つめ、ふ、と口元に微かな笑みを浮かべた。
(……全焼か。三千トンの米と弾薬がたった半日で綺麗に燃えて鎮火……ずいぶんと燃え殻の少ない米があったものだな)
越智は静かに朱肉へ印を沈め、所定の枠に『閲』の文字を叩きつけた。
*
翌日の夕刻。
昭南島の日本人街の外れ。強烈な湿気に包まれた、いつものトタン屋根土間打ちの食堂で、越智はどんぶりの底に残ったうどんの汁をすすっていた。
向かいに座る港湾人足姿の尾形少尉が、声を潜める。
「……大尉殿の読み通りでした。今朝方、ケッペル港の焼け跡を歩いてきましたが……あの倉庫、燃える前から『空っぽ』です。三千トンの米や弾薬が燃えたにしては、灰の量が圧倒的に少なすぎる。ゲリラの放火というのは、軍の偽装工作でしょう」
「だろうね。ご苦労だった、尾形少尉」
越智は懐から歪んだ煙草を取り出し、口にくわえた。燐寸(マッチ)の火がチリと鳴る。
「……大規模な、横流しでしょうか」
「いや、今回は違うよ。……最初から、無かったんだろうね」
越智は紫煙を細く吐き出し、目を細めた。
「『栄光丸』は、六月九日には港に着いていない。おそらくその数日前、巴士(バシー)海峡から南支那海あたりで、連合軍の潜水艦の餌食になった」
尾形が息を呑んだ。
「沈められた……? しかし、第五事務室の書類には、確かに『六月九日に荷下ろしを完了した』という兵站部と港湾部の受領印がありました」
「べつに着かなくても、受領印は押せるだろ、尾形少尉」
越智はどんぶりの横に一圓札を置き、喉の奥で低く笑った。
「要するに、敵の潜水艦による『戦略的な敗北』を、単なる倉庫の小火(ぼや)という『局地的な事故』に変換する荒技だ。……もし『敵に沈められた』と正直に東京へ報告すれば、海軍の護衛失敗であり、大本営が描いた南方補給計画が根本から破綻しているという致命的な事実を認めることになる。計画を立てた将官たちのメンツは潰れ、作戦そのものが疑問視されるだろう」
「……だから、書類上は『無事に港に着いた』ことにして受領印を押し、その直後に空っぽの倉庫に自ら火を放った。船が沈んだ責任を、倉庫番の不注意による火事にすり替えたと……!」
「まぁ、古典的な手口だがね……とどのつまりそういうことだ」
尾形はギリッと奥歯を噛み締めた。
「自分たちの面目と保身のために、沈められた船員たちの死すらも帳簿の辻褄合わせに使う……。けしからん話です。直ちに憲兵隊を動かして……」
「尾形少尉。私は以前、言ったはずだよ。『感情』などという、くだらない話には付き合わないと」
越智の冷たい声に、尾形はハッとして口をつぐんだ。
「彼らが面子(メンツ)を守るために嘘をつくのは勝手だ。人間というのはそういうものだし、それ自体はどうでもいい。だが、この嘘は……帝国の『行末』に極めて好ましくない影響を及ぼす」
「と、いいますと」
「書類上の辻褄が合ったところで、現実の倉庫に撃てる弾薬があるわけじゃない。だが、東京の閣下たちはこの帳簿を信じて、『弾薬は届いた。予定通り攻勢に出ろ』と最前線に命令を下すだろう。結果はどうなる?」
越智は灰皿に煙草を押し付け、その火種をじっと見つめ続けた。
「高級軍人の面目を守るために、数万の兵士が空っぽの弾倉を持たされて密林に突撃し、無駄死にするんだ。……仮に負け戦なら、負け戦なりの『正しい損切りの算定』というものがある。弾がないなら退く、船が沈んだなら戦線を縮小する。その痛々しい現実を帳簿に刻み込まなければ、正確な判断は下せない」
越智は顔を上げ、尾形を見た。
「長期的に見れば組織として非常に困った話でね……要するに、国を滅ぼす癌というわけだ」
「……はっ。我々はどう動きますか」
「栄光丸が沈む直前、必ずどこかの通信所が遭難信号(SOS)を傍受しているはずだ。そして、それを揉み消すよう圧力をかけた人間がいる。……尾形少尉。通信隊の記録係を洗い出し、本物の『沈没時刻』が記された通信記録の原簿を引っ張り出せるか。それさえあれば、私が東京へ送る報告書は完璧なものになる。後は上が判断するだろう」
「了解しました。ただちに」
尾形が静かに頷いて立ち上がるのを見届け、越智は再び気怠そうに伸びかけのうどんを見つめた。
「頼むよ。まったく……嘘をつくなら、もう少しマシな嘘をついてほしいものだ」
越智はふう、とわざとらしく腹のあたりをさすり、再び表へ視線を投げた。
外は依然として、肌を焼くような白光が街を支配していた。